第14話 瘴気の話
エットレが綱を切り裂いた後、箱の蓋を止めていた錠を剣で破壊した。箱から飛び降りたエットレは箱に向かって両手を広げ、大きく叫ぶ。
「さあ、出てこい! 帝国から譲り受けた最終兵器よ!!」
その声に合わせるように箱の蓋が中から弾き飛ばされ、長い滞空時間の後、轟音と共に地面を震わせ衝突した。
中から出てきたのは三メートル程もある大きな体躯に、全身毛に覆われた犬科の獣のような顔に赤い目、犬歯が大きく出ている黒い生き物だった。
腹筋、背筋は当然の事、大胸筋、上腕三頭筋、大腿四頭筋と全身の筋肉が膨らんでおり、見ているだけで力強さを感じる体形は見た者を恐怖に陥れるには十分だった。
トゥユは危険を感じ既に立ち上がってその生物を見るが、体は小刻みに震えていた。魔の森と呼ばれる所では、見た事もないような生き物が住んでいるという話を聞いた事があるが、この生き物がそれなのだろうか。
『トゥユよ。あれはヤバいぞ。魔の森に棲んでいる生物だ。我も一度しか見た事がないが、あれの強さは相当なものだぞ』
ウトゥスの慌てぶりがその生物の危険度を知らせてくれる。
だが、トゥユは逃げる事など頭にはない。何故ならこの生物を見た瞬間、友達になってみたいと思ったからだ。
「ウトゥス、あの生物と友達になれるかな? 凄いよねあんなに大きな体してる動物見た事ないよ」
興奮を隠せない様子でウトゥスに聞いて来るが、ウトゥスはあの生物の恐ろしさを知っている為、友達になりたいと言っているより早く逃げて欲しいと思う。
『止めておけ、話して分かるような相手ではない。それに少し様子がおかしいようだ』
「グォオオオオオオオ!!」
森を震わす程の雄叫びを上げると鳥たちが一斉に飛び立った。自分を閉じ込めていた箱が憎いのだろうか、手に嵌められていた枷の鎖を引き千切り、生物は箱に向かって拳を振り下ろし破壊し始める。
箱はあの生物を閉じ込めておくだけの頑丈さを持っていたはずだが、振り下ろされた拳の前に飴細工のように簡単に形を変える。一分も経たない内に箱は只の鉄塊に変わっていた。
「ハハハハッ、素晴らしいぞ。これが魔の森から連れて来た獣人の力だ。貴様なぞすぐに挽肉にしてやる」
獣人の力を目の当たりにしたエットレはトゥユが潰される姿を想像すると武者震いが止まらなくなる。
「獣人よ、さあ行け! その力を俺に見せてくれ! あいつを粉々にするんだ!!」
トゥユを指さし獣人に命令すると、獣人は荷車から降り、再び雄叫びを上げるとエットレに向かって拳を振り下ろした。
「えっ!」
エットレがこの世に残した最後の言葉は驚いたような声だった。
獣人は最初からエットレの命令など聞いてはいなかったのだ。本能の赴くまま箱を壊し、隣で何かを叫んでいる者を壊した。ただ、それだけだ。
獣人が振り下ろした拳を戻すとそこにはエットレの姿などなく、血溜まりが一つできている。
その血を見て興奮したのか何もない所に向かって拳を振るっていたが、その動きが何かを見つけ不意に止まった。獣人が見つめる先、そこにはトゥユが居た。
トゥユは獣人と目が有った瞬間、ウトゥスの言う通り友達になるのは難しいと判断し、倒してしまう覚悟を決める。
ボロボロの体に気合を入れ、痛みを意識しないようにして戦斧を握る。体の震えは何とか収まったのだが、今度は戦斧を握る手に汗をかいているのが分かった。手汗を服で拭い、再び戦斧を握り直す。
獣人は見た目に反し俊敏で、一瞬にしてトゥユまでの距離を詰める。遠くから見てるだけでも体躯の大きさは分かったが、実際近くで見るとその大きさはそれだけで既に暴力になりえる。
威圧に耐え、振り下ろされた拳を何とか躱すとトゥユの後ろにあった先ほど倒した木が粉々に砕ける。
それでも攻撃を止めない獣人はトゥユに向かって次々と拳を繰り出すが、一発もトゥユに当てる事はできなかった。
トゥユは最初の一撃を躱した所で獣人が本能のままに拳を振るっているのが分かると、フェイントや駆け引きなどしてこないと確信する。それが分かってしまえば獣人の拳は避けるだけならさほど難しい作業ではない。
今度はこちらの番とばかりに振るった戦斧は見事獣人の腕を捉え、そのまま腕を切り落とすつもりで力を入れるが、戦斧の刃は獣人の黒い体毛に阻まれ体に傷をつける事ができなかった。
──何あれ、私の攻撃が体毛で防がれるなんて信じられない。
自分の攻撃が全く効かなかったトゥユは慌てて獣人から距離を取る。
『獣人の体毛は鋼鉄並みの強さだ。並大抵の攻撃では傷一つ付けられんぞ。だから言ったのだ、あいつの強さは相当な物だと』
ウトゥスが自分の見立てが間違ってなかった事を自慢げに言ってくるが、今はそれどころではない。
距離が離れてしまった為、再びトゥユの所に走って来て距離を再び詰めると、獣人は拳を振るう。
渾身の力で振るわれた拳は距離を詰めたスピードも載せ今までより一段上の威力でトゥユを襲った。ウトゥスとの会話で反応が少し遅れたトゥユだが何とか躱す事に成功する。躱された拳は勢いを殺すことなく地面とぶつかり小さなクレーターを作成した。
追撃が来ると思いトゥユは身構えていたのだが、獣人からの追撃が来る事はなかった。何故なら獣人は黒い靄を纏い、いきなり苦しみだし咆哮を上げたのだ。
(ここは一体何処だ? 俺様は何をしているのだ? 分からない。思い出せない)
トゥユがいきなり苦しみだした獣人を心配するように一歩踏み出すと、出鱈目に拳を振り、寄せ付けないように暴れ出す。
(誰だこいつは? こんな小さな生き物は知らない。何だ、体が勝手に攻撃している。止めろ、そんな攻撃が当たるはずないだろ)
──何かおかしくない? 急に苦しみだしたと思ったら今までよりも雑な攻撃になってるよ。
トゥユが攻撃を避ける事により獣人はイラつき、苦しみ、雑な攻撃は更に雑になって来る。
(くそっ、何故体が言う事を聞かない、俺様がこんな情けない攻撃など許せない)
『確かに少しおかしいな。我の知っているこいつはここまで弱くないし、瘴気の薄さが関係してるかもしれん』
(そうだ、思い出した。俺様は捕まったのだ。箱に入れられ瘴気の薄い所に連れて来られ意識を失ったはずだ)
──瘴気? この辺りはそれが薄いからこの子は弱くなってるの?
『この辺りと言うか魔の森以外だな。こいつは魔の森の獣人だから瘴気が薄いと力が発揮できないばかりか、最悪、死んでしまうのだ』
(なんだこの仮面、この仮面から瘴気を感じる。そのせいで自我が戻ったのか? だが、体は自由にならん。どうすれば良い)
獣人が攻撃を止め、頭を抱え咆哮する。獣人を覆っていた黒い靄は更に濃くなり纏わりついた。
──じゃあ、この子は死ぬ寸前だったんだね。可愛そう。どうにかならないの?
『どうかな、魔の森にいる者は外に出ると一日目で足が動かなくなり、二日目で立っていられなくなり、三日目で死んでしまうと聞いた事が有る。その状態を直すなら再び魔の森に戻すしかないはずだ』
トゥユは戦斧を降ろし、無防備な状態で獣人の側まで歩いていく。
(くそっ! こんな近くにいるのに攻撃できないのがもどかしい。俺様はこいつを殺したいのに。何故体が自由に動かんのだ!)
獣人は頭を抱えたまま蹲り、トゥユが近づいていても攻撃をして来る事はない。
トゥユは右手を差し出し、獣人の体に触れる。触れた体は鋼のような体毛が覆っており、戦斧の刃が通らないのも納得できる程の硬さだった。
トゥユが触れても動かなかった獣人は急に顔を上げ、犬のように突き出た口を大きく開き、トゥユをかみ殺そうと迫る。
だが、その口がトゥユに届く事はなかった。トゥユに届く直前で獣人の顔が止まったのだ。
「グォオオオオオオオ!」
目の前で上げられる咆哮にトゥユは耳から流れて来る血を気にする事もなく、微動だにせず獣人に触れたまま真っすぐ獣人の方を見つめる。
黒い靄が獣人の中に入り込み、獣人の周りから黒い靄がなくなった瞬間、
「ガハハハッ、戻った。やっと体が言う事を聞くようになった」
今まで雄叫びしか上げる事のなかった獣人がいきなり話し出したことにトゥユは目を丸くして驚いた。
「貴方話すことができるの?」
虚ろだった獣人の双眸がしっかりとトゥユの姿を捉える。それだけで普通の人間なら失神してしまうような眼力をトゥユは平気で受け止める。
「ん? あぁ、問題ない。どうやら俺様は気が狂っていたようだ。だが、その仮面からの瘴気で元に戻ったらしい」
丸太ほどもある人差し指でウトゥスを指さし犬歯を見せる。
「じゃあ、私たち友達になれるかな? 私貴方と友達になりたいんだ」
「ガハハハッ、何を言っている! 俺様とお前は殺し合いをしていたのだろ? だったらこの続きをせずにどうする」
何処か穏やかだった空気が一変し、冬の朝のように張り詰めた空気がこの場を支配する。
獣人は立ち上がり、トゥユから距離を取る為歩き出し、ある程度離れるとこちらを向いて構えを取る。
「えぇー、私もう疲れたよ、体もボロボロだし……。大人しく友達になってよ」
張り詰めた空気をぶち破る程の物言いで頬を膨らます。
「なら、俺様を倒せばいいだろう。倒せるならば……だがな」
溜息を吐き「仕方がない」と言ってトゥユは戦斧を構える。
それを見た獣人は戦闘開始の合図と受け取り、一気に距離を詰め、拳を振るう。その攻撃は今までとは質が違っていた。今までの攻撃は只拳を振るうだけだったのだが、今回の攻撃は明らかに獣人の意思が感じられた。
意思のない攻撃は避けるのも容易かったが、獣人の意思が感じられる攻撃は非常に避けにくい物だった。
ただでさえ体力を消費し、体中傷を負っているトゥユは早期の決着を望んでいたが、その望みは叶えられそうにない。
体を動かし、戦斧で攻撃を逸らすが一向に獣人は攻撃の手を緩める事はない。
体毛が太陽に当たり、黒光りする腕から放たれた一撃は戦斧を盾にしたトゥユをそのまま後ろにある木まで押し込み磔にする。
折れていた肋骨の本数が増え、痛みで気を失いそうになるのを何とか堪える。
獣人はこの機を逃すことなく追撃を仕掛け、掌を開いたまま爪で引っ掻くように腕を振り下ろす。
何とか避ける事に成功したが、トゥユを磔にしていた木は他の木を巻き込みながら倒れる。
──危なかった。意識失ってれば私があの木みたいになってたね。
『どうする? これ以上は無理ではないか?』
──かなり厳しいね。でも、何とかしてみるよ。友達が一人増えるかどうかだからね。
獣人はゆっくりとトゥユの方に向き、戦斧を指さし顔を歪める。
「何だその武器は! 俺様の攻撃を受けて壊れないなんて聞いた事ないぞ!」
獣人は武器諸共トゥユを破壊するつもりで殴ったのだが、その両方が未だに平気でいる事に不満を訴える。
「それはお互い様。貴方の体毛だって攻撃しても傷つかないからね」
褒められて気を良くしたのだろうか、口角を上げ犬歯を見せる獣人は今までにも増して激しい攻撃をして来る。
一歩動く度に胸から響いてくる痛みは既に気合とかの精神論では抑えられなくなっていた。
間断なく響いて来る痛みにトゥユは辟易としていた。その痛みは音を伴ってトゥユの脳に響いたからだ。「ズキズキ」と言う音が煩い。この音を止めて欲しい。この音が……消えた。
今まで世界の何処にでいても聞こえたであろう音が一切聞こえなくなった。それどころか一切の音が聞こえなくなっている。木々の枝ががこすれる音も、獣人の爪を戦斧で防いだ音も……。
獣人は戸惑っていた。このまま押し切れば近い未来、必ず勝てると思っていたのだが、少女の動きが急に変わったのだ。
まるで枝から落ちる葉っぱを殴ろうとして、ヒラヒラと躱されるように少女は攻撃を避ける。
今までに見た事もないような動きに獣人の呼吸は知らず知らずの内に荒くなっていく。
何千、何万と拳を繰り出そうと当てる未来が見えない。得も言われぬ恐怖を獣人は生まれて初めて感じた。
魔の森でどんなに強大な敵に出会おうと、どんな窮地に陥ろうと感じる事のない恐怖がこんな少女により齎されたのだ。
──殺られる。
その言葉が脳裏に浮かんだ時、少女の戦斧は獣人の体毛を切り付け、喉の皮を一枚切り裂いて止まっていた。
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