バリ記 全



1999年10月29日

バリ記スタート

 今日からバリに来るたびに、日記を書きます。 三、四年と続ければ、バリの様子も僕のビジネスの様子も解ってくるでしょう。つたない文ですが、よろしくお願いします。



1999年10月30日

賄賂の構造

 この国は、スハルトを頂点として「賄賂」が一般庶民のすみずみまで構造として成り立っているのです。でも村や家に帰れば、信仰心の厚い、いわば善良な人々が圧倒的なのでしょう。

警察官や公務員の給料が銀行員に比べて低すぎることも、賄賂の原因になっています。ですから賞金は、給料の一部として、お金を持っている側が負担する、という考え方をしておかないと、イライラして納得できません。

税務署、入国管理、空港の荷物重量検査、あらゆる機会を利用して賄賂を求めます。


 人間はグチャグチャだ

善を象徴する「バロン」が悪を象徴する「ランダ」を作り、そのバロンとランダが永に戦いつづける、という話はバリでよく聞く事です。悪のランダをねんごろに奉れば、ランダは人々や村を守ってくれると信じ、サヌールなどではバロンよりもランダの方をねんごろに奉っています。

 人間が「善」だと思ってやっていることの裏返しは「悪」であることも、「悪」だと思ってやっていることが、「善」であることも多い。我々人間の生活は、バリ島では割合にはっきりとその考えを打ち出しているようです。

朝、必ず神にお供えをし、寺の創立日でオダランの時などは、女性も男性も聖水(ティルタ・サリ)をかけてもらって身を浄める。その隣で、闘鶏に興じている男たちを寺院内に見ると、「人間なんて、グチャグチャだ」という認識が深いところにあって、という気もするのです。「それでいいんだ」みたいに思っているところがあるような気がするのです。この辺は、もっと考えてみたく、人間というものの「原像」に近づける手がかりになるかもしれない、と思ったりします。



 本日宿泊のホテルはレギャンストリートのアクエリアスホテル。朝食つき、税、サービス料込みで、20ドル。部屋は一流ホテルのレギュラーより広くエアコン、バスタブ、TVもある。驚くほど気楽で、便利。レストランもレギャンでは一番安いくらいで、おいしい。


1999年10月31日

まだ賄賂の話

 さて、これまでの観光客世界のバリと、ビジネス世界のバリは様相がまったく違うということを今回の旅行で思い知りました。日本の新聞などですぐに投書したがる善良な市民や筑紫哲也のようのきれい事ばかりを言っている人は、バリ島には住めないのかもしれません。

空港のイミグレーションでパスポートを見せますね。あのパスポートに例えば広告用パンフレットをはさんでもらったら、すべての観光客にパンフがいきわたりますよね。これ、O.Kなのです。もちろん‘賄賂’です。

僕のビザは、一回きりの長期(一年)滞在で労働もできるビザです。日本の領事館では、初めての人はまずこのビザになります。このビザを持つと、バリに到着してから一週間以内に入国管理事務所に行き、イエローカード(外国人居住証明書)を発行してもらわなければなりません。このカードを持つと、バリから日本が一年以内に何度でも往復できるのです。ただし、バリから出国する際、約3万円の税金を支払わなければなりません。それで僕はイエローカードは要らないから、マルチビザに切り替えたい、と言ったのです。マルチビザはジャカルタで申し込むのですが、申し込みをしてくれる代理人というのがいるのです。マルチビザをとるのに4万~5万かかると言います。

 そしたら、入国管理事務所の担当員は、「ドゥント ウォーリ、ユー コンタクトミー、ビフォーゴーイング バック ジャパン、アイテイクユー トゥ ジ エアーポート」と言うのです。あれあれまたかよ、薄気味悪いなと思いながら渋い顔をしていると、親切そうに笑い、上司も仲間もみんないるところで「イフ アイテイク ユー、タックス 100万ルピア O.K?」 参ったぜ、という感じです。安い給料を補う一部だと考えざるを得ません。

税金申告はどの会社も、税務署員に申告書を書いてもらう。まあ、これでは消費税や印紙税くらいしか入ってこない政府は、バリ島の道を拡幅したり、新しい道を作ったり、地下鉄を走らせたりすることはとても無理かもしれません。


果物の季節

 今は、バリ島は雨季。夕方とか夜、突然に雨が降り始めます。湿気が多く、洗濯物も夜から朝の間まで乾きません。この季節は、ランプータンというとげとげのある赤い果物や果物の王様といわれるドリアンの収穫時期です。果物の女王とよばれるマンゴスチンは本来三月ですが、スーパーでは出でいます。

ヌサドゥアやサヌール、ジンバラン、ウブドでは時間がゆっくり過ぎ、プールサイドで日がな本を読んでは時に泳いだり、レゴンダンスやケチャを見たりという静かで穏やかな日々が過ぎているでしょう。

 レギャン通りからスミニャック通りは、良い店がたくさん並んでいます。もしも一人で歩くのなら、ブルータクシーの人にガードしてもらうのが安心です。昨日、僕は、ひったくりの泥棒事件を二件スミニャックで見ました。万が一ひったくられたら、大声を出すのが良いようです。店の人たちが一斉に出で来て泥棒を追いかけていました。二人で歩き、そこにいつも見張ってくれる人がいればパーフェクトです。

知らない人と握手をするのは禁物です。どうしてだかわかりません。みんなそれを信じています。魔術をかけられる、というのです。


バリの大工さん

 六人の大工さんや左官屋さんが、店の改装をやっています。バリ独特の火山岩のような白い石を割る人、それを貼る人、まあ、そのスピードは日本人の半分以下です。遅いのです。玄関にドアがまだつかないので、2人の人が土間で寝泊りしています。毛布などはなにもなく痛いだろうなと思うけどそれが当たり前のようだから「毛布を買おうか」などと言えません。

 大工のボスは、ただただ何もしません。監督するだけです。徴密に仕上げるという感覚もないようで、その点はいちいち細かく指示しなければなりません。毎日十四~十五時間くらい働いています。

彼らは、貧乏そうですが、人がたいへん良さそうな人たちです。僕は、夜中に差し入れをしたり、チップをやって「これで一服でもしてくれ」など言っているのですっかり気に入られています。仕事のスピードアップのためなのですが、彼らには、ただ日本人は気前がいいという風にしか思ってないみたいです。


1999年11月2日

バリタクシー

 親切で良心的なメーター付きタクシーといえば、青色のバリタクシーでした。このタクシーに乗ると、本当に厄介な交渉も、メーターがあるにもかかわらずそれを無視してかかる運転手のイヤらしさを体験することなく安心して目的地までいけるのでした。食事をする時間もカウントすることなく、待っていてくれてそれはそれは良いタクシーでした。

 ところが今回バリに来て、この青いタクシーが見当たらないのです。聞くと、全部この前の暴動で燃やされたらしいのです。暴動に乗じたイヤな野郎もいたもんだ、と苦々しく思っています。しかし、この暴動のおかげで、メガワティが副大統領になれた、ともっぱらの話です。ぎせいはバリタクシー。たいへん同情しています。出る杭は打たれる。もう出すぎて打たれづらいと思っていたら、暴動の力は、根こそぎと言うイメージです。


バリ・アガ(先住民の村)

 さて、以前、トゥルーニャンという先住民の村(バリ・アガ)に湖を渡って行ったことがあります。風習がバリ人たちとは全然違うのですが、代表的なのは、この村は風葬をしているということです。死体を風にさらすわけですが、まったくいやな匂いなどはしません。大きな木の下に死体を置くのですが、その木が匂いを消すのだそうでう。その気の名前をメモしたのですが、今ちょっと思い出せません。

 この村までは、実に旅をしたと言う感じでした。

 バトゥール湖を小さなボートで渡る時、漁をしている女性の歌声が湖面に響きトゥルーニャンに近づくと裸の子供たちが船着場のところで、一体誰が来るのかいう好奇心を集団で見せています。

 小さな小さな村でした。ひっそりとしていました。人々はどのように生きているのか不思議でした。

 バリにダブルイカットやアッタの編物で有名なテガナンというやはりバリ・アガがありますが、この村もひっそりしていました。他のバリの村とは、雰囲気がまるで違います。

 二つの村の共通したところは、イカットという織物の有名な生産地であることです。テガナンのイカットは、バリのたて糸も横糸も五年も十年もかけて染め、その糸をこまやかに織っていきます。テガナンのイカットは、バリの葬儀などで使われ、普通の人々は買えないので、貸し借りをしているほど必要で貴重なものとされています。

 色には、それぞれ意味があり、色の意味を組み合わせ全体的な意味を持つように織り込んでいくようです。

テガナンもトゥルーニャンも静かでひっそりとしているのは、家の中で黙々と織物をしている人が多いからなのかもしれません。この気の遠くなるような根気、しかも手をぬいていないことは仕上がりを見たらわかります。

アッタの編物も堅牢で素敵ですが、出来上がりに、他の編物とは違う(日本の竹籠のようなもの)、強固さを感じさせます。

なぜ、二つの村だけが、混合してゆくことなく、今もなお存続しているのか、興味深いのですが、僕は知りません。

 経済的に維持しつづけることができたからなのでしょうが。その維持には強い矜持と作り上げることへの並々ならぬ自信があったのかも知れません。そのような意志がどのようにできたのか、この村の長老たちは知っているのでしょう。あるいはまた、二つの村は維持に非常に苦しんでいるのかも知れません。

僕のようなたんなる異国での情緒に自分を浸しているような旅行者には、歴史の重層は見えません。誰か詳しい人がいましたら、ぜひとも教えてください。


バリの女性の名前

 バリの女性の名前に、バリの花の名前が多いことを知ってなんだか気持ちがなごみました。

バリの会社のスタッフIda Bagus Oka Suwardana の奥さんは、Jro Champak といいます。チャンパカというとても香りのよい黄色いバリを代表する花です。オカのお兄さんの奥さんは、Jro Sandat といい、Sandat が花の名です。この花は、薄緑色でやはり美しい香りがします。

 バリには、姓がなくカーストの階級をあらわすもの、次に長男か次男かなどをあらわすもの、最後に本人の名前がきます。Ida Bagus Oka Suwardana は、Brahmana (僧侶の階級)で第一番目ですが、そこに Sudra (一番下のいわば肉体労働者の階級)からオカの家に嫁いできた彼女は、名前を変える必要があるのです。それで Jro Chanpak としたのです。因に Jro は下の階級から嫁いできた人が必ずつけるものです。同じ階級どうしなら、名前を変える必要はありません。

 カースト制度は、儀式の時を契機にその姿をあらわしますが、普段は自由に恋愛し、どのカーストへの移行も女性なら自由なようです。男性の職業選択も自由ですが、 Brahmana にだけにはなれないようです。


1999年11月4日

アクエリアスホテル

 今日は、僕の泊まっているホテルを紹介します。日本のガイドブックでも旅行代理店でも紹介されておりません。

安くしあげたい人、ビジネスマンの方にはいいかもしれません。

まず場所ですが、レギャン通りにあります。レギャン通りも南から北まで長いのですが、レギャン通りの起点ベモコーナーから北へ歩いて5分。マタハリレギャンデパートから南へ5分。つまりベモコーナーとマタハリレギャンの中間点で、ホテルトラウイタの斜め前が、ここ「アクエリアスホテル」です。

 部屋はいろいろですが、エアコン、TV,冷蔵庫のある部屋は、帝国ホテルのレギュラーより広く、そして清潔でもあります。プールもあります。それで朝食付き、税、サービス料込みで20ドルです。二人で泊まったら10ドルということになります。一人気ままに旅行している客が多く、すぐになぜが仲良くなってしまいます。オーストラリアの女性で、毎日毎日一生懸命十年働いて、やっとまとまった休みがとれたので、二ヶ月間旅行をしているのだそうです。得意気にイギリス、スイス、オーストリア、イタリアなどを旅行したことを話し、最後はバリでのんびりして、また仕事に戻るのだそうです。

 このホテルの右斜め前にあるシーフードの店は、べらぼうに高いので要注意です。同じ店にシーフードのコーナーとバーのコーナーに分かれています。バーのコーナーに案内されてシーフードを食べていたら、妙なことに気が付きました。カウンターに女性が一つ一つ席を空けて座っているのです。時間が経つにつれて女性の隣りにオーストラリアの男性が座り始めるのです。つまり女性たちは、売春婦なのです。

 隣りに座って、話しかけてくる男性を拒否することなく話をし、男性も話をすることでチェックしているようです。「アクエリアスホテル」の周囲にはそんな店もあるのですが安全なところです。

特筆すべきは、ここのレストランでしょう。どれも美味しく、日本食が恋しくなりません。中華、ステーキ、パスタ類、シーフード、インドネシア料理とあり、ここのコックはたいへん上手だと思います。それに驚くほど安いのです。

 僕の好きなソト マドラ(具のいっぱい入ったインドネシアのスープ)と焼き鳥のサテ、白いご飯、野菜など合計で二万ルピアかかりません。三百五十円かからないわけです。もちろんワルン(バリの人々がいくレストラン)で食べれば、その半分くらいですが、外国人用レストランとしてはとても安く上等だと思います。高級ホテルのレストランよりは美味しいのは保証します。

 ホテルのスタッフも暇そうに、ティンクリック(竹の楽器)の練習をしたり、女の子たちスタッフは窓もドアもない柱だけの台(どこの家にもそんな場所がある)というかそういうところに集まってテレビを見たりしています。クリーニングや部屋の掃除は彼女らがするのです。レギャン通りは、車が多いのですが二十メートルも奥に入るとのんびりしたバリの人々の生活を感じます。


1999年11月5日

いいじゃないか

 日本人女性がバリの男性に魅かれて恋に陥る。お金までも日本から送金する。男性側の方には、そういう日本人女性が何人かいて、ローテーションを組んで、それが仕事だと割り切っている。

 そんな報道番組をNHKかどこかで、二年前に見たことがあります。かなりの現地密着の隠し撮りもやっていて迫力がありました。男性の顔がぼやけたりすると、とたんにあやしげになり画面に迫力がでるものだなあと思ったりしましたが、こんなテレビのお節介にはあきれたもので、いかにも男買いをする日本人女性を批判するような視点で、これを作った人間はどんな奴なんだと思いました。恋愛なんか勝手にやればいいじゃないか。だまされていたとしても好きになっちゃうことなんてのはよくある話だし、お金を送るとかいうのもそのときの関係性のことだし、何が悪いの? と言いたくなります。

 インターネットでヤフーの掲示板なんかのぞいても、男と女のああでもないこうでもない、私はやっぱりだまされているのかしら、でも・・・・みたいな話に結構、メールで励ましやらお説教やら同情やらが集まっていておもしろいのです。

こういう、政治とか経済とか違った日常の人間の心の動き方みたいなことの方が、のぞく側としてはおもしろいのです。

日本の女性とバリの男性。きっと話す言葉は、動物語なんでしょうね。言葉なんて最小限でいい。「アハハ」とか「何それー」とか「わぁ、おいしい」とか、それでも人間というのは、優しさとかたくましさとか、何か心で感じていることがお互いにわかるんですよね。

 今日も日本人の女性をエスコートしている男性をたくさん見ました。しかし、これは日本人女性だけでなく、バリに来るフランス人でもオーストラリア人でも、同じようなことになってしまう人はなってしまうもので、実際僕も、フランス人でバリのハンサムな野郎にぞっこん惚れていて、フランスからお金を送り、その男性の商売を支援している女性と会いました。いいじゃないかそれで。落ちちゃうときは落ちちゃうのです。

好きな人とバリ島で、しかもどこか隠れ家のようなホテルのガゼボで海を前に寝転んで本を読んだり、時折いちゃついたりするなんては、恋をした人の妙味ですよ。生涯にもう二度とないかも知れない、さぞかしきれいな思い出になるでしょうね。


1999年11月6日

盗み聞き

 (パチパチパチと、ガドガドが来たので拍手)

【女1】:いいよ、いいよ、いいよね。これがガドガドかあ。ビールまだいく?

【女2】:うん

【女3】:(ガドガドの写真をとっている)

 (続いてミーゴレンなど3種類ほどの料理が運

ばれてくる)

【女1】:ワーイ、いいな。ガドガドってちょっと

匂わない?

【女2】:うん、匂う。何?

【女1】:だけどさあ、バリの男って気を使ってくれるよね。

【女2】:そうそう。あの親切なのと、笑顔がなんかいいよね。

【女1】:日本にはないよね。何かうんとすましている感じがするじゃない、日本の男って。

【女2】:ガイドなんてさあ、一日つきあってくれたら、やっぱ気を許しちゃうんじゃないの?

【女1】:結構そういう子、いるっていうもんね。私、ならないけどわかるよね。

【女2】:うん、わかるわかる。

【女3】:(喋ることなく、写真に忙しく、食べることに忙しい。)


僕はこんな会話を盗み聞きしながら、バリのカニをひたすら一生懸命食べていました。

オイスタソースにしろ、ブラックビーンズやチリソースにしても、やっぱりカニは炒めてからのほうが香ばしくて美味しいけど、脂質分を思ったりして、今日はスティームにしました。

日本は三日が休みなので、四日、五日と休みを取り三日~七日まで日本の旅行客は多いのかもしれません。

それにしても、先の会話は十年以上前、日本にフィリピンの女性がたくさん入ってきて、日本の至るところのスナックやクラブで旋風を巻き起こしましたが、あの頃、日本の男性もちょうど先の会話と同じような話をしていました。何かしら日本の女性にない素朴さや暖かさがあって、日本の女性はツンとすまして、冷たさとわがままがあるように思えると多くのフィリピン狂いの男性たちが言っていました。


1999年11月8日

タクシー

 バリタクシー(ブルーのタクシー)が徐々に戻ってきました。暴動で450台のタクシーが焼かれてしまった。メーター付きバリタクシーが走り始めて、観光客も僕も喜んでいます。

白いタクシーは、用心。メーターなんてあげない者も。べらぼうな値段をふっかけてくる者も。

 昨日、テガナンに行きました。10時50分から19時だと、3492円。8時間もタクシーに乗っていたら日本だったら、10万円は越えるはず。

タクシーといえば、ホテルの専用タクシーにも腹が立ちます。まず、基本料金がブルータクシーの2倍はします。ちょっと予定の変更でもあれば交渉をしなければなりません。

 バリ島が安心して、リゾートを楽しめるところになるには、バリタクシーのような会社、店などが登場しなければなりません。やはり、タクシーはバリの顔のようなものですから。


レザーショップについて

二、三の試作をお願いしました。二つの店とも言ったとおりのものができないという結果でした。オーダーする場合、その辺は注意して。腕がよく絶対に信頼のできる職人を必ず見つけるつもりです。見つかったら報告します。


1999年11月9日

アクエリアスホテルのマデさん

 アクエリアスホテルで働いているマデさんの奥さんは裁縫が得意だというので巾着袋をつくってもらうことになりました。

マデは二十九歳。旧都の港町でバリの北部にあるシンガラジャから、単身クタに出てき、職を探し、やがて結婚しました。

 クタも有名な通り以外は、本当に村という感じで、マデの住むアパートはクタの中心にあるのですが、庭でアヒルなどもガアガアと鳴いています。近くでは、子供たちが土に線をひいて、ピョンピョン跳んでする石蹴りをやっていました。ヒンズーの子もイスラムの子もいっしょに遊んでいます。イスラムの子は、黒い帽子をかぶっているのでわかります。僕も、昔同じような遊びをやったことがあり、懐かしく思いました。

 マデのアパートはちょうど4畳半くらいで、その部屋に夫婦二人で住んでいます。ベッドがあってあと、奥さんの中国製のミシン(三十五年程前に見たようなものでした)、小さなテレビとラジオがあります。

そんな部屋が並んだ棟の端にトイレとシャワー室があり、部屋代は十五万ルピア(二千五百円位)、トイレ代が三万ルピア(五百円位)だそうです。共同の炊事場、洗い場がありますが江戸時代の路地のようです。親から離れてクタで身を立てていこうとすれば、最初は誰もこういうところからスタートするのでしょう。

僕も学生時代は、渋谷の4畳半で冷房もなくムシムシした部屋に住んでいましたが、住めばこの4畳半が世界となって、別に不便は感じませんでした。

 一緒に出てきた友達の中には、すでに成功の道を歩んでいる人もいるようです。インドネシアはこれからなんだ、これから一旗あげるぞという若者も多くいます。

お父さんがシンガラジャで木彫などをしていて、弟が家に残り、その血筋をひいたらしく、木彫をやり、絵を描いています。

マデさんは少々の日本語も喋ります。

 アクエリアスホテルに来る人がいたら、ぜひともレストランでシンガラジャのマデさんを探してください。ちょっとはにかみ屋のよい男です。因に、このレストランにはマデさんが二人いますので。ハンサムな方のマデさんです。


1999年11月10日

バリの女性

 クタかウブド以外の地域で生活をしていくのは大変難しいらしく、クタでなんとか仕事を探して、両親に仕送りし、また妹の学校に通う費用の足しにしようという女性や男性が多くいます。

 今日、チャンディダサの近くの村から、この春、クタに出てきて叔父の家に厄介になって、仕事を探している女性に会いました。

何か将来したいことがあるのかとたずねると「ない」と答えます。本当にないのかと聞くと困ったような顔になって、いろいろ思い浮かべたりするのでしょうが、やはり「ない」と答えます。

「お金を得たい」それが今精一杯の希望のようで、なんともしれない気持ちになりました。

 バリの女性は、本当によく働きます。どんなこともいわずします。同じ世代の僕が接した限りのアメリカ人女性のように理屈をこねませんし、なんだかんだと文句を言ったりしません。たいへん一緒に仕事がやりやすいのです。


1999年11月12日

ポロシャツ、Tシャツを作ってくれる店

 いつもデンパサールの問屋さんで専用のポロシャツを作ってもらいます。生地も良く、注文どおりに作ってくれるので(もちろんプリントなども)たいへん重宝しています。

 レザー商品のように、今のところ失敗、騙されたな、ということがありません。だいたい千円で上等のものができます。バリで千円といえば高いのですが、日本では五千円以上は絶対にするポロシャツで、イタリアものなんかと同じで、ポロのよりはずっといいと思っています。

 バリでポロの服もたくさん売ってますが、おすすめできません。ブランド品がおすすめできないのです。本物といっても、こちらで作っているもので、どうしても品質が落ちます。NIKEのものもそうです。


【店の連絡先】

 Sidharta シドゥハルタ Jl Durian 10, Denpasar Tel. 0361-222578

両替について

セントラルクタの両替所が最も安心でき目安になるレートとなるのですが、この頃、ルピアの価格が各両替所でずいぶん違うのです。因に今日のセントラルクタは1円67ルピア、ホテルでしたら60ルピアくらい、銀行は59ルピアくらい、クタの町では74ルピアというところもあります。アチェ問題で値動きが激しいのかも知れません。


2000年1月10日

なぜ殺すのか

 愕然とすることがある。クロボカンの刑務所を脱獄した囚人のうちの二人が、タバナンで豚を盗もうとして村人に見つかり、そのうち一人が殺された。このニュースを知っていた僕は、バリに着くなりバリのスタッフにこの話の顛末をもっと聞こうとしたところ、スタッフの一人が別の話をし始めた。

 十二月の下旬頃、デンパサールの村にある家に三人の男たちが忍び込んだ。それに気がついた家の者は騒ぎオコカン(木のベル)を鳴らし、それが次々と村中に鳴り響くと村人たちが、くわやすき、鉄パイプなどをもって参集し、三人の男は殴り殺された。集団暴行に及んだのだ。以前にも物盗りにあったこの家の者たちは、見張りもつけ、待ちかまえていたようであったが、実際この三人が物盗りだったのかは判らず、バリのテレビニュースにもなったが、ニュースも伝えるだけで、集団暴行への批判はなかったようだ。警察も騒ぎが静まってから、ゆっくりと来た、ということだった。

これを話したBali Book Treeのスタッフ、オカとイダは、当然のように話す。

 なぜ捕まえて警察に渡さないのか。彼らの説明から、理由らしきものを挙げてみる。

一 三人は穢れている存在だ

二 警察に渡しても、彼らはお金ですぐ出てくる

三 村には自衛のシステムがある

 これは、僕風に言い直したものだが、彼らはざっとこういう意味のことを述べた。

僕なりに更に推測してみる。

インドネシアの経済は、この二年ひどかった。物盗りも増えている。

物価もこの二年で四倍になった。バリはまだしも他の島に比べたら豊かなほうである。

 バリは行政単位と村単位の二重構造になっている。村の結束は強く、後に導入された行政地区とは、全く別のように村は機能している。近代法が導入されているが、この法と村の習慣法とこれまた二重構造である。人々に宗教的な意識はあっても近代法の意識は低い。さらに、法を守り、行政を行い、政治をするという人々は、ワイロの構造に組み込まれている。この組み込まれ方は見事である。何が善なのか、何が悪なのかという問題を、村人による集団暴行はいとも簡単に越えてしまう。

仏教もキリスト教もこの問題は考えぬいている。「穢れ」という概念は、相当プリミティグなものである。仏教やヒンズー以前の思想以前の原始的な感情である。自分に悪いものが取り付く。これを除去する。祓う。ここにまで瞬時に村人たちは戻ってしまう。この無意識にヒンズーが重なり村落共同体が重なり、現代という先進国から押し寄せるものが重なる。

手を加えた村人が捕まることなく、この事件はおさまった。死んだものはどうなるのか。どう答えるのか。 明日聞いてみよう。


2000年1月11日

二重構造

 涼しい良い天気。リゾート地は穏やかで、バリの気候はこんなにも良いものかと驚いていることだろう。国内からの観光客でクタやレギャンはごったがえしている。

今回の渡バリの目的は、会社規程の整備である。会社を一人前の成人にしていこうとするならば、必ず通る橋のようなものだ。

 昨日の問いをする暇がなく、会社規程のうちの就業規則から、検討に入り始めた。日本語から英語へ、英語からインドネシア語にしながらの作業である。労働基準監督署には、外国法人は、インドネシア語と英語の二通りの提出が必要なのである。

ここでも、当然、僕らは、規程を二重構造の中でどちらをも充たすよう模索することになる。バリの習慣、バリの村々に生きる人々は、時に法というものを無化してしまうという出来事を昨日聞いたばかりなので、絶えず危惧がつきまとう。労働法には、働く人の為に、会社と社員が共に作り、会社と個人を発展させてゆこうとする理念がある。会社は、この規律を守り、また労働者も守るべきものである。危惧とは、このようなものである。

 労働法を無化することもできれば、逆手に取ることもできるのではないかという疑心である。二重構造ゆえのしかたのない疑心である。

思えば、この疑心は、バリ人の一人一人の心の中にもある。僕が会った人の数、その限りで言えば、見知らぬ人を信用するまでかなり慎重で時間がかかる。

例えば、ワイロが系列だっている。商売をするにも、たまたまマネージャーと交渉することになると、売上の5%などと要求してくる。航空券しかり郵便局しかり。あらゆるところで、この種のワイロが裏側で行われる。会社は、まともな決算、まともな税金を払うこともできかねるという環境なのだ。

となると仕入れに行かせる場合でも、二人で行かせて牽制させるか、現金仕入れをなくし、相手にも受書や納品書など徹底させるか、などしなければならい。初めのうちそんなことをしていたら仕事にならない。まず人を疑うことから始めなければ、という気持ちが僕らよりもずっと強く、そうあらねばならない相互作用が人々の間に充満しているように思える。

 物盗りを捕まえても、警察は信用できない。物盗りも警察を信用していない。警察は行政府を信用していない。行政府は政治家を信用してない。そんなもの信用しなくったって我々は生きていけるんだ、というたくましさも垣間見えるのだが(きっと戦後の日本もそんな風だったのだろうが)。

 このきりのない、やるせない疑心は、思えばアメリカなどの法で整備された社会の正反対の位置にあるものだ。アメリカなどでは、疑心は徹底して法によって明文化され、システム化されている。バリでは、疑心はそのまま人々の心の中にいつまでもあり、時に法を無化する。

 アメリカ人やイギリス人、南アフリカ人、オーストラリア人、カナダ人、ニュージーランド人という英語圏の人々と仕事をしてきた僕がいつでも法を無化したり、突然法の方に身をすりよせるのではないかという段階の人々と共に仕事をしている。

ランダやバロンが村を守り、人々を守り、という中で、法によってしか成立できない法人はどのようにして守られるのか、僕には未知である。


2000年1月12日

死んだ者はどうなるか

さて、「殴り殺された三人の男たち、つまり死んだ者はどうなるのか」という問いに対して、イダ(シガラジャ出身、デンパサールの村在住 三十一才)とオカ(サヌール出身、サヌール在住 三十二才)は、どう答えたか。

答えは単純だった。「どうにもならない。無くなるだけだ。三人の者たちは他の島からやってきたのでバリ人ではない。つまり宗教も違う。それに関して感知しない」ということである。「バリ人だったらどうなるのか」という問いには「また罪を背負って、生まれ変わってくる」と答える。「よっぽどひどい者は動物、たとえば牛とか豚、鶏とかになって生まれてくるだろう」という。

「殴り殺した」という罪の意識を村人は持っているだろうかと聞くとたぶんないだろうと答える。人一人一人の重い生命を抹殺してしまったと言うこと、他人の家に忍び込むにはそれなりの事情があったのではないか、という思い方はしないようだ。

「もちろん、俺たちは他人の家に忍び込むようなことはしない」と結論づける。

親鸞がいうような「今、人を千人殺せと言われても、人というのはできるわけではない。しかし、殺す縁(契機)さえあれば、誰にでも人を殺してしまうことがあり得るものなのだ」という思想は別のとらえ方で処理されてしまっているように思える。

親鸞は、善と悪をウラとオモテの一体とは考えておらず、遠くの方(死の方)から善悪を眺め、相対的な善悪を我々の人間関係や社会の中で色の変化のようなものとしてとらえている。善いことをしようなどと思ったり、計らったりすることが、悪にもなってしまうというような変色である。

しかし、察するにバリの村々の行為やイダやオカの思い方、述べ方からすれば、悪は悪で絶対的に切りとり、善は善で絶対的であるかのようだ。

悪の化身であるランダは怖い。怖いからランダをねんごろに祀れば、ランダも気分をよくして、我々人間や村の味方になってくれる、というバリの伝統的な考え方は、人間関係や社会の中で、実は相対的に善悪をとらえているのではなく、ウラがオモテになるのではなく、ウラにオモテがあり、オモテにウラがあると相反しながら同じものという絶対的なもののようである。善悪を誰を中心としてみるか、という位置のとらえ方も親鸞とは違っている。親鸞は遠い位置からみている。

バリでは人々は、「自分を守っているもの」ということを中心において、都合よく善悪を考えていると言ってもいいかも知れない。

悪は怖い。だからねんごろに悪を祀れば、自分に危害を及ぼさないだろう。とすれば、自分にとって悪は善になり得るのである。

以上、全て推測に過ぎない。まだ、バリ人に共通する無意識や意識を知らなすぎる。

若い人々や事業での成功者の中には、村の厳しいルールを嫌がって緩やかなルールの村や新しい住宅地に住みたいと思ったり、実際に住んでいる人々も出てきている。しかし、今から先は未知なのだ。他の社会をひっぱり出してきて段階的にあてはめていくと、僕らのほうが間違えることになると考えている。


2000年1月13日

どう選んでゆくのか

バリでは車の免許をとるのが簡単で、三十五万ルピア程というのだから、僕から見て、相当安いように思える。

ところが、このお金がなかなか出せないし、たとえ出せたとしても車を買うお金まではなかなかないので、結局免許をとらないことになる人も多い。

バリは、今までは交通渋滞で道路事情も悪く、新しい道路建設も進んでいない。これ以上の交通渋滞は、バリ経済に悪影響を及ぼすだろうと思われる。

不況下においても車の数が増えつづけているのだから、現在、車が買えない者に余裕が出始めたら、どうなるのだろうかと心配する。経済マヒが起こる。人々に公的な税金を払うような意思が見られないので、余計心配である。

毎日たいへん良い日が続いている。一月は、こんなに涼しいのか、と思う。

ジャワ島のイスラムの人々は、一ヶ月のラマダンで、ジャワ島とのやりとりのある仕事も渋滞のまま、十八日が過ぎて、たまった仕事が片付けられるのを待つしかない。だから、今はジャワからの旅行客が多い。

これほどの発展途上国の国で、お金お金と言っている人が多い国で、週四十時間労働で休日が多いというのは、どうしてだろうと思うが、別に怠けたいわけではないだろうと思う。人口が多すぎるのが大きな理由のひとつだと考えられる。

バリが観光地として発展するまでは、村々の数多い祭礼によってものが行き交い人々の暮らしがある程度平均化し、その点での経済効果はあったと思えるが、現在はある一面で経済の発展にブレーキをかけているのではないかと思える。しかし、ある一面で、葬式などの儀式費用を蓄えることを強いても、経済的な成長を阻んだとしても宗教的生活を優先させるのだという意思も知る限りの人々の発言から汲み取ることができる。

三十年以上も前の日本。その頃でも日常の生活は楽しかった。テレビは一部の家にあるだけで、ビデオはなく、ましてやコンピュータもなかった。けれど路地で遊ぶことも、時に遠出することも、学校の運動場で遊ぶことも、なんとなく急にやってきて急にしぼんでゆく遊びの流行についていくのも結構楽しかった。経済的には、今のバリの程度だった。そして日本は働くことに身を投じて、急速に経済成長をする道を選んだ。

バリが今後どのように選択してゆくのか、おそらく僕が生きている間くらいには、おぼろ気にわかるかも知れない。


2000年1月14日

周期

木に年輪があるのは学校でも習ったことだが、その年輪をさらに観察してゆくと、週輪というのがあり、人間の歯にも週輪のようなものがあると知って驚いた。つまり植物も人間も同じように七日を周期として生きているということだ。

仏教でも七の倍数が死後重要視されるが、これはどういう理由なのだろうか。なんとなく人間は周期の問題を知っているとしか思えない。

バリ・ジャワのウク暦で通過儀礼が行われるが、例えばバリでは赤ん坊は生後四十二日で清めの洗礼を受け、生後二一〇日目で(ウク暦の一年)最初の誕生日が訪れる。暦はいろいろあるだろうが、やはり七の倍数にこだわっている。

一週間目、つまり七日という周期には何か意味があるのだろう。このようなことは今後解明されていくのだろうが、七日にも意味があるのだったら、他にも例えば方位だの色だのと言うこだわりには何か本当に意味があり、解明されれば思わず納得し、「そんな風だと思っていた」といってしまうかも知れない。

もちろん「風水ではこうこうしかじかだから~である」と言い方に納得するのではなく「風水で言っていることの本当の根拠はこうこうこうで、このようだから~であるのだ」という納得のさせられ方がいろいろな分野であるのかも知れない。たぶんきっとこのようなことは、宗教や民族を越えて人類共通のことになるのだから、徹底してある事柄をつきつめていくことは宇宙的な視野に立てることであって、すごいことだと思う。


2000年1月15日

バリの女性

昨夜はバリの女性スタッフ達が日本食に挑戦する気持ちがあるというので、日本食レストランに連れて行くことになった。クニンガンで休日を楽しみたいという雰囲気がある。寿司のわさびの効き方は鼻と目に来るので、以前イダはびっくりしてしまい、それから寿司は避けるようになった。申し訳ないサービスのしかただった。昨夜はその点は避けて、とりあえず食べれそうなものを選び、ちょっとずつ食べて、日本料理もよいものだと思わせるよう工夫した。結果は上々だった。冷やっこ、もろきゅう、ぎょうざなどから入り、串かつ、そして親子丼を分けた。デザートにはミルクとあずきの入ったミルク金時をおすすめした

ここで食の違いについて語るのではない。女性の環境についてである。聞くところによる話である。一部貴族階級に見合い結婚もあるが、だいたいが自由結婚である。カーストもほとんど無視しているようであるが、カーストの違いは儀式のときなどに、手続の問題(例えば名前を変えるとか)として現れてくるが、大したことでもないようだ。

僕の知る限り、かなり結婚願望が強く、出産願望も強いようだ。しかしながら日本のロック音楽の歌詞のような、病的とも思えるほどの恋への切なさや、恋での悲しみ、恋での歓喜、男女の心や神経や内臓等との一体感に焦がれるようなものではなく、おおらかさが感じられるような雰囲気を持っている。エッチな話などは穢れたものだとは思わず、恥じらい方も解放性が感じられる。個人的な幻想を共同の幻想や家族への幻想に収斂させているようだ。

結婚は村(パンジャール)の成員となるためには必須だから、つきあった男性とはひたすら結婚の道へ進むことになる。処女性も重んじられている。処女を失った女性はこの点が気持ちの上でひっかかるようだ。仕事については自分の代わりはいくらでもいるんだと思いたくない《個人意識》の強さはなく、仕事上などではいくらでも代わりはいるが子供を産むのは代わりはいない、という感覚。僕の言い方で表現すれば、そんなふうだ。

一生独身でいることは、村生活の成員権、ひいては葬式などにも影響するから、その点では制度としての強迫的なということになるが、彼女らは「強迫」などとは決して思っていない。どこかに抜け道なり、空気孔があって、窒息死はしなくてすむようになっているのだろう。

離婚もあまりない。僕の女友達は離婚をしたが、老後、死後のことが一番の悩みの種であり、既婚女性からの中傷も多く、夫を寝取られるではないかと心配する女性も多いようだ。

総じてバリの女性の環境は以上のようなものであり、付け加えるならば、よく働くなあと思う。これは数人との話の中での印象に過ぎず、体験的ではないので、その旨付記しておく。


2000年1月16日

贈与

世界の経済を平均化、あるいは分業化していくために、「贈与」という概念が新しく登場している。

富める国は、貧しい国にお金なり、物なりを援助の形で贈与する。お金を貸しても戻らなかったと言うメキシコやブラジルのような例から、贈与も積極的にとらえようという動きである。貧しい国から何もかも巻き上げてしまうための贈与ではなく、国々の自立を促すものだ。

スケールを小さくして言えば、ワイロも贈与の一種である。

バリの公務員の給料は低い。法律上、相続税や贈与税はないから、富める者はいつまでも富める者で、貧しい者が裸一貫からビジネスを興していくことは難しい。

観光業に参入してもうけようという人たちには、まだしも成金になっていく可能性があるかも知れないが、それ以外には、利息の高さから言っても易しいものではない。日本の公務員は恵まれているが、それでもワイロが起きるのだから、バリでは、日常茶飯事となっている。

多くの税を払う代わりにワイロ。許可をとるためにワイロ。商品を納めるのにワイロ。

これらの小さな贈与は当然経済に組み込まれていて、公務員たちの足りない給料を補っている。不正と言えば不正なのだが、仕方がないといえば仕方がない社会と経済のしくみである。

タクシーに高い料金をボラれる。買物の交渉で高く買ってしまう。それはお金を持っていそうな者にするので、我々日本人は毎日贈与している。

経済社会が発展していくと倫理観も変化し、ワイロはいけないことになるかも知れないが、世界規模からこの問題を考えるとサービス産業が発展してしまって後戻りできない。

国は、贈与を行って、農、林、水産物など、それぞれ分業になりつつある国々から分けてもらい共に仲良くやっていくしか、今見出せる解決策がなさそうである。

小さなスケールの点では、贈与は禁止の方向に行きそうであるが、大きなスケールでは、贈与が責務のようになってきている。


2000年1月17日

LIZA HANIM

のびやかな声で、テレビから聞こえてくる歌は、スンダ(インドネシアのダンス音楽)のような気もするし、西洋の雰囲気もする。またどこか日本の歌謡曲~ポップスの雰囲気もするが、とにかく歌がうまい。声が限りなくでるようで、曲線を描くようにのびる歌声は天性のものだろう。テレビ画面から急いで歌手の名前を写し取った。LIZA HANIM(リザ・ハニム)という。

翌日、スタッフに聞くと、みんな知っていた。マレーシアの歌手だという。今、バリでも人気なのだそうだ。

もう一人いる。SITI NURHALZA(シティ・ヌラールザ)。LIZAよりももっとポップスぽくなる。この歌手もまだまだうまくなるだろう。

ポルトガルの大衆歌謡がアマリア・ロドリゲスによって芸術の域にまで達した。

西アフリカのモルナはシザリア・エポナによって喝采を浴びるようになった。

スンダ系の音楽(今のところなんと読んでいいかわからないが、たぶんジャンル名がでてくるだろう)にも、世界に通用していく人が現れるのだろう。

「これは良い」と思うときには、その歌や歌手は、もう時間の問題で昇りつめる寸前のところだ。シザリアを知ったのは、リスボンでアルファーマの店だったが、1年後、彼女はマイクロソフトのビル・ゲイツやクリントン大統領たちに招待され、歌を披露している。

まもなく、日本でも発売され、CDの種類の多い都会の店には、必ず3~4枚程のアルバムが店頭に並んでいた。

きっと、LIZAは世界的な歌手になっていくと思う。

美空ひばりのうまさとホイットニーのうまさをイスラムで乗けてしまったようなうまさである。


2000年1月18日

悪霊

例えば、アクエリアスホテルの場合、レギャン通りに面してホテルがあるにもかかわらず、通りからホテル内が見えないようにしている。わざと木や障害物を作り、見えないようにするのだ。これがあるために、ホテルなのか何なのかわからない。

クタ・パラディソもやはり通り沿いにフェンスがあって、車の出入り口が、そのフェンスの両横にあり、ホテルの玄関はちょうどフェンスの裏側になる。通りからは、玄関は見えない。

アクエリアスのオーナーに、あの植物や階段(フェンスになっている)をとってしまったら、ホテルとよくわかるのでないか、と言ったところ、笑いながら、「ノー、ノー」と言う。悪霊が入ってくるのを、その障害物が防ぐのだと言う。

NHKのバリ特集で、ウブドの宮殿に入るところがあったが、門扉を開くと壁のような障害物があり、そこにランダの石彫があった。奥に進み、また扉をあけるとランダがいた。

これは、単なる宮殿だけでなく、住居としての建物の場合、風水的な発想が信じられているのである。アクエリアスのオーナーは、ホテルの敷地内に住んでいるからそうなるのだろう。

たとえ、オーナーは住んでいなくても、大切な命を一時にせよ預かるのだから、ホテルも一様に同じである。僕らの方から見れば、何と非効率な、と思ってしまうが、彼らにしても本当はよくわからなく、そう言われているから、という説明になるのだろうが、これを科学的に証明してしまう日が来るかも知れないと思っているので(例えば、磁場の関係とか)彼らが正しいのかもしれないから、笑って、そうか、そうかとうなづくだけである。

今日もまた推測に過ぎないが、バリならバリという島で、昔から信じられて行われているものは多く、その土地の”地球上の位置”そこから生ずる地理的風土と関係しているかもしれない。

いつでも西方浄土に行けるように、西側をあけておくとか、北枕は死んだ時にするものだとか、日本にもいろいろな信じ方、言われ方があるが、それは宇宙の中の地球の自転や公転、対極のことなどから、なんとなくそこに生きる人々は知ってきたのかも知れない。

本当の理由こそわからないが、なんとなく感じ、知ってきた目に見えない力を、例えば一つの例として「悪霊」などと呼んだ。

誰が気づき、誰が言い始めたのか、人間の生活の積み重ねとして、現在に至っている。

不思議としか言い様がない。本当の理由はわからないのに信じつづけるということがである。馬鹿にしているのではない。本当に不思議な共同幻想である。


2000年1月19日

子宮の村

バリ島の隣りにある島、ロンボク島が不穏だ。キリスト教の教会が、次々と焼き打ちされ、昨日は中国人たちの店が略奪され商品などが焼かれた。

先だってバリ島では、扇動者が入ってきて暴動が起こるよう仕掛ける恐れがあることから、インフルエンザのように伝染してゆく、政治的、宗教的対立を食い止めようとあの手この手で守ろうとしている。

最近ロンボク島が人気上昇中だったところで、この騒ぎだ。

バリの住民も今回は、東ティモールやアチェなどとは違う動揺の仕方をしている。誰に聞いても心配度が高まっている。

最近ボーイフレンドができて、ウキウキしていたブックツリーのスタッフ、ロティはショックだった。彼が軍人だったため、ロンボクへ派遣されたのだ。毎日電話でやりとりをしているようだが、ロンボクの暴動は激化しつつあることから、心配でしようがない。

「インドネシアジン、セイフノホウリツ シンジテイナイ。ビレッジノホウリツ、キビシイ。ダケド ビレッジのホウリツ ノ ホウ シンヨウ スル。シガラジャ ニ カエリタイ、 ダケド イマハ クタ デ コトバ ベンキョウ デキル。」とホテルの従業員のマデは言う。村の中で、村の人々の間でワイワイガヤガヤと生きてゆくことの楽しさと平和に吸いよせられている。村が温もりのある第二の子宮のように思っているようなのだ。


2000年1月20日

核家族化

家を出て、核家族として暮らすこと。これがほとんどの若い夫婦の希望である。お金さえ貯まれば、彼らはまずそれをしたい。家を借りる場合もあれば、立てる場合もある。

日本のように急速な経済成長をすれば、彼らの希望も現実のものとなるのだが、この2年、バリではつまづいている。物価は4倍になり、失業率が高まり、青息吐息の状態である。

若い二十代、三十代の夫婦は、子供たちを大学に行かせたい思っている。

だから、ウブドやギャニャールからでも給料面で待遇がよかったら、一時間かかってでも、レギャンまで働きにくる。共働きの女性として同様である。交通手段については知恵を出し合い、例えば、僕らのスタッフのダユという女性の場合なら、ギャニャールからサヌールのプトゥの家まで三十分かかってバイクできて、プトゥに車で会社まで二~三十分、という風に。帰りは、プトゥの仕事が遅くなったとしても待っていなければならない。それでもである。お金を貯めて、親の家を出たいのである。

アメリカや日本のように、ローンをしてでも払えていける裏づけとなる経済成長があれば、なんとかなっていくのだが。宗教的な事情、村の掟などから、効率の良い経済活動はやりにくいから、彼らの希望は容易には達成されないだろう。希望があってもしかたなしと、耐えてゆかなければならない。

親の家を出たいのは、自分たちに割り当てられる敷地内のスペースが少なく限られているからだ。

長男坊は、出たい希望があっても親の老後の面倒を見る、という習慣があるから、余計難しい。

バリは、停滞の気分が漂っている。外国からの投資を待つ気分も強い。できる限り、外国の資本でではなくて、自国資本で産業を創出し、雇用を増やしたいところだが、うまくやれないところがある。

バリ人の多くのオーナーは、仕事に精を出さず、セレモニーなどに忙しい。働く人と共に豊かになっていこうという気分も見受けられない。

高度経済成長は、夢のまた夢のように思える。


2000年3月2日

ああ、マッサージ

「オカ、今度の店のスタッフは集まったかい?」

と、5日から始まる面接を心配して、バリに着くなり僕は、バリのマネージャーであるオカ(名前はオカでもバリ人)に聞くと

「ノット、イエット。殆どがジャワからの女性で、バリ人は2~3人。全部で18人」と答えた。

不思議な答えだったので、

「どうしてジャワの人が多いんだい?」と聞き返すと

「マッサージの仕事には、バリ人は来ない。」と言う。

「どうしてだい?」

「イメージ!マッサージというと売春をイメージするんだ」

「ええっ!なぜ、そんな大事なことを僕は今日知るんだ。募集広告には、なんてかいたんだい?」

「エステっていう言葉は、バリ人はわからないし、バリニーズマッサージという言葉を使ったから、たぶんバリ人は敬遠したのだと思う」

僕は、オカの気の利かなさを嘆き、あぁ、こういうところにもイメージの違いがあるのかと、またひとつバリを知ることになった。

5つ星のホテルでは、部屋に来てくれるマッサージサービスがある。日本にもある。僕もマッサージを頼んだことがある。

「それじゃぁ、オカ、僕はバロンコテッジ(1泊3千円くらいの安いホテル)で、マッサージを頼んだことがあるけど、マッサージにきた女性はセックスにも応じるのかい?とてもそんな風に見えなかったけど。」

「ケース バイ ケースだけど、前もって、ホテルにそう言えば、応じると思うけど…」

会社の他のスタッフもオカに同意する。みんな、マッサージはよろしくない職業と考えているようだ。

観光客相手のマッサージ兼セックスプロバイダーが元締めでいるらしい。

僕は、エステの店を立ち上げたら、小さなホテルにもマッサージの要望があれば派遣するつもりだったので、この会話でこの計画にブレーキをかけてしまった。

そう言えば、サヌールのバリ・ハイアットに泊まった時、海辺で女性が近づいてきて、マッサージをしないか、と誘われたことがあり、マッサージをしてもらいながら、セックスはどうか、と誘われたことがあるのを思い出した。僕は、あれは特別なことだと思っていた。また、昨年、メリア・バリに泊まった時、マッサージを頼んだら、二人の女性がやってきて、部屋に僕の妻がいることを確めてから一人が帰ってしまったことがある。

もしかしたら、防衛のためかも知れない。マッサージ=セックスと勘違いしている男もいるかも知れないし、マッサージ中、男がその女性にしつこく交渉を始めるかも知れない。

ここ三、四年でエステの店が雨後の竹の子のように増えた。しかし、エステという短縮形の日本語は、バリに定着していない。さて、どうやって良い人材を集めるか。思わぬ障壁である。

広告の出しなおし。しかし、スタッフのトレーニング開始は八日である。あと一週間。うまくいくのやら。


2000年3月3日

そんなこと、どうでもいいよ

バリ島は、「神々の島」とか「劇場国家」と呼ばれたりする。リゾート地としての雰囲気は世界最高の部類に入るかも知れない。

しかしながら、経済生活的な観点から眺めると、その段階は日本の昭和三十年代くらいではないかと思うことが多い。

馬鹿にしていっているのではない。

例えば、日本でこれから何かビジネスを起こそうとか店を持とうと思った場合、既存のものが多すぎて入り込む余地がないように思える。バリ島では、経済的スケールが小さすぎるのか、まだまだ日本にあって、バリ島にはないもの、付加価値やサービス、情報に対する意識が人々には薄い。

例えばジャムーが良い例だ。ジャムーはジャムーの専門店やデパート、スーパーにも売っている。しかし、我々外国人はどれを買えばよいのかわからない。そこに情報がオンされていないのである。2日か3日もあれば、なんとかして日本人を探し、協力をお願いすれば、簡単な使用法くらいは作れるはずだ。お金を欲しいと言いながらも、そういう価値のつけ方をしらない。

極端に言えば「そんなことなんか、どうでもいいよ」とバリの文化そのものが言っているように思える時がある。つまり、バリ・ヒンズー教に基づく村落共同体が、そんなことを考える時間など与えられないよというくらい行事で忙しいのと、働く人の役割が1つ1つ細かく分断されていて、1つの与えられたことを忠実にすることが和を乱さない、共同体のあり方だという風に習慣づいているのではないかと思えるのだ。

バリ島に観光という産業が入ってきてから、その産業だけはインターナショナル価格でやれるものだから、そこはたくましく知恵を使っていかに高くつけようかと考える。しかし、値段交渉のからくりはすぐにばれてしまい、高度に情報のようなものを付加してたらし込むというような技術を持っていないのである。僕のような外国人につけ入られるスキがいっぱいあるのだ。

しかし、バリ島もいつの日にかスキマがないほど物や情報やサービスで埋められる日が来るのだろう。昨年までのインドネシア危機がやや小休止し、又一歩ずつ階段を上り始めたような感じがある。ニ次産業、三次産業へとむかうのは、村落共同体との確執なくしてあり得ない。僕らの会社の30代の発言にちょっとだけ確執の時代が来ることを感じることがある。


2000年3月4日

おそらく必要となる産業

昨日、空港の免税店から、「本木さんの選んだものなんでも結構ですから、本木さんのゴンドラ(コーナー)を作りたい」という申し出があった。と言ってはなんですが、他の商品ラインアップの点検とPOPなどの協力をしてもらえないだろうかという裏もある。僕は、サービス精神はあるほうだから早速あれこれと思いをめぐらせ、今日は早速、空港に出かけ僕のコーナーのサイズと他の商品のチェックをした。

タバコを点検すると「峰」がおいてあるし、昔のセブンスターが置いてある。僕だったら、タールとニコチン1mgとか3mgに分類して置くかなとか、コーヒーは、日本人がドリップやコーヒーメーカーで使えるミディアムファインを並べるがなぁ、といろいろ思う。

空港に二つの大きな免税店をもつ社長は女性である。一年前、マグネットを制作した頃に、委託販売の交渉に出かけた時に知り合った。今回会ったのは2度目である。

マグネットがよく売れたということがまずある。それから対葉豆を作り、ローションを作り、ドアストッパーやマスコットなどを作ってきた。おそらく、彼女に決定的に僕の存在を思わしめたのは、「ジャムー」だと思う。ジャムーに外国語から光をあてた。自慢ではないが、そういうことだと思う。

日本のハーブ産業は一千億円市場になろうとしている。インドネシアは、ハーブの宝庫である。

彼女は驚いたに違いない。商品をただ置いておくだけではダメであると思ったに違いない。ひたすらわかりやすいものを置こうとする気持ちはわかるが1行か2行の説明でわかりやすくなるものもあるのだ。昨日もここで書いたように、バリ島はこの産業がまだ弱い。弱いから、僕の存在でもありがたがってくれる。

この手のプロがバリ島に乗り込んできたら、ちょっとかなわないな、と思うがあれこれ考えられるのは、楽しいの一言に尽きる。


2000年3月5日

突然の乗り込み

H.P掲示板で「バリニーズマッサージを習いたいのですが、学校とか教えてくれるところを知りませんか」というメッセージが東京の女性からあった。ちょうど、エステの店を計画中、実行中だったのでよろしかったら研修に参加したらどうですか、という返事をしたところから、話が進み、ついに実現の運びとなり、その女性と昨日初めて顔を合わせることになった。

そして、翌日、つまり今日、僕の会社のスタッフにも紹介しようと彼女を事務所に連れて行き、皆に紹介していたところ、入国管理局の男性二人が乗り込んできた。乗り込んできたという言葉がぴったりである。

「店員は、あなたの事を(僕にはおまえのことを、と聞こえるが)コンサルタントだと言っているが、どうか。」

「そのとうりコンサルタントだ。しかし、P.T.Bali Book Treeのプレジデントディレクターでもある。あそこの前の店はヤーマという会社で、その会社に対してはコンサルタントだ。」

「あなたは、インドネシア滞在許可証では、プレジデントだ。コンサルタントを名乗ってはいけない。」

「どうしてだ。」

「あなたは、プレジデントでトップクラスの人で、コンサルタントはそれより下の人だ。身分は偽ってはいけない。」

そんなやりとりが10分ほど続き、相手は興奮して、今すぐにでもビザを取り上げ、収監することもできるのだぞ、と脅し文句も並べる。いんぎんさのひとかけらもない。

ついには、着いたばかりのその女性にまで、パスポートを見せろ、どうしてミーティングの席にいるのだ。このような席にいてはいけない。と言い始めた。

結局、僕は法を犯しておらず、合法的にやっているためか

「今回は許してやる(何を話すのかわからない)、次に警告されたらキックアウトだ。」という。そしていそいそ帰っていった。

なんだあれは一体?とスタッフと話をしていた。お金が欲しいのか、なんでコンサルタントを使ってはダメなのか、など、10分ほどが過ぎるとまたやってきて

「どうしてこの女性が(僕には「女」と言っているように聞こえる)まだここに座っているんだ」と言う。

「単なる話をしているだけなのに、なんだ」と僕も怒り始める。

「ここはミーティングの席だろ。ツーリストはいっぱいお金を使い、歩き、見物する。それがツーリストだ。」とか説教をする。僕が笑うと怒ってくるし、「すまん、すまん」と言うと説教をまた始める。それでその女性を事務所から出すことにし、なんとかその場をおさめたのである。

その後、僕はウブドに行く用事があり、1時間のタクシーの中で考えてみた。そうしたらだんだんと腹が立ってきてなんだあれは、と怒りに充ちてきたのだった。

入管の男は、六日の十時から新しいエステの店のための面接をすることも知っていて、また来るという。

そのときは、身分証明証を再度確認し、それをメモし、ついで入国管理局と日本領事館に行ってみようと思った。

明日からやってくるエステのオーナーたちも活動がしにくくなる。ビザの許可がおり、発行されるまでには、どうしても会社の設立手続きが必要であり、その会社がビザ取得の為の招聘書を発行しなければならない。

だから、ビザを実際に手にするまではどうしても観光ビザで一度か二度来なくてはならない。

彼の話では、その女性に言ったようにミーテイングの席についてもいけないということである。

それは、明日来る人たちも同じだろう。

そんな矛盾があるものか。

インドネシアに投資してくれ、投資してくれ、といいながら、あるいは、日本に援助してくれ、援助してくれと、いいながらやることは幻滅させることである。

しかし、ここでそう思わないで裏構造があるのかと考えてみる。その辺の感覚がもうひとつわからない。マジで真剣な取締りで、あんな態度なのか、裏の取引の為の態度なのかわからないのだ。バリのスタッフは「お金だ」という。

3日付けの新聞で公務員の給料が30%アップされることが報じられた。その代わり利権もなくしていく方向なのだ。

それにしても、入管や警察など、どうしてこの人達はヒゲをはやし、いかつい顔をしているのだろうと思う。ちょうどミュージシャンはすぐそれとわかるファッションスタイルがあるみたい(僕は笑ってしまうのだが)なんとなく仲間どうし伝染しあっているのだろうか。

恐ろしそうに見えるのは、こちらの妄想なのだろうか。

やはりバリに何度も来て仕事をしていると、それはもういろんな初めての体験をするものだ。と自分自身あきれている。


2000年3月6日

バリのホテル

バリには、ひっそりとゆったりと、一日中本を読んだり音楽を聴いたり水に入ったり、時には散策をしてという風に過ごせるホテルが幾つもある。建築物も調度品やエクステリア、インテリアにも凝っていて、美意識みたいなものもくすぐられ、日常の生活空間とは違う空間を提供してくれる。ホテルスタッフの暖かい心遣いがあってこそだが、このようなホテルは、すべてにサービスがいき渡っている。

まるで芸術の中に身を染めてしまうようなアマヌサ。アマヌサの静かなビーチ。未来の誰かと必ずや一緒に泊まってみたいと思っている人には、おすすめのホテルである。

アマヌサとは値段も格式も全然違うホテルだが、インドネシアの経済危機で建築が中断し、ようやくのこと本格的にオープンにこぎつけたバリ・アガというホテルがアマヌサの近くにある。ここも隠れ家的でこじんまりしたホテルだ。

アマヌサやアマンキラ、アマンダリはまだ行かずにとっておこうという人には、このホテルやウブドのイバなどが良いのかも知れない。ブティックホテルと呼ばれていて、センスだけで勝負しているようなホテルだ。

バリにはピンからキリまでホテルがいっぱいある。僕は仕事で来る場合は、アクエリアスホテルが場所的に便利なので利用しているが、このホテルは一室二千円程である。アクエリアスホテルはレギャンストリートにレストランが面しているのでまだ二千円とれるのかも知れない。ちょっとレギャン通りから脇道に三十メートルも入ると、一室五百円位になってしまう。部屋をのぞかせてもらうとりっぱな部屋である。

ロスメン(民宿のようなところ)でもなく広く部屋数も五十はある。

こういうホテルは日本の雑誌では紹介されていないが、それでも欧米系の客、日本人も泊まっている。

長逗留をして、サーフィンに熱中するとかダイビングをマスターしようとか、という人には良いのかも知れない。

バリはエアコンがなくても、よっぽど暑がりのひとでない限り大丈夫であり、その点、健康な若い人なら相当気楽に楽しめるだろう。

アマヌサなどは、どこかシャンというか気品を漂わせなくては、みたいなところがあるから、それはもっと大人になってからでいいとも言える。


2000年3月8日

今はそれがない

バリ島に来て一週間が過ぎた。暑い日が続いている。きまって夜中の十二時頃になるとスコールがやってきて、半時ほどで通りすぎてしまう。

昨年の緊張感は緩み、バリに観光客が戻ってきた、という感がある。NHKなど民放を含めて、結構バリをテーマとした番組も十二月、一月とあったから、その効果もあるのかもしれない。

僕の方はと言えば、忙しい日が続いている。エステサロンのスタッフもほぼ予定通り集まり、面接も終え、研修に入った。昨日は、タバナンまで知り合いの見舞いに行き、夜は久しぶりにオベロイで「ラーマヤナ」というガムランと踊りを見ながら夕食を楽しんだ。

今日は、銀行、公証人事務所とまわった後、警察の人二人がわざわざ出向いてくれ、先日の入国管理局の態度を詳しく聞いてくれ、何かあったらすぐ連絡してくれ、という親切な対応をしてくれた。入国管理局の者は、お金にならないことがわかったから二度と来ないだろうと彼らは言う。

日本領事館には、まだ行く暇がない。

バリにリゾートに来ていた時は日を惜しむように一日一日が貴重だった。早くも日常の生活に戻らなければならないことに、何かしら気持ちが騒いだ。

今はそれがない。バリが日常の一部となってしまった。このことを僕の好きなリスボンに置き換えてみる。リスボンに五日間の旅行をして、のんびりと日常を離れて、アルファーマを歩いたり、ファドを聞いたりして過ごしたとする。僕は早くも二日か三日で帰らなければならないことを残念に思い、まだここでの日々がせめてあと何日か続いたらよいと思うのだろうか。

たぶん思わないと思う。

僕の中で何が変わったのだろう。外国はいつでも来れるという存在になったからだろうか?

自分の気持ちの処理の仕方に激しさや勢いがなくなってきたからなのだろうか。

今がわりあいと、気持ちのよい仕事がやれているためだろうか。

この二年毎日が冒険旅行のようである。冒険旅行が実は僕の心踊る望みではなかったか。橋のない川を渡り、野営をし、毒蛇の襲撃をかわし、暗いジャングルに迷い込み、そして脱出し……という展開は自分自身が望んできたことではなかったか。


2000年3月9日

家族であるということ

タバナンにクラビタン元宮殿がある。王制が廃止されてから六十年が経とうとしているが、そこに双子の兄弟がいて、この宮殿を引き継いでいる。もう、七十歳である。弟の方のMr.Giriの娘は、プトゥリという名であり、それは女性という意味である。プトゥリは、ホテルオベロイでエグゼクティブゲストリレーションズの担当として働いていた。そこで彼女と知り合った。以後、付き合いが始まり、創刊号の為の雑誌で、バリを特集することに決め、バリ島の音楽を発掘する時、彼女のお父さんに大変お世話になった。

鳥に笛をつけて空で音楽を奏でるバリの人々の楽しみ方、神の楽器といわれるガンバンの演奏、バリの口琴、バリの民衆歌などを取材し、録音した。観光では、ほとんど見れないが、芸術の域にある演奏家たちの代々引き継がれた音楽だった。よそ見をして、観光客の様子をうかがいながらやっているようなものではない。自分が奏でる音のハーモニーに全身全霊をかけている圧倒感があった。それらすべてを彼がアレンジしてくれたのだった。

その時の縁で、バリに来る時、機会を見つけては、彼と話をした。

その彼が、動脈硬化から脳梗塞を起こし倒れた、という知らせがプトゥリからあった。

今日、彼に会うためにタバナンに出かけた。彼は、元気だった。記憶もしっかりし、英語も話し、前向きに僕らが持参した健康食品に積極的に対応してくれた。

問題はここなのである。一ヶ月はうっくつした状態でいたらしいが、今は立ち直りつつある。この人は立ち直っていくであろうと、彼の表情をみていればわかるものだ。僕らの言葉にも積極的に耳を傾ける。ノートをとろうとする。病気の加減にもよるのだろうが、僕の父も全く同じになり現在病院をいったり来たりしている。病院を行ったり来たりするのは、父そのものの性格のせいである。

性格とは、「物の考え方」を言う。これが性格の定義だ。

父は、何としてもこの困難に打ち勝っていこうという意志が薄弱である。母が言うことに(言い方にも問題があるが)怒り、病院が用意する食事を拒否し、母に甘え、自分の好きなものをいまだに食べようとする。あまりに面倒をかけるものだから、母が無視して一日病院に行かないとあわてて病院を抜け出て、タクシーを呼び、家に探しに来る。

自分の父の事であるが、これではダメだろうと思う。

一人で立ってゆく意志がない。たとえ身体が病気でも心が健康であればいいではないか、という気持ちがない。つまり死などというものは決して自分では経験できないものなのだから、生きている間、心を健康にもっていこうという物の考え方ができないのである。

「俺はな、海で死ねたら一番ええんじゃ」と父はよく言っていた。

それは、海で働いていた男だったから、海にとけこんで死にたいという願望だったのだろうが成就できず、ベッドの上で甘えっぱなしでいるのだ。

突き放したように言えば、死に方は生き方の問題である。

死というものはあり得ない。

死と言うものを存在すると考えるならよく死ぬということはよく生きるという意味である。

そういう話をプトゥリのお父さんとした。しかし、実際の父とはこのような話をしていない。家族の声というのは一番身近にもかかわらず届かないものだし、しにくいものだ。



2000年3月10日

あぁ、こういう人もいるんだ

 「本木さんですか」と店に顔を出していたら、たずねられた。若い男性である。ホームページをいつも見ていて、大変貴重で役立つ情報が載っているとおほめをいただいた。サーフィンをしにやってきたのだそうだ。鼻の皮もむけて真っ黒に日焼けしている。

「バリの滞在記でも書いてくださいよ」とお願いした。

掲示板に投稿してくれるとおもしろい。いろんな人の旅行記を別のコーナーにして掲載できる。すると、もっと情報が集まる。

また別のある日、おもしろいというか、あぁこういう人もいるんだと思わせる46才の(46才には見えないほど若い)男性が店にやって来た。ガラスに絵を描いたものを売り込みしに来たのである。おもしろそうな人だったので、後日、また会いましょうということになって、4,5日経ってから電話がきたのでいっしょに食事をすることになった。

栄養士になって病院に勤め、それが嫌になって武蔵野美術大学に入り、それも途中でやめ、オーストラリアでレストランを開いたのが31才の時だそうだ。大繁盛したのだが、ビザ管理のミスで腕の良い相棒が強制送還になり、そこから苦労が始まった。今は、赤字で店を閉じたらしい。バリ島には、絵画の店を3店もっていたのだそうだ。それも家主とのトラブルでダメになったらしい。

「今、死んでも悔いはありませんよ」と彼はぼそぼそと言う。

「悔いはないなんて嘘でしょ。」と僕は言う。

「いつも身体のどこかに火種のようなものがあって、いつもそれがくすぶっているんじゃありませんか」と言ってしまう。悔いはないなんて、言い方を知らないだけだと思う。

「今まで、やりたいと思うことを一生懸命やってましたしね。人の見れないところもいっぱい見たし。そういうことからすると、毎日生き切ってきた、という感じですから。もちろん、まだまだやれると思うし、夢もいっぱいありますよ。」

帰るところはないと言う。ヌサドゥアに小さな家を借りて、そこで絵を描き何とか売り込もうとしている。出直ししようとしている。シンガポールに行くかもしれないと言う。

4時間もいろいろ話をして別れ際、ガラスの絵の売り込みをされた。ヤーマのような店では売れない。現に10個ほど置いているが1個も売れていない。幾つかのモチーフ上のアドバイスをして別れた。

こんなふうにして人と出逢う。縁があればまた会う。なんでもそうだが、人、物、事は向こう側からやってくる。そしていつも選択をせまられる。選択をして人生が変わる。そしてまた選択をして人生が変わる。二度と同じことはない。むこう側からやってくるものには、できるだけオープンスタンスでいようと思う。


2000年3月11日

研修始まる

エステで働いてくれるスタッフがほぼ集まり、研修がスタートした。九日から日本語と英語の研修もスタートした。

一ヶ月で必要な日本語と英語を教え込むのに、バリに来る前にテキストを作成した。エステの経験がないので、想像だけで作るのである。

また必要な言葉だけを覚える、というのは無理がある。契機がないと憶えれるものではない。

そこで、僕が言った言葉を身振りする方法で30分ぐらい行う。例えば、

「手を伸ばしてください。」と僕が言うと、みんなは始めは何て言っているのかわからないのだが、何度も言い最後には手を伸ばす動作を示すと、「Te o nobashite kudasai」は「手を伸ばせと言っているんだ」と理解する。「右手を上げてください。」「左手を上げてください。」「両手をおろしてください。」「おかけください。」などなど、一日に十ほどの訓練をする。三十日すれば三百の聞き取りができるようになるはずである。

次のコーナーでは役割練習を行う。電話や受付、応対などの練習をする。

つづいて「ひらがな」の読み方と書き方を指導し、関連単語をおぼえさせるのである。

インドネシア語は一切使わず、日本語と英語で同時に行う。

スタッフは二十代と三十代の女性ばかり。バリ出身者、ジャワ出身者。熱心で外国語をキャッチする感覚は日本人は及ばないように思う。言葉は耳から、ということをよく知っているのだと思う。2時間の集中レッスンは大変だろうが、みんなよく頑張っている。

ここまでスタッフを育成してゆくエステの店はないと思うから、たぶん彼女たちの村ではきっと良さそうな会社だと噂しているに違いない。

バリでは噂は一日で広まるから、この波及方法を知っておくことが後々のために大切だ。

このホームページを見て、自分もエステ・マッサージを習いたいという申し出があったMさんがたいへんな助っ人で、僕の時間がすっかり空くことになり、今日はザ・レギャンというホテルとオベロイに僕らが作ったバリの花から作った香水を売り込みに言った。

オベロイには何度か泊まり、好きなホテルのひとつだがザ・レギャンはオベロイよりも広々した感じはないが、ずっと現代的なホテルである。フロントからプールと海の境界がなく、波の向こうにさざめき立っている。波の音が遠くでするのではない。近くでするのだ。そこはオベロイと同じである。71室全部スウィートということだ。

「やっぱりバリにはリゾートで来なくては・・・」などと思う。


2000年3月12日

今日はゆっくり

今日は、バリ島は朝から小雨が降り、昼になっても止みそうにもない気配だ。レギャン通り沿いにあるホテルのレストランで朝食をとっていると通りの雨の風景がおもしろい。

新聞売りの少年達は帽子だけをかぶり、雨の中を客を見つけるのに忙しい。傘をさして歩いているのは観光客だけだ。

ちょうど日本の梅雨のようだ。もしかしたら、もうじき雨季が明けるのかもしれない。

久しぶりに今日は日曜日なのでゆっくりしている。

ちょっと頭に思い浮かび、興味があるとホテルのオーナーやスタッフに聞く。そして、またあれこれと思い浮かべる。

例えば、バリの三大神ブラーマ(誕生の神)、ウィヌス(創造の神)、シワ(破壊の神)、この三神が調和して世界は守られるという。その象徴として何かがあるのだろうか、と思うと聞きにいく。すると、どの家にも三神の調和を表すオムカラというシンボルマークがあるのだ。キリスト教の十字架みたいなものだろうか。

例えば、バリの女性は、髪を洗うとき、どうするのだろうかと思う。すると、まず、ココナッツオイルで10分ほど髪と頭皮をマッサージし、次にシャンプーをし、洗い流して終わりだそうだ。ココナッツオイルの代わりに、ハイビスカスの葉をつぶして液をつくり、それを髪にふりかけマッサージするのだそうだ。

こういう一日は楽しい。人の声、鳥の声、雨音、ムッとする草いきれの匂い、目に入る涼しげな花。

ぜいたくな時間と空間である。


2000年3月14日

鳥毛 清喜氏のこと

「誰でも足を踏み入れ、昇ってみたくなる階段」をどのように作れるか。これがバリ島のレギャン通りでレストランを成功させる為の最大で最初の課題であった。僕の頭の中にいつもこのことが課題としてちらついた。

鳥毛清喜氏は、バリに移り住んで五年になる。人里離れた海のそばに工房を持ち、独自のガラス工芸作品を創作している。彼は、世界ではじめてと自負するガラスを作ってはコツコツとストックし、いずれ階段にしようと思っていた。光の加減でなんともいえない素材に変わるはずである。素材の中に彼の発想がこめられている。鳥毛はこのガラス工芸の世界では有名だ。賞も数々ととった。

ビンを作る日本人が、ボナ村から海の方に入ったところにいるという噂を聞き、ビン作りの依頼に出かけた。ビン作りはむろん断られたが、それが出会いだった。

思っていることが一致した。

彼にレストランの設計、デザインをすべて任せることにした。自分の発想力では限界だった。しかしながら、ぼくには、言葉があったと思うので、つまり「誰でも足を踏み入れ、昇ってみたくなる階段」という言葉があったので、めぐり逢ったのである。

楽しみにして欲しいと思う。

いつも海がそばにあり、潮騒が聞こえる。30年の契約で家を借りたという。もしかしたら、海が様々な色に変化するように、彼のガラスも海のようかも知れないと勝手に想像している。

外国という場所は、人との出会いが故郷にいるより多いところだ。心が開かれるからなのかもしれない。


2000年3月15日

保存の方法を知らない

バリの女性たちは、髪の手入れをする時、まず自家製のココナッツオイルで十分から二十分かけて髪と頭皮をマッサージする。時に、ココナッツオイルではなく、ハイビスカスの一種でファイアー・ハイビスカスの葉をこすりつぶし液をとり、そのヌルヌルした液でマッサージする。ココナッツオイルも、ハイビスカスも髪をつやつやしなめらかにするのだそうだ。それからシャンプーをして、洗い流す。

僕は不思議に思う。どうして、ハイビスカスの葉をいちいちこすりつけて液をとりだすのかと。たいへん面倒ではないかと思う。

考えてみるとバリには保存するという考えがほとんどない。冬を越すために秋のうちに保存加工したり、日干しにして美味しく魚や貝を食べるという日本人から見ると、手に届くところに食べ物がある豊かさからなのかうらやましいというよりももったいない気がする。

気候風土的に、保存が向かず、カビなども湿気のために生えやすいのだろうが。なかには保存方法さえきちんと考えれば、手間が省けたり、より価値があがったりするものがあるかも知れなしい。

例えば、ワキガの人が飲む植物の葉がある。これを飲むとたしかにワキガが消える。青汁みたいなものを飲まなくてもお茶にすればいいのにと思う。ジャワ人はイギリス人の知恵でお茶を作ったけれど、バリにはジャワ茶以外のお茶は作っていない。しかしながら、スパイスはたくさんある。インドネシアはハーブの宝庫と言われているのに、ハーブティーへの発展のさせ方ができなかったのだ。

保存したものは新鮮でない。オレ達はいつも新鮮なものを食べていると自慢する。

インドネシア全体に「保存」という意識と技術を導入すれば、きっと珍しく、おもしろいものが出るに違いない。

もう研究し尽くされているのだろうか。



2000年3月17日

劇場国家

バリは「劇場国家」とも呼ばれている。このことを単に芸能が多いとかいう意味でとらえるのではなく、もっと大胆に考えてみる。

通りにいかがわしそうな男がいることも、店の前ではなんともだるそうに座っている女性たちも、地元の人々の店の売り子たち、ホテルのスタッフたち、すべてがこの劇場への出演者である。カタコトの日本語も、もちろん出演者のセリフである。

こういう人たちをいちいち批判する人がいるが、それはその人の器量というか物の見方が狭いだけの話だ。比較でしか物が言えない人がいるが、もっと高いところから物を見る視線がなければならない。

浜辺に立って水平に海を見ても、見える海の風景はひとつである。それを高いところから見れば、どこが浅くなっていて、この辺が深くなっているということも見え始めるのである。

バリの外国人は、このバリの出演者たちが演じる中で、ようやく仕事ができる。

僕のような日本人は、劇場の舞台の裏で、シコシコあれこれお手伝いする。そういう感覚である。



2000年4月18日

再び、鳥毛 清喜のこと

バリ島は、雨季の頃と違って雨の匂いが遠ざかり、日中は澄んだ明るさとなって、空気は湿っぽさから乾いたようになりつつある。

今は、観光客は少ない頃で、名古屋からの直行便も七十%ほどの乗客である。

前回の「僕のバリ日記」で、バリに住むガラス工芸家、鳥毛清喜のことを少し紹介した。ビン探しの為、雨が降れば洪水となる、電気もないくねくね道をやっとの思いで通り、とうとう海辺のそばの彼の工房を見つけたのは、三月中旬。

「昇ってみたくなる階段」さえできれば、レストランをやろうと思っていた僕は、彼との出会いで、レストランをやることに決めた。明日(十九日)が、諸々の準備の為のスタート時である。この一ヶ月間でデザインもほぼ決まり、今日、彼からのデザイン説明を聞いたのである。

このレストランがうまくいくかどうからからない。ただ、彼と仕事を一緒にしようと思ったのは、彼は、伝統的なバリのスタイルやデザイン的なものにはこだわらず、全く完全に自分のスタイル、デザインで突き貫けてしまう創造力である。どのエステも、どのホテルも、どのレストランもとにかくバリ風なものを取り入れ、追求した挙句、屋根も床も壁も、みんな似たりよったりのものになっている。しかし、彼のデザインはインターナショナルである。

そして、インターナショナル性は、バリという小島のあるものをインターナショナルな美的感覚まで普遍化してしまうところにある。



2000年4月19日

中国系インドネシア人

中国人全部を批判するわけではないが、幾人かのバリで小さな商売をしている中国系インドネシア人たちのマネージメント方式に共通点がある。

一 こまめな秘密主義

 仕入先などは絶対秘密にする。

二 バリ人をバカにしている

  いっしょに仕事をしていくという意識がなく、バリ人を心の底から 「仕事が出来ない人」「安く使える人」と思っているような感じが伝わってくる。

三 家族、親戚など血縁の関係を重んじる

  自分以外なら、親、兄弟姉妹、その妻、または 

夫。バリ人は店の見張り番ぐらいにしてもよい   

と考えていると感じられる。

一+二+三 がインドネシア人に蓄積してゆけば、それらの感情は、何かチャンスがあれば爆発するのは当然だろうと思われる。ジャカルタでの暴動で、中国系インドネシア人が狙われたのは、わかるような気がするのだ。

これら幾つかの中国系の店の店員に失礼ながら給料を聞いてみると、インドネシア労働法で定められた最低賃金十八万ルピア(二千六百円くらい)ということだ。この不満が一番おおきいのだが、承知して仕事している以上文句は言えない、と言ったところだ。

上記の中国系インドネシア人とは違う思いなり、方針なりを持っている中国系インドネシア人に出会ったら、不公平にならないよう、ここで紹介したい。



2000年4月20日

Ida Bagus ~ の無意識

例えば、バリ・ブックツリーのマーケティング・マネージャーは Ida Bagus Oka Suwardanaである。経理担当のマネージャーは Ida Bagus Suparsa である。OkaとSuparusaが探してきた経理のプロは Ida Ayuである。Idaはバリカーストでは、僧侶の階級であり、一番高い位であるとされている。Bagusは男性につけ、Ayuは女性につける。

大きな儀式には、これら僧侶の代表格みたいな人が中心的な役割を果たすが、Idaとつく者が儀式のお手伝いをする。

今日は、エステサロン「エステ・デ・マッサ」の完成及びオープンの日となったのは、バリヒンズー教では日が良いためである。二十日を逃すと次は二十八日となってしまう。当然、エステサロンのコンサルタントを引き受けている我々は、この儀式の手配も行う。そして、当然我々のスタッフのIdaたちは神に捧げる為の鶏を殺すのも、供物を穴に埋めるのも、儀式に付随するすべてのお手伝いをする。これが、今日午後四時の話である。

話を戻して、午前十一時。今日の「シェフ募集」の新聞広告を見て、メインシェフに応募したいと履歴書をもってバリの男性がやって来た。名前を聞くと、Ida Bagus Bawaと言う。するとOkaは咄嗟に安心したのか親近感を表し、気楽に話しはじめた。

ここで疑問が湧いたのである。Idaという階級の者達は、大きな階級としての家族意識のようなものを持っているのではないか。そういえば、貴族階級をのぞき、他の階級の人たちにどうもとっつきが悪く、信用するまで時間がかかり、心の底では、どういう人間かわからないという慎重さを示す時が多い。

僕はそういうことにはお構いなく、「目」だけで人材を選んでいるので、Idaたちは本当はハラハラしているのかも知れない。

「本当のことを言ってほしい。君らはIda以外の人たちと自分たちを区別しているのではないか。今日感じたんだけど、本当の祖父でないのに今日来てくれた僧侶を「お祖父さん」と呼んだり面接に来た男性にはたいへん親近感を持ったようだし。逆にマデとか、別の階級の人に接する時は相当慎重のような気がする。階級によって人を上に見たり、下に見たりすることがあるのかい」と口火を切った。

Okaが答えた。

「 同じIdaでも人によって違うと思う。Idaと名がついていても泥棒する者もいる。酒乱の者もいる。僕の場合、カーストは儀式の時に出てくるだけで、日常生活ではなんの差もなく、人間は平等だと思っている。」

なるほどと思う。だが言葉が意識的すぎる。

「我々の心は意識の世界と無意識の世界に二重になっているんだ。無意識の世界と意識の世界は互いに行ったり来たりするけれど、僕らは君らの無意識の世界がどうなっているか知りたいんだ。意識=言語なんだ。Okaの言葉は意識の世界だと思うが。Suparsaこの点どうだい。」

ともっと深めて質問してみる。

Suparsaは思慮深い男性で、二十代、三十代、四十代は精神の修行中だからと出会った頃よく言っていた。

「オレはブラークマナ(僧侶)で、シュードラとは違うんだ、みたいな気持はないかい。ドライバーをしていた時に、よくこれも修行中なんだと言ってたよね。」

Suparsaは

「シュードラの人の豪華な通過儀礼が寺で行われる時、腹立たしい気持があった」

僕は続ける。

「アクエリアスのホテルのオーナーはマデと言い、シュードラだけど、彼は君らブラーフマナの人間には嫉妬はしないのかい。」

Okaが答える。

「それは絶対ないと思う。ただ僕らブラーフマナはブラーフマナであることを誇りにしていると思う。バリはブラーフマナとサトリア(王族)、ウエーシェ(士族・商人)はたった十%で、例えばマデという人と会った場合、東ジャワのマデなのか西ジャワ、南ジャワのマデなのか、その人の出自がよくわからない。だからよくわかるまで慎重になる。しかし、ブラーフマナつまりIdaと聞けば、どこのIdaとすぐにわかるので初めから慎重にならずにすむ....」

日本人が同郷の者で集まったり、県単位で集まったりするのと似ているのかも知れない。

「僕がマネージャーとしてシュードラの人を雇っても、君らは嫌がったりはしないかい。本当はするような気がするんだけど。」

Okaは

「それはない。あなたは、この会社で必要なことは、いかに仕事がやれるかというのと語学力だと言っている。それによって給料もポジションも変ってゆく、と言っているし僕らもそれで了解している。自分より能力のあるものが必要時に上につくのは当然だ。日常生活のはこれはバリ人みんなが了解していることだ。」

このように聞いても、本当のところはわからない

自分達が特別な人間だ、という思いがあれば、きっと彼らは特別な人間だ、と思われるに違いない。儀式の時、Idaたちは精を出し、他の人たちはその進行を見ている。これは我々がキリスト教であれ仏教であれ、神道式であれ何かの儀式をする時、神父やら、お坊さんやら、神主や巫女たちが、その進行をしてくれているのを我々が見ており、そこに特別な階級の意識や区別・差別の意識などないのと同じなのかも知れない。しかし、カーストとして残存している以上...という思いが立つ。依然わからない。


2000年4月24日

位の高い人

外国の地で日本人が日本人を避ける人がいる。せっかく外国に来たのだから、わざわざ日本人にちかづくことはない、という気持はわかるのだがそれは狭量な気がする。

また外国旅行の経験が中途半端に多い人がバリ島などに来ると、物事を比較でしか言わない人がいる。これも困ったもので、水平的に比較して、アメリカはああだ、こうだ、それに比べてバリはこうだ、とバリ人の日本人から見た「いたらなさ」をいくら言っても、つまり言えば言うだけ言っている本人の品位というか人間としての位が下がってしまう。

今日、ヤーマの店に買物をしに来てくれた鹿児島の女性二人は、気持の良いくらい、外国旅行の素人っぽさがあった。外国旅行にスレていないという感じだろうか。僕が声をかけてもおびえたり、敬遠したり、うっとうしがったりしない。

ちょうど、ハイビスカスティーを試作中だったので試飲してもらった。話をしていると二人とも三月で仕事を辞め、Mさんは別の会社に五月から再就職、Yさんは海外青年協力隊の一員として、二年間シリアに行くという。Yさんは無性に何かを追いかけている無意識がMさんより露わである。シリアでどんな経験をしながら二十四才、二十五才となっていくのだろう。シリアでの仕事を終えたのち、スペインに留学したいと思っている。どうなっていくのかは誰にもわからないが、自分の今持てる能力をさらに発展させて、自分の心の中に宿っている漠然とした《未知なるもの》を捕まえたいと思っている。

とっても良い感じの若い二人で、若いということちょっぴり羨ましいと思った。まだ《往き》だけを思い、考え、悩み、漂い、進みしてゆけばよい。



2000年4月26日

NHK「地球ラジオ」にでるぞー!

バリの若い女性たちは、この頃はいろいろなマニキュアを使っているが、時に花の色を爪に移して楽しむが、マニキュア登場まで普通だった。夜寝る前に、ガーデニアという花の花びらをつぶして石の粉でまぜて爪につけておく。十分くらいもすると爪が染め上がっている、という感じだ。

ハイビスカスの葉は、髪を洗う時に使う。髪は黒々とつややかになる。このことは先のバリ日記でも伝えたので、省略する。

昔から科学的な根拠はわからないだろうけど、植物がいろいろな風に使われている。日本でもそうだったのだろうが、やっぱり不便さゆえにすたれてしまったのだろう。

植物のことがおもしろいので、NHKの「地球ラジオ」(土曜日の夜6:00から)に情報を提供した。すると、早速の話だが、ゴールディンウィークに入る4月29日(土)夕方の六時五分からバリ島からの情報を伝えてくれないか、ということになり、生出演することになった。

尾鷲弁丸出しの声がラジオで流れることになる。

書くことより話すことの方が難しいと思う。しかしながら、みなさん、よかったら聞いてください。


2000年4月29日

ブサキ寺院

ブサキ寺院は、バリヒンズー教の総本山である。五年前に二百年に一度と言われる盛大な祭りがあったが、今年も何やら大きな祭りが一週間にわたってあったようだ。

会社の女性スタッフたちが、夜の十時に店を閉めてからみんなでブサキ寺院にお参りに行くという。着飾り、化粧をし、女たちだけで行く。どうして、男友達ともいっしょに行かないのか、と尋ねたら、頭を指して、祈りに集中できないから、ダメとされているようで、彼女たちもそう思っている。祈りの場所はデートの場所ではないと言いたいようだ。

朝の六時までブサキ寺院内で時を費やし、その日は約二時間の睡眠だったらしい。

さて、神への祈り、神への捧げ物のことに話は移るが、供物に入れる花々は香り花や化粧花ばかりだ。女たちは着飾り、香水をつけ、化粧をする。神々は女性を好むのだろうか。どこか妖しい交歓の雰囲気がある。


2000年5月3日

妊娠した

バリ・ヒンズー教では、堕胎は禁じられている。

この頃のバリ島の若い世代の親は子供は二人で上等だと思っている。

リゾートしている側から見れば、バリ島は時間がゆっくりと進み、人々は神々に祈りを捧げて、一日がなんと平穏に過ぎてゆくかと思われるだろうが、そこには劇場国家たるゆえんのところである。

人々は、観光客側から見れば演じ手の一人だという風になる。

確かにバリ島は豊かである。お金がない、貧しいとマデやニョマンが言ってもこちらから言えば「そんなはずねえだろ」となる。

「バナナがそこら辺に生えていて、庭のあちこちにハーブがあり果物があるところなんて、めったにないだろ」と言いたくなる。

さて、堕胎についてである。スタッフの二人が妊娠した。Aは二人目の子供。Tは三人目の子供ができているのかも知れないのである。今日、病院の検査でわかる。

Aはこの成り行きを、人に気持を表すことなく自分の中で受け止めて、淡々としている。一方、Tは仕事場でも、時に泣き、堕ろしたいと言い、それはダメだと若い人から言われ、ただただ三人目の子供ができることによって現在の家庭や家計、あるいは夫に及ぼす影響が大であることを気にして病んでいる。

昔は三人や四人、五人の兄弟姉妹はざらだった。日本も同様である。それでもなんとか生活ができていった。しかし、今のバリでは三人は相当苦しそうである。教育を受けさせたい。テレビなども買って楽しみたい。できたら親と離れて核家族化したい。亭主は安月給で、職も転々とする。自分も働かなければならない。

Tはどうするのか、僕にはわからないが、ほんの二ヶ月程亭主がシンガポールへ行くと言って出て行って、悲しみ、嘆き、よし一人で頑張ろうと思っていたら、またふと帰ってきて、元のサヤに収まり、という顛末の後のことだった。

Tのマッサージ技術は素晴らしく、そんじょそこらのマッサージ師ではない。天性のものをもっている。

日本人以上に倫理的であり、宗教的だから、普通生活者の立場との板ばさみでTは悩む。男はどんな顔をしているのか見たいものだが、案外ケロッとしているのかも知れない。バリ島は女の方がよく働き、よくやる、という印象が僕には強いのだ。Tは今日は休み、明日はどんな顔をしてくるのやら、心配である。


2000年5月4日

神経症と遊び

日本人は戦後から現在に至るまでの間で、何を身に付けたか、を一言で言えば、《神経症》だと思う。

健康グッズ、抗菌グッズが流行し、美容に精を出し、ニキビひとつできることを嫌う。

オウム真理教などの新新興宗教も、信者たちの中にある貧困や飢えから来る恐れや不安ではなく、物質的には充たされていながらの〈何ともいえない不安感〉という神経症っぽいものからきているのではないか。ばい菌が殺しに来るのが見えるわけでもないのに、心の中でばい菌が見えてしまう。それを恐れ、いつも清潔にし、汚れを毛嫌いする。0・157の事件などは、日本人を象徴するような出来事だった。ダイエットをしていたらそのまま拒食症になってしまう人、いつも自分はどこか悪いのではないか、と思う人、いつも薬を飲んでいなければ不調を感じる人…

日本人の全体的な像はこのようなものだ。

も うひとつ、これは明るい面であるが、老人が元気になった。ただし、これは明治、大正生まれの老人で、昭和生まれ、それも昭和十年代はこれからというところだからまだ未知ではあるが、昔だったら姥捨て的なイメージが老人にはあったが、今は老人は結構遊びを楽しんでいる。〈病気不安症〉はこれはしかたない年齢のような気もするが、度を越した神経症でもなく、適度に遊んでいるように思える。充たされぬ思いはいっぱいあるだろうが、昔の老人に比べて相当環境がよくなったのではないだろうか。

要するに戦後、我々が身につけたのは〈神経症〉と〈<遊び〉である。バリ島はまだこの二つはない。


2000年5月7日

不思議に共通するもの

ドアを閉めて、部屋の中で仕事をしていたら店の方で、何やら日本の民謡のようなものが聞こえてきた。誰かCDでも持ってきてかけてるのだろうかと思い、ドアを開けると日本民謡のような音楽がジェゴク(竹の大合奏)に変った。つまりジェゴクの音の中で遠く離れた聞こえない部分があり(たぶん高音部だと思うが)、その部分が聞こえないと日本の民謡のように聞こえるのである。

これは、以前体験し驚いたことである。

今日は、またおもしろいことに気がついた。マッサージルームでマッサージを受けているとレセプションの女性達が何やらひそひそ話をしている。これも幾つかのドア越しで、聞いていると日本語に聞こえるのである。

あるいは、日本の着物をバリの暑さの基準まではぎとってゆくとバリの腰巻になってしまう。

たぶん、バリの方から日本にも多くの人たちが入ってきたのだろう。おそらく朝鮮半島から多くの人々が入ってくる以前、海上の道をやってきたのだろう。

言葉や音楽の中にそんな大昔のものが残っているのかもしれない。

こういう共通点を実感するのは、妙な気持だ。

現在の言語や地名などをさぐっていけば、日本人のルーツの一部も見えてくるだろう。


2000年5月8日

マジックパワー

今回のバリ滞在は思ったよりも長引き、なかなか帰れないでいる。涼しい日が続き過ごしやすいのだが、相当に疲れがたまってきた。

さて、さらに疲れがたまる話。朝、事務所でイダが、まじめな顔をして、ちょっと話がある、という。

「モトキさんが信じるか信じないか、それは別として、僕が管理しているお金三百万ルピアが失くなったのです。プトゥも一週間程前、オカも二週間前、持っていたお金の一部が失くなっておかしいなぁ、と思っていたところ、今度は僕だったので。三つ考えられるのです。どろぼうがいるか、自分達の思い違いか、マジックパワーか」

僕は、「それはどろぼうに決まっているじゃないか」と言うと、イダは「マジックパワーだと思うので、実は今日、プリーストに行って、おまじないしてもらいたい」と言う。

今まではマジックパワーの話を気楽に聞いていたが、今回のことは笑っていられない。

「イダ、今回は事情が違うので、マジックパワーを僕は認めるわけにはいかない。君がプリーストのところへ行くのは勝手だ。失くしたお金は自分で賠償するのだから。けど、このようなことがマジックパワーで片付けられていたら、お金が失くなればマジックパワーのせいで、誰でも簡単に物を盗めるじゃないか。ここは、まずお金の管理の仕方を今日から変える。それから重たい、容易には開けられない金庫を買おう。それに僕がバリにいるのでデイリーリポートが途切れていたが、僕がバリにいる間も毎日やろう。」

と指示した。

マジックパワーはマジックパワーを信じる人だけに通じるのだそうだ。バリでは兄弟姉妹や親戚どうしのねたみ合いが多いという。「わら人形」に釘を打つようなことが多いというのだ。このようなことは僕には不気味でもなんでもないが、厄介なことだ。大事なことがマジックパワーで片付けられてしまうことがあるのだ。


2000年5月9日

薄気味悪い

いつまで経っても、バリで薄気味が悪いのは、路上でたむろしている男達だ。

店の辺りでいつもたむろしているのは、だいたいが妻かガールフレンドが仕事を終えるのを待っているのか、何かお金になることはないか、物色しているか。たとえば、白タクの運ちゃんとかポン引きとかである。

ヤーマの道路をはさんで向かいに昼間、ニセモノの時計や香水を売っている出店があり、そこにはいつも五、六人の男が座って、何やら話をしたりしている。僕とよく目を合わす。いつもこの店をうかがっているようで、何だか不気味である。

ある日、その男達の中に入っていって、話をする契機にニセモノの時計を買ってみた。一人は時計を売り、一人はオモチャのようなものを売っている。白タクのものもいる。職がなく、観光客を捕まえては、何を買いたいのか聞き、わかるとそれを売っている店に連れて行き、店からお礼をもらう、そんな男もいる。気さくな、人の良さそうな男ばかりだ。

話をすると不気味さも消えるのだが、知らない人だといつまだたっても不気味に思える。

この正体がまだよくわからない。

2000年5月14日

地球の歩き方

昨夜、激しい雨が夜中から降り始め、朝まで続いた。レギャン、クタはいつものように洪水状態だろうと思いながら寝た。

バリに来たのはいつだったのかも忘れてしまい、今日何曜日で何日なのかもわからず、それはあくまでも部屋にカレンダーがないのと、日と曜日がついていない時計を持ってきたからだと、改めて気づく。

朝十時も過ぎると、すっかり空は晴れ上がった。毎日、涼しく良い日が続いている。部屋では、クーラーは要らない。

食器がようやく見つかった。バリはどこもかしこも五つ星ホテルは、ジェンガラという会社の陶器を使っていて、独占状態の為、注文すると五ヶ月はかかり、とても八月一日のオープンには間に合わない。ジェンガラのものはデザイン的にはバリにある陶器屋さんの中では群を抜いて良い。しかし、重たい。重すぎるのが欠点である。日本の陶器のような洗練さはなく、ただ土の香りがする、というのが特徴かもしれない。僕は土の香りをするような、重たいものは求めていないが、ここしかないとなったら、しかたがないかとあきらめていた。灯台元くらしで、デンパサールのデパートに行ったら、期待しているものがあった。スラバヤに会社があるという。早速連絡をとり、バリの出張所のスタッフがすぐやってきて話し合い、これにて食器問題が解決した。

五ヶ月も待たせて平然としているジェンガラのスタッフ及び社長の横柄な態度に気分を悪くしていたので、すっきりしたのである。

そうこうしていたら、「地球のあるき方」の取材があった。二十四才の若い女性が、クタ、レギャン、スミニャックを担当し、三週間滞在して取材するのだそうだ。彼女は、役得でカルティカプラザホテルに無料で滞在し、取材しているのだそうだ。ガイドブックの影響力は大きい。広告代にすれば大変なものだ。

日本では、有名旅行雑誌が三つある。つまり三つの旅行雑誌のうちのひとつ。たかだか二十代の娘のセンスによる取材で、バリの店も影響される。逆に言えば、どうしても取材しなければ編集員として恥になってしまうような店作りをすれば良いということにもなる。

おもしろいのだ。

「役得ですよ」と恥ずかしそうにその取材編集員は連発していた。

しかし、ここで今後、彼女は鼻もちならなくなったら終わりだ。バリ島を旅行しようと思っている人に、ガイドブックでどれだけのサービスをしてあげられるか、あるいは、その雑誌を読んで、よしバリに行こうと思わせるか、ここが彼女の勝負である。たぶん、人はそのような雑誌を作りたいという気概で働いている。どの職でもその仕事の本分がわかれば、気概はでてくるものである。

バリ島は、僕にもまだ不思議な島だ。旅行者は不思議さで、魔術にかかったみたいになるだろう。旅とはそのようなものであり、ガイドブックはそれのお手伝いをするというわけだ。



2000年5月31日

ひどい話

バリ島から日本に旅行する場合、きちんとした手続きをふめば、日本領事館も厳しいとは思うけれど、ビザを発行してくれる。ひどいのは、インドネシア人同士のことだ。

普通、パスポートを作ってもらうのに、余白二ページくらいで45000ルピアである。これが正規の値段である。このパスポート発行に中国系のブローカーが絡む。

ビザを出してもらう為、あらかじめ旅行日程を先に決めている人がほとんどだ。そこが目のつけどころと、期日までに間に合わせたいなら、お金を出せ、俺がうまく話をつけてやる、と申請手続きの周辺にいて、話をもち込んでくる。パスポートを作る係員も、その仲間もすべてグルである。これで1,500,000ルピア(約25000円)をとられる。

次は、出国の際である。日本なら無料のところである。政府は出国するインドネシア人から1,000,000ルピアをとる。計2,500,000ルピア。普通の人のサラリーの五ヶ月分である。

さらにおまけがつく。日本で物を買う。それを持って帰ると、なんだかんだと言ってお金を要求する。ひどい国である。たかりである。ふんだりけったりである。役人がそれをする。役人は給料が低いから、という理由がつく。だから、政府が悪い、となる。

脱税がほとんどで、道路などのインフラも整備できない。役人にそこそこの給料も払えない。だから利権でもうけようという者が出てくる。この悪循環が経済の裏で繰り返し繰り返し行われている。

日本の敗戦時のように、外から強制的に変革されるなら、改革は進みやすいのだろうが、インドネシアにまだそのような機会がない。スハルトが沈んだだけではこの国はおいそれと変りはしないのである。そう簡単に自分自身の力で、過去からの習慣や関係性を断ち切れるものではない。

この国が、せめて日本くらいまで(良いとは言えないまでも)つまり、一般大衆が正規料金でパスポートが取得でき、無料で出国できるようになるまであとどれくらいかかるだろう。

さて、このことに関してのバリ島民の意識だが、ほとんど外国に出ないから、被害の意識はなく、そんなものだと思っている、といった方が正解の感じがする。

僕は、このH・Pを通じてこのような問題を書きつづけている。

《不安》は、《わからなさ》からやってくる。なんとかして《わからなさ》をわかるように明らかにしたいと思う。


2000年6月1日

バリアン

イダが事あるたびに行くというバリアン(呪術師)のところに行ってみる気になった。慢性膵炎という不治の病を持つことになったのは十ヶ月ほど前で、以後、食べ過ぎたり、アルコールを飲むと病んだ膵臓からの乏しい消化酵素のせいで胃が痛んだり、疲れやすくなった。体重も七十四キロあったのが、六十キロまで徐々に落ちてきた。周囲の者もすっかりスリムになった僕を見て、癌などに犯されていないか心配する。とにかく、膵臓が病んでいてこれは元には戻らない臓器なのである。

キンタマーニ近くのバンリという村に、そのバリアンがいる。昼間は行列ができるということなので、夕方から出かけることにした。お供えを途中、道沿いの店で買い、そこに心づけを入れた。八時半の到着で、そのバリアンの屋敷に入った。すでに、十人ほどの人がいて、僕はシバ神やウィヌス神、ブラーハマ神を祀る屋敷内の祭壇の前で三十分程順番を待った。

イダの話によると、いくつかの敵を追っ払ってくれ、悩みは解消し病気が治る、ということである。

元に戻らない臓器が治ったとしたら奇跡としか言いようがない。僕の番になって、僕は彼バリアンの前に座った。彼は、目を閉じ、しばらくして目を開け、僕の現在のバリの住居、そして日本の住所の位置関係を聞き出した。そして彼は僕の家の絵を描き(前に鉄でできたゲートがあり、広い庭があって奥が住居になっている)、そこから線を引き、この辺に僕を強く呪うカーリーヘヤーの太った女性がいることを告げた。思い当たる女性がいる。次に僕が生まれて育った家の位置関係を聞いてきた。しばらくしてまたペンで線を引き、印をつけて、「ここにヒーラーがいる」と言った。「心当たりはないか。」と言う。確かに子供の頃、そこに祈祷をする女性がいた。

この二人からマジックパワーが出ているという。

僕はその二人がマジックパワーをかけたとして、どうすればよいのか、と聞くと、「それは知っておくだけで良い」と言い、次に僕の内臓の絵を描き、「胃の上部の辺が鉄のようになっている。」と言った。「鉄のように」とはどういう意味かわからなかったが、その部分をギザギザの線で強調した。

僕の膵臓は繊維質状態で固く腫れている。そのせいで消化酵素などが出にくくなり、胃がただれてしまう。三日前にバリュームを飲んでレントゲン写真を何枚も撮って胃のただれが判明したばかりである。

マジックパワーを解き、聖水で身体を浄化することに同意するか、と聞いてきた。「プリーズ。と言うと、にっこりして「土曜日に来なさい」と言った。薬草も調合すると聞いていたが、僕の場合、それはなかった。

バリアンとは、情報ストックのような人である。かなりの知識と経験を持っているようだ。それに常人以上の透視とか念ずる力とか何かすぐれた能力を持っているのだろう。

自分で自分の膵臓をどうしようもできないのだから、ここは身を任せるしかない。「土曜日の夕方、聖水で悪いところを取り除いてやる」この不信心の僕がこの言葉を信じるしかない。


2000年6月4日

バリアン(つづき)

さらに加える話がある。実は、僕の仕事上のパートナーであり大先輩のY氏も一緒にバンリのバリアンのところに行ったのだった。彼には糖尿の気があり、不整脈があるらしい。日頃、メデテーションを行い、この世界(?)は詳しい。

彼に対して、そのバリアンは、「腰がいたいのではないか」と言った。このことは、彼と僕以外誰も知らないことである。僕は三日前、彼の腰に膏薬を貼ったばかりである。スクーターでの軽い事故が原因だった。それを言い当てたので、彼は驚き、これはホンマモンだと思ったようだ。次に「腹のところで炎が立ち、そこで滞留していて、全身にパワーが行き渡らない。パワーのバランスが悪い」と言った。

一ヶ月程前、彼は僕にメデテーションも自律訓練法も独学でやっているものだから、もう少し極めたいので、東京のとある道場のようなものへ行きたいのだ、と言ったことがある。大変気持が良いのだが、まだ、今ひとつすっきりしないらしい。

このような背景があるものだから、彼はもうこれでパーフェクトにホンマモンだと思うようになり、スーッと《信》の世界に入った。

僕は、慢性膵炎は絶対治してほしいのだけれど、心にホンマカイナ、イヤ、コンカイダケシンジヨウとか、シンジマスカラ、ナオシテクダサイとか、いろいろ不信の証拠となるような思いがチラつく。

さて、金曜日の夜、エステの女の子たちに体験談を話していたら、まだ二十三歳の受付の女性(女の子)に、「信じてるの? 信じないと効き目はないわよ」と言う風に言われた。わかっとるわい、イワシの頭も信心から、と言うやろ、と言ってしまいそうになったが、知らん振りして、フンフンと聞いていた。まだ、ホンマカイナと思っている.

土曜日が来た。仕事を済ませて、三時からバンリに出かけた。クタから2時間近くかかる。バンリまで道がきちんと舗装されている。イダは、このバリアンのためにスハルトがぬかるみの道をアスファルトに変えたんだと言う。

バリアンの家の近くから車が左側に駐車して並んでいる。これは相当待ちそうだ。家に入るとまずY氏のための薬草が用意されており、それを篭に入れて、待合場所にいく。

今日は、ヒンズーの儀式どうり、お祈りを捧げて、身を浄めてから、順番を待つことになった。たいへんな人だったが、土曜日は相談を聞いたり、口頭で答えたりする日ではないらしく、まずY氏らのグループ、つまり自らの身体から発現する病気の人に、マントラを唱え聖水をふりまき、そして飲ませ、顔を洗わせ、薬草を食べさせることを何度も繰り返して、五分ほどで終了した。

次は、僕も入るグループで、これは、他からかかったマジックパワーで発現する病気の人たちである。上半身裸になり、手のひらを上に向ける。するとマントラを唱えつつ、各人の手のひらに聖水を注いでくれ、それを頭にかけ、飲み、顔を洗い、ビシッビシッと冷たい聖水を体中ビショ濡れになるまで浴びる。マントラよりも聖水のかけ方に迫力がある。

要するに全部まとめてやってしまうのである。

僕はマジックパワーがとかれ、Y氏はパワーの位置が正常になったということになる。五日以内によくならないようだったらまた来なさい、ということだった。帰りの車の中で、僕はやや胃が腫れているような気がするものだから、いつもの漢方薬を飲んだ。病院で「膵臓から消化液が出にくいものだから胃がただれている。」と言われ、胃薬をもらった。それから五日間、調子がよく身体も疲れない。

願わくば、この慢性病から解放されたい。Y氏は陽気で、前向きで、ヨクボシで、すっかり治ったと思い、はしゃいでいる。僕も治ったと思いたいが、心の底から思えない。でも期待し、心のどこかで信じている。

そして後日談がきっとあると思う。


2000年6月5日

時間の感覚

僕としては、相当真面目に書いているつもりであるが、残念ながらこの日記は二十五時間目に、妖しい夜の時間も果てるころに書いているので、文章を推敲する時間がない。

今日は、この日記を読んでくれている方がわざわざ訪ねてくれて、嬉しかった。言い訳めいているが、夜の時間は不健康で、貴重な時間なので、なんだか妄想を湧かしているうちに、二十四時を過ぎるとその後は限りのないような闇の中に沈み、そういう中で思ったことを書いている。朝や昼は「実」の仕事時間で急に「虚」になれなくて、従って文章を再度見直すことはない。世界が全く違うのだ。

さて、バリのことである。

この前、バンリのバリアンのところに行った時、多くの人が順番を待っていた。我々日本人の多くは時に時計を見て、時間に気にかけるのだが、バリの人々は待っている間、全くイラつく様子もなく、時間を気にする様子もない。そういえば、最近までイダも時計を持っていなかった。時計がなくても、時間は別の感覚であったのかも知れない。太陽が昇る頃とか、沈んでから薄闇の頃とか、お腹がすいた頃などと。また、そう言えば、であるが、食事をする時間も決まっていないように見える。いつも、もう十二時だ、昼にしよう、と言ってもピンとこないようだ。夕食も同様である。家族のそれぞれが、てんでバラバラに必要時に食べるという感じだ。

話を元に戻すと、時間にそう縛られていないバリの人達の時間の感覚はどのようなものだろう。

三才ぐらいから小学校を卒業するまでが、相当長かったような気がするが、あのような感覚なのだろうか。二十才を過ぎたあたりから時の流れる感覚がますますスピードアップしていると感じるのは、生活の時間が、仕事時間などに縛られているからだろうか。

空虚に待っている間も、日本の場合は、雑誌や漫画が置いてあったり、テレビが提供されたりする。貼り物も多い。それらを読むこと、テレビを見ることで、脳の映像を映し出す部分がいつも忙しくしていて、時の経つのを忘れることが多いから浦島太郎のようにあっという間に時が過ぎたと思えるのだろうか。

この点の感覚の違いをつかんでバリ人と一緒に仕事をするのは、重要だと思える。そのことでイラ立つことはなくなるのだから。時間感覚を大幅に延長してもてばいいのだから。もっと言えば、ゆったりとした時間の過ぎ方のほうがより一般的かも知れないのだから。


2000年6月9日

せめぎあい

もっと詳しい感情はわからないが、バリ島がリゾート地化され、バリの人々に観光産業がつまり第三次産業の立ち居振舞いが身についてきたことから、感情は第三次産業の色彩をもつようになってきた。

村落共同体は、さまざまな面から、その存在を脅かされているように思える。

例えば、ひとつの会社、またはグループ会社は、ひとつの地域から何人も人を雇ってはならない、という暗黙のルールがある。また、同じ会社で親、兄弟、妻が働くことは良くないことだとされている。

これは、会社に対して、相当に強い人間の関係性を持ち込まないことで仕事に悪影響を与えまい、という意思と裏返しに、会社の仕事と村の行事がぶつかった時に、村の行事を守らなければならないという意思も働いている。

つまり、会社と村落共同体の利益が合致しているのである。

しかしながら、個々人はそんなことを言ってられない。職がなければ誰でもどこでも働きたいと思うのが心情である。個々人は、なんとかそのルールを無視し、あえてその障壁を越えてしまおうとするが、すぐにチクられたりして、採用前に頓挫するのである。

この辺のところが、個人と共同体のせめぎあいのところでそろそろバリ島もその臨界点まできているのかな、という気がする。もしかしたら、まだ共同体側の方に余裕があるのかもしれない。ここら辺りの感情がちょっとわかりにくい。

若い人々は、核家族化を押し進める。子供により高度な教育を身につけさせたいと考える。家族の宗教的セレモニーは大切だが、村の組織への参加は、必要だけれども億劫になることもある。

バリで仕事をするということは、自分も現在のバリに巻き込まれ、バリの人たちをも巻き込んでしまうということである。

自分自身にとって、未来に通じる言い方をすれば、彼らのはにかむ微笑や、スラッとした身体や、ゆっくり刻む時の流れ、はっきりとした昼と夜、食欲の自由なリズムなどに人間と言うものの原型を見ることだ。このような原型というか、人間が太古から持っている原初のイメージから今の自分を視ることによって、未来につなげてゆく、としか未来に通じる言い方はないのである。

一方、僕の周囲のバリの人たちは、僕を通して、未来を視ている人もいるだろうし、僕という壁のところで立ち尽くす人、さっさと遠ざかる人、それぞれだろう。縁あったもの同士が互いを契機にある豊かなイメージをつかみとってゆくしか共に歩む方法はないのだと思う。

そんな七面倒臭いこと考えずとも「仲良くやればいいじゃないか」と言われれば、それまでなのだが。



2000年6月11日

バリ・ガラスでできたレストランを建設中である。建設と並行して、様々な準備をしなければならない。料理の決定、ドリンク類の決定、メニューデザイン、トレーニングなど事細かである。

最高の味、最高のもてなし、最高のデザインがあれば、成功することは間違いないだろうが、そのシンプルな、三つの原理に到達するには、事細かに微密に物事や想像力を積み上げてゆく必要がある。

そのような中で、今日は日曜日。天気がよく、爽やかである。レギャン通りをブラブラ歩き、シェフ特別用のスカーフとエプロンを探すのが、外での唯一の目的である。久しぶりに買物気分で店を見て歩いていると、ちょっとずつ新しいおみやげ物も出てきている。ビーズ物が流行っているのだろうか。

シェフ用のスカーフは、絹のバティックを使用したいと思っていた。絹のバティックを売っている店がベモコーナーからクタスクウェアに行く途中の右側にあったのをおぼえている。値段も定価でびっくりするほどだったのもおぼえている。

その店で買おうと思っていた。シェフにも好みはあろうが、これは僕が決めるつもりだった。ひとつは、シェフの肌の色や雰囲気で決めた。つまり、色に意味をもたせずに決めた。茶とえんじの間のような色で金色も入っている。

もうひとつは、色に意味をもたせたかった。あんたは、シェフなんだ。料理の世界では、最高の地位なのだ。それに恥じないように頑張れ。みたいに、その事が通じるような色を選ぼうと思った。あまり知られていないが、バリ島には、色のヒエラルキーがある。

アグン山のあるほうには聖なる者が宿り、海のほうに邪悪なものが住むと見なす。その聖なる色は黄金である。その対極の色は、黒である。黄金色、白、黄、赤、黒と続く。

黄金色は、楽器や舞踊の衣装でも使われるが、その色の見事なのは、家族が行う通過儀礼の時だ。全てが黄金色である。全ての色に似合う完全の色である。

白地に黄金、赤に黄金、黒までも黄金色が配され黄金色は黒に負けないのである。

あれこれ考えた末、シェフのスカーフは、黄金、白、それに淡い水色、黄色が入ったものを選んだ。

黒は、邪悪な神バタラデュルの色だ。シェフは黒を希望していたがやめた。

白は、ブラーマ(慈愛の神)の色だ。それに太陽の色(黄色)と火の色(赤)が加わる。その中に火を使う台所での仕事が主なのだから、赤が入っていて欲しかったが、それは見当たらなかった。

かくして、明日は、これらのスカーフを見せて、特別な思いをシェフに伝えるのである。このようにして一つ一つ片付けていく。レストランオープンまで、あと五十日である。



2000年6月13日

崩壊、そして・・・

戦後、最大の事件といえば、僕は阪神大震災とオウム真理教事件、そして神戸の酒鬼薔薇聖斗の事件だと考えている。

それらの事件は、戦後日本人が励み、生きてきたことの崩壊を意味しているように思えるし、東西冷戦が終わり、日本ではバブルが崩壊し、金融危機となり、ベンチャー企業は次々と倒産した。

近代都市が一瞬にして崩壊する。制度も法も、過去も明日も崩壊する。それが阪神大震災である。オウム真理教事件では、ただ宗教的な動機で無関係な人々をサリンで殺した、という動機や縁のない殺人が起こった。それに心優しそうな知性の人が参加しているのからしてわかるようでわからない不可解さがあった。

もっと心の核の部分を現実に浸犯してみせたのが神戸の事件だった。家族、親と子、その事件はやはり戦後五十数年間のこの日本の社会の中の家族、親子の関係、心の奥底を衝撃的に映し出した事件だった。この事件はオウム事件と底のほうでつながっているのかも知れない。

それら三つの事件は一九九〇年年代に入ってから、バタバタと起こった感じだ。

近代都市などは一瞬にしてつぶれるんだよ、そのときあてになるのは、個人、個人が生きていく力なんだよ、制度や規則なんてまるっきりダメなんだよ、政府みたいなのも労働組合みたいなのもからっきしダメなんだよ、そんな中で、それでも人間はやっていくんだよ、弱さも強さもズルさも、全部さらけだして、みたいな強烈な衝撃が世界の人々を揺さぶったと思う。それが阪神大震災だ。

前置きが長くなったが、それが今日の話である。

阪神大震災後、自分が経営する事務所、住む家を失った時、夫婦はどうなるか。夫婦それぞれの過去、現在の思い、未来へのひそかな思い、それらも凝縮されて噴き出てしまうはずである。その凝縮のされ方を想像するのは難しい。

男はこの際に自然に順したような生活を送りたいよ思い、女は男についていこうとしたけれど、都会の生活をやっぱり好む。それは逆であってもよい。二人で次を見つける旅もした。バンコク、シンガポール、バリ、ブルネイ。漂流するように旅をした。二人とも元には戻りたくなかった。壊れたものを建ち直らせる、その原点のような希望がなかった。

希望とは新しく別々に、それぞれの思いでやり直すことだったのだろう。女はバリ島で踊りにはまってしまった。男は別の事を考えていた。ある日、女のほうから男に別れたいと申し出があり、それは受けざるを得ない感情のものだった。


男は一人になった。長く滞在したバリ島、そこでやり直そうか、どうこれから生きていこうか。被災から四年。男に心ときめかせるバリ島の女性が現れた。こんな感情がまだ身体のどこかから湧いてくるのかと不思議に思いながらも、突き動かしてくる心の衝動は激しかった。

何もかも捨てて、ヨットにすべて生活道具を入れて、黒潮を避けるようにしてグアムの西を渡り、漂海民のいるスラウェシを渡り、バリ島に入った。その女性がいたからである。ヨットをバリ島に向かって意思して操ってきた。漂流してきたのではない。逆である。

日本からバリ島へ逆にのぼったのである。幾らかの蓄えはある。バリ島でつつましく生活してゆければよい。そう思っている。しかし、なんだか第二の人生が始まったようで、やろうぜ、と思ってくる。  

僕は、やろうぜ、と思い、やろうと起き上がった時の男と会った。今日のことである。彼に在留許可証を取ってあげた。



2000年6月14日

おいしいもの

 僕の住む町は、一方が海で三方が山で囲まれ、ほんのちょっとの平地に人間が貝のように集まって住んでいる。昔は、林業と漁業で栄えた町である。

山は、人工植林だから、なんとも不自然でいつも緑色をしているが、海の方は、少なくはなったが、磯釣り、堤防釣り、波止釣り、砂場釣り、船釣りとなんでもでき、魚種も豊富である。

二月の末あたりから三月の初旬あたりになると「えたれ」といわれる小さないわしにアブラがのりはじめ、一夜干しか一日干して、それを焼いて食べると絶妙にうまい。わずか十日程の間だから、スーパーなどにもまわらずほとんど地元の魚屋さんあたりでなくなってしまう。

オニエビという深海のエビがある。十センチ程の頭の大きいエビだが、このエビを塩ゆでして食べる。頭の部分をはぎとるとミソがでてきてそのミソを食べる。これがまたまたおいしく「将太の寿司」という漫画のネタにもなったほどだ。

これもスーパーなどには出まわらず、料理屋でもなかなか出てこない。量多くとれないのだろう。このように東京や大阪の大消費地に出まわらず、ここの町の料理屋でもなかなか味わえないものがある。

これは、バリ島も同じで、美味しく、少ないものは、地元産品である限り、さっさと地元でなくなってしまうのだ。地元でさっさと売れてしまうのだから、別の場所で果たして好まれるかどうかわからないものをトラックなどを使って、別の市場や業者にもっていくことはない。

さしずめココナッツクラブ(ヤシガニ)などはその例だろう。きっと地元の誰かがうまい、うまいといって嬉々として食べているに違いない。

川魚も海の魚も同様である。川魚などは、スーパーなどではほとんど見かけない。日本の「あまご」や「イワナ」だってそうだ。貝も、バリのレストランで見かけるのは大きくて味も上等でない「あさり」だけである。巻貝やつぶ貝のようなものは出まわらない。

自然のおいしい食材はある地域で少量しかとれないため大量に出まわるものを使ってレストランは加工術にビジネスの命をかけて、食を提供することになる。

美味しいものとは何か。自分が生まれ育ったところの自然と風土から取れるもの。それに、簡単でシンプルなものだ。料理屋のお茶漬けではなく、自分でお茶をかけて食べるお茶漬け。卵をかけて食べるご飯だとか、そんなものが、結局おいしいということになってしまうのでないか。

池波正太郎の「創客商売」や「鬼平犯科帳」などで紹介される料理は、シンプルなものばかりである。これがコテコテと飾り、加工された一流シェフの料理よりも、美味しそうに思えるのだ。

おそらくきっとバリ島の人々も少量のおいしいものを、ごくあっさりと料理して、食していると思うと、何とかそれが手に入らないものかと思ったりするし、あきらめもすぐに思い立つ。



2000年6月15日

ランダ、ランダ

「『ランダ』って魔女、つまりオンナだよね」とエステのスタッフたちに尋ねると、彼女達はちょっと考えてから「そうよ、そうそう」と答える。

「君らもオンナなんだから、君らの中にランダはいるよね」と次のタマを出す。???と首を傾げ、「それは、悪い行いをする、ということ? 」と聞き返してくる。

「いや、悪い行いとか、具体的なものじゃないんだ。つまり、ランダだ。それは身体のどこかに密んでいて、悪の根っこ、どんな風にでも形を作り出す装置のようなものだ。」

「えっ、私の身体の中にあるの? どこにあるの? 」

「ああ誰でもオンナは持っているんだ。それがランダがオンナであるということの意味だ」

と自分でも訳のわからない方向に行こうとしている。しかし、意外にもこの話に乗ってくるのだ。

「私のどこにランダがいるの? 」とカーティーが聞く。僕は、すかさず「ここ。」と言ってカーティーの右脇腹の下を指でさす。えっと驚いたような様子で、右脇腹の下を見る。別の女の子は「私はどこ?」と聞いてくる。と、僕はパァっと、血液の中だとか答える。

いい加減にいっているのに本気にしそうな雰囲気である。

ちょっと話題を転じて、

「オンナというのは、オトコよりも身体が強いだろう? 長生きするよね、オトコより。精神も強いだろ? オトコなんてのは見せかけだけで、本当はどうしようもなく弱くてだらしがないだろ?」

「うん、うん」と一同五人程、うなづく。

「これは、オンナの身体の中にランダが住んでいるからだ。だから強くて長生きするんだ」

「ふ~ん???」とわかったようなわからないような雰囲気。

「悪がいるから長生きするの?」

「そうだ、まさに正解(パチパチパチと拍手)」

「悪がいるからこそ長生きするんだ。全身、善ばっかりだったらどうなるんだ。それこそ最悪じゃないか。善と悪のこの微妙なバランス、これがバリ・ヒンズー教だろ」

ここでみんな「うん、うん」とうなずく。

「ところで、本木さん、あなたにはランダはいないの?」

グッドクエスチョン。

「オレは、バロンだ。」

なぜかオオウケ。僕も頭がますますハイテンションになって

「オレは、バロンだから、ノーティーみたいなベイビー・ランダがいるやつから、アルフリーダーみたいにお化けランダがいるみたいな、まわりがそんなのばかりだから、ヘトヘトだ。バロンはいくらランダと闘ってもダメだろ。チュルルックやスリンギ、ランダの子分はいっぱいいる。わかってるかい。バロンがランダを巻き散らすんだ。まさに、オトコじゃないか。そのくせランダを退治できないんだ。おおこの矛盾。」

すっかり僕は酔っ払ったようになってしまって、バロンになった振りまでし始めた。われながらツジツマがかなりあっている。

一気にここで煙にまいて、

「ところでね、オトコの死に方で、一番幸福な死に方って何か知ってるかい。死に方にもいろいろある。病院で死ぬ。家でみんなにみとられて死ぬ。孤独に死ぬ。事故で死ぬ。どれも変りはないけれど・・・・」

といっていると「アタシ、ウチ」などと言ってきたのはニョマン。

「オトコはね、オンナのオ○○コに頭を突っ込んで死ねたら一番いいの。わかった?」

一瞬?????

「元に戻るっていうわけ?」

「そういうこと、ピンポーン。」オトコはその願望だけで生きているんだ(?)」

「だってオンナもオ○○コから出てきたんだから、戻りたいんじゃないの?」

「ノンノン、自己矛盾。自分から自分のオ○○コには行けんだろ。」

「だからオンナはランダのような魔女になって、オトコが死んでからひっそり死ぬんだ。まあ、善なる(大悪なると言ってもよいのだが)オトコを吸い取ってから死ぬんだ。」「どこへ行くと思う。」

すると一人が「海」、一人が「どこか。霊界とでも言いたいのだろうか、言葉がわからない。「どこでもないんだよ、死ねば終わりだ」ノーティが「グッバイ」などと相槌を打つ。「生きている間に、自分の中のランダをまつって、ねんごろに大事にしたらいいんだ」などと僕はすっかりプリーストになったような気分で「ナイストーキングだね。」

一同チョンチョンで、一幕が終了した。

◎ランダ:バリ島で悪の化身

◎バロン:善の象徴


2000年6月19日

バリに住みたい?

僕はまだかつて、バリ島に住みたいと思ったことはない。ここを定住の地としようと思う気持がどうにもわからないのだ。もちろん、そう思わせない理由は幾つもあるのかも知れない。例えば、仕事が日本にもあるとか、年老いた両親が日本に住んでいるとか、である。

バリ島では、居心地よく仕事をしている。日本にいるよりは楽しい日々が続いている。

僕の好きな地のひとつであるが、定住とまでいかないまだ行ってみたいところがある。何ヶ月か住んで見たいところもある。マラッカとか、モロッコあるいはニューヨークとか。

リスボンは好きな町のひとつで、アルファーマあたりに住んでみたいと思ったり、ナザレの海岸のそばに何ヶ月かいたいと思うこともある。東京の下町でも小さなアパートを借りて四月の桜を見、下町の商店街をぶらぶら買物をして、みたいなこともいいなと思う。

それらすべてを実現させようと思ったら、その場が一番便利となる仕事を作らなければいけない。

ジプシーではないが、行く先々で仕事を作り、人と接し、人と共に築きあげてゆく。長く滞在できる条件とは何か、と問えば、自分の場合、きっと食材だろうと思う。

このことを考えると、僕には明確に故郷がある。そこで、二月の下旬から三月の上旬の十日程の間にとれる「えたれいわし」は、この十日間だけアブラがうっすりとのって美味しい。軽く塩をして一日干してから焼いて食べる。

あるいは、十一月頃から南下してくるサンマは、まだアブラがおちきっておらず、これを丸のまま干物にすると実にうまい。夏になれば鮎がおいしい。

バリ島の川魚を見たかったので、料理長に買ってきてくれないかと頼んだ。彼が持ってきたのは、鯉に鮒(ふな)、それになまず。貝といえばタニシの大きなものだった。川魚の種類が少ないのに驚いた。

日本でも川魚はそんなにスーパーなどには出まわっていないが、熱帯の地には、鮎やアマゴはいないようである。

僕は、貝や魚、蟹などが好きで、その点ではリスボンはよい。タカノツメという僕の住む町でもとれる貝も豊富で、イワシも同じように焼いて食べる。アジの開きまである。

話は脇道に入ってしまったが、どうやら僕の場合、バリ島を定住地と思えないのは、そういうことからなのかと思ったりする。

バリで定住を決めている人で、僕の知っている限りの人は、一様に食が細く、食にあまり関心がない。

この辺が違うところなのかな。すると、どこのところで定住を決意するのか、そこから先の想像がつかない。脳みそをカチ割って、見てみたい好奇心にかられる。


2000年6月22日

グチる人

バリの人々と共に仕事をしている(雇っている)日本人の多くは、「バリ人は、いくら仕事を教えてもおぼえない。自らの判断で仕事を見つけられない」と不平を言う。

僕は、この種の日本人の言うことをほとんど信用していない。

「約束の終了日までにできない」「仕事が雑だ」 それは、裏を返して言えば、雇い主である日本人のことである。

例をあげよう。

朝、民宿めいたホテルで朝食をオーダーする。オーダーは、トースト、コーヒー、ヨーグルトをのせたフルーツサラダだとする。すべて完璧に持ってくるのかと言えば、トーストを持ってきてもジャムを忘れる。今日は、完璧かなと思ったら、サインをするペンを持って来ない。などなど。おそらくこのようなことが日常の仕事の場面で起こっているのだと思う。

バリ人がゆっくり歩くのは、身体を消耗させない、汗を吹きださせないための風土的な知恵である。これをグチってもしかたがない。多くのことは、言語能力が不足する為に起こるものばかりだと思う。だからこそ、指示を出す側に念押しの確認がいる。また、あいまいな返事になっていないか、そうならないようスタッフも確認とイエスとノーをはっきりするという習慣を、これは雇い主の仕事として研修し、身につけさせなければならない。

指示する側が持っているイメージがあるならば、それを何でもいいから表現してできるだけ正確に伝えるか、もしくは、見本を見せるか、一回目の失敗を覚悟するかである。国土、文化、生活習慣、経済的格差のある人々が一緒に仕事をするということは、日本人同士のようにならない。これは、誰でも当然のことと思うだろう。

わかりきったことなのにバリ人をけなす日本人が多い。

「それなら、バリにおるなよ」とつい言ってしまう時もあるが、この頃は、「いやぁ、そんなのは半分ずつの責任ですよ」と笑って言うことにしている。

自慢ではないが、僕らのグループにいるバリの人たちに僕は不満はない。その代わり、互いの仕事がうまくいくよう、経理は経理でバッチし指導したし、営業は営業で、受付は受付で、徹底して互いのコミュニケーションをはかった。当初の覚悟として、失敗はしかたがないと思っていた。

海外に荷物を送る場合でも、荷物がどのように空港やトラック業者で扱われるのか、普通バリで生活をしている人は知らないから、傷がついたり、割れたりしないように梱包する方法をきちんと言った上でやってもらう。それを「この荷物、日本に送っといてくれ」じゃぁ、あまりにも無責任すぎる。

このように不満をもらしながらも、バリを出てゆかず定住まで決めている人たちだから、本当は、日本人といっしょにやるよりはしんどくないだろうと思う。根っこの方ではバリ人を好きなのかもしれない。だったら、「言うなよ」と僕はいいたいのだ。


2000年6月25日

《社会性》の世界

個人の世界と共同の世界、この世界をこのように分類することができる。共同の世界は、さらに各個人との関係性の世界だと言うこともできる。

「家」というものを考えた場合、それは共同的な世界であり各個人は、父と子、母と子、兄弟というような関係性のなかで縛られている。

「家」を場所としてみた場合、台所は、家族の関係性の世界であり、夫婦の部屋は夫婦という関係性の部屋であるが、それらは、外、つまり第三者にはあまり開かれていない。個室は完全な個人の世界である。第三者に開かれた、つまり社会性がある場所といえば、玄関、トイレ、応接間、時には居間である。「家」は共同の世界でありながら、その中には、内側に閉じる世界があったり、外に開く世界がある。

近所に人がいなくて、親が人付き合いもあまりないという場合、親と子の社会性はどのように養われるのだろう。

唯一、第三者を意識して、せっせと片付けをしたり、掃除したりする。トイレや玄関も第三者を気にせず、好き勝手に置き雑然としている、家族という関係性だけの場所として使っているのなら、子供の社会性は養われていくとは思えない。

社会性を身につけるために学校にいくのであるが、それまでに何らかの社会性がしみのようにでもついていなければ学校に拒否反応が起こったり、学校での人間とうまくやっていけず、心の病気になっていくのは想像できるような気がする。

人間は、個人の世界の中ではいくらでも妄想を膨らませることができる。どんなイメージを描こうが勝手である。ところが、これは不思議なのだが、この妄想は個人の部屋の中ではいくらでもできるし、寝転んでボヤッとテレビを見ているとき、学校の自分の机にすわっている授業中ならどれだけでもできるのに、二人や三人、グループでいる時、公園などを歩いている時などは、妄想は起きにくいのである。

つまり《社会性》の中にいる時には《妄想》は起きにくいのである。

さて、バリの話。バリの人々は、家も隣近所も互いに開かれている。個人の部屋というものがない。いつも近所のものも出入りする。つまり、《社会性》だけの社会であると言ってもよい。かろうじて夫婦という関係性の部屋があるといったところだ。

バリの人々は、人付き合いも上手に思えるし、喧嘩をすること、大声で怒鳴ることを嫌う。

従って妄想の度合いが少ないように思える。歪んだ妄想のような世界が少ないと思えるのは絵を見てもわかる。病的な絵がない。

個人の妄想の度合いが少ないかわりに共同の妄想が多い。悪魔やら霊やら妖怪みたいなのが多い。  

病気も共同の妄想の原因や結果であったりする。

日本はいつの間にか、いじいじした神経症的な人の多い国となった。

バリ島は、今後どう進むのだろうか。そして、日本人は、次の時代の理想をどのようにイメージするのだろうか。

2000年7月2日

意志

石をひたすら削り、四角形のものを作り、壁に貼り込めていく作業。床のテラゾーをひたすら磨き上げていく人、ガラスを接着させ、積み上げ、隙間の汚れをとる人、鉄パイプ等で枠組みや支え棒をセットする人、飯を売りに来るおばさん。もっと詳しく言えば、新婚ホヤホヤで六時になったらいつもいなくなる左官屋の大将。やらなくちゃと思っていそうな人、疲れた疲れた、腹減ったをくり返している人。工事現場は、バリ風に遅れつつ、ちょっとづつ進行している。

料理チームは、新しいレシピが多いのにややとまどいながらも、シェフに才能があるため、予定通りにスケジュールをこなしている。

日本チームとオーストラリアチームが加わり、昨日からはウエイターやウエイトレスのトレーニングもスタートした。

レストランを作るというのは、実に楽しいだろうとは思っていたが、こうまで楽しいとは思っていなかった。

自分の世界をレストランに閉じ込めるわけにはいかない。いろいろな好みをもった人がいて、それらトータルの平均値として「客が来る」ことが決定する。

始まりからレストラン開始まで三ヶ月。バリ島というものが集中して現れる。世界の中でのバリ島も、内としてのバリ島も政治、経済、日常的な生活、宗教、システムすべてがこの三ヶ月に凝集されていて、僕はその中で指揮をとるわけだから、なかなか刺戟的である。

最も感じたことは、おそらくアメリカ人が日本人を見る時、皆同じ顔に見えて、みんな同じような考え方をもって何かのっぺらぼうとしたイメージを持つのではないかと思っていた。

バリの人々は、その点で言えば、さらにのっぺらぼうとしている。悪い意味ではない。前にもここで書いたが、個人の生活というものがほとんどなく、共同体の中で生きる彼らは個人の意志をも共同体に預けたり、意志=共同体の意志であったり、恋人ができても、すぐに村に連れていったりと個人、家族、村の境界がほとんどないようなのだ。だから、強烈な個性というものが現れにくい。個性がある、ないは「幸福」には関係ないように思われる。

こまかいことをもうひとつ。バリ島の人々の動作のゆっくりさである。彼らは、エネルギーの消耗を動物的な感覚でコントロールしているのである。

身体を早く動かせば、汗をかく、エネルギーを消費する、タオルやハンカチもいる。彼らの身体の計算能力がこの風土に適応しているだけの話である。

これを無視して、日本人の尺度でやろうとすれば、必ずコントロール不能になるだろう。

今日は日曜日。朝から爽やかな天気である。庭のブーゲンビリアが陽を受けて美しい。その背景にある空の色もまた美しく、バリ島では一番良い季節だ。


2000年7月3日

だまされた分

925と彫ってあるシルバーアクセサリーも安く出まわっているものはほとんどニセモノである。  

ウブドのマーケットで売っているものはサギ同様のものである。シルバーを磨く時に使う液で拭いてみたらすぐわかる。メッキがはがれてしまうのである。

僕は、だから気をつけろよ、と言いたいのではない。

発展途上の国では、この手のやり口が実に巧妙にできあがり、それを売っている純朴そうな女の子は、きっと本物だと思って売っているのだ。作る巧妙さから売る巧妙さまで「やるなぁ」と感嘆してしまうのである。

これがいけないことだとか、悪いことなのだから、と言っている倫理や法の基準では、そこを問題にする限りは、やられた側は怒るしかないのだ。

別の観念の導入が必要である。「それは、騙された分をあげる」と言う考えである。原材料費、加工賃、手数料の合計が売っても良い値段だとすれば、それ以上はボーナスである。そのボーナスは、衣類や食べものや家賃にまわるかも知れない。決してアワのように、お金はまわっていかないのである。「だまされた分」は確実に、このインドネシアやバリ島の経済の中に組み入れられ、新しい生産を増やしている。こう考えた方が、まあまあ怒りもおさまる。

観光客で行く限りは、このくらいのおさめ方の心の準備が必要だろう。それをカンカンと怒っていたのでは旅も台無しである。

「だまされた分」のお金は、日本でだったらもっと巧妙にスケールが大きく、しっかりとシステム化されている。麻薬にまわるのか、天下った元官僚にまわっていくのか、そしてそれが生産を促すものなのか、判然としない。

お金の一部は、とにかく海外口座、幽霊会社、他人名義でまわるやり口の中で、裏に沈んで眠っていたり、時効となって表に出てきたりである。

日本人が戦後身につけたものは、僕は何度もこの日記で書いたことだが、「神経症」とこのような「高度なだましのテクニック」である。テレビ局やマスコミはさしずめこの二つの象徴的存在である。

話が長くなりすぎた。


2000年7月8日

いつも不思議に思っていたのだが、まだその理由を聞かずにいる。

それは、食事をとる、そのとり方と場所のことである。バリでは、お腹がすいたときに、ナシチャンプル(白いご飯のまわりに、鶏肉や野菜などの四~五点を置き、混ぜて食べる。)をそれぞれが食べる、ということは知っていた。

僕が働く事務所には、楕円形のテーブルがあって、そこは会議などをする場所である。そこには、椅子もあるのだから、そこで食べるのかな、と思っていたら、ひとりなぜか隅のほうの机の前で、ひとりは更衣室の中で、ひとりは通路の脇で、ひっそりと隠れるようにして食べるのだ。丸イスにナシチャンプルを置いて、右手でひっそりと、しかもさっさと食べる。食べる時間もそれぞれ違っている。みんなでワイワイと喋りながら食事をすることは決してないのである。

唯一、一人になれる時間なのかな、と思ったり、まあ、それは習慣なのだからそんなもんなのか、と思ったりしていた。

「食」にさほど関心がないという人たちは平均的に、消費生活は先進国から言えば、貧しいものがある。生きてゆくのに絶対に必要な、つまり基本的に体力を維持する食、そして衣、住で収入のほとんどが消えていきそうなところにプラス通過儀礼のための蓄えがいる。

食べることなどは、必要最低限のものを食べればよく、あとはさっさと働いて、みたいな感じがあるのか、あるいはいつも出入りする家の中で、食事時間を決めて、家族一同そろって食事をするというのは、さらにもっと煩わしいことなのかも知れない。日本では、個人の生活も尊重され、家族が一同にそろうのは夕食くらいしかない、だからその一回くらいは家族が集まって、いろんな話をしようという気持になるのかも知れないが、バリでは四六時中、親、祖父母、兄弟、嫁、いとこやはとこ、それに近所の人がいて、今さらみんな集まってなどということは、それこそ通過儀礼での時で上等だと思っているのかも知れない。

本当のところはわからない。

毎日、変ることのない食事の内容では、食はただ本能的なものであるかも知れず、淡々としたものなのだろうか。

クタで食事をする、などとなれば、一ヶ月の給料のうちの一週間分くらいが飛んでしまう。印象としてバリの人たちは、たとえ観光客がワイワイと食事をしていてもいっしょに食べるということは苦手のようで、高給とりのガイドですら、ひっそりと屋台とかワルンという小さな食堂で食事を済ませ、気長くお客の食事の終了を待っている。

クタやレギャンがいくら賑わっていても、村に帰った人々は、ひっそりの食事をしているのだ。そして、その時、たったひとりになって食に集中しているのだ。そしてまた共同の世界に戻ってゆく。まるで、日本と逆なのである。互いに似通ったところがいっぱいあるのに、この点は逆なのである。


2000年7月9日

「食」ふたたび

 「食」についてもう少し考察してみたい。

おそらく「食」は「食文化」とも言われるから、経済的な豊かさと相関しているのだろう。

僕も含めて、日本人と言うのは何でも良く食べる人々である。日本料理はいうに及ばず、どこの料理もどのような料理のしかたをも、あまり拒否せず、どのような食材にも取り入れ方が早い。

自分で調節の出来る選択消費のお金が増えたからそうなった、とは単に思えない。

明治期、日本が近代化してゆく過程でも、今のバリ島より外国人は断然少なかったと思うが、洋食を取り入れ、日本料理もさらに高度に発達していったように思える。

飛躍させて想像してみる。我々の遠い記憶である。今から一万年も前、海流に乗ってポリネシアやインドネシアやフィリピンの人々が日本列島に漂着する。やしの実が遠き島より漂着するのと同じだ。あるいは、中国の南の海岸辺りからも日本列島に入ってくる。おそらくきっと朝鮮半島からも、ロシアの方からも入って来たに違いない。

この日本列島は、天皇制が成立する以前、かなりの人種、民族が混り合う、地球上の最終的な場所のひとつだったのかも知れない。日本人の顔は、純粋に顔だけ見れば、ロシア、モンゴルあたりから南、西はヨーロッパを除いてトルコ-アジアのどこにでもいるような顔をしている。

どのような食材をも食べようとするのは、もちろん、食材が保存できる季節、できない季節などの風土がその基礎的条件としてあるだろうが、遠い記憶のせいなのではないだろうかと想像したりする。

日本列島の東は太平洋。このファーイーストでいろんな民族が混りあった時代があったと考えたら、我々日本人はインターナショナルな視点をつかむことができる。

遠い記憶が研究されればおもしろい。


2000年7月13日

バリの風邪

エステ・デ・マッサで一人、咳をゴホゴホしているスタッフがいた。次の日には三人になり、その次の日は、五人になり、また次の日にはグランブルーに移り、僕を含め、アキちゃん、バーキャプテンのプジャナと感染していった。

まるで、小学校や中学校の集団感染である。風邪のウィルスの伝染力、その早さに驚いている。

この経験で、バリ人がどうしてボレという各種スパイスを粉にして、体に塗るのかわかるような気がする。微妙な気温、湿度に身体が敏感なのだ。日本でだったら毛布もう一枚というところだが、こちらでは暑すぎ、その差が微妙すぎるのである。

僕は、真夜中に咳で苦しみ、味覚がなくなり、人への感染を恐れ、あと十七日でオープンの「グランブルー」への影響を恐れている。

世界でも、バリ島でしか見れないガラスのレストランができる。ガラスはバリ・ガラスという海の色をしたようなものだ。それが、陽の光によって、煌き、輝き移ろう。夜は、ライトで一定に光を出すが、人の動きによってガラスが反射する。

英語名のキャッチコピーを「Reflections of the Deep」とした。日本語キャッチコピーは「海に似た感情」と決め、一斉にガルーダ誌やホテルに置かれる雑誌などに広告を出した。

世界中の人に楽しんでもうらおうとメニューも斬新をきわめ、驚き、舌鼓をうつものばかりである。

たぶん、一見、一味に値するレストランになると思う。

この日記を読んでいる方に、ひとつタクシーの安い乗り方を伝授したい。グランブルーに来てもらう為にである。

空色のタクシー(バリ・タクシー)がこれまで良心的メーター料金でやっていて、断然、日本人に好まれていたのだが、白色、オレンジ、紺色のタクシーもメーターを持っている。だが、これらのタクシーは人を見て、メーターのスイッチを押さないのだ。しかしである。「メーター」といえば、たいていはスイッチを入れる。これは、必ず言って欲しい。

さて、タクシーでグランブルーを目指す場合、「グランブルー」と言ってもまだタクシーの運転手は知らない。だから、「レギャンストリート、ホテルプラウィタ」と言って欲しい。本当は、ホテルアクエリアスの二階にあるのだが、このホテルは知られていないのである。ホテルプラウィタならほとんどの運転手が知っている。ヌサドゥアからでも約百二十円~百五十円くらいのものだ。インペリアルやオベロイからだと南に下るだけであり、七十円か八十円くらいである。

あと十七日。もうすぐ僕の滞在も一か月半が経とうとしている。


2000年7月14日

気がついたことアラカルテ

五月の下旬にバリに来てから五十日くらいになる。バリ島について新たに発見したことを述べる。

まず、水である。どうしたことか髪の毛が縮れはじめ、髪がパサパサとしてきた。応援スタッフのオーストラリアから来たパトリシアもそうだという。どうやら水のせいではないかということになった。変化は髪の毛だけでない。白いマニキュアが黄色く変化してくる。白いシャツは何度か洗っているうちに黄ばんでくる。

バリ島には、爪を伸ばしている人が多いのだが、男性も女性もその爪が汚れてみえる。実は、汚れているのではない。伸びた爪の裏表が水に攻撃されて、光沢を失い黄ばむのである。これがひとつ。

次に、バリ人には地図が描けない人が多い。ほとんどの人が描けない。逆に言えば地図が読めない。日本では、全ての家が載っている市町村別の地図もあればランドサットによる地図もある。バリ島では警察すらこのような地図をもっていないし、詳しい道路地図もない。

学校で地図を描く練習もないようだから、必要性がなかったのだろう。

次に話のポイント、核心的なことに触れず枝葉のこと、周辺の具体的な話がやたら多い。例えば、「いつから台所がつかえるの? 」と聞くと、「来週の月曜から」と答えればすむ話を、手洗い場がこうこうこう、こうなって、キャンセルをして、それはどういうわけで、だれのせいで、オレらは夜中まで家に集まって相談して・・・・」という話になり、さらに、話が飛び階段を支える鉄は一本ではすぐに腐ってしまうのではないか、不安だ、延々と話は続き放っておくと結論はなく、まるで終わりのないバリの音楽を聞くような感じだ。

「それで、台所はいつになったら使えるの?」と聞くとまた別の話をし始める、といった感じである。

次に、一人に質問すると寄ってたかるように三人、四人と口をはさんでくる。それも怒った様子で口をはさんでくるので、一人の言っていることが何か間違ったことを言っているように思える。

「やかまし! オレは今、スリアシと話をしているんだ。」

と思わず言ってしまう。

人によって違うのだろうかと観察していると、確かに無口な人もいるが、その無口なひとでさえ、時に参加してくる。だから一般的にそんな風なのだろう。

次に、漢語ではなく、恐らく昔から使われていた言葉なのだと思うが日本語の動詞と音の意味がよく似た言葉がある。

語る、ストーリーを語る、物語みたいなことをカタとかカタカタというし、気持がたかぶるはタカブルと同様である。日本語という言語がある時期、この辺とも密接につなっがっていた、つまり日本語が積み重なってきた歴史の初期の頃、よく似た言葉を日本人も喋っていたのではないかと思ったりする。それは、着物をはいでいけば腰巻、つまりバリのサルーンが最後に残るというような、どこか根底のところで共通したものがあるという感じなのである。


2000年7月15日

ひそやかに、遠慮がちに

パトリシアが帰る日が来た。彼女は十七日間、メニュー作りとウエイター、ウエイトレスのトレーニング、ヨーロッパテイストのチェックと大活躍。

最後の仕事が終わってパトリシアがあいさつをして、さてみんな二十才以上のバリのスタッフを見ていると、何ていうのだろうか、「世界うるるん滞在記」みたいな感じだ。

しらけた人がいないのが不思議だ。人はみんな貴種流離譯のようになってしまうのだ。他所から来る人はなぜか尊く見えるものだ。

彼女はこの十七日間、彼女が会ったバリの人々を批判することも、非難することも、愚痴をこぼすこともなく、文化・生活習慣の違いというものをしっかり認識して、仕事に入っていた。えてして、「バリ人って・・・・」と、馬鹿にした言い方をする人がいるものだが、この点は、わがスタッフは気持がよい。

彼女が大好きなロングコーヒーもメニューに入れた。素敵なレストランで、美味しい食事をして、ワインを飲む。そして素敵な音楽がかかる、などと最後の夜は、はしゃいでいるように見えたが、そしてシェフやバーキャプテンもひそやかにこれから話が弾むことを期待していたのだったが、ふいの訪問客が僕の部屋のガーデンに来た。

テレビのワイドショーや歌謡番組の何分かのコーナーを請け負って、制作している仕事をしている会社の社長だった。僕らは彼を歓迎しつつも、シェフたちは日本語がわからないから、とたんに遠慮の姿勢となって、パトリシアのお別れ会めいたものはそのまま散会となった。

さて気がかりは、淋しそうに、遠慮がちに帰ったシェフのバワやバーキャプテンのプジャナであった。パトリシアも、しかたなさを感じているものの、心残りであったに違いない。いろいろあった日だった。


2000年7月16日

えんえんと続く話

「バリ島では人の家の豚を盗んだら、殺されるのか」

「それは警察が来るのが早いか遅いかの問題だ。警察が来るまでなぐり続ける」

「それは人の物を盗んでも同じか。」

「同じだ。路上でスリがいて、そいつが捕まった場合は半殺しだ」

「盗むのに命がけならば、なぜ、君らはそんなに物を盗まれるのではないかと心配するのだ。」

「他所から入ってくるものが多いからだ。素性が知れない」

「その他所のものも、盗むことは命がけであることは知っているだろう。」

「知っていると思う。だがやる」

「バリ人は穏やかそうに見えるが」

「静かな時が危ないのさ」

「ほう、静かな時? 今は政治に関しても、みんなペチャクチャ喋っているだろう。好き勝手なことをいっているだろう。だから安心なのさ」

「ということは八月は大丈夫なのか」

「まず大丈夫だろう。ひとは騒いでいるから。それが静かになると危険だ」

「話を戻すが、豚一匹くらい盗んで人を殺す、というのはヒンズーのおしえには背かないのか」

「背かない。豚になる人間なのだ」

「人の命は尊いか」

「尊い」

「悪人でも尊いか」

「尊い」

「尊いならば、なぜ殺すのか」

「尊いから殺すのだ」

「汚れた命をこの世でもつよりいいだろう。そして豚になる。あるいは犬になる。やがて人間に戻るかも知れない」

「ほう輪廻転生か。この世は惜しくないのか。

「惜しい。だから生きているのだ。

終わりのない会話がえんえんと続く。彼らは真剣に自らの掟を話す。


2000年7月17日

アマヌサの満月

今回、バリ島に来て、二度目の満月の日を迎えた。ちょうどパトリシアが帰る日ということもあり、また彼女はクタ・レギャン以外どこにも出かける余裕がなかった、ということもあり、満月、と言えば「アマヌサ」(ホテル)だろうと、そこに夕食を食べに行くことになった。

六時三十分出発と決めた。アマヌサまでレギャンから二十分。夕方から雲が出、四時頃は空がどんよりよしている。鳥毛さんがいたので、「今夜は満月ですけど、あの空じゃ見えませんね」というと、笑いながら「いやあ、わかりませんよ。島の空は変りやすいですから」その言葉の方が自分の予想より当たっていると思ったので、予定を変更せずに出発した。途中、大きな橙色の丸い月が左方向に見えた。

しばらくすると月を見失った。月が見え隠れしているのだ。アマヌサのロビーの左手のカフェテラスに入るあたりからの月は真下で美しい。それを期待していた。

アマヌサに着いたのは六時五十分。やや月の位置が期待と違う。もう三十分早く来るべきだったのだ。僕の見る位置から前方に「テラス」というレストランが夜の闇にぼんやり浮かんでいる。そのむこう遠くに海がある。月はすでに「テラス」の屋根の上の方にあった。期待は屋根の左側の方に見えてほしかったのである。このホテルを見るたびに、設計者の心にくい、月をも考えに入れたデザイン感覚を思う。どんな人なのだろうと思う。

月は相変わらず雲間に見え、また隠れしている。もしも雲がなかったら、月の光はその下の海を集中的にさざめき立つように照らすはずである。

カフェテラスでビールを飲み、しばらくヌサドゥアの方向の風景を見ていると、プールサイドのイタリアンレストランの前で、ティルタサリ楽団のスマールプグリンガンが始まった。満月の日の特別な音楽である。踊り子も踊っている。音楽を聴きながら階下に降りて、プールの脇を歩き、また右手の階段を昇って「テラス」に入った。オープンエアのところは風が強いため使用できず、屋根のある方に迎え入れられた。とたんに月は見えなくなる。興がなくなる。恋人たちは手を取り合って、オープンエアのところに歩き、月を見ては抱き合い、うっとりとしては、またこちら側のテーブルに戻ってくる、ということを二、三度繰り返す。

彼方から儀式の歌らしい、よく通る歌声が聞こえてくる。オコカンの音、ガメランの音もする。バリ島では満月の日は儀式が多いのだ。アマヌサの敷地内にある小さな寺院でもスタッフたちが儀式をとり行っていた。

パトリシアとは久しぶりにいろいろな話をした。

「オレは本当は詩人になりたいんだけどね。二十五間目、いつも詩人になってるんだけどね。現実はあれこれ次から次へと思いついたことをやっている」

「一時ストップしなくちゃならないかもね。いや、六十才になったら、ストップするかな、あとはすべて出してしまう。今は性分だからしかたないかな」

などなど、この三時間はグランブルーのことはひとつも考えなかった。

レギャンに戻り、パトリシアが空港に向うと同時に雨がぽつりぽつりと降り始めた。


2000年7月18日

バリ人にとってのバリアン

ソースシェフのプトゥがすまなそうな顔をして、早退させて欲しいと言う。理由を聞くと、「妻がバリアンに行くのでどうしても夫がついていかなければならない」と答えた。「どこが悪いのか」と聞くと、「頭痛がとれない」と言う。「病院に行ったけど、なおらない」と言う。何か医師でもわからないことが、彼女に起っているのだろうと家族のものは心配する。当然、親あたりからバリアンに行ってこい、ということになるのだろう。

バリアンは呪術師である。夢枕 獏の「陰陽師」の安倍清晴明とはちょっと違っているようだが、だいたい村落に一人くらいはいるようだ。それぞれのバリアンに対して評価も違い、有名なバリアンには遠いところからでも人はやってくる。

以前、この日記でも書いたように相談の多くは、家族親族内のトラブル、精神的なことが原因っぽい身体の不調、突然のぎっくり腰などである。

風邪を引いたからと言って、バリアンに行くわけではない。骨を折ったからと行くわけではない。

奇妙な事柄、例えばよくないことが続いて起ったとか、どうして家族内の口喧嘩が多いのだろう、とか解決が自分でも不能な場合に行くのである。

透視術も持っているように思える。強い《気》を発することができるように思う。そのバリアンが本当に透視できるのかどうかは、そのバリアンしかわからないので、何とも言いがたいが、おそらく常人とは違う神経や知識、気力があり、その点で区別すれば異常の人なのだろう。

特に思うに、重要だと思われるのは、生業として個々人の願いを、彼がすべて吸い取り、不安や苦痛を取り払ってくれるということだ。

このようにして、個人は自分に突然現れた災難や苦悩を解消しようとし、共同体の生活の中でのバランスをとっているように見える。

プトゥに「奥さんはなおったかい?」と聞くと、「なおった。」と言う。

二~三日して今度はプトゥが胃が痛いと言って、仕事を休んだ。僕はいささか、プトゥと奥さん、そしてプトゥの母親や父親、これらの関係が今良くなく、間にはさまれたプトゥも疲れているのかな、と思ったり、奥さんは、神経過敏な人なのかな、想像したり、子供はどうなっているのだろうと思ったりするが、「ガスター10」を見せ、これですっきりなおるから、と言って与えた。

翌日、「すっかりなおった」とプトゥは報告に来た。

何かトラブルが解決したのだろうか。


2000年7月24日

恥?

「ジャナの風邪は治ったかい、イエニー? 」

と聞くと、婚約者のイエニーは困ったような顔をして

「実は本木さん、ジャナは今シガラジャの実家にいて、会社には恥ずかしく出れない、と言ってるの」

「恥かしい? どうしてなんだい?」

「同じ会社で夫婦は働けないことになってるでしょ」

「同じ会社じゃないよ。グループ会社だけど、別々の独立法人なんだから」

「?????」

僕は、エステ・デ・マッサに関しては経営者ではない。ブックツリーが経営コンサルタント会社として管理運営しているだけだ。このことは何度言ってもわかりにくいらしい。

「いいから、全然心配することないから、気にせずに来るようにいっておいてね。」

と言うとイエニーは安心したように、うなずいた。

翌日、ジャナは来なかった。そして、今日も来なかった。

オカと、ジャナのことについて話をした。気にせずに来いと言ってくれ、と言った。オカも同様のことをいっているらしいが、あきらめ口調である。

この辺の本当のところがつかみにくい。日本人同士ならなんとなくわかるところなのだが、藪の中のような感じだ。イエニーやオカは、わかっているのだろう。

 一 前の彼女が同じ場所で働いているからなの

か。

 二 相当に仲間の口や目が気になるのか。

 三 仕事に自信が持てないのか、好きな職種では

ないからなのか。

 四 別にもっと給料のよい仕事が見つかったか

らなのか。

 五 イエニーの収入に甘えているのか。

ジャナは、ほんの四ヶ月前まで職探しをしていた。 

今のバリで仕事を見つけるのは困難である。英語が出来る男性はゴロゴロいるのに仕事がない状態だ。

しかも結婚式が近づいている。イエニーはしっかり者だから、彼女におんぶされるのだろうか。どういうつもりなのだろう。

イエニーが言うには、

「アタシも少しは遊んだけど、私、もういい。終わり、ジャナはプレイボーイで、ジャナのお父さんが心配して早く結婚させたがっているの、それで結婚式も急ぐのよ」

と真剣にあっけらかんと言う。

彼女の説得も功を奏しないのか、来るような感じがしない。当然、職を探している人が多いから、次の者が早々とやってくるだろう。

歯がゆいところだけど、これ以上手は差し伸べられない。


2000年7月31日

ある種の暴動

日本、オーストラリアから全てのスタッフがバリ島入りし、ホームページも中断した。

建築のほうが間に合わず、キッチンスタッフたちのイライラが募り、デザイナーである鳥毛さんとは一触即発の危機が三週間続いた。

鳥毛さんそのものは、ガラスの芸術家であり、建築家ではない。その弱点が厨房や建物の構造物に現れた。そんなふうなこと、あんなふうなこといろいろあったが三十一日のパーティーは無事に済んだ。 

たいへん混沌としてしまったパーティーであったが、盛大にそして、ミスだらけで終始したが、これまでのだんだん近づいてくるプレッシャーを来賓たちが帰った後、音楽に乗って、気持ちよくガス抜きをしたと思う。

それにしても、この時のスタッフたちの浮かれ方は良い面に出た暴動の一種である。たまっているものが吹き出る。おそらく、去年のヌサドゥアでの暴動は、悪い面にでたのだろう。

最後、プレゼントを用意していたのでクイズを出した。「バリ島の時計は左回りである」という問いに対してYesとNoで答えるものである。出題者の僕の前五十センチまでつめより大興奮して、手を挙げイエス、イエスと叫ぶ。そうこうしているうちにケチャックダンスの掛け声が始まり、もうムチャクチャである。・・・・にしても、僕は昨日、のろのろ歩く女の子に、急ぐ時は手を振って早く歩きなさい、といったばかりなのだ。それほどのんびりしている人たちなのだ。それが大興奮となり、ツイストはやり、敏捷なところを見せるのだ。あぁ、驚いた、というのが正直なところ。

自慢ではないが、出した料理はひとつ、ひとかけら残らずきれいになった。

美味しさはとびっきりであることは保証する。値段も手頃な値段に設定してある。

みんな力を出し合って素敵なパブレストランが出来上がった。

乞うご期待!!バリ島に来たらぜひとも私を指名してください。


2000年8月4日

最後になって

この日記は、主にバリ人について書いているが、バリ人たちと仕事をしている中で、新たに発見したことがある。それは、一番大切なことを最後のギリギリになって言うことだ。

例えば、日程を決めて街頭配布のスケジュールをたてる。たまたまこの日程の中にバリのガルンガンという三日間の祝日があったとする。

日程を決める会議の席で、彼らは一切、そのことを僕に言わない。言ってくれればガルンガンの日を除いて予定をたてるのに、イエスの返事で事が進行する。

さて、どうなるか、と言うとガルンガンの前日の仕事の終了間際、この時に言うのである。

これは、どんな場合でも同様に思える。

食材を供給してくれる会社はOKか? と聞くとO Kと言う。オープンの前日になってそのうちのひとつシーフードの食材店で、ロブスターやキングプローンが手に入らないと言い始める。

これはどうしたことだろう、と思う。

今日でオープン四日目。閉店後の後片付けで、男女それぞれのスタッフがワイワイとふざけあって、フォークやナイフを拭いている。ある女性は胸が見えるのを隠すような身振りをし、二~三人の男が楽しそうにそれを冷やかす。楽しそうに皆でやっているのだ。

どちらにしろ、このような風景を昔見たことがある。それは、小学校の頃だ。仲間同士でこつきあって悪ふざけをしたりしていた。そこには、必ず先生がいるかいないかの気配があった。先生と目が合うと、なんだかきまりが悪かったり、何か自分が見抜かれているようだった。

そんな光景と同じようなのだ。

僕はこれを馬鹿にしていっているのではない。

おそらく個人という世界の概念がなく、常に仲間といること、それは学校での休み時間を仲間と過ごすという共同的な関係の世界だけで彼らの精神世界ができあがっているからなのかも知れない。それは、僕の目から見れば、子供の世界のように思えるが、ここバリでは大人の世界も同じようなのだ。

最後になって物を言う癖はやめさせなければいけないと思っている。利益を追求する会社なのだから予定がたたないとやっていけない。資本主義というのは、こういうことからでも人間を徐々に資本主義のスタイルに合うように変えてゆく。いいことか悪いことか、これも自然史のような気がしている。


2000年8月5日

主張しないバリ人

インドネシアという国家については詳しくは知らないがバリという島に住む人々の感情というものは、徐々にではあるが把握できそうな気がする。しかし、それはあくまで外国人から見た把握のしかたであり、正確を欠くと思う。

例えば、バリのたいていの服屋さんだが、五年前と変らずアメリカサイズのものばかりを売っている。身長150cmの女性は、ほとんど好きな服が買えない。男性も同様であり、ポロシャツを買いたいと思ってもデカすぎて、買えない。バリは、日本人観光客が圧倒的に多いというのに、またここはアジア人の島であるというのに、何もかもがアメリカやヨーロッパのサイズである。

店員に聞けば「無い」というだけで、それじゃ日本人向きのサイズも揃えてみようかという気もないようである。幾つかはある。気が利く店は当然客も多いのだ。しかし、断然多くは、隣りがそうだから、どうもそれが当たり前のようだから、当たり前のことをするのが商売として正しいのだ、と思っているようなのである。

アメリカ人やヨーロッパ人は主張する。その主張することがバリ人に反映される。日本人は主張せず、買わないだけである。主張しないものだから、バリ人に反映されない。

アイリッシュコーヒーは、どこも置いてあるのに、日本で飲むようなブレンドコーヒーがない。日本の居酒屋で飲むウーロン茶やチューハイもバリでは置かれていない。アイスコーヒーも同様である。

これは、アイリッシュコーヒーを要望するヨーロッパやオーストラリアの人が多いからである。

もうひとつ理由がある。それは、情報を伝達する意志の問題である。

店員が恐れすぎてオーナーに対してほとんど何も言えない。だから、情報が伝わらない。さらにある。知ったことを他に伝えることをメリットと思っていないということだ。

知ったことを教える、それができれば情報が伝達され商売も活発になる。しかし、それは危険なことでもある。人に教えればその人はでしゃばった奴だと見なされる危険性もある。オーナーが喜び、その店員一人をほめれば、嫉妬の嵐である。底意地が悪い、ともとれそうだし、無責任、まるで子供だ、ともとれそうだが、バリの村で生まれたときから身体と精神に「みんなでイコールにやっていく」という物の考え方をたたきこまれているのだろう。

にしても、このことを知ってかからないと四六時中バリ人に関する愚痴を言うはめになる。


2000年8月6日

訪問客

今日は、全国商工会連合会のジャカルタ事務所の園田所長が、わざわざバリ島まで足を運んでくれた。  

彼に、グランブルーを見せたかったが、あいにく今日は床磨きと台所の改装などで二日間休むことにしたため、残念なことだった。僕は、彼の訪問でゆっくりと食事ができる絶好のチャンスを得て、久しぶりにくつろいだ。

スミニャックの北にあるHANAという日本レストランは一ヵ月半ぶりである。日本レストランなのに、ハッピを着たり、ハチマキを巻いたりしてないのが良い。テーブルが広いのも落ち着くものだ。グランブルーは、テーブルは素敵なのだがサイズが小さい。不満のひとつである。

園田さんは、四十二才。東京の広告代理店に勤めていて七年前に転職した。四ヶ月前にジャカルタ事務所の二代目所長を命ぜられて、奥さんと子供を連れて赴任した。主な仕事は、日本の中小企業のインドネシア進出の情報窓口である。僕も、バリ島で仕事を展開する時、ジャカルタ事務所のホームページが役立った。

インドネシア内で頑張っている日本人を取材したいのだと言う。三年間でそういう人にいっぱい会いたいのだと言う。

「あれこれバリ島、発見・発掘」にも連合会のH・Pを入れましょうよと提案する。このような連合会の情報は貴重なものがある。インドネシアの税制、会社法、労働法なども会社手続きのことも全部日本語にしてくれている。インドネシアで仕事をしようとする人は、まず一番に得たい情報である。

「でね、園田さん。僕は、バリ島のことは一部しかわからないけれど、バリ人の精神の構造みたいなもの、バリ人の行動をこういうふうに理解したら、イライラせず、怒らずにでき、だました、だまされたと言わなくて済むようなこと、そんなことをエッセイでもいいから情報として提供したらどう?」

例えば、バリ人は決して走らないし、急がない。しかし、この熱いバリにやってきた日本人がせかせか歩き、バリバリ仕事を朝から晩までやっていたら必ずバテると思う。

エネルギーの消費量を身体が時間で割って調節しているように思う。その理解の仕方は正しいのかどうかわからないがそう思えば、動作が遅いことにも腹が立たなくなると思う。

連合会の初代所長は法制面や手続き面の情報提供を整備した。園田さんは、このことを継承しながら、精神面の理解の仕方を様々な角度から、豊富な事例から提供してくれればよいと思う。

忙しすぎて翌日、話の相手もできず、園田さんは帰ってしまったが、また八月中に来るということなので、その時さらにゆっくり話ができると思い、取材をして人に知らせるという仕事はいろいろな人に会えるのだから、ぜひともいろいろな人のことをきいてみたいと思ったのだった。


2000年8月8日

混交すること

日本民族は、いろいろな種族の混合なのではないか。日本人は、ゲルマン民族やラテン民族とは明らかに違う容姿をもっているが、地球上のある範囲内の民族のそれぞれの顔を持っているように見える。  

奈良朝以前、実に様々な種族が住んでいたに違いない。

バリに三ヶ月も住んでいると、このことを実感する。エディという二十才の男の子は日本のどこでもいそうな優しい美男子であるし、ティルタサリ楽団の太鼓奏者は、中井貴一をよりキリッとさせたような顔をしている。

この実感は、おそらく今後、研究され証明されていくのだろうが、僕らは過去に逆上ることによって、現在および未来での民族というものの解体への視野をもつ、あるいは僕らは同じ根っこをもつ人間なんだと認識できればよい。

さて、話題を変える。

バリのいたるところで「ンブルンブル」という幟を見る。ペンジョールという竹の幟とは違い、布を張っている。日本の長方形の幟を見ると、いかにも趣味の悪さに幻滅し、なにか村おこしのイベントでもあるのだろうと思うだけだが、バリ島のンブルンブルは布が細長い直角三角形になっていて、色も様々で特にバリの青い空の色と光と風によく合っている。このセンスは、どこから来るのだろうと思う。

聖なる山アグン山を象徴したもので、竹のペンジョールの代わりにこれを思いついたバリ人に敬意を表する思いだ。

メリアバリというホテルのフロントロビー前にも、ホテルオベロイのプライベートビーチにもンブルンブルはパタパタと風ではためいている。このンブルンブルを背景にガメランの奏者たちが座り、一斉に演奏を始めると、そのあたりの石彫の壁も、屋根瓦や柱も一斉に雰囲気を変え、バリ島という劇場そのものになっていくのである。金と赤の衣装を着たレゴンダンサーたちは、観光客にその踊りを見せると言うよりも、あくまで神々に披露している雰囲気だ。このような風景を見たときに、旅行者は感動するのである。

異様なほどバリは自らの芸能を守り、育ててきた。この小さな島で世界に類がないほどである。ハワイのフラダンスとは、その芸術性が違う。

日本の能や歌舞伎の源は何でありどこであるか僕は知らない。また、バリの仮面劇もどこがルーツかは知らないが、日本人の顔が様々な要素から成り立っているように、きっと能や歌舞伎も様々な要素から成り立ったのだろう。


2000年8月10日

バリの料理人

日本の料理人の世界は厳しそうである。焼き三年などということが本当に正しいのかどうかは別にして、見習いで入った者は、掃除、皿洗い、仕込みの準備の手伝いをし、チラチラと先輩たちが作っている料理の作り方を盗み見し、ソースをこっそりとなめては記憶にとどめ、客が残したものもこっそり食べては味を憶えようとする。

こんな話をバリの若い見習いのスチュワードに話をしたら真剣に聞いていた。そのあと、シェフのバワに、バリでは実際料理人の世界はどうか、と聞いてみたら全く日本と違うという。どっちがいいんだ、と聞くと「日本」と答えた。バリ人のバワに言わせれば、味に対する認識が低く、味が変わってもたいしたことはないと思っているし、叱ればやめてしまうし、シニアシェフそのものが同時に三つも四つも作れないという。

バリの人々の間では、食事を楽しむという習慣がない。料理に趣向を凝らし、どのような新しいそざいの組み合わせがあるか、考える余裕などはないように思える。

料理人を描いた漫画もなければ、ドラマもない。どんな外国の料理を食べてもやっぱりナシチャンプルが一番うまいとなってしまう。外国人が幾つもの品を注文して、楽しそうに食べているのを見て、何を感じているのか興味が湧く。

これからどのようにして一人前の料理人に育てていくか、バワと僕の課題である。グランブルーのオープンから今日まで、中二日休んで八日間、ガルンガン、クニンガンの休日を返上して働いている。スタッフの女性の中には走るものまで出てきて、僕は驚いている。キッチンスタッフも流れのまま超忙しくやっている。

自分で工夫して作った料理をにっこりと笑い、それから真剣な顔つきになって「食べてみて欲しい」といってくる日を僕は楽しみにしているし、そこまで育て上げなければダメだと思っている。

バリの一番良い季節も終わりに近づこうとしている。十二日から日本人がドッとバリ島に来る。一段と忙しくなりそうだ。


2000年8月12日

近日中バリに来る人いませんか

昨日は、ノーマルプライスで営業を始めた。

その日の夕方、二人のインドネシアの歌手が来て、ジュースを飲んでいった。夜は、ミックジャガーというアメリカの歌手? がきたらしい。僕は、ミックジャガーとは聞いたことがあるが顔も知らなければ、歌も知らない。鳥毛さんが「ほら、ミックジャガーが来ているよ、頑張ってね」といってくれたが、頑張りようがない。僕にとっては普通の人なので、ということになる。

ともあれ、芸能界の有名な人達が来てくれるようになると有難いと思っている。プロモーションがやりやすくなる。下のレストランに比べても、前のレストランに比べても、少々値段が高い。値段が高いといっても、日本の半分から三分の一。アメリカの半分くらいである。オーストラリア人たちは、ちょっと高いと思うかもしれない。

すべてが実験的だった。実験的過ぎたかな、とも思っている。バリのレストランは、どこへ行っても同じ様式である。木と石、ワラ、竹。一切これまでのバリ島のレストランを拒否して、建物から器、レシピ、すべて実験的に試みた。吉とでるか凶と出るかは、これからである。

サインボードが鳥毛さんのところからまだ届かない。たれ幕みたいなものを作りたいと思っても、クルンガンでどこも休み、マジックペンひとつ買えない。

様子を見ていて、ここに何か貼ろう、ということが起きる。現在のメニュー立てを変えたいと思っても、この二日間はどうにもならず、またバリには既製品というものがほとんどないに等しいので、注文をするとまた日がかかる。

僕のようにすぐしたいタイプは、気持のコントロールが必要である。の僕のバリ日記を読んでくれている人で、近日中にバリに来る人はいないだろうか。別の目から、レストラン全体を眺めてもらいたいし、不足しているところを率直に言ってもらいたいと思う。

どうか、近日中に来る人があれば、連絡をください。 

グランブルー 0361-763104


2000年8月14日

夜中まで

ブックツリーのユニやレストランのウィドニーは、結婚希望年齢もずいぶん高く設定している。十九才や二十才で結婚する人も多いが、既婚者は別として、未婚者のスタッフはほとんど結婚希望年齢が高い。高いといっても二十五才が限度だろうと彼女達の言葉から察せられる。

村の掟に縛られたくない。オートバイが欲しい。携帯電話が欲しい、夫婦だけで住める家が欲しいと、物に対する欲も明らかに増えているように思える。

バリ島の経済システムは、現金商売である。会社の支払いシステムが末日の翌日十日払いとか、物がローンで買えるとかの状態になるまで、まだ相当の年月がかかるだろうが、まずサラリーローンのようなものが登場して、次に銀行が融資基準を下げて、新しい金融商品を開発しはじめたら、バリ島は、完全に消費社会の中に組み込まれていくだろう。

中国から安いオートバイをローンで販売する、というような会社がでてきたら、消費は一気にそちらに向うだろうと思う。そうなれば、賃上げ運動も起こり、賃金が上がれば消費はさらに拡大され、というふうになるのかも知れない。

しかし、そのようになっていくための道路や電気などの社会基盤が遅れているのは確実だ。チグハグが最も恐ろしいと思う。

ただ、ウィドニーやプジャナを見ていて、危なっかしさを感じないのは割合に自己コントロールできていることだ。個人本位に物事を考えないことだ。この自制心が急速に変化した観光地の中で荒れもせず、伝統を守りつづけている心なのだろう。


2000年8月15日

思えば、ここまでよく走ってきたものだ。

これからの人生をまた考える時が来た。走り疲れた。休息が欲しいと、生まれて初めて実感として思ったような気がする。レストランを軌道に乗せるという仕事が残っている。人の育成、味の統一、プロモーション、バリの四十人、その関係者がここを生活の糧の基地としてやっていくのだ。別にこれが負荷なのではない。共にやってゆけばいいことだ。何かを立ち上げると、そのあとぽっかりと虚脱の状態になる。そういう時、次の事をこれまで夢想してきたことをまた思うのだ。

時間というのはあるものだな、と思う。しきりに時が経つのがあまりにも早いと三十代、四十代と感じてきたが、ブックツリーを興してから、まだ二年も経っていないのである。二年前のちょうどこの八月のお盆の頃、バリに来て、よし始めようか、とイダに言ったのだった。ようやく本格的スタートになったのは、十月頃で、以後CD、写真マグネット、木彫りマグネットを開発し、対葉豆茶を作り、香水を作り、それらが発展して、マッサージオイルができ、アンテナショップが生まれ、銀製品、バッグ類を開発した。空港にも開発商品が置かれるようになり、エステ、レストランと進んでいった。まだ二年経っていないのだから、時間ってあるものだな、と思う。

トルコ、ギリシャ、エジプトを訪ねてみたいと思う。たぶん疲れたから思うのだ。休息しているとまた希望が湧いてくるだろう。希望があるとそこに何人も通る道が生まれる。道は歩くことによって作ってゆくしかない。きっと性分だから、道づくりをするのだと思う。絶対に貧乏性なのだ。

2000年11月12日

蚊と日焼け

まだ一度も蚊にさされていない。蚊こそ最もイラ立たしい。ようやく眠りかけた頃、耳のそばで「プィーン」という音が聞こえてくるほど腹立たしいことはない。電灯をつけると蚊の姿はなく、こちらはいつでも臨戦態勢でいるのに何分待っても現れてこない。

今回は今のところの「プィーン」もない。

蚊にもいろいろな種類があるのだろう。バリでは海辺の蚊が一番イヤである。スキンガードでしか防ぎようがない。クタの蚊は小さく細かく茶系の色をしている。ふわふわ飛んでいるものだから、手でたたくと風圧でするりと逃げられてします。前回、すばやく手でつかむコツを獲得したのだったが、つい忘れていて、部屋の一匹の蚊をたたいて追い回したのだった。結局仕留めて、刺されずに済んだのだが。

バリに来る人で、蚊がイヤな人は日本の蚊取り線香をすすめる。バリの蚊取り線香は効きが悪い。もしもバリでスプレイを買うのなら、緑と赤の「Baygon」ではなく、赤いデザインの「Raid」をすすめる。「Baygon」は粒子が粗く、液がすみずみまで行き渡らず、落ちてします。

と、ここまで書いていたら、一匹蚊が目の前を飛んでいった。気にかかる。中断して、偵察にいく。

─── 見当たらない。

話は変わるが、バリに来る日本人はほとんどの人が色白である。日本人はいつの間にか肌が白くなったのだろうか。タモリが日焼けはよくないと昼の「笑っていいとも」で言っているせいだろうか。ほんの一昔前などはプールサイドや海辺でガンガン焼いていた女性をよく見たが、今はほとんど見ない。ヨーロッパの人たちだけだ。

僕自身も経験があるのだが、七年前、二度目のバリの時、日がなプールで泳いでいた。皮膚がヤケドのようになり、日本に帰ってから湿疹が起こり、参ったことがある。あの時の皮膚の後遺症が未だにあって、それがシミになっている。日焼けは皮膚にはよくないことを実感したのだった。その時、もう若くはないのだということも実感したのだった。若いからこそだいたいのことにおいて無頓着でいられる。思えば、その頃から〈死〉という最終地点から〈生〉を眺め始めたのだった。今は必ず往きと還りから、いつもすることを考えているように思う。だんだんと寂しくもなってきた。

2000年11月13日

「日本から各種薬を持ってきたので、胃が痛いとか頭が痛いという場合は遠慮なく申し出てください。」とミーティングの席で言った。

それから一時間後、グスがやってきて、十分ほど話していいか、と言う。ちょっと深刻な顔をしている。

十八歳の妹が、昨年胃癌になって切除手術をしたのだが、この一週間程前からまたお腹が張り、痛みだしたのだと言う。僕が薬の話をしたので、癌に良い薬も持っているのではないかと思ったらしい。

「癌の薬は持ってないよ。」

「バリアンにも行ったけど、また病院ですか」と聞く。

頭の中に健康雑誌の記事、広告が浮かぶ。「癌が治った! 驚異のアガリクス茸」とか。

そういったものを飲めば不思議と治ったりして、とチラッと思ったが、それはいかにも口に出さなかった。

「十八歳なのに胃癌か。本当なのかい。」

「癌って、あちこちに転移するやつでしょ。

どうも癌らしい。

バリでは、もしもお金持ちならシンガポールや日本で治療することができるが、普通の家庭ではとても無理な話である。他の国にいたら助かるのに、この島でだと助かるものも助からないということがある。

医師の技術や知識のほどはわからないが、庶民にとって病院は高すぎるし、保険制度も徹底していない。国の貧しさもあるのだろうが、生死のとらえ方も違うのだという気もする。

僕は医学というのは、その処方をすることによって51%以上の副作用がでたら医学ではないと思っている。

もちろん医学のおかげで、我々は人生を70年とか80年という風に計算する。痴呆症とかアルツハイマー症というのは長生きしすぎたから起こる病気という気がしてしかたがない。それであれば、それは副作用ではないかと思ったりする。そこにある命を救おうとするのが人間である。そこにある命をなんとしても救うのか、しかたがないとあきらめるのか、ぼくはいざの時、どちらをとるだろう。

僕は「死」というのは、「生」と言ってもいいのだが、子宮まで戻ることを言うのではないかと思っている。生まれた時のことを憶えている人はいない。誕生後一年経った時のことでも憶えていない。同様に死の瞬間も経験できねば、死の手前のことも経験できないように思う。

そう考えると、今、死んでいきそうな人を長引かせるだけのことをしても、その人の側からすれば、わけのわからない状態が続いているだけのことかもしれない。

それにしても十八歳で癌とは。言語によるミスコミュニケーションではないだろうか。腫瘍でも良性と悪性があるから、腫瘍のことを「cancer」と呼んでいるのではないかと、いそいそとグスに確かめに行く。



2000年11月14日

ギルド風

バリに五十日ほどいることになったので、ゆっくり勉強できると思い「世界史」の本関係を持ってきた。日本史は自分でもかなり勉強したと思っているが、世界史となると頭が混乱してくる。将来、世界を歩くこともあろうかと、そんな時は見る物の物語を知っておれば、楽しいだろうと始めたのだった。

やっぱりカタカナ文字は憶えるのが難しく、この年だからかパッパと記憶から消えてゆく。

中世までの世界の歴史を簡単に言えばこうなる。

より民主的な国は発展するが、やがては衰退する。がさらにより寛容で、より開かれた国が繁栄し、また衰退し、合間に独裁者とか専制的な君主とかが現れ、また衰退しさらにより自由で、より外に開かれた国が登場する。まあこんなところだろうか。

日本の戦国時代や幕末の頃でも歴史に登場する者ひとりひとりの物語があるように、世界のいろいろな国でも同様の物語があるのだろうが、世界的に有名な人しか知らない。モーツァルトとかベートーベン、エジソンやダーウィン、マルクスやサルトル・・・。

さて、ヨーロッパの中世の時代、ギルドという職人の組合のようなものがあったが、ギルド内の規約は相当厳しかったようだ。一人はひとつの物を作る。他の物を作って、他の人の職分を侵してはならない。

このことと関係する。

バリにテガナンというバリ先住民の村(バリ・アガ)がある。だいたい四十世帯くらいの村である。   

テガナンはグリンセンというダブルイカット(縦糸、横糸とも染めた糸を使い、それを織り込んで模様を作っていく)と、アッタという植物の編みカゴで有名である。この村の職人たちは決してデザインを変えない。同じ物を作り続けるのである。

シャレたデザインのものはロンボクや他の所からやってきて、テガナンの近くの村の人たちが作る。新参だから受入やすいのだ。編みカゴは先進国に輸出されているから、生産量も相当なものだと思うが、新しいものはほとんど、テガナン製ではなくテガナン近くの村で作られ、店に並べられる。これらは全部「テガナンの○○」と呼ばれる。

テガナンの人は、自分の作るものはこれだ、と決めているから、他の領分は侵さない。村で仲良くやっていくためのそれが方法なのだろう。まるでギルドのようだ。それがあっちこっちから侵犯されて、今ではテガナンのものなのかわからない。

テガナンの村に入ったとき、決してグリンセンやアッタの編みカゴで富裕になった村とは思えなかった。静かな村だった。五年、十年かけてグリンセンを織る。アッタを集め、それを干し、それを編み、ココナツなどで燻し、それから乾燥させる。堅牢な編みカゴがそうやってできあがる。日本では約十倍の値で売られている。なのに物質的な豊かさが感じられなかった。

例えばギルドであれば、商標登録や意匠登録のようなものを考えて、他の村には名前を使わせないとか、テガナンのものである証明書を作るとかしたのかも知れないが、、テガナンは頑固さと大らかさが一緒になって今日に至っているのである。

テガナン村の静けさは、商人の村ではなく、ひとつひとつを微細に織り込んだり、編み込んだりする職人の村なのである。商人性を意識的に排除してきたのかも知れない。


2000年11月16日

スリアシ

スリアシは二十歳。いつも機嫌よく、何事も嫌がらず自分のできる範囲のことをやっている。見ていて何とも可愛い。

「スリアシ、家に帰ると何をしてるんだい。」と聞くと、

「読書」と答える。あんまり英語ができないし、僕にインドネシア語を学ぶ気持がないものだから、いつまで経ってもそれ以上の会話ができない。

「読書以外には何をするの。」ともっと聞いてみると、

「洗濯。毎日夜ユニフォームを洗濯、朝アイロン、そして仕事にくる」と言う。

仕事用のユニフォームを渡すのがバリ島での慣習なので、三着スリアシに渡してある。毎日洗濯しているらしく、考えれば夜中に乾かない時もあるだろうから、念のためにもう一日を余裕の日としてみているのだろう。

「他には? 」と聞くと、

「日本語と英語。」と言う。

「えっ、日本語と英語? 二つ勉強してるのかい?テレビで? 」

「テレビでも時々、本でも」

「それじゃあ、スリアシ、夜学校に行くかい? お金は出してあげるから。」

言語感覚の良いインドネシア人のことだから、ある程度までのことならマスターも速いと思う。

現在どうしても日本語が必要なスタッフが二人いて、これから根気よく教えていこうか、学校にいかせようかと思っていたところである。

内心、フムフム、やはり影響大なのだな、日本人の経営する会社で、日本とのやりとりをしながらも、社内は英語なのだから、やっぱりそう思うのだなあ、と思う。

私なんか、ダメって思わないところが良い。若いというのは縛られることも少なく、やろうと思えばやれるから良い。子供でも育てなければならない環境なら、ほとんどの人が無理な話だ。言語を学ぶということは、その言語のもつ文化の本質を学ぶことだ。そこに共通点と相違点を見出すに違いない。

Aどこへ行くの。

Bちょっとそこまで。

A暑いわねえ。

Bそうねえ。

という日本語の会話の中にも、文化の本質的なところが見える。英語だったら、まずこういう会話は成り立たないだろうし、「誰が」「何が」暑いのか、はっきりさせないと言葉として成立しないところがある。ものの考え方が違うところである。スリアシもこういう別の世界のことを知ろうとしている。

ほとんどが村と会社という限られた場所にいる。会社を通して別の世界をのぞこうとしている。針の穴からでも結構世界は見える。

好奇心こそが生き生きと生きることだと思う事が多くて、スリアシの微笑みと目を見ていると、怒ることも、嘆息をつくことも不思議を消えてしまう。   

スリアシは人を穏やかにする性格を持っている。外国語力などよりも実は素晴らしい能力だと常日頃思う。


2000年11月17日

誰もやらない

「だんなの商売はどうだい?」とヤーマのスタッフのアリアンスミニに聞く。

「まあまあ」と照れくさそうに答える。

「グッドアイデアがあるんだけど、言おうか」

と言うが、言葉がわからないからなのか、感が鈍いのかそれとも好奇心がないのか、商売気がないのか、食いついてこない。おそらくアメリカ人やヨーロッパ人も日本人に対してこのような印象を持ったのではないかと思う。

ただ話しかけられると照れくさそうに笑っているだけ、という風景。

かまわず続ける。

「だんなは果物を売り歩いているのだから、一度ヤーマやどこかレギャン通りででも売ってみたら。最小単位はマンゴスチンなら一個。ランブータンなら四個。一キログラムがどこも最小単位なので、マンゴスチンなら10個や15個になってしまうから多すぎる。

それに果物を観光客に売っている店はスーパーかデパートしかないだろ、そこがすき間だよ。『マンゴスチンは果物の女王』と書いてポップを作る。バッグに入れられるように、色がつかないようセロファン紙で一個一個包む。絶対バカ当たり」

実は、この話は他の連中にもしている。しかし誰もしない。仕事はないかという問い合わせが多いのにである。アリアンスミニも笑いながら「だんなに言っておく」と言うだけで目の色が変わってこないのである。だんなはキンタマーニの農園をやっている友達からいくらかを買い、レストランなどをまわって売っている。観光客相手なら、もっと高く売れるに違いないと思う。

マンゴスチンを仮に50個仕入れて、ランブータンを4個入りを50セット仕入れる。マンゴスチンは一個五百ルピアから七百ルピアくらいだから、一個二千ルピアくらいで売ればよい。客にしてみれば、一キログラム買って腐らせるよりは五個買って一万ルピアの方がよい。一万ルピアで120円ほどだ。

毎日売り尽くすまで頑張れば50×2000RP=100,000RP。ランブータンも同じ価格として50×2000RP=100,000RP。一日な、なんと200,000RPの売上である。

一日の仕入れは最高でも50,000RPであり、150,000RPのもうけである。これを十日続けたら1,500,000RP、二十日で3,000,000RPになる。二十五日で375,000,000RP。これは銀行員やホテルマンなどよりも良い収入である。

バリでは1,000,000RPの給料というのは良いほうである。

もうひとつある。現在、ブックツリーのグループだけで約八十人ほどのスタッフがいる。誰か弁当屋をすればよいのだ。一つ3000RPくらいで、毎日50人が買ったとしても、150,000RPになる。もっとやるのなら他のレストランやオフィスにも行けばよい。原価は一食500RPはかからないだろうと想像する。

誰かやらないかなあ、と思っている。誰もやらないのだったら、果物屋と弁当屋を同時にやってしまおうかとチラチラ思ったりもするが、そこまでやれば身が持たないので、するつもりはないが、とにかく歯がゆいのである。


2000年11月18日

貞操

バリの女性の貞操は堅そうである。結婚の平均年齢は二十四歳。結婚まではバイクに乗せてくれるボーイフレンドを作ったりするが、普通せいぜい手を握るくらいで、キスをするとか、胸を触るとかはいけないのだそうだ。が、もっと聞くと「キスはちょっとはいい」と知る限りのほとんどの女性が答える。

「ちょっとはいいって、どういうこと。」と聞くと、

「ニュピとかカルンガンとかの特別の日、一年に四回くらい。」と言う。

「セックスは?」と言うと過剰な反応をして、

「オーダメダメ」と嬉しそうに答える。

一度肉体関係に入ると、結婚が待ちかまえている。結婚抜きで男女が付合うというのはかんがえられないことのようだ。一昔前の日本女性とよく似ている。

バリの男性と日本の女性が結婚する例はよくあるが、その逆を今のところ僕は知らない。

女性側のガードが堅いとは思わない。女性をとりまく男性、村、この島のガードが堅いように思われる。

白人女性を黒人からガードしようとする白人男性社会、日本人女性を白人からガードしようとする日本男性社会と同じである。同じ雰囲気であり、根にある男性の強い嫉妬心、独占したいと思う感情に支配されているように思える。

二日前、JTBの「旅ワールド」の編集スタッフの方が突然ヤーマに来られた。でっかいカメラ道具一式を持ち(もうひとつ念のために予備も持っているそうだ)、交渉し、写真もプロ並みに自分で撮り、判断・決定も行う。車の手配、現地コーディネーターの手配、すべて一人でやり、アシスタントの人はジャカルタの大学に通う大学生である。

てきぱき、さっさと仕事を済まし、つぎの地に向かう。

バリのスタッフたちは目を丸くして、この女性の一挙手一投足を見ている。どう思って見ているのだろうか。

バリの男性は日本女性を好む。色が白いのが第一だという。日本人女性の近代性というか現代性、バリの女性よりははっきり物を言い、行動的であり、お金も持っているからかもしれない。

一方のバリの女性は、日本人男性とお付合いしたいと多くが思っている。が、せいぜい手を握ることくらいの条件で、主に話をしたい、どんな考え方をするのか直に経験してみたいという気持ちを持っている。男性のように積極的にナンパしていたら、村でなんと言われるのか、わかっているから、そうはしないし、できないのである。

バリ島は同胞の目がとてもとても気にせざるをえない島なのだ。


2000年11月19日

「今晩これから雨が降ると思うかい。」と聞くと、イルーは「降らない、大丈夫!」と答えてくれた。安心できる言葉だ。キッチンのマデは慎重にか本当にそう思うのか「わからない。」と、実はイルーが答える前に答えたのだった。

これから先、雨が降ろうが降るまいが、実はあまりたいしたことではない。せっかくだったらオープンスペースの方で夕方知り合ったばかりの日本人のカップルと食事をしたかったからで、雨が降ってくれば、移動したらよいだけのことである。

イルーは頼もしく、はっきりと「降らない」と言った。その言葉に乗って僕らはオープンスペースの方に移動し、そこでいろいろな話をしたのである。結局雨は十一時になっても降らなかった。なぜイルーは「雨は降らない」と断言したのか。それは性格なのだろう。つまり物の考え方なのだろう。オープンスペースの方に行きたがる僕を感じ取って、「雨は降らない」と思ったのだろう。

おかげで三人ゆっくりと話すことが出来た。バリに来始めて、旅行者の人と話をするというのは初めてのことである。

たまたまホームページを見てくれていて、たまたまエステ・デ・マッサの前で会ったのである。僕は「どうかしましたか。」と聞くと、「本木さんですか」という出会いであった。両替をしたいのだが、どこでしたらよいのか、という風なことで、マッサのスタッフの二人が案内しようとしていたところである。その後再び、ヤーマで出会って、食事をいっしょにすることになった。

人と出会うというのは楽しいものだ。しかも有り難いことに相手のMさんは「僕のバリ日記」を読んでくれている。

話はそこからもっと奥とか裏の方へも侵入できる。僕の知らない情報、たとえば今流行っている東京のエスニックの店の戦略、経営者の考え方、世田谷に住む彼女は谷中を知らないという驚きの話。

話は下ネタから上ネタ(?)までめぐり、あっという間に三時間が過ぎてしまった。

人との縁はこうやって生まれ、より縁があれば何かでつながってゆく。旅のひとコマであり続けてゆくのも良いし、連続してつながっていくのも良い。

そして世の中が大きく昔と違うのは、ホームページのように一方的に、僕だったら僕のメッセージをいつも掲示しておけることである。そうやって縁を続けることができる、ということだ。


2000年11月21日

スカワティ

 人間の肉体を抽象化した木彫を作っているところがあって、スタッフがそこまで行き、スカワティの市場で仕入をし、デンパサールの市場に寄り、その日のスケジュールを終える、ということだったので一緒についていった。どのように交渉し、どのように新しいものを探しているかそのスタッフの現在の有様を知りたかったのである。

スカワティの近くの村に入ると、ロイがダユの家はもうすぐだという。おっ、そうそう、赤ちゃんが生まれたかも知れない。ダユは15日から三ヶ月の休みをとっている。もう生まれる頃だ。それにもしかしたら、ダユのお義父さんに会えるかもしれない。八十歳で、イダ・バグス(女性はアユ)の頭領みたいな人である。儀式を司る。その風格を何と表現すればいいのだろう。にせものくささはない。インテリくささもない。スケベエジジイのようではない。妻は四人いる。みんな先に死んでいった。

ダユは家にいて、子供はまだなのだと言う。ダユの家の敷地は広く、何世帯も住めそうである。中心にバリ風建築の縁台、そのむこうに金色のドアがあり居室がある。そこがお義父さんの居る所だと言う。

ダユが呼んでくれて、会いたい人と会ったという気がした。縁台に大きな絵がキャンパスに描かれている。

お義父さんが出てきた。僕の顔を憶えていたらしく、たいへんな笑顔で迎えてくれ、お茶とビスケットをごちそうになった。バリ島では有名らしく、いろいろな美術館に彼の絵が展示されているようだ。ニューヨークのある美術館でも展示されているらしい。つまり彼は絵描き、画家なのだ。1988年、今から12年前、六十八歳の時に、彼は祭祀などを司る僧侶になる儀式を行い、以後、その村で唯一の司祭として彼の家の寺院で、村人と共に祈りを捧げ、リラックスするのに絵を描いているのである。プダンダ(司祭)となる儀式の時の写真も見せてもらったのだが、筋肉は引き締まり、目はきりっとしてこれはもてただろうな、と思う。中上健次の「千年の愉楽」で出てくる荒くれの若者の美しさみたいなものと似ている。悪い意味で言っているのではない。人間の知性や理性、狡猾な計算力やテクニックなどを超えた顔、雰囲気をしているのである。知っている限りの小説の登場人物でいえば、「剣客商売」の秋山小兵衛像に近い。厳しさを穏やかさが同居している。

しばらく話をした後、スカワティからベンジョール(竹ののぼり)が立ち並ぶ村を通り過ぎ、車を走らせていると、渋滞に出会った。葬式の列である。人々は興奮してお輿を担ぎ、歩道にいる者が、輿に向って水をかける。水をかけるとますます輿を担ぐ人たちが、興奮し、それに合わせて音楽も派手になり、葬式の暗さなどどこにもない。

火葬によって天界に駆け昇った魂は、祖霊神となったのち、暦で定められた日に再び地上に降りてくると信じられているのだ。また還って来るのである。

デンパサールではだらけきった市場の店員にげんなりし、排気ガスでいっぱいの車の中でハンカチをあてて、帰路についたのだった。


2000年11月24日

クワガタ虫

スマトラ島やジャワ島、スンバ島やスラウェシ島などから行商人が店で売ってくれないかと、いきなり入ってくる。僕はいきなり入ってくるのを歓迎する方針をとっているので、アポがないからダメとは絶対言わない。

今日、スマトラから来たという若者が「クワガタ虫」、それもでっかいのを持ってきた。生きているのである。クワガタに関する知識がないので、何とも言えないのだが、千円で買ってくれという。測ってみると7.5cmの大きさだ。中には、クワガタ虫とカブト虫が混ざったようなのもいる。カブト虫はツノが頭部から上方へ伸びているが、このクワガタ虫は、クワガタの二つのツノ(?)を持ちながら、頭の下(口側)の方から上方にツノのようなものが伸びている。なんというものかわからないがなんだか風格がある。

さっそく、クワガタ虫の飼い方をホームページで調べ、日本に虫カゴ、マット、昆虫ゼリーを送ってほしいと電話した。飼ってみようという気になった。趣味ではない。やがてアジア雑貨市場を開くつもりであるからだ。

またこの若者と接触していたら、「ヤシガニ」を持ってきてくれるかもしれない。「ヤシガニ」の供給ルートが見つかればこれはすごい。世界一美味しいと言われるヤドカリである。

これも今日の話だが、魚を香港やシンガポールに活魚で卸している中国系の女性から昨日電話がかかったので、今日行くと約束してあった。彼女の家はヌサドゥアの海の入り江にあって、対岸のタンジュンブノアが見える見晴らしの良いところにある。海を見ているとやはり気持が落ち着く。彼女はスンバから織物を持ってきて、売ってくれるところはないかと頼まれたのだそうだ。それで僕の顔が浮かんだらしい。僕は商売人の顔をしているのだろうか、と思ったが、ちょうど昨日デンパサール近くの問屋街で、スンバの織物(イカット)の見分け方を習ったところだったので役立った。仕上げ方に完璧さはないが、まぎれもないスンバのイカットである。しかも僕が探していた小さ目のものである。バリ島ではサルンなどにも使われるためやたら大きいのが多い。彼女の家で、来年彼女が作ることになっている海に浮かぶレストランの進捗状況などについて話をした。

そろそろおいとましようとしたところ、片隅にテーブルがある。美しい模様になっていて、どうやらテラゾーを磨いたものと貝が組み合わさっているようである。これは一級品だな、と思い、頭の中でグランブルーのテーブルと置き換えてみた。もしかしたらいいかも知れない。こういう一日は楽しい。なにか繋がっていくようで。

未来が一瞬キラキラと光る。



2000年11月28日

カスバの女

カラオケに行けば「カスバの女」というふた昔も前の歌を聞くことがある。石原裕次郎の「錆びたナイフ」を歌う五十代、六十代の人もいる。

「カスバの女」や「錆びたナイフ」の作詞者は大高ひさをという人である。年齢は今八十三歳。「さすらう」という感じの詞を作る。

今日、昼間レストランに行ったら、バリ語でウェイターとやりとりしている老人を見た。一人だった。  

僕はバリに在住する中国系の人なのかと思った。バーのスタッフが日本人だと言う。それで仕事の手を止めて話しかけた。やはり日本人だった。これまでバリ島に八十回以上は来ているらしい。海軍で潜水艦技術を学び、その後NECで働いたそうだが、定年退職後、バリに来始めたのだそうだ。二十年以上も前、五十八歳の時と言っていたから、その頃のバリ島を知っている数少ない人だ。僕はここ六年か七年くらいのバリ島しか知らない。

今年大病をなされて、手術後また一人でやってきた。いろいろ話をしているうちに、「カスバの女」が出てきたのである。よく知っている歌だから当然僕はびっくりする。

「チェニスとかカスバには行ったのですか」

「いや、あれはねえ、ジャンギャバンの『望郷』という映画を見てね、よかったものだから。流れてきてまた去ってゆく女を最後のシーンで男は追いかけてね、そこで撃たれてしまう。いやよかったなあ。それで、その映画を見て作ったんですよ」

「へえ~!!」

全部歌詞を思い出せないが、こんなフレーズがある。

   ここは地の果てアルジェリア

   どうせカスバの夜に咲く

   外人部隊の・・・・

「裕次郎は案外背が低くてね、大きく見せるのに神経使ってたよね。」などと言う言葉が出てくる。

そしてなぜ彼はバリにいるのか。

「だって物価が安いでしょ」という返事だが、物価が安いだけではわからない。「安全でしょ」それでもわからない。大病の後女房もおいて一人でバリに来るというのは、バリに気の合う女性でもいるのか、それともそれと同じレベルの理由がなければならない。

大高さんは、僕の泊まっているホテルの斜め前のホテルにいることはわかっている。訪ねることにした。縦二列に部屋がテラスつきで並んでいるその9号室に大高さんはいた。ここのオーナーとは二十年来の知り合いである。サヌールに借りていた家を解約し、必要なものだけ持ってここに来たのである。

「ウブドじゃ淋しいし、サヌールは知っている人が多すぎて。この辺が賑やかでよいと思ってねえ。」 

僕が来たことをひどく喜んでくれた。「夜は一番淋しいね。今すぐにも日本に帰りたいよ。でもね、日本の十一月から三月は恐いから。」

「恐いって、何が恐いんですか。」

「もう抵抗力がないから。肺炎になったらお終いだもの」

この人はやがて誰にでも訪れる「死」を恐れているのだろうか。

「女房は痴呆症になっちゃって。毎年半年はバリにいるものだから、こっちで暖かくいることに慣れちゃって、日本の冬が恐いんですよ。」

「ところで、『カスバの女』の歌詞が全部思い出せないんですけど、憶えていますか。」

「忘れちゃいましたよ。初めオオクニスミコとかいう歌手が歌って、二度目はほら、ドスのきいた声の・・・」「内藤やすこ?」 「そうそう内藤やすこ、彼女と食事をしましてね、『先生』なんて呼ばれてね。それはヒットしましたね。印税も入ってきた」

「・・・長く生きちゃうとこうなるんですよね。胃を切っちゃったら身体の脂肪分が抜けちゃって、痒くなるんですよ。背中まで手が届かないので、不便でねえ・・・」

冬を越すためには、バリに来る。バリは物価も安い。ハワイならこんなことはできない。預金の利息で、お手伝いさんを雇っても年に二回から三回の飛行機代と自分が泊まって食べる分ぐらいはバリなら出せる。そして、見知らぬ土地ではない。知り合いもいる。」

「年賀状は二~三年前に止めました。葬式などへの出席ももう止めました。でね、こんな本をみつけたんですよ。バリ語の本。バリ語の会話本もなくて、この前、ひょんなところで見つけましてね。」めこん出版の「クタ・アルダナのバリ語会話」という。ちょっと見せてもらったが、会話や言語の裏には文化、ものの考え方などが背景にあるので、おもしろそうだった。今度買おうと思い、貴重な情報を知ったと思った。彼はこれからビザが切れるまでバリにいて、そしてシンガポールか日本に来てまた戻るという。

2000年11月30日

ちょっとくたびれた

ちょっとくたびれてしまってこの二、三日午後に長い休憩をとって部屋でゴロゴロすることにしている。

長距離を走ってくたびれた、とか徹夜してくたびれた、テニスをし過ぎてくたびれた、という一時的で、眠ってしまえばとれる疲れではない。なんだか身体が衰弱したように根っこのほうからくたびれたと思うのは初めてのことである。

思えばこの三週間、頭の方が忙しすぎたかも知れない。頭に気合いを入れないと、英語の世界が崩れるので気合いの入れっぱなしだったかもしれない。

ホルモンで言えば、猛毒のノルアドレナリンが脳に出っ放しだったのかもしれない。ワッハッハ笑うことがほとんどなかった。グランブルーが今、苦戦を強いられているせいなのか、ゆったりと構える余裕がなくなっている。イライラする。スタッフを励ます。一つ一つ教え込む。無理もない事かも知れないが、例えば、「この割引券を店に来たお客さんに渡してください。」と指示を出すとすると、当然「ハイ」と言うから、これで終わった、と思っていると、カウンターのテーブルの上に置いてあるだけ。ということがわかる。それで、「ここに置くのではなく、お客さん一人一人に手から手に渡してください。と言うと、「ハイ」と答える。また覗いてみると、また割引券が置かれたままになっている。つぎの引継ぎの者に話していないのである。「重要なこと、みんなに共通のことは必ず連絡するように」と言う。それでこのことがうまくいくかと言うと、うまくはいかない。割引券がなくなれば、「なくなった」と言わない。それで終わったと思っている。

こういう商法には慣れきっている僕からすればあきれてしかたがない、ということになる。彼らからしてみれば、こういうやり方は初めての経験だから、あらゆる手順がわからない、ということかも知れない。

あるいはこうかも知れない。新しいやり方を知っている日本人のすることに、そしてそれを手伝うことに、不安がある。下手に手が出せない、という気持ちが働くのかも知れない。次のステップがわかるよう一つ一つコマ切れにして綿密に順序良く伝えたら恐らくそれでできてゆくのだろう。ところがついつい、細かい手順を飛び越えて言ってしまう。ここで停滞が起る。それのくり返しが続く。

ここで怒るか、自分を反省するか、気持ちをどう持つかで状況は変化する。外国でのビジネスはお客様をどう捕まえるかと同時に、いかに二つの文化的なことを融合、または折り合いをつけるかという判断を瞬時にしてゆく必要があるのである。


2000年12月6日

ラーメン紀行したい

十月中旬から十一月下旬までは、バリ島は最も悪い気候になる。雨が毎日のように降る。つまりは低気圧におおわれる。

僕は十一月八日にバリに入ってから、ずっと低気圧に支配されどうしだった。五木寛之は低気圧が来ると頭痛がし、調子も狂うので、上海に低気圧が出てきたら約一日で日本にやってくるので、それを避けるため旅に出たり移動したりする、とある本で言ったいた。そんなことを思い出して、ああ、オレも低気圧で身体の調子がわかる年、またはそんな身体になったか、と今嘆いている。

日本にいれば天気予報も目に入るし、長年の勘で、空や大気の湿り具合、晴れた日の続き具合などでそろそろ雨が来るだろう、とわかるのだが、ここバリ島ではまだ未熟なため天気の予想はできない。

この一週間、疲れが出たせいか半日ゴロゴロしていた。十二月一日にスミニャックにあるインペリアルホテルにドラッグストアをオープンした。続いて、「アジア雑貨市場」をバイパス沿いにこの十五日にオープンする。アジア雑貨を仕入れるバイヤーのための市場で、新作の発表の場所も兼ね、普通だったら買い付けに十日もかかるところを一日か二日で用が済むようにしたいのだ。

十一月八日にバリに入ってからこの二つのことを同時進行させて進めてきた。朝から夜中までよく働いた。そしてダウンである。この一ヶ月間を十文字以内にまとめよ、と言われたら「いろいろあった。」である。

このうだうだとした一週間、シンガポールでアキちゃん(ただいま東京で復帰準備中)のお母さんにもらった東海林さだおの本を三冊読んだ。

恐らく、自分で本屋に行けば絶対に買わない本である。東海林さだおはマンガ家であって、こんなに多くエッセイを書いているとは知らなかった。そして驚いた。たいへんな文章家である。「ラーメン大好き」という一冊があり、ラーメンについて様々な角度からの作文を寄せ集め、東海林さだおが編集している。こういう本に出会うと嬉しい。アキちゃんのお母さんに感謝。スープ、具、歴史、ラーメン店主の話、各界著名人のラーメン考察。北は北海道から南は鹿児島、沖縄まで全国のラーメンの紹介もある。

「ラーメン食べたい!」と思ったら、なんとしても食べたいのがラーメンである。僕もついつい日本に帰りたくなりラーメンの食べ歩きでもしたいものだ、と思い、今も今度帰ったらラーメン紀行だ、と一日に三、四度思う。

それほどおもしろかった。別にラーメンを通して誰かの人生が見えるわけではない。僕らが普通接するラーメンへのこだわり方、対応の仕方、奥深い知識などで、あたかも新しいものを発見したかのように、ラーメンとは何か、を知るのである。当然共感あり、違和感ありでその本にラーメン愛好家として参加してゆくのである。何かについてウンチクがつくとそのウンチクに縛られる。自分に注意しよう。

久しぶりに今日は空も晴れた。風は強いが気分も爽快になった。さああと21日。折り返し点でダウンした一週間を取り返すか、一週間延ばしていくか、明日の体調による。



2000年12月7日

互いに反対の方に

豊かになったからこそ、つまり豊かな下地があってこそできる生活というものがある。僕がその典型的な例である。バリ島で以前は三ヶ月、そして今回は一ヶ月半も生活できるというのは、日本の薬のおかげである。僕は、たんぱく質を分解してアミノ酸に変え、体内に栄養を送り込むための薬を、病院で処方してもらい、バリ島に来ている。

別の例でいえば、自給自足のような田舎生活をする人がいる。現在の文明を否定し、自然に戻る、自然の生活はいいみたいなことを言い、テレビで紹介されたりする。

僕は、アホらしく、そういうのが出てくるとチャンネルを変えてしまうのだが、これは現在の豊かさの恩恵の最たるものである。応々にして、それが現在人々が働き、支えている高度な消費資本主義の恩恵であることを忘れていたり、知らなかったりする自然派が多い。

そのような人たちの生活の邪魔をする気はないし、反対する気はないのだが、「人間は自然のサイクルの中で生きてゆかねばなりません」とか「自然っていいなあ」などとテレビ画面から言われると、ゾッとするのだ。内心は「それじゃあ、お前、電気も使うなよ、ろうそくも油も自分で作れよ、大根の種はスーパーで買うなよ」とイチャモンをつけたくなってくる。

今の日本が完全とは言わないが、人々の生活が選択できる消費生活社会に移行したのは確かなことだ。生活必需品の割合が下がり、自分の都合で自由に消費を調節できる社会のことである。日本は勢いよくここまで来て、一九八〇年頃からゆるやかに成長し、そして停滞している。次の社会のイメージをつかみかねて、もがいている。この頃は自然派も勢いがない。もちろんだ。この産業社会のシステムの中で働いている人々の基盤があってこそ「自然派」はあり得たのだから。

で、素直に白状するが、僕は日本から持ってくる薬のおかげで救われている。漢方だ、ジャムーだ、といっても適当なものがないのである。科学なんてやめろよ、と言ってもダメなのである。

問題は「利便性」なのである。利便性を断ち切る勇気、または排除できる身心力をどう設定できるかである。

僕らは、ますます利便性の良い方向に進み、同時になんだか自然のふところに戻りたいと言う気持をどこかに持つ。つまり同時にこの矛盾を持っているのである。矛盾のようであって矛盾でないのが僕らが歩んでいく歴史である。たぶん、逆方向の二つの道を同時に僕らは歩いてゆくのである。その道が環をなしていれば行き着く先は同じである。

さて、どういえばいいのだろう。

ひたすら宇宙物理学や分子生物学を推し進めていくとする。もしかしたら人間はとっくの昔にそれら科学の結論を知っていたかもしれない。しかし、進まない限りわからないことなのだ。つまり、実証できない、ということなのだ、という風に言えるかもしれない。

「自然派こそ人間だよ」と言ってもダメだし、「科学することが人間なんだよ」と言ってもダメなのだと思う。


2000年12月8日

テレビを見ていると

この頃、意識してテレビを見ている。いろいろと面白いことに気がつく。幾つか紹介してみる。

日本のウルトラマンのシリーズがインドネシア語の吹き替えで放送をされている。名前は忘れたが「シブがき隊」のモッくん、ヤッくんではなくもう一人の○○くん、「ホテル」に出ていた石森章太郎の息子である○○くんなどの登場人物は、みんなインドネシア人に見える。やはりどこかで同民族系なのかもしれない。

政治家、宗教家の演説は、みな田中角栄風である。ジロッと聴衆をにらみ、十分な間をおき、強く言うところ、弱めるところ、ひとりひとりなめまわすように見てはじっと黙り、えらそうに、時に自信たっぷりに笑い、と言う風である。

インドネシアは、多民族国家であり、さらに宗教もいろいろである。この複雑な国をまとめあげるためにだろうが、政府系のテレビチャンネルは、映像にいろいろな民族、宗教の違いはあってもこの国は一つなんだ、という意識をもたせようと工夫している。

各民族、各宗教の人々が一緒に歌い上げる「インドネシア」という歌がひとつの例である。We are the world のインドネシア版というやつだ。

夜の時間の外国映画は、安物のアクションものばかりである。ボクシングが毎日あり、ファイティング原田や海老原の時代と思わせる観衆の雰囲気がある。コマーシャルで出てくる家はほとんど全てヨーロッパ、アメリカ、オーストラリア的な清潔でモダン化された居間である。コマーシャルは、どこも同じだが、化粧品、薬、家庭用品、車、特徴があるのはバイクのコマーシャルかもしれない。水、ジュース、お茶、アルコール系はない。

バリ島では、テレビもずいぶん普及してきたが、テレビにクギ漬けにされた風景を見ない。村では「ジョゲット」という賑やかな舞踏団がくると、そっちの方が大騒ぎで興奮する。

僕の泊まっているホテルのオーナーは、儀式、会合で忙しく、奥さんは供物づくりに忙しい。

テレビがないとお茶の間の風景にならないという世界に、まだバリ島はなっていない。テレビチャンネルは、7チャンネルあり、その点は結構多チャンネルである。


2000年12月9日

ナシチャンプル

日替わりでおかずが変わるナシチャンプルの店を、ロイが見つけて、スタッフ一同、昼前になるとそこへテイクアウトのナシチャンプルをロイに頼み、ロイが買いに行く。

事務所の近くのナシチャンプルの店(ワルンと呼ぶ)は、あまり美味しくなく、工夫もないので、僕は時々十分ほどかけて、クタの美味しいワルンにいっていたのだが、グランブルーも昼食にナシチャンプルを(究極のナシチャンプルである)することになったので、もう行かなくなった。

バリのスタッフたちには、予算があるらしく、地元のワルンで買うのである。ワルンに行くと、マグロの串焼き(これはうまい)、青菜のシャカンクン、香辛料たっぷりのゆで卵の半分、ポーク、チキン、豆類などいろいろあるが、どれもコラーゲンたっぷりそうで、いつもバリ人に引き締まった肌は、このナシチャンプルのせいだと思う。

辛いものが入っているので、苦手な日本人もいるかもしれないが、ナシチャンプルはバリに来たらぜひおすすめの料理である。白いご飯を真中に置き、そのまわりに具をのせる。なかなか考えられている。 

ラーメンみたいに容器は広い皿一つ。一つの皿、または紙に好きなものを乗せるだけである。バリ人は、朝、昼、晩とナシチャンプルで、家では作っておいてある具をお腹がすいた時に、それぞれが一人ずつ、ひっそり食べるのである。前にも書いたように、この食の時のみ、バリ人は一人になる。このよくできたナシチャンプルに、普通のフランス料理やイタリア料理はかなわないだろう。束になってかかっても負けると思う。また、バリ人に西洋や日本の食事を誘っても、一回くらいは付き合うだろうが、二度目からは拒否するだろう。他の料理に振り向かせるのは至難の業である。

ご飯にうっすら具のたれがつく、それがうまい。おかずをどの順番で食べようかという楽しさもある。幕の内弁当みたいなものだ。女性スタッフの中には、家からナシチャンプルをもってくる人もいる。この頃は、日本の弁当箱のようなものにいれてくる。そうするとどうしてもバリ版幕の内みたいになってしまう。彼女らは必ず、果物を持参する。ナンカというジャックフルーツやマンゴ、パパイヤである。特にナンカを毎日美味しそうに食べている。

バリ人は、決してお茶は飲まない。基本は水である。ワルンに行くと冷たくて甘いお茶を売っているが、これが僕にはナシチャンプルと合うのだ。辛いからである。

ワルンも競争が激しい。やはりバリ人も食べることには最大の関心を寄せているらしく、昨日昼食時にナシチャンプルを食べているスタッフに「やっぱり昼飯の時は一番楽しいかい」と聞いたら、にっこり笑って一同「イエス、イエス」と答えた。


2000年12月13日

珍しいもの三つ

バリ人の肌がプリッと張り、胸もぶよぶよと大きいのではなくて、これまたプリプリと張っているのは、ナシチャンプルのせいなのかも知れないと思っていた。これは推測間違いだった。

真犯人は「スス」なのである。ススといえばミルクのことだが、これはあくまで通称で、原料は豆科の「クズイモ」である。三、四年前に日本のテレビ番組でフィリピンの「クズイモ」が胸を大きくするイモということで紹介していたそれなのである。バリ人はこの「クズイモ」を良く食べる。パパイヤやパイナップル、それにこの「クズイモ」を生でやや酸味のあるしょう油に似たソースで食べる。味は山芋と梨を混ぜたような味である。

エステでは、フルーツボディマスクにこの「クズイモ=スス」を100%のパパイヤやリンゴのジュースを混ぜて使うし、風呂にもこのススを入れる。ミルク風呂というものだ。ビタミンの種類が豊富でコラーゲンがたっぷりである。

グランブルーで「プリン・プリンサラダ」とか名づけて、出そうかと思っている。

次はコーヒーである。バリのコーヒーでも高級なものはドリップやサイフォンでつくれば最高に美味しいのだが、町のレストランのコーヒー(いわゆる粉が底にとごるバリコーヒーといわれるもの)は最高にまずい。コーヒーの量をごまかすのに米の粉を入れてある。まずいはずだと思う。ヤシの樹液で作るアラックという蒸留酒がある。クセのない酒である。この酒にコーヒー豆を入れて二週間から三週間寝かせると、とても美味しいコーヒーアラックができる。コーヒーと蒸留酒を同時に楽しめ、オンザロックなどにすると熱帯の美味しさがある。北国で飲むには向かないかもしれない。シロップを入れる人もいる。

今日は、ロティが家から「クロポン」というお菓子を持ってきてくれた。草もちのような色をしていて、中にはココナッツシュガーで作ったシロップが入っており、外側に鰹節のように削ったココナッツの実をふりかけてある。

四つめの紹介となってしまったが、本当に紹介したいのは、スス、コーヒーアラック、クロポンの三つである。バリコーヒーは推薦できない。


2000年12月14日

遂に発見、プリン、プリンのヒミツ

かねて長い間、どうしてバリ人の肌はプリンプリンしているのか、胸もプリンプリン、お尻もプリンプリンはどうしてなのか疑問に思っていた。そして恐らく「クズ」類のようなものを日常的に食べているに違いないと疑っていた。途中、この考えもナシチャンプルのおかずを見ていて、揺らいでいたのは確かである

エステで「スス」というお肌のパック用のヨーグルト状のものを使っている。10%リンゴジュースやパパイヤジュースを混ぜて、全身に塗るのである。スタッフは「スス」というので、てっきりミルクだと思っていた。ミルクの香りのするススもある。本当は「クズイモ」でなければならない。クズイモなのにスス=ミルクという。それはミルクのような白い肌にするということだ。

本物のススはクズイモでできているのである。匂いを嗅いでみて、僕は「これはミルクではない」と言った。みんなはミルクだと言う。バリ人も知らないのだ。「ミルクではない。植物が入っている」と疑った。早速メーカーに電話したら、「バンクアン」だと言う。インドネシア語だ。それ、バンクアンを調べろ、となった。わからない。英語にないのである。が、なんとかして学名がわかった。それ、日本の図書館で調べろ、となった。翌日、日本からFAXがツツツツツ・・・と入ってきた。なんと驚天、「クズイモ」である。

バンクアンを買ってきてもらった。まさに「クズイモ」である。ジャカルタあたりの専門家は「クズイモ」の効力は知っているのだ。日本では貴重な「吉野クズ」に相当する。バリ人は二日に一度くらい、いわばとても日常的に食べているのである。バンクアンとパパイヤやパイナップルにタマリンという甘くて酸味があり、ちょっぴり辛いソースをかけて食べる。このサラダを「ルジャ」という。胸がプリンプリンになるサラダである。

バリの人たちはこのバンクアンが栄養満点であり、解毒することも知っている。豊富なプロテインにコラーゲン(これですよ。プリンプリンのヒミツは)各種ビタミンが豊富である。「クズキリ」を思い浮かべてくれれば、そのプリンプリン度がわかると思う。これを生で食べる。味は山芋と梨の混じったような味だ。歯ごたえもよい。スープにしても美味しい。

にしても、バリ人も観光客相手によくやるな、と思う。バリコーヒーには米を混ぜてコーヒー豆を節約し、(だからまずい)マッサージオイルにはパラフィンを入れ、ススと言ってバンクアン少しにミルクと香料を入れる。塩は「地球の贈り物」と言って、普通の塩を売り、アンティークと言って新しいアンティーク風なものを作る。銀といえば925なんて嘘。シルクといえば化繊。バティックも今や本物の自然染料などは使わない。このたくましさ。すぐにバレるようなことでもこだわらずにやる。もちろん売り子の女性たちは真実を知らない。

しかしバリ人の日常の中に宝のような本物があるのだ。ルジャしかり、対葉豆しかり、グリンセンしかりである。バリのコーヒーもドリップやサイフォンを使うと、とても美味しいのがある。


2000年12月16日

カラオケに行った

カラオケに行こう、ということになった。よーし、今晩は歌いまくってやろうと心に決めた。グスは噂で聞くカラオケとはどんなところか興味津々である。カラオケはバリ島では「いかがわしい」場所なのだ。話によると女の子がズラリと並んでいて、覗き穴から気に入った女性を選び、隣りで歌とお酒の相手をしてもらうのだそうだ。

そこは小林旭の歌で有名になった歌の題と同じ「ブンガワンソロ」というカラオケバーだった。玄関のあたりにガードマンやら店員やらがいる。玄関に入ると、まずフロアーの席(テーブルと椅子が隅の方に有り、モニター大画面の前は踊れるようになっている)か、部屋かと無愛想な案内係に聞かれた。  

僕らは女性を同伴し、健全に歌を歌おうという気持ちだったので、部屋の方を選んだ。防音もしていない部屋でフロアの音楽がとてもうるさいので、もっと静かな部屋はないかと聞くと、あるといって案内してくれた。フロアから遠く離れた分だけ静かになったという感じである。隣りの部屋にグループが入ってきたらどうなるんだべ、と思いながら早速郷ひろみの「セクシーユー」が目に飛び込んできたので、それを歌った。ワヤン(女性)はアメリカの歌を英語で、グスは全館の見学を果たしたあと、インドネシアのポップスを歌った。

少ししながら、ここの料金が気になった。あんまりお金を持ってないし、ぼられてもイヤだ。ビールを係の者が持ってきたとき、値段が書いてないのが気になった。トイレに行って来るといって係の者がいるところに行き、部屋を借りるといくらなのかと聞いた。1時間9万ルピア、二時間で18万ルピア。係員の表情が「ぼる」ような恐ろしげな顔をしてないし、にこやかなおばちゃん風のおねえさんもいたので、これは安心と気持ちはよしよし愉快だぞとなった。

アメリカの歌を聞いてもオモシロクもなんともないのだが、ダンドゥットというジャワのいわば中間、下層クラスの人たちに人気(やっぱり今はダンドゥット離れが多いというが)のある歌は妙に迫力と奇妙さがあり、明るく早いリズムの中に時々哀愁を帯びたアラビア風のメロディも入っている。不思議なことに日本の歌は日本にフィリピンバーが出てきた頃に流行ったものばかりである。西条秀樹の「抱きしめてジルバ」とか、中森明菜の「デザイヤー」とか竹内まりやの「駅」、矢沢永吉の「Yes, my love」。演歌でいえば梅沢富美男の「夢芝居」とか五木ひろしの「契り」とか「細雪」である。新しい歌は一切なく15年~17年前の歌ばかりである。 

ワヤンはアメリカの歌ばかりを歌う。グスはインドネシアの歌である。当然、僕と妻は日本の中森明菜の時代の歌である。

ワヤンもグスも初めての体験で、どちらも結婚しているのだが、この体験を家で喋ろうものならば「嫉妬の嵐」で大変なのだそうだ。だから秘密にするのである。帰りがけ、グスは前に偵察していたものだから僕らを一階に案内し、こっちへ来いという。するとガラスが20mくらいの長さで張ってあり、ところどころ丸い透明の部分がある。そこを覗くと空港の待合室のような椅子に女性たちが何十人も座っている。これだ、これだ、噂のシステムはこれなんだと、なんだか可笑しくなってしまった。向こうの女性と目だけが合ってしまいちょっとドキッとしたが、何気なく目をそらし(向こうは目だけが見えているのだから、さぞかし目が壁に二つ、三つ、五つ、六つと浮いている奇妙な風景なのだろう)その場所を離れ、外に出たのだった。円で払って4人で3500円だった。

初めに「女性は要らない」と言ったので日本のカラオケボックスで歌うのといっしょだったが、ワヤンやグスは初めてのことなので慣れていない。不思議と慣れずに歌うその雰囲気、歌を探す雰囲気、曲を聞く雰囲気も、日本人とよく似ているのだ。カラオケが出始めた頃の日本人とである。これが西洋人だったらガラリと変るのだろうが、西洋人はカラオケには来ないのである。

大学生のときラジオ番組で、すぎやまこういちという作曲家がカラオケタイムを毎週一曲紹介していた。天地真理の歌だったが、カラオケの中にメロディが走っていないので一曲きちんと歌い終えると、やったぜみたいな気分になったのを覚えている。カラオケがその後瞬く間に日本国中に広がり、日本人は酒場ではますます無口になっていった。仲間といても歌っていれば事が済んでしまうこの文化を僕は嫌った。「おにいさん、歌わないの?」なんて言われると、若い頃頭にカチンときたものだったが、この頃は態度も使い分けられるようになった。

ワヤンやグスは興味と罪悪感で妙に落ち着かず、僕は毒を一服盛ってしまったかなと危惧もしたが、独身のマデとかグデなどには絶対に誘わないことにしようと思った。「カラオケ」を「いかがわしい」ものにしておかないと、バリ島の各村落共同体はその存在を揺さぶられるだろう。まだたいていは貧しく食べてゆくのが精いっぱいの島で、女性に狂いカラオケにお金を消費し、さらに借金まで抱え込んでしまったら・・・。今はまだカラオケは経営者たちがどう頑張ろうと「いかがわしいもの」にならざるを得ないのである。



2000年12月17日

四季が凝縮されて

毎日のように熱帯の植物を見ているのだが、ブーゲンビリアやフランジィパニという花などは年がら年中咲いている。ホテルの中庭の大きな木はいつも青々としている。しかし、パラリパラリと枯れた葉も落ちるのである。全部枯れて、芽が出てきて花が咲き、葉が出てくるのではない。一本の木の中に四季みたいなのが同時に存在していて、今日はこの葉とこの葉を落とし、この芽とこの芽をだして、という風にローテーションを組んでやっているみたいなのだ。果物の中にはその収穫の時期というのがあるものもあるが、果たして植物と同様熱帯の人間もよく似たものなのか。

プジャナは毎日皮ジャンを着てしばらくそのままであるし、長袖、ポロシャツ、Tシャツと、その日のうちにでも着るものが変る。僕らではあんまり感じないのだが、気温が下がると風邪が流行する。これは日本の冬みたいなものだ。一日のうちで微妙に気温が変り、これに風が作用する。おそらく、一日のうちで植物と同じように四季をローテーションで感じ取り、ローテーション通りの働きをしているに違いない。

四季を持つ日本人から見れば四季が一日の中に凝縮されてあるのが、熱帯人なのかもしれない。僕は十二月二十八に日本に帰ることになる。果たして、僕の身体はどのように反応するか。寒くて寒くてたまらんのではないかと予想し、今から対策を考えるのである。


2000年12月18日

愛してるよ

僕の生まれて育った東紀州の尾鷲には「君のことを愛しているよ」にあたる表現がない。愛する人ができ、その恋心を告げる場合、どう言うかと言えば、「いな(おまえ)のこと好ききってくじょー」「好きなきってく」と言うか、「私のこと好き?」という問いに「おう、好きじゃれ」と言うくらいしかないのである。「愛してるよ」なんて恥ずかしくて言ってられないのである。

「愛してるよ」という言葉を標準語は本当に使うのかは知らないが、どうもこれは翻訳語ではないか、映画くらいの世界で使われる言葉ではないかと思ったりする。インドネシア語では特別に好きな人に対して言う言葉に、「アク・チンタ・カム」というのがあるが、これも本当に日常的に使うのか怪しいもんだと思っている。因みに「アク・センタ・アンダ」と言うと、単なる友達的に「好きよ」ということだそうで、態度と言葉で関係の距離を取っている。これは世界どこでも同じだろう。

で、インドネシアの女性と男性が互いにアク・チンタ・カムしたとして、手を握るのはいいのだそうである。アク・チンタ・カムすれば結婚に突き進むわけだが、結婚までは手を握り合うことくらいが許され、せいぜい進んだとしてもほっぺ、おでこへのキスくらいのようで、それ以上はいかないのかとたずねると、断固として「ノウ」と言う。その表情は嘘をついていない表情なので僕は信用している。

結婚前にいろんな男を試食するというか、付き合ってみるということはかなりの女性にはないようで、結婚したらもうやり直しがきかないのは一昔前の日本と同じである。おそらくやがて与謝野晶子みたいな女性も出てき、恋多き女性の小説なども出てき、そしてさらに「飛ぶのが怖い」みたいな小説も現れ、女も男と同等の権利や自由を獲得していくに違いない。

宗教がどうであろうと、テレビが現れ、炊飯器、洗濯機が現れ、それを購入した人が50%を超えたら、男と女の有り様は、つまり社会はドドーッと変化してゆくに違いない。50%を超えたらほっぺやおでこへのキスが唇やオッパイへのキスに変るに違いない。

どこかに論理の飛躍はあるか? 日本だって30年で相当変ったのである。この自然史的な段階を拒否する場合は、重要な科学技術の登場を拒否し閉鎖するしかないと思う。かくして今二十歳のナラの孫たちの世代は神経症的なわがままな女性が増えているのかもしれない。


2000年12月24日

疲れるバリ

バリ島は、赤道近くにあるので、緯度の高い日本から来ると暑さを感じる。そしてその暑さの微妙な違いがあまりわからないまま、観光客は帰ることになる。

日本にしてみれば毎日暑く、汗もかくので、とりあえずトイレに行く回数が減り、血液中の水分が減り、身体の動きが鈍くなる。しかもたぶん地球は自転しているわけで、丸い球体の一番ふくれた赤道が最も(専門用語で何て言うのだろう)回転が起こす力が強そうで、つまり外に向って飛ばそうとする力が強そうでそれだけでもここに存在することが疲れることを意味するように思えてならない。

バリ人がゆっくりと歩くのも、ゆっくりと仕事をするのも、このような赤道付近の自然条件があるのだと思う。

バリ人に低血圧の人が多いのは、塩分のものを日本人ほど取らないことと、水分が少ないからのように思えてならない。

それは、皮膚を触った時に、日本人との違いがわかる。水分が少ないという感じがするのだ。普段の生活を見ていても、お茶は飲まず、ビールもめったに飲まず、一杯のコーヒーと一杯ほどの水である。

エネルギーを一気に消費して、身体の水分を出し、血液の濃度を高くドロドロにするのを避けているようであるが、低血圧の人が多いというのだから、なかなかうまくいかないのかも知れない。

前にも書いたが、日本人には四季があり、この四季の変化の調節に失敗すると風邪をひいたり、肺炎、神経痛を起こしたりする。これに気圧の変化が加わるが、だいたい一年を通じて気温や気圧がどのように変化するかはよく知っている。

おそらくバリ人は、一日を通じて気温や気圧がどのように変化するのか、よく知っているのだと思う。ニューヨークのように極端な冬と夏の差はないが、微妙に一日の中で春、夏、秋、冬があり、さらに初春、初夏、初秋、初冬や晩春などもあるのだと思う。

バリの文学作品を読んだことがないので、確信するに至らないが、このような一日の中の微妙な変化は、詩人や小説家の作品に表現されているのではないだろうか。


2000年12月25日

バカス

「バワの家に行こう」ということになった。バワはデンパサールに住んでいるから、てっきり車で二十分のところだと思っていたのだが、バワの家という限りは、バワの実家のことであることが行く前にわかった。クルンクン県にある。クタから車で北へ約一時間半。ギャニャールを通り、スマラプラから約5キロ、バカスという村である。

たいへんな田舎であった。バカスの村の入り口に割れ門があり、そこからバカスの村なのだが、あたりは棚田とジャングルで割れ門から2~3分走ると人家が見え始める。大きな家ばかりである。

仕事がないためバワやさらに若い世代はこの村を離れ、デンパサールやクタ、サヌールに出かけ、そこで仕事を見つける。バワは、このバカスの実家の跡継ぎであり、バワが実家へ帰るとなると、そこは本家なものだから、分家の親戚筋が集まってくるそうだ。

三百坪以上はあるだろう。そのうち百坪程は家の寺院になっており、三棟の一階建ての建物がある。各建物の扉はジャンクフルーツの木でできており、鳥や花の木彫りがほどこされている。宮殿をずっと小さくしたものだが、そこにバワのお父さんが一人で住んでいるのである。弟がすぐ近くにいるし、一人で住んでいるというより、親戚一同、近所の人一同と住んでいると言った方がよいかも知れない。

「お幾つですか?」と聞くと「八十三歳だ」と言う。「バリ暦でしょう。西暦では、お幾つですか」と聞くと七十三歳だという。笑わない人だった。

バワの家から山側を眺めると、高い木にドリアンが実をつけている。ジャックフルーツ、ランブータン、パパイヤが見える。静かである。鶏の鳴き声が静けさを破る。

僕は、十五分位で、挨拶をして帰るつもりだったが、とんでもない話で、バリのおもてなしをこれからしっかり受けることになった。今日は特別な客が来るということで、朝早くから、食事の用意するために、はるばるヌサドゥアからバワの妹達もお手伝いに来、従兄や近所の人たちも準備に集まっていたのだった。一同集まって食べる形式をムギブンと呼び、これがバリのナシチャンプルだという料理がでてきた。一つは、ジャックフルーツと豚の皮が主になったもの、クローブの葉とインゲン豆と豚の皮が主になったもの、若いバナナの木を主としたもの、アヒルのアヤンバンガンブンブバリ、サテなどなど。たいへんなご馳走である。これがまた美味しく、バリの米も美味しく、うまい、うまいと食べたのだった。これを作る為にみんな集まってくれたのである。

食事の間、いろいろと話をし、その後、村を少し歩いた。ヌサ・インダーという赤い舌のような花の名を知り、道端の植物をあれこれと見た。五百メートル先がラフティングの出発地点である。そこがこの村の端である。この村の人口は三百人。一つの村に五つのバンジャール(自治会)がある。

闘鶏をやっているというので見に行った。男たちは、軍鶏の品定めをして、金を賭けている。この闘鶏は村の寺院の改築費用捻出の為に行われているのだそうだ。

道端にパイナップルが生えている。ランブータンが生えている。三百人くらい生きてゆくのに十分な食糧がこの村にはあるように見える。僕は海育ちなので、このようななり物は珍しい。バリ島ではやっぱり魚は食べられないなと思う。魚を運ぶには気温が高すぎ、遠すぎる。

「仕事をリタイヤしたら、ここに戻るのかい?」とバワに聞くと、「そうだ」と答える。

村を遠く離れた者も、バリでは実家の村に所属するため村のセレモニーの時は必ず村に戻ることになる。デンパサールの村組織には属さないのだ。村をいつまでも宗教的に行政的に支える仕組みになっている。

甘いバリコーヒーをいただいて帰途に着く。クリスマスである。夜、グランブルーでは、スイスのグループ、オーストラリアのグループ、日本人達のグループで賑わっていた。

バワは大忙しだった。


2000年12月26日

思えば、思えば

思えば今年の五、六、七月、三ヶ月に渡るバリの滞在で到着してから三週間後くらいに風邪をひいてダウンし、それが逆に休養になったのだった。回復してまた三週間くらいでへたばったのだった。僕はこの事実を年のせいであり、膵臓のせいだと思っていた。今回は、五十日に渡る滞在だったが、思えば同様だった。約三週間でへたばるのである。

以前に書いたことだが、バリ島にいる時は日本にいるときよりも1.3倍のスピードで外へ放り出される力を重力でバランスを保たなければならないため、疲労度が大きいのだと思う。速い飛行機での旅の方が疲れるのと同じなのだろう。この計算でいくと約3.5日で日本にいるよりも二倍疲れることになる。

僕はこの辺のことがわからなかったために、日本にいる時と同じ程度に興奮し、同じ程度に怒り、同じ程度に喋っていたのである。約33%身体の速度と精神の程度を落とせばよかったのである。帰る間際にこのことに気がついたのだった。

また四季が一日の中に凝縮されて訪れるという比喩を発見したのだが、このことも良く考えてみれば恐ろしくエネルギーのいることかも知れない。

バリはビジネスをする場所ではなく、リゾートをするところなのである。何もしないで日なか寝そべり、水につかり、読書をし、熱帯の植物やふいに訪れる鳥や昆虫を見て、くつろぐだけくつろぐ場所なのである。レゴンダンスやケチャダンスはつかの間ののんびりしすぎた精神を刺激してくれる心地よい芸能である。

路上に座るバリ人、勘定の遅い女性店員、何もかも熱帯のリズムなのである。

だがしかし、なぜレゴンダンスやケチャダンスは激しい音楽なのだろうか。それは、いつも1ではなく0.5とか0.6とかのエネルギーを使っているバリ人たちのたまったエネルギーの爆発なのである。 

ジョゲットダンスに興奮する人たち。この時ばかりは動作も機敏である。バロンダンスで戦いを演じている人たちも動作は速く、とても日常のバリ人とは思えない。

「政治状況は大丈夫なのかい」とバリ人に聞くと「あっちこっちでデモしたり、小暴動起こしたりしているうちは大丈夫だよ」と言う。

「黙り始めたら怖いのさ。」

話は外れてしまったが、今度来る時は、相当、気持の持ち方を変え、その準備をきちんとせんといかんなあ、と思いながら、そうそう性格は変えられないし、認識力で性格をコントロールしなくちゃいかん、とまた厄介な問題を抱えてしまったのである。

もちろん基本的には、この熱帯の環境に体力がついていけないという「老化」の問題なのだが。若い人が思うことではない。



2001年4月14日

離れてみれば

 イダの奥さんがこの頃頻繁に意識がなくなり、そのたびにイダが仕事を休むという事態が続いている。イダとイダの義理の両親(つまり奥さんの両親)は病院に連れて行き、バリアン(呪術師)に行き、ついにはロンボク島まで薬を買いに行った。

 僕がその症状から察するに、過呼吸症候群であろうと思われる。突然息が苦しくなり昏倒する。  イダと結婚する前から奥さんにはそれがあり、その後二人の子供を産みその子供たちが一歳、三歳となってきたところで頻発して起こるようになった。

 僕が僕の知っている知識で組み立てる限り、解釈はこのようになる。

 イダの奥さんは一人っ子だった。しかも女性である。当然このバリ社会では、まず男の子を親は望む。しかし生まれたのは女だった。男の子が欲しかったに違いない。男の子が欲しいと次の子作りをするのだが、結局その後子供はできず世間体を気にしつつ彼女は大学まで行かせてもらい、可愛がられて育ったのである。

 もちろんこの間、親の思いもすべて彼女にプリントされている。男の子が欲しかった思いも、今度こそ男の子だという思いも、養子を迎えなくてはという思いもすべてである。

 イダは学力優秀。イダバグスという第一のカーストの地位も誇りにしている。だが、学校で二番だったので大学に行けず、どうしていいやらわからず、客が来ない旅行代理店で運転手をしていた。事務所の一隅に二畳ほどのスペースのある物置きに住まわせてもらっていた。イダはシガラジャから出てきたのである。

 やがて彼女と知り合い彼女の突然起こる昏倒にも同情し、(ここは僕の想像である)いつしか愛し合うようになり(または結婚してもよいという風になりーこれもぼくの想像である)、イダは長男にもかかわらず結婚をし彼女の両親の家に彼女と共に住み始めたのである。

 イダは僕と知り合うことによって生活の水準が上昇してきた。子供も大きくなるに従って、義理の父母の無責任な可愛がり方にも妻に異を唱えるようになってきた。養子のように彼女の家に住んだイダだが、本当の養子ではない。イダ・バグス・スパルサの家は自分が継いでゆくのだと思っているだろう。(これもぼくの想像である。)

 今日、僕らは5時30分にバリの空港に着いた。イダが来ていた。今日は国民の祝日で休みのはずなのに、である。僕はその前にこれまで書いてきたことを伝えたおいた。

 仕事を休むことが頻繁なので、きっと彼も気に病んでいるかも知れない。

 「イダ、奥さんはどう?」と尋ねると、笑いながら 「今は大丈夫」  「僕が知る限りでは過呼吸症候群だ。ストレス。緊張。これが原因だ。肺をとりまく副交感神経がやられていて、緊張を吸収できない。それでその緊張を解こうとするのだが、一時的に心停止に陥る。詳しくはわからないがきっと〈関係性の問題〉だと思う。この際、彼女の両親とは別に、イダの奥さん、子供たちだけで暮らしてみては? 」とつい言ってしまった。 イダは 「病院でもバリアンでもよく似たことを言われたんです。この際別々に暮らそうと思っているんです。手紙も読みました。僕もなんとなくそう思っていたのですが、とにかく両親とは別々に暮らします」

 僕はこれで彼女の病気は治ると思っている。

 離れたら、気持が遠のくということがある。離れることによって、互いの感情のよせ方が違ってくることがある。

 人生のひとつの大きな選択である。彼女の親は辛いだろうが。イダが仕事を続けられなくなったら、すくなくともイダは困る。みんなも困るに違いない。

 とここまで思ってなおも疑問が残る。むこう側の親にしてみれば、イダには仕事で頑張ってもらわずともよく、娘と一緒に住んで娘が男の子を産み、貧しくともそれでやってゆけばよいではないか、と思っているかも知れないということだ。

 ここから先は、このバリ社会の行方と同じである。


2001年4月15日

ベッドを北向きに

  いつも泊まるアクエリアスホテルの25Aは庭付きで台所もあり、花の壁で包まれており快適なスウィートルームである。部屋は当然広くベランダも広い。それで20ドル。これを交渉して18ドル。

以前部屋はヨーロッパのホテルのように暗いので、マタハリで球形の蛍光灯を二つ買って取り付けた。電気ポットも常備しなるべく快適になるよう工夫した。

 今回は真っ先にベッドの位置を変えるつもりだった。これまで熟睡ができず夜中に必ず目を何度か覚まし、この点だけが落ち着かなかったのである。

 ある日、サヌールで日本人のおじいさんと出会い、その人は物知りな方で「そりゃあダメだよ。西側に頭を向けて寝ると、血液が頭の方に昇ってしまうよ。磁気の関係だそうだ。たぶんきちんとした科学的裏付けがなくても(その方は科学的に言っていたのだが)、こういうことはバリ人の習慣を聞けばわかることだろうと思い、オカたちスタッフに聞いたのだった。すると、バリでは西の方角に頭を向けて寝てはならない、と言われているそうだ。ははん、なるほど。このせいだっと思い、今度バリに行ったらベッドの位置を変えようと思ったのである。

そして、早速ホテルのスタッフといっしょになってベッドの位置を南側に変えたのである。北か東だとみんな言うので北にした。このことをホテルのオーナーに言った。 「どうしてこのホテルはみんなベッドは西向きなんだい。」

「外国人はそんなこと気にしないと思って」とニョマンが答える。ニョマンも寝る位置などはバリ人はこだわるけれど外国人にとってみれば迷信みたいなものかも知れないと思っていたようだ。

 人間が長い年月をかけて知ってきたことはそれほど間違いがあるとは思えない。きっとそれらのことは科学の力によってやがて証明されるに違いない。

 それで一泊目。なんと熟睡だった。夜中に一度も目を覚ますことなくトイレに行くこともなく朝八時までぐっすり眠った。

 次に、一日に使う僕の身体のエネルギー量を日本にいる時の60%程にしておこうと決意をしてきたのだったが、これは無理だった。立っているだけでも暑い。そしてやっぱりあれこれと気づき、指示することが多い。明日があるさ。



2001年4月16日

ようこそバリへ

 濃密な昼の陽射しと夜の闇。神々もまるでバトゥワンスタイルの細密画のようにごちゃまぜになって、人々、家々、村々の中で熱い息をしているかのようである。

 このように書き出せば、バリというものの流布されたイメージだけで、想像をたくましく思い込み、さらにイメージ化されバリ島が浮遊してゆく。

 このイメージは何に起因するのか。二万もあるといわれる寺院、地下の霊、天界の霊に捧げる供物や聖なるアグン山を象徴した竹の幟、ペンジョールや布の幟、ンブルンブル。

 家々の入り口や辻に置いてある石彫や建築物に彫られるバリ独特の木彫。金属の楽器オーケストラ、ガムラン。金色で飾る踊りの衣装。バリ独特の絵画、それに織物や染物。まだある。香り高い花々や果物。レゴンダンスやバロンダンス、仮面劇などの演じ物。わずかな面積のこの小さな島でなぜこのような文化が育ったのか。

 このイメージに海のスポーツをからめる人も多いのかも知れない。サーフィン、ダイビングなど。あるいは田園と渓谷のイメージを重ねる人もいるかも知れない。

 ようこそバリへ。バリに来ましたらあなたのそばにいつも善霊も悪霊もいると思ってください。あなたが清らかになりたいと思ったら北のアグン山の方を向き、お祈りをし、あなたが自分の底意地の悪さをちょっとでも思ったら、地に向って「すみませんでした」と祈ってください。バリのあらゆる物が、例えば音楽や絵画、舞踊や手織物すべて祈りだと思ってください。バリ島では花を見るということは神となった証です。果物を食すということは神と交わるということなのです。おわかりになっていただければ、あなたはこの島で我執から解放され人々と共に一応元気に暮らすことができるはずです。


2001年4月17日

バリのオーストラリア人

 昨日二十年来、年に二度、二週間から三週間程に渡ってバリに来ているオーストラリアの女性と夜中の一時まで酒を飲みながら話していた。同じホテルの滞在客である。バリが変わった、ということが話題になった。彼女は路上の物売り、これこそがバリで、彼らがいなくなったことをとても残念に思っていた。

 二年前アメリカ人の男性が地元の新聞、バリアドバタイザーに「観光客よ、クタに行くな」という投稿を寄せていた。「路上物売りがひどい」ということで相当悪印象らしかった。その投稿が功を奏したのか知らないが、クタの地元商店の人たちと軍がバックにいる路上物売りたちとトラブルが発生し、一人の路上物売りの男性が殺されるという事件が起きた。その事件以後、おりしもスハルト体制の崩壊と共に路上物売りもクタの町から消え、ある者たちは共同で店舗をもって定着したのだった。僕も相当に煩わしいと思っていたから、路上物売りの少年や若者がいなくなったことに清々していたのだが、残念がる人もいることに驚いたのだった。

 彼女にしてみれば、ケアンズは物価が高くとても二週間や三週間の休暇は楽しめない。バリは宿泊もなにもかも安く楽しめる。話を聞いているうちに、路上物売りの若者たちがしつこく追いかけてるのを時に相手したり、拒否したり買うそぶりをして買わなかったりと楽しんでいるのである。

 彼女の方が僕なんかよりも一枚も二枚も上手なのかも知れない。旅のすべてを楽しんでしまえ、という意気込みがある。昨年の六月、シルバーの店で突然「これはいくらだ、10万ルピアくらいのもんだな。おい、10万ルピア払うからもらっていくぞ。と、とんでもないことを言い出すお客がいた。この店は絶対に値引きをしないのである。店員は「30万ルピアだから、10万ではダメなんです。」と応じている。オーストラリア男は意に介さず「何言ってるんだ、これは10万ルピアのもんだ。」と言ってポイと10万ルピアを投げて出て行ってしまった。英語でまくしたてられ、勢いにおされ、憮然とするだけで、そのあっという間のオーストラリア男の行動についていけなかったのである。ひどい男もいたもんだ。店員はくやしそうな顔をして、そして、僕にオーストラリアンはああいうのが多いんだ、と言った。馬鹿にしているのである。

 インドネシアとオーストラリアの関係の悪さは存外こんなところが発生源なのかも知れない。理解しようとか、遠慮しようという態度がなく手前勝手に振舞うオーストラリア人が多いのではないか。

 先の女性は陽気で明るく、バリ大好き女性だったが、路上物売りを逆に楽しむほど〈手前勝手〉な発想法を持っているのではないか、と僕は疑ったのだった。


2001年4月22日

女たちの抵抗

 静かな反乱がバリで起っている。若い世代の女性たちである。バリのほとんどの二十代以下の女性たちは、夫方の家に義理の父母と共に住みたくないのである。核家族を希望している。

 他所から仕事を求めてきた若い二人はとりあえず一部屋のアパートを借りる。この人たちは核家族を形成する。子供ができて成長してくれば、二部屋あるアパートに移る。

 実家がサヌールのような便利なところでは、若い夫婦は二人だけで住むというわけにはいかず、悶々として夫婦生活を続けるのである。

 だから、家つき、ババつきみたいな家に嫁ぎたいと思う若い女性が圧倒的に少なくなっている。

 赤ちゃんが生まれる。それが男の子か女の子かは大問題である。男の子であるか女の子であるかはしかたのないことではないか。隣近所、親、親戚からしてみれば、代を継ぐものとして男の子が欲しいのだろうが、産んで育てる子は男の子も女の子も我が子である。何を言われる必要があるか。

 経済が逼迫しはじめると、女性も働かざるを得なくなる。二人共働きをすれば収入も増える。それだけ女性の主張も通り始める。

 バリは今こういう時代である。 

 ところがここに大きな問題がある。バリ人たちは新築の家を買うことができないのだ。この経済危機以降、またたく間に建築費が値上がり、例えば五部屋のバリ式住宅を建てようと思えば、一千百万円要るのである。こんなお金、日々一万円もない給料から払えるはずもないのである。マイホームなどは夢のまた夢。こんな状態が続けば、不満は蓄積されやがてどこかで爆発するに違いない。

 ルピアが安すぎる。輸入ができない。生活資材が高くなる。経済活動をもっと活発にしたい。道路事情が悪く、渋滞続きでどうにもならない。それでも都市に人が集中する。バリ島も今はすっかり悪循環の中に入り、どうにも出口の見えない閉塞した状況になっている。

 僕の目からそう見える。しかしどっこい、バリ人はそれがどうした、と言いそうな感じである。出て行きたいものは出て行き、外国人も出て行き、オレたちはヤシの木とバナナと米で食べていくさ、とどこかの村の長老は言いそうである。

 基本は豊かなのだから。その時女性たちは従うのだろうか。なんだか、従うように見える。


2001年4月23日

夫婦

 僕らのホームページを見て、アクエリアスを知り、そして宿泊している安倍夫婦と会った。ご主人が昨年定年退職をし、かねてからやろうと思っていた旅行を夫婦でやっているのだそうだ。バリ、ヨーロッパ、ハワイなど高級ホテルなどには泊まらなくいい、安いツアーを見つけたらパッとそれに参加して旅行する。話をしていると気持ちよく感想や情報の交換ができるので嬉しい。

  なぜ、バリ人は急に老けるのか、という話題になって、それは都市生活と農山漁村生活の違いではないか、という意見を奥さんが言われた。彼女の実体験的なところで、のんびりはしているが刺戟の少ない農村の生活を彼女の親を例に出してくれたので、実感的になるほどと思ったのだった。

 都市生活は人をいつまでも若く見えるようにするのだろうか。電車に乗る、ショッピングをする、多くの人を見る。様々なデザイン、飾り、ファッションetc. こういったものが自分にも伝染されてそれが若く見えるという風になってゆく。そこを彼女は言いたいのだ。かなり説得力がある。

 僕は別の意見を持っていた。こうである。熱帯の動植物、温帯の動植物が違うように、人種によって細胞の時間の流れが違うのではないか。ゆっくり長い歳月をかけて成長して、急に老ける人種(バリ人のように)。早く成長して急に老ける人種(アメリカ人のように)。それはいろいろなのではないか。僕はそのことを昨夜考えていたところだったのである。

 時代の段階的な違い、経済背景の違いも当然考えたのだったが、経済、時代段階的な背景に基づく都市というものの像を思い浮かべてなかったので、奥さんの言うことは説得力があった。これは加味すべきだと思った。

 ご主人は、今一番楽しいと言っていた。それにしても、元気のよい、好奇心にあふれ、クタの町を歩きまわる、そして仲の良い夫婦を見るのは気持ちがよい。一人では生きられない、ということをよく知っておられる。こういう深さもきもちが良い。

 愚痴、だまし合い、しらけきった夫婦をよく目にするのだが、粘りっこくもなく、適当な距離感というか性格の関係というか、そういう夫婦を見た記憶が僕にはないのである。旅はこういう出会いがあるからよい。


2001年4月25日

不気味さ

  仕事面での当初の目的はほぼ終わりつつある。決算、税制、会社規則、組織、保険制度、建築物の修理、改装。バリ島内ツアーのオリジナル企画、提携、マーケティング方法の体制の確立、アキちゃんの事故処理における警察での事情聴取。

 制度の面から、インドネシアのわからなさが相当クリアーになった。法による島民生活のしくみがわかってきたのである。個人的な課題としては、バリ島の人々の無意識の中にあるものをもっと手探りしたいということだった。かなりわかってきたような感じもするが、わかりかけてくる分だけ不気味さが忍び寄ってくるという感じである。その不気味さはわかる不気味さである。

 例に出せばすぐにわかる。僕の生まれて育った町は三重県の尾鷲市である。三方が険しい山、一方が海に囲まれた町である。山を越えて隣りの町まで行くのに昔なら歩いても半日。同じ尾鷲市内でも旧町内なら山を越えた海沿いの村までは約一日かかる。

 このような場所で育つ限り、尾鷲への帰属意識は強く、故郷意識も強い。仮にこの尾鷲にかなりの他所者が入ってきて、住み始める。初めのうちは珍しくて、桃太郎やかぐや姫のように大事にするのだが、他所者の数が段々と多くなってきて、ちょうどイスラエルでロシア人が多くなってきて発言権を増してくる、そんな雰囲気になれば尾鷲人はどうするのか、わかるような気がする。

 バリ島は徳島県ほどの小さな島である。そこで人々は外国人観光客を受け入れ、生活の糧とする方向に歩み始めた。観光客は出たり入ったりだからバリ島の人々の生活にまで踏み込んで来ない。こういう気楽さはあったかも知れない。しかし、ビジネスで外国人が滞在しはじめる。クタのような村が都市化を始める。他の島からも観光業を目当てにして人が入り込んでくる。クタはもうすぐ、ジャワや他の島から来た人たちが形成しつつあるスラムを取り払い、追い払うそうだ。

 バリ島は就職難である。失業者が多い。ここ数年車の数は増え続け、クタ、レギャン、デンパサールなどは毎日が交通渋滞で経済的マヒが起るのではないかと心配する程だ。これにルピア安が加わり、生活物資が値上がり、ほとんどのものを輸入に頼るバリでは輸入業者も立ち行かなくなる。普通の人々もそれのあおりを受けて、ますます生活が苦しくなる。女性たちは核家族化への思いが強いが、住宅事情がそれを許さない。

 すると、ある日高札がでて、

 島民に告ぐ

 一 他島出身の流民は追い出せ。

 二 ホテルの数は外国人観光客用 100、 国内滞在者用 100とする。

 三 観光客数は年に五十万人とする。

 四 外国人事業所は100とし、国内人事務所は 

1000とする。

 五 車の台数を5000台とする。中型バスは1 

000台とする。

 以後、我が島の文化、伝統を重んずる者はこれに従え。

 こんな風になるかも知れない。もちろんこれを実行するためには産児制限を設けなければらない。日本にも「外国人打ち払い令」はあったし、「焼き打ち事件」などもあったのである。

 こんなことまで考えてしまうバリの今日この頃である。


2001年4月26日

遠い、遠い昔

 うっかり帰国日を一日思い違いしていて、結局滞在を延長することになった。二十六日がレストランの改装仕上がり日であり、それを見届けておかないと悔いを残すことになるかも知れないから二十五日の夜中(26日1時45分出発)の飛行機をキャンセルした。気がついたのが二十五日だったから、完全に思い違いである。

 二十六日の仕事のこともあったのだが、三十日の国民議会の行方も気になっていて二十九日、三十日はやはりバリ島にいた方がよいとも考えた。 二年半前の経済危機の時以上にルピアが下がっている。一円98ルピアとは異常を通り越している。全くの危機である。このような危機状態で、これはジャカルタのことだ、とよそ事のように思っているバリ島の人々は緊迫感がなく、一人一人を見ればどうにもできやしないいというような無力感が伝わってくる。しかし、何かの契機で火がつけば暴動が起ってしまう。暴動は最大の主張である。           

  *   *    *               

 新潟県の湯沢でホテルを経営している玉田さん母娘が、来シーズンに向けてホテル内装を変えるということで、バリ島に買い付けに来られた。お二人は仕事上のことで来たのであるからプールに入ってのんびりと、ともできず、真剣に物を探し、交渉し、この四日間の仕事が来シーズンからのホテル運営にかかわっているのである。

 テーブルの上に置くメニュー立て、ルームキー、部屋番号、テーバッグボックスなどはデザインから注文する。その話し合いもバリ人とするわけだから、実際のバリ人とはどんなものかほんの少しの人数だけれど察したに違いない。アジア雑貨を用いることで、玉田さんのホテルがますます賑やかになってくれたら、バリ島と玉田さんの関係は続いてゆく。

 その玉田さんたちがグランブルーに見えた時、出前両替屋さんのミコさんが来た。四人で夜中の十二時まで「ミコあれこれバリ島」みたいな話になった。何しろバリ島在住五年だから、しかも、阪神大震災三日後のポートアイランド脱出劇だからミコさんの体験はすさまじい。五年の間バリ島で感じたこと、経験したこと、今思うことを彼女は久しぶりの日本語会話のせいかよく語った。

話は時にバリと日本の比較に入ってしまうが、彼女は地べたからバリ人とつきあい、バリを見てしまえ、としているところがある。この点、バリ人を小馬鹿にしたり、軽蔑したりするところがないのでよい。AとBの比較論はややもすると、それだけに終始し最後はどちらかが小馬鹿にしたり、愚痴ったり、嘆いたりするだけである。

 アメリカにいる若い日本人で日本および日本人を小馬鹿にする人がいる。バリにいる日本人で、バリを小馬鹿にする人がいる。先日会った安倍夫妻や玉田さんなどは旅人の眼でバリ人を見、なんと言うか普遍的な眼差しでバリ人を見る。人間の共通した原型のようなことろを見、差異を認めて帰ってゆく。ところが人間というものは、長く滞在し始めたら、差異が目につき鼻につくようになってきて、二地点の比較に入ってしまう。比較論から何か普遍性を見い出してゆく態度があればいいのだが、生活の視線だけではそういうところに収斂されていかない。

 宇宙あたりからの視線とか、またミコさんのような地べたからバリ人になりきってしまおうと思っているような視線とかが混じると会話も楽しくなる。 不思議に思う。僕らは超消費資本主義の社会で、より科学を発展させ、DNAの世界まで解こうとしている。一方で、僕らは人間の原型的なものを求めている。アフリカやアジアには、何か人間のプリミティブなものが感じられて、何かしら人は出向くのだろうか。僕らの遺伝子の中に、遠い遠い昔の記憶が眠っているはずなのだから。


2001年4月27日

トペントゥアと能

  四月の桜が咲く頃、京都へ「能」を見に行った。南禅寺から銀閣寺に渡る「哲学の道」の桜が美しかった。しかし、「能」はそれ以上だった。

僕は「能」をどう見るのかその作法は知らないが、ついつい居眠りをしてしまうのである。つまり退屈なのである。こっくり、として思わず目が覚めて舞台を見る。またこっくり、としてというくり返しである。他にもそんな人がいた。

 けれど、一瞬一瞬カメラのように舞台が記憶され、イメージとして残るのである。これを様式美と呼ぶのか。持続する緊張感は見る者に、否が応でも、逆に言えば開放感を与えてします。居眠りがそれだ。

 しかし「能」を演ずる人たちは持続する緊張感で演じているのだが、鼓の音や謡などもそうなのだが、観客に居眠りを許すところがあるのだ。しかし残像は素晴らしく、僕はまた行きたいと思い、五月三日にはぜひともと思っていたのだったが、どうもお流れになりそうである。

 テレビでバリのチャンネルをかけていたら、所作がちょっとずつ動き、脇の者が身動きしないで待つ、まるで「能」のような仮面劇(トペントゥア)をやっていた。日本の「能」と比べると、様式的な美の要素は少なく、音楽も演じ手も雑多なものをまとわりつけている。レゴンダンスは踊りとして相当高水準で、美的感覚も洗練されたものを持っているが、このテレビで見た仮面劇はやや粗雑であった。

 「能」の場合は、音や掛け声、謡、舞台装置、演じ手の動きなど削れるだけ削りそぎ落としているように見える。さらに仮面は一つである、その一つの仮面に悲しみや喜び、恨みや遠慮や狂おしさも凝縮されているのである。(という風な残像感があるのである) 衣裳が特に美の要素ではないかとも思う。ここまで極めて高度化された「美」を日本人は作ってきている。バリ島のものは残念ながら、ここまで高まっていない。しかし「能」の発生に近い原型のようなものを残しているように思える。

 「能」は元々何を起源とするか、不勉強で知らないが、ここまで美的に昇華させた日本人にも驚くのである。


2001年4月28日

良いマネージメント

 よくレストランのスタッフたちに「どうしてあのレストランはやめたの?」と聞くと、「バットマネージメント」と答える。バッドマネージメントには二つある。裏返して言えばグットマネージメントのことでもある。

 一つは、オーナーが店のお金を持ち出して、経理をチャランポランにしていまい、従業員がついていかなくなることでやめざるを得なくなる場合。 もう一つは、マネージメントが緩く、おおらかなことをバッドマネージメントという。どんな小さなこともいちいちチェックし、管理体制を厳しくし徹底的にうるさく言うこと。これをグッドマネージメントと言う。一人一人の判断や裁量にまかせること、信用することはバッドマネージメントなのである。

 僕は一人一人がいちいち言わなくても、その責任を果たしてくれたらよいと思っているので、さしずめバッドマネージメントなのだが、この頃、きつくしめて、しめてあげて監視の目を光らせ、言い忘れることもないよう神経を使って、完全に管理体制をひく方が、イキイキし始めることを知った。ははあーん、中学生の管理教育と似ている。

 マネージャーをやりたがる人は少なく、嫌われる、ブラックマジックをかけられることを恐れるバリ人たちが、会社という近代的な組織を運営していくことはたいへんなことだと思う。

 今日は嬉しいことに、グランブルーがやっと最終的に完成した。思っていた80%くらいの完成度になった。オーストラリア人たちがハニムーンパーティーということでグループでやってきて、べたべたにほめてくれた。料理はおいしく、とにかくこんなにきれいなレストランを見たことがない、と。階段部分がやっと出来上がり、室内側はクーラーが入った。オープンエア側には白いテントが中心から折りたためるように取り付けられた。

 壁のガラスには女性の胸のような、海の底に浮かぶような女性の乳房の形が静かに波打つように並んでいる。世界のどこにもない、ここバリにしかないバリ・ガラスのレストランである。明日から本格的にマーケティングが始まる。帰ることを延期して良かったと思っている。客が来始めた。二階であるハンディはようやく克服されるかも知れない。

 それにしてもこれからである。彼らの言う、良いマネージメントの意識を変えなければならない。全部上司のせいにし自分に対しては問いかけをしようとしない傾向がある。これまであまり知らなかった難問である。


2001年4月29日

すごい剣幕

 「この前の契約の時、指導者としてきちんとやるからと約束したのが守られていないじゃないか。別のところに仕事を探した方がいいんじゃないか」とバリ人女性Aに言った。マネージャー、他の二人のサブマネージャーからの報告だと、Aは私用電話を使い、客がいるのに大声で電話で大喧嘩し、とても扱えないという訴えだった。会社規則がようやくできてくる頃で、その前のできごとである。マネージャー側も記録を取っておらず、警告書も出していない。こちらにたいへん分が悪いのである。それで警告書を一枚だすことで済まそうかと思っていたら、彼女はマネージャー、サブマネージャーのいるところで思いのたけを語ったのである。それがすごかった。マネージャーたち三人にして

 「私だけが私用の長電話をしているのではない。B、Cもやっていた。DなんかE(マネージャー)の眼をとってしまい、足ももぎってしまわなくちゃ、と言っていた。Eはマネージャーとして何も言うこともできず黙っているだけ。バリ人はこうしろ、ああしろ、これはいけないことだから、こうしなさいと、言われないとどうしたらよいのかわからないのよ。やっていることの何が悪いのか良いのかちゃんと言ってくれなきゃあね」

 必死の反撃である。

 Aのマッサージの腕はよく、10年選手で腕には相当な自信があり、その腕を伝授する立場として雇用された。研修期間中はいっしょうけんめいやっていたが、オープンと同時にやらなくなった。それで六月の給料改定の時、僕はインストラクターとして、トレーニングプログラムを組み、指導するよう忠告し念を押したのだった。

「みんな私の言うことを聞いてくれやしない。みんな私をおとしめようとしている。」

「でも、みんなの上に立って、指導してゆくのが君の職務じゃないか。」

「私はしょちゅうやった。」

「しょちゅうっていうのは毎日ってことかい。」

「毎日やった。聞いてもらったらわかるわ。」

「それは誰だい。すぐ呼んでくるから」と僕は言う。やがて指名の五人が来た。聞くと給料改定以後、一度も教えてくれたことはない、と全員言う。 「どうして嘘をつくんだい。」

 「嘘なんかついていない。人間って忘れることがあるから」

 ぼくの約束を守っていないことには神妙だが、マネージャーたちの言うことには断固反対し謝る気はない。裁判所に行くと言う。僕は「どうぞどうぞ」と言うのだが、内心、マネージャーたちも新米で、記録もしていないし、警告書をどのタイミングで出すのか、恨まれることも怖いし、勇気もいることから何も言えなかったようだ。どちらも落ち度があるのである。警告書一枚で済ませようと思っていたのだが、そして今も思っているのだが、Aの剣幕はすごく、断固として私だけが悪いのではない、という主張だった。マネージャーが悪いとボロクソである。契約の時の僕との約束は破っている。ようやく会社規則も完成した。これまでのことは目をつぶろうか、これからは会社ルールにのっとってやっていくのだから。


2001年4月30日

ムングル

 ヌサドゥアの少し手前で、左に折れるとムングルという村がある。突き当たりが海で、海岸には二、三艘の舟がある。ここから対岸のブノアが見える。 浅い海で、入江になっているためほとんど波がない。バリがこんなに暑くなかったら、そして釣れる魚が美味しかったら僕にとっては最高の場所である。

 ここに、イラワティという女性が一人住んでいる。香港、シンガポールとバリ間で商売をしている。詳しくはのちほど「バリでこの人に会った」で紹介するが、彼女はスラウェシ島の漂海民から魚を買い付け、活き魚のままバリに運び、バリから香港、シンガポールに空輸している。

 昔、門田さんの「漂海民」のルポを読み、たいへん感動したことがあったので、何か、漂海民にちょっと触れた気がした。

 舟が二艘、光と波の中の中で漁をしている。育ちのせいかいつも心ときめく光景だ。イラワティさんはここを死ぬまで離れないと言っていた。外に応接セットが置いてあり、ちいさなバーもある。海がいつも見える。彼女がこのように育ち、どのような考えのもとで仕事をしてきたのか、いろいろ聞かせてもらった。

 帰ったら、スーパーバイザーの長がいない。マネージャーが電話をすると頭が痛かったのだと言い、だったら薬をあげるから出てきて、と言うと、今度は子供の面倒を見なければならないと言って断ったそうだ。シェフも含めてその場にいた者はあきれてものが言えず、さあ、どうしたものか。マネージャーはどうするのだろう、と僕は様子を見ている。

 イラワティさんはこれまで些細なトラブルはいっぱいあった、と言ったが、それを具体的には語らなかった。些細なことを大事のように言う人がいる。細事を愚痴らず、それを克服したことを自慢せず、たいした女性だと帰り道思ったのだったが、こんなあきれたこともきっとあったのだろう。

 二日前にそのスーパーバイザーにも、みんなにも、今後は会社規程に従ってやっていくことを宣言したばかりだった。仕事を引き継ぐことも頭痛が起った場合は会社の薬を使うことも言ったのだった。どう理解したのか、不思議な思いがする。

 イラワティさんが笑っているような気がする。



2001年5月1日

帰国

 ひとまずバリを離れる日が来た。昨日から暑さも和らぎ、朝晩涼しい。

今回の滞在は三ヶ月ぶりだったことから、僕のいない間のバリのスタッフたちの様子がよくわかった。育ち方がアメリカとも日本とも違うのはわかっているつもりでいたけれど生々しく体験した。

 指示する側は一つ一つ細部にわたって指示しなければならない。でないと必ず破れた網のようにこちらの意図とは違うことが起きる。会社の中で働く、法の下で働くという経験が少ないだけの話だが、「会社の中で働くなんて、法の下で働くなんて、いやなこった」と思っている僕が、会社の中、法の下でこうしなくちゃいかん、ああしなくちゃいかんと言っているのだから自己矛盾である。

 グランブルーはようやく仕上がった。ブックツリー、ヤーマ、エステ・デ・マッサも決算が終わった。  

明日はグループ会社のスタッフを集めて会議を行う。僕から出される宿題の確認のようなものだ。ホームルームの時間とでも言えばよいだろうか。

 29日に内戦が起るかも知れないという噂があったが、ひとまず平穏に29日が過ぎた。明日30日がインドネシアの政治状況の大きな山場だが、今のところ、ワヒド大統領の呼びかけで過激な騒乱もなさそうである。それを見届けて帰国する予定である。

 バリ島にくる前、日本の歴史を原始から現代までざっと読んだ。昔、イギリスにいた若い頃、日本の歴史を知らないことを痛感して、かなり真剣にその頃勉強したのだったが、忘れてしまっている。忘れてしまったことを痛感して、また読み直し、今回はバリでも何度も何度も読み直し、暗記することに努めた。もうだらしない頭になっていて、次から次へと忘れてしまう。古代、律令体制が整うまで約五十年以上かかっている。荘園制度が崩れるまで八百年かかっている。主権在民となるまで日本の歴史は、長い長い時間がかかった。

 インドネシアの社会は今激動期にあり、前進し、後退し、また前進という風にして、スハルト体制を克服してゆくのだろうと思う。人々の意識の流れは今そうなっている。フランスも入れ替わり立ち替わりで、市民革命だ、王政復古だ、ナポレオンだと主権在民までは難産だったのである。

 確かにスハルト体制は確実に崩壊しつつある。多少の反動はあるかも知れないが、僕はバリ島で耳にし、感じる限り、インドネシアは変わらなければいけないし、ミニスハルト体制(権益の体制)はよいものではないと意識し、口に出すようになっている。

 願わくは経済の再興だが、資源が豊かで本来的に豊かなこの国がシンガポールとまではいかなくてもマレーシアやタイに追いつくためにはNIES諸国がとってきた外国資本と技術導入が必要なのだろう。

なんだかニュースキャスターのようになってきた。これでは話がおもしろくない、と内心思っている。つまり第三の、まだこの世界が知らない発展のさせ方の創造ができるはずだと思うのだ。追いつくように真似をしてゆく。その真似の果ては今の日本みたいなものなら、つまらない。

2001年5月29日

迫ってくる問題

 母は七十六歳なんですよ。若く見えます。どう見ても六十代って感じですね。母が脳梗塞で病院に入ったのは十二年前、六十三歳でした。毎年一ヶ月ほどの入院をするという状態だったのが、三年前からクロレラを飲み始めて、続いて僕がバリ島から対葉豆をもってきて、毎日飲んだのです。どっちがよく効いたのかはよく知りませんが、今はすっかり元気なんです。一時、コンロの火を止めるのを忘れたり、ウツっぽくなったりしましたが、今はそんなこともなくなり、脳梗塞ってこういうもんかって思いますね。「りっぱな脳をしていますね」なんてお医者さんに言われる。

 母が病気になって、物忘れもひどかった頃、幾分なじるように、母を小馬鹿にしていた父は、肺炎が契機で身体の悪いところがドバッーと出た感じで、頭と心臓がガタガタでした。あっちまで行きかかって、半死の状態で戻ってきたのですが、現在はなんとか歩けるようになりました。この二年間のことです。母と立場が逆転してしまったのです。

 今回、初めて母をバリ島に連れてきたのは、父がなんとか歩けるようになり、一週間くらいだったら、僕の妻や姉が時々必要と思われることを用意したり、状態の確認くらいすればいいわけで、四六時中介護が必要でない状態になったわけでした。この機をとらえて、母をバリ島に連れていこうと、父を説得したのです。

 父も一週間くらいなら自信があるのか、「おう、行ってこいれ」とあわてるような、恐ったような素振りは見せませんでした。

 現在の平均寿命は女性で八十四・五歳くらいだったと思いますが、癌の克服で、九十歳になり、百歳になる人の数が増えつづけていることから、僕の母などもあと二十年くらいは生きていくかも知れない、そういう可能性は十分ある時代に突入しています。

 なんとなく七十歳くらいだろうな、と思っていた人生が百年も、となってくると相当人生設計も変ってくると思いますね。

 日本は完全に村であっても村社会は崩壊していますから、「死」という問題は「個人の死」の問題、「孤独な死」という問題になっています。「死ぬ」ということは実際は死ぬ本人が経験できるわけでなく、本当は他人の問題とも言えるわけですね。わけがわからなくなってしまったら、それはもう他人にすべてを委ねているわけで、あとは知ったこっちゃないと考えてもいいし、だからこそ、他人様に迷惑がかからないよう、生きているうちに他人様に気を使っておこう、と考えてもいいわけです。しかし、どちらにしろ自分の死については徹底して考えざるを得なくなりました。

 バリ島の人々に興味を持って接しているのだけれど、個人という意識が相当希薄なんです。強い自我って感じられないし、お金もうけなんかにも、それほど積極的ではありません。「死」のレベルで言えば、「死」は共同体に初めっから預けてしまっているという感じですか。

 日本はこの時代をこの五十年で通り過ぎてしまったのですね。経済成長で目まぐるしく変化しました。死について考える暇などないような勢いでした。  

村社会では個人を縛ることがいっぱいあって、本当はたいへんなんだと思いますよ。しかし、こういう村社会が崩壊し、人間はどうなっていくのか、みたいな先進的な例が同じアジアの島国、日本にありますから、バリ島は近代化しながらも別の将来像を新しく作っていくこともできると思うんです。バリ島の葬式はイヤですけどね。死んだあとの葬儀なんて、みんないっしょでいいじゃないかと思いますが、見栄としか思えないような、古代的な遺制が残っているんです。アホらしいと思うんですが、お金をコツコツ貯えさせて、死んだらパッと使ってしまう。それの方がよいと考えているのでしょうかね。

 それとバリのカーストも全く良いこととは思えませんね。どうして必要なのか、そういう意識は、古代、中世ですね。形式的などと言うけれど、違いますね。かなり、実質的、意識的ですね。こういうことは、これからのバリ人たちが考えていくことです。

 そして我々日本人は、どういう超高齢時代を過ごし、どういう死に方、どういう死に方というより、どのように死を認識するか、をテーマをしてかなりの人が持ち始めたと思いますね。経済の問題というより心身の問題にテーマが移っている。

 ところで母は、バリ島で、目に付くものをスケッチしたり、好奇心いっぱいにして、陳列されている品を見たり、衝動買いしたり、日常、いわば、夫の介護をほんの数日離れて、元気よく楽しんでいます。食欲もあって、ロブスターや蟹、魚、スープにワインとガバガバ食べてるって感じですね。

2001年5月30日

バリのカースト

  バリ島にはカースト制度が厳然とあるんですね。僧侶階級のブラーフマナ、貴族階級のサトリア、商工階級のウエシア、そして九十%を占めるスードラ。安倍晴明ではないけれど言葉は「呪」だと思っています。変に言葉を覚えると、聞きたくないことまで聞こえてきますよね。それが「呪」となりますから。

 つまり気分を害したり、あの娘はこんな物言いしてるんだ、と思ったり。民俗学みたいなことで村に入り込んで研究となったら、やらざるを得ないと思いますが、英語ひとつ満足に聞き取れたり、話したりできないのに、なんで今更別の外国語をと思ってしまうのです。もう時間はないわい、とも思いますね。

 しかし、言葉は文化ですから、たとえ聞いたり、話したりできないとしても、僕は興味本位で、日本語、英語、インドネシア語、バリ語二種類(丁寧な表現とくだけた表現)を見て、結構楽しく言語の背景にあるものを分析しているわけです。

 それやってると、カーストというのは現実の中にしっかり根付いているんだなって思いますね。で、実際、今回バリに来て、早速アキちゃんに聞いてみたのです。

「たとえばね、アキちゃん、ワヤンはどの階級?」

「スードラですよ。」

「あっ、そう、で、ワヤンとブラーフマナのグスと話をする時どうするの」

「ワヤンはブラーフマナに使う言葉なんて知らないから話はできませんよ」

「え、できない?」 「ええ、だって知らない、使ったことなく育ってますもん」

「うーん、そうすると、会話はどうするの」

「インドネシア語ですよ。」

「あっそうか。インドネシア語か。インドネシア語は尊敬語も謙譲語もなかったよね。ごく、平等、単純・・・」

「そうですね。」

「そうすると、どういうことかな。かなり距離感をもって話しているわけ。どんな風に考えればいいんだろう。尾鷲弁と標準語という関係みたいなものかな、それとも日本語と英語という感じ?」

「標準語を話すという感じでしょうね」

「尾鷲弁では『愛してるよ』なんて絶対言えないけどね。東京へ行ったら、言えてしまうみたいな、そういう感じかなあ」

「ブックツリーはイダ・バグスとかイダ・アユが多いから、グランブルーやマッサの連中は恐くって話かけられないと言ってますよ」

「話かけづらいのかな。僕は意識して、ブラーフマナの人たちを採用したわけじゃないよ。たまたま後で知ることになった。」

 メルマガで「バリ語探検」をやり始めて、そういう言葉の問題に驚いたのです。丁寧語とくだけた言い方はまるで別言語なのです。

「そうするとね、スードラの女性が、ブラーフマナの男性と結婚するとするよね。そうしたら、男性側の両親と日常生活を共にするわけだろう。それはどうするの?」

「それができないんですよ。黙ってる。かなり賢明で、知恵があって芯が強くないとビビってしまうでしょうね。」

 僕はこれまた衝撃的事実を聞いてびっくりというところです。

 バリのカースト制度は、カーストによる分業もなければカースト間の経済的相互依存関係はないといいますね。不可触民という考え方もないそうです。貴族層の女性が平民層(スードラ)の男性と結婚するのは禁じられているが、その逆はOKなのだそうです。言葉の問題が大きくあるのでしょう。スードラの女性がブラーフマナの男性と結婚した場合、頑張って努力すればブラーフマナの夫の両親に使う言葉を獲得できる、と考えられますが、逆に貴族の女性が嫁いだ先のスードラの家族の言葉に合わせていくのは相当困難な気がします。

 そういう習慣を認めて生きている、ということは何かいいところがあるからなのか、今度その辺をスタッフたちに聞いてみます。が、

 僕はご都合主義の古くさい過去が残っているだけで、ちっとも良いことなんかではないと思っています。


2001年5月31日

福耳のこと

 シェラトン・ヌサ・インダーはこじんまりとした中規模のホテルである。中規模といっても、グランドハイアットなどの超大型ホテルと比べての話である。

 このホテルの誰か、例えばホテル敷地内のデザインを担当する人か、コンサルタントの人かはわからないが、誰かがブーゲンビリアと蘭に相当こだわっているように思える。

 例えばヤシの木に、ブーゲンビリアを巻きつかせて巨大なブーゲンビリアがプール周辺にある、と思えばフランジパニ(プルメニア)の木に、蘭を寄生させるように工夫をしている。ひたすらアンティークなものを置いて、心を落ち着かせようとするホテルが多くなっているが、シェラトンはあらゆるものに工夫を加えることで、ホテルを演出しているようだ。

 久しぶりにリゾート気分である。年老いた、だが若い母といっしょであり、同じ部屋に寝泊りするのも二十八年ぶりのことである。僕が大人になってからの母の習慣的なことや、食事の好みのことや、何に好奇心をだすのか、知らなかったからこの旅行で観察し、育てられていた時には見えなかったことも経験している。

 昨晩、ホテル内のビーチ脇にあるシーフードレストランで、「父さんの耳は福耳なのに、どうして大金持ちにならないのか、と占い師に聞いたことがあるんさ。そしたら、その福耳の福はあなたのことですよ、って言われたがな」

と笑いながら言った。

「あの人は、私がおって得したと思うよ。」

そう言いながら、これまでの人生を肯定し、今バリにいることを喜んでいる。七十歳になる前、「もうこれ以上一緒に暮らせん、離婚する」と騒いだのは何だったのか。まあこんなものだろう。

「この人といっしょにやってきて本当によかったのだろうか、悔いはないか」

 誰もが事ある度に思うだろう。そこで自分にもう一度深呼吸して問いかけてみる。「なぜ、そんな問いかけを自分にするのか」と。

 実は、そういう問いかけを何度も自分自身にすることの先に、「決心」さえすれば、別にどうのこうのと言われる時代でなくなっている。世の中全体が離婚に対して大らかになっている。

 母たちの世代、さらに十年下がり、二十年下った世代には「決心」の前に様々な妄想があったに違いない。「世間体を気にする」などと言うのは妄想である。離婚によって世間の人がなぐりかかってくるのものではない。せいぜい「別れたんだって」と事実を噂されるくらいである。

 母や父はどういう思いを経て今いるのか僕は知らない。そして聞くこともしないだろう。夕食の席で、それっきり「福耳」についての話も深まらなかった

 つまりそんな思いもあったという思いが流れたのである。


2001年6月1日

ケチャ

 ケチャダンスを演じるグループが一体バリ島に幾つあるのか知らないが、見るたびにちょっとずつ違うのは、グループのせいなのか、同じグループのものでも少しずつ変化してきているからなのか、これまたわからない。毎回グループ名など記録しておけばよかった。

 トランス状態にまでなるケチャダンスというのを見たことがないが、トランス状態のケチャダンスを想像すると、相当迫力があるだろうな、と思う。

 よそ見しているダンサーや、ヘラヘラ笑っているダンサーが一人でもいると興ざめてしまう。こういう興ざめのないケチャダンスは、これまでオベロイホテルで見るグループのみであった。

 声のそろえ方、息の吐き方、摩擦音の出し方などが、見事に一致していた。よそ見する半端な野郎もいなかった。ケチャダンスを観賞する際いつも期待するのは、途中で現れる女性の歌である。この声は年輪を重ねた女性の声でないと、調和しない。しかも声が地の底から夜空に響き渡る声でなければならない。

 こういう声を持った女性は、今まで僕の知る限りただ一人である。これも残念なことだけど、どのグループに所属している人なのかわからない。写真にだけは撮ってある。

 今度偶然出会ったらぜひとも報告したいと思う。実は三年ほど前「バリの音」というCDを作った時、この女性の声が素晴らしくて、CDに収録したのである。取材のテーマが違ったため、グループ名、女性の名前をCDのインレイに書かなかったのだった。そして以後資料を紛失してしまった。

 ケチャダンスを飽かさずにやり抜くには、手振り、身振りを変えたり手拍子を加えたりするだけではあまりにも小手先の技というだけで、このコーラス舞踊劇の真髄は緊張感の調和が忘我感の調和に達するところにある。

 この間に、男性と女性の独唱が入り、合いの手のように入る気合の入った掛け声、基調のリズムを刻む男性の声が盛り上げていくのである。

 すごいグループのケチャダンスは、始まったとたん、感動を呼び起こすものである。なぜなのだろうか、と考える。太古の時代の脳のある部分が呼び起こされるのかも知れない。人間は一人ではなく、二人以上の調和を希求してやまないのかも知れない。


2001年6月2日

化身の劇

 ティルタ・サリの「レゴンダンス」にはいつも唸らされる。特に「レゴン・ラッサム」を踊る主人公は少女ダンスとしてはギリギリの年齢になろうとしているように見えるが、円熟味がでている。三年前もすごい踊り手だと感心しきってしまったが、今回見ると、速さやきれに、演技力に磨きがかかり、微妙な微笑も、緊迫した表情も、鳥になった時の鳥のような目も、ゆとりさえ感じられる。上半身、下半身、手の指先、足の指先、目の動き、華麗さ、拍手パチパチものだ。

 この三年の間、何度も見ている。以前はプリアタンの寺院のような屋外の舞台で見た。これは雰囲気があった。松明がある。おおきな割れ門がある。やがて月が昇ってくる。まさにレゴンダンスというような舞台だった。雨が降り始めると、少し離れたところにある屋内に観客が移動した。 今回は、初めから屋内だった。照明装置もつけられ、トイレも備わり劇場となったのである。雨の日もできること、トイレも備わったこと、椅子になったことで便利になったのだが、やっぱり屋外の方が良かった。

 ティルタ・サリは金曜日の七時三十分から見ることができる。レゴンダンスが終わると、バロンとランダの戦いの劇がある。僕はランダファンなので、ランダの登場が待ち遠しい。最初、猿が出てきて、次にバロンが出てきて、悪戯をする猿をやっつける。ついで、ランダの子分チュルルックが登場する。実はこのチュルルックはドゥルガという女神から使わされたものらしい。そしてとうとう最後に女神の化身、魔女ランダが現れる。ティルタ・サリの舞踊団ではこの演目も見ることができる。

 化身の劇である。定かではないのだが、猿もチュルルックも、バロンやランダも我々人間が深いところに持つ何ものかの化身なのである。 僕の中にチュルルックの顔がある。猿のような顔もある。もちろんランダもいる。バロンもいる。この化身劇に人間が二人登場する。親分っぽい男と狡賢そうな男。二人は化身ではなく現実の人間の姿である。それは突如、僕らの内面から出てくるバロンやランダではなく、身につけてしまった世間での自分、自分はどう見えるかという外観を表わしているように見える。おどけた奴がいる、威張った奴がいる、誠実そうな人がいる、無口の人がいるという風に。

 二時間があっという間に過ぎて、きらびやかな黄金色で染まった空間は闇となるのである。

 ぜひバリにきたらティルタ・サリのレゴンダンスをお奨めする。


2001年6月3日

再びバリのカースト

 バリのカーストについて、もう一度別の角度から書きたい。バリ語そのものがカーストを認める言語体系となっていることは前にも述べた。 このことを僕の住む尾鷲の方言を例に出すと、代名詞と助詞で力関係を表すようになっている。

 男同士の関係で

一 AがBよりも力関係が強い場合

 Aいなとこのねえちゃん、かいらしんにゃあ。

 Bそうかな。

 *訳すと、A君の姉さんは可愛いね。

       Bそうです?

二 AとBが対等、親しい関係の場合

 Aいなとこのねえちゃん、かいらしんにゃあ。

 Bそうかれ。

 *「そうかな」が「そうかれ」となる

三 AがBよりも力関係が弱い場合、またはAがBにへりくだる場合

 Aあんたとこのねえさん、かいらしんな。

 Bそうかれ。

四 AとBが対等でそれほど親しくない場合

 Aあんたとこのねえさん、かいらしんな。

 Bそうかな。

 となる。だいたい人間関係として、上と下、下と上、親しい同等、距離のある同等の四つに分類される。

 十年ほど前、スナックでこんなことがあった。僕とNTTの支店長とスナックにいったら、そこにNTTの社員がいた。その人は僕の先輩で尾鷲の人である。

 NTTの支店長と僕は親しく、丁寧な対等の言葉でやりとりをしている。僕の先輩は、僕に上から下への言葉使いをする。支店長はあわてて、これまた上から下への標準語で「そんな言葉使いやめなさいよ」と言う。僕の先輩は支店長にはへりくだった喋り方をする。

 こういうことはバリでは日常茶飯事だろうし、言葉の使い分けは尾鷲弁など比較にならない。上下、カースト関係は厳しいのである。日本においても尾鷲のような山と海の町では、会社をやっていく場合でも、言葉のうえで、職階が難しい。結局年功序列が波風を立てない、となる。

 若い上司に、その先輩の部下というのは、言葉を克服するだけでたいへんなことである。

 おのずから言葉は他所の方言の標準語っぽいものとなり、距離をおいた話し方になると、関係は「水くさい」ものとなる。

 バリ島はより難しい。おそらくバリ島はもっと言葉の制約がきついのである。

 我々スタッフのイダは学校ではインドネシア語ですべてを学ぶ、というので、自分の子にはバリ語を忘れさせず、家の中ではできるだけバリ語を話させるようにしている、という。僕もバリ語ってどんなものか知らなかったので、「あっ、そう」としか返事しなかったのであるが、今思えばとんでもない話である。人間の関係を狭いところにとどめておくことになる。言葉によって自由がきかなくなる。

 僕の場合、今でも幼い頃の同級生と会うと言葉に困ってしまう。呼び捨てにしていたのを急に「〇〇さん」とか「〇〇君」とか言うのにもなんだか妙で、ぎこちなくなってしまう。

 インドネシア語はその点では対等であり、雰囲気は英語に近い。おそらく、よそから輸入してきた言葉に違いない。人々の中でインドネシア語が自由に飛び交うようになれば、バリのカーストも実質的に消滅してゆくのだろう。


2001年6月5日

ひっかかること

  珍しく朝方激しく雨が降った。まどろんでいたがなんだか雨が懐かしく、今日一日中降ればいいのにと思いまた眠ってしまった。

 ロンドンの会社から、僕あてに採用しようとしている人物について、どういう人物でどういう能力があるのかという問い合わせのファクスが入った。三年半前に会社を辞め、ロンドンに行った女性のことである。

 どういうわけか、最近グランブルーを辞めた人二人から、同様のレターが欲しいという依頼があった。

 新しく雇い入れる会社は、インタビューや試験だけでは判断がつかないと思っているのか、それとも大きくなってしまった会社の形式的な事務手続きなのかわからないが、僕ならそういうことはしないな、と思い、そう言えばしたことないな、と思った。

 能力など、わかるものではない。見方によって変るものであり、その人間の置かれる立場、状況、境遇によっても違ってくるものであることは知っている。放っておくか、と思ったり、悪いかな、と思ったりして、結局今日は書かなかった。参考程度にするのだろうが、健康面のことまでたずねている。

 これからは遺伝子検査表まで出すことになるのだろうか。この前テレビで、遺伝子検査を受けた男性が肺ガンになる可能性が高いと診断されて、その後、定期的に検診を受け、そしてやがて早期の肺ガンを見つけ治療した、というルポを見た。遺伝子治療のおかげです、という感想をその男性は言っていた。

 ひとつの新しく登場する技術。必ずその意味に相反するものがあると考えておかなければならない。遺伝子診断がすべて善であるというわけにはいかない。

 話を元に戻す。

 どうも回答しにくい。元気で、好奇心にあふれ、編集の仕事もほぼ一人前に出来る人です、とでも書けばそれで済むし、それで間違いがあるわけではないのだ。

 能力について語る資格当方になし。

 健康について喋る権利なし。

 御社の職種なんだかわからず。

 プライベートな事項書く意志なし。

 ご自身の判断でリスクを背負られよ。

とでも書こうか。

 つまり、そう、僕はひっかかっているのだ。他人の就職に僕を巻き込んでくれるな、と。

 それにしても涼しい一日だった。今回のバリは六割くらいのエネルギー量でやっている。まだバテていない。


2001年6月7日

夢をつかむか

 今日は村の祭りがあるらしく、近くからガメランの音楽が聞こえてくる。虫が鳴いている。時々ゲッコー(ヤモリ)がキリキリッと鳴く。

 インドネシアでビジネスをする場合、インドネシアの銀行は日本の企業にはお金を貸してくれない。預金は誰でもできるのである。 定期預金は今、14.5%の年利である。その利息は普通口座に振り替えられ、普通口座では、10%ほどの利息がつく。利息に対して20%の税金が差し引かれる。

 収入の道が日本にもある人だと、インドネシアで払った税金分は控除され、残ったお金と日本での収入を合算して申告することになる。

 このようなことがやりやすいように、インドネシアの銀行はその体制をとっているかと言うと、「利息計算書」もくれない有様なのである。利息は三か月ごとくらいに変動するから、一年経って申告しようとなるとたいへんな計算で自分でしなければならなくなる。1,000万円の元金に対して145万円ー利息税金20%の手取りは魅力である。日本を二、三度度往復してもなおバリで余裕で生活していける。

 これに目をつけたインドネシア政府は「退職者ビザ」などというものを作って誘い込みをかける。まだ、僕自身、お金を貯えてとか、老後のためになんらかの準備をするとか考えたことがない。妻の方はどう思っているか知らないが、そういうことにあまり表立って言わない。

 これまで大貧乏を一時期、大大貧乏を一時期経験した。貧乏に関してなら自信がある。貧乏しても豊かにのほほんと暮らしていく術とか、もうすぐ大貧乏になってしまう、という人は、相談してくれればいつでも相談に乗る。自信を持って教える。

 悠悠自適の生活なんてあるもんか。縁や運命は向こう側からやってくる。やってきたものに自分が乗ってしまうかどうかは問題だろうが、我々はなんとなくやってきたものに乗ってしまうのだ。

 「夢をつかむ男」などというものもあるが、自分から夢をつかみに行こうとしてできる人などというのは、いるのかも知れないが、ほんの少数でしかない。

 天才は夢をつかもうなどと思わず、やっている行為が自分でもわからない程の無我夢中で、そのまま死んでゆくように思うから、夢などと言っている人に夢の実体はやって来ないように思う。つまり、人間はそんな風になっている。

 さて、自分はこれからどうありたいか。こう考えると様々な思いが浮かんでは消える。そして、自分はどうありたかったのかと問うてみる。どうありたかったか。演出家をやってみたかった。寿司を握ってみたかった。バンドをやってみたかった。一編の小説を書いてみたかった。しかし自分の能力はそんなものに適していないのかも知れない。今、生きることが最大限自分を発揮できているのではないか、自分はこんな風にしかあり得ないのではないか、そういう心境にまで来ている。今「ピカレスク」を読んでいる。太宰治と井伏鱒二の話である。太宰よりはずっと健康で、心のキズと言えば、「ゴキブリが恐い」ことくらいかな、と思えるほどのもので、よかったな、と思う。

 銀行利息の話がこんな風になってしまった。今日はそういう仕事をしたのである。


2001年6月11日

境界

  自分の部屋で、フリチンでいても何も言われることはない。部屋を一歩でると、そうはいかなくなり、パンツ一枚くらいははかなくてはとなる。さらに居間にいけば、リラックスできる上下の、まぁパジャマくらいのものを着なくてはとなる。玄関、トイレ同様である。

 家の中というのは、人間の関係性により、そういう風にできている。つまり、家の中には「まるっきり個人の自由」なところ、家族が集まるところ、他人が入ってくるかも知れないところに分けられている。これがだいたいの日本の家の空間的な構造である。

 居間も、玄関もトイレも、他から視線を無視して、家全体を自分の部屋のようにしてしまうことを許していると、おそらく他人の視線がわからない人間になってしまう。家の中での延長上で学校という社会にいく。家の中でふるまってきたことが学校のクラス内では通じないということが起きる。

 フリチンで町を歩いていれば、おまわりさんに注意されることは誰でも知っている。しかし、家の中で自由気ままにふるまっていたことを学校のクラスに持ち込んだ場合はわかりにくい。このわかりにくさが現代の精神の問題のひとつのような気がする。

 もうひとつ、家の中では妄想にふけることも自由であり、もっとも妄想が湧きやすい。しかし、一歩外に出れば妄想は湧きにくい。社会という場所では、周囲の視線があり、動きがあるから妄想が湧く暇がないのだ。家の自分の部屋でカエルを殺し、解剖する。すると快感であった。また、もう少し大きいカエルをつかまえて殺し、解剖しようと妄想する。妄想だけにとどまっていればいいのだが、やらないと気がすまなくなる。妄想が膨らみ、感情が抑えられなくなる。妄想どおりの行動に出る。好きな人ができた場合のことを考えてみるとよい。我々は妄想する方に進んでしまう。

 ここで普通、生まれた時から家の中で他人との関係性の基本ルールを学んでいたら、つまり玄関とはどういう場所で、自ら玄関は玄関として扱う約束事があるのだ、と学んでいれば、妄想することもブレーキがかかったり、別のものにすり換えたりするだろう。

 戦後日本の社会は、核家族化し、個人の自由の方へと経済発展とともに進んできたが、足元での、つまり家庭の中でのルールを存外考えることなく、今日までやってきてしまったのだと思う。

 一方バリ島。個人の自由など、妄想にふける時間などどこにもない。家族の者、親戚の者、近隣の人、友人、入れ替わり立ち代り現れる。トイレの中と食事の時だけが一人になる時である。

 だからいつも庭や、人が腰掛ける場所などはきれいに掃除されている。

 他人の眼を煩わしいと思う。思うがここが問題なのである。煩わしいからと言って、極力他人から逃れる、自分の都合、自分の勝手だけに合わせる。あるいは生まれつきそのようでしかあり方を知らない、とまでなってきたら、この社会は病気の社会である。

 今のところ、バリ島とアメリカあたりの国の半々くらい互いの集合が交わった斜線の部分あたりがよいのかな、と思う。

 もちろん、人間の関係性の問題が誰にでもわかりやすい言葉で流布され、認知されてきた社会はもっと良い社会だと思うが、さしずめ、都市と田舎の境界線あたりのところと言っておくとわかりやすい。


2001年6月12日

恋愛

 夜半から今日も雨が降り出した。しばらく同じような天気具合が続いている。

 今日もいろいろあった。そのひとつ。

 ブックツリーのスタッフが同じグループ内の他店に派遣している男性フタッフを連れ戻したい、と言う。どうしてか、とたずねると店の女性とのことで噂がでているのと、仕入の値段が下がってこないのは妙だと言う。

 バリ人たちの間では、同じ会社で夫婦が働くことは、家の儀式を行ううえでも、会社が二人同時に休まれたのでは立ち行かなくなるという、村落共同体に根ざした考え方がある。

 社内での恋愛もかなり用心深いように思える。店の女性はこれで二度目である。男性はやがて会社に居づらくなったのか去っていった。またか、と笑ってしまう。

 まさか、別れろ、と言うわけにもいかない。どこでもよくある話である。自由に恋愛をやればいいわけだが、どうしても漏らす者が出てきて知れることになる。知れると、誰が喋ったんだ、と言うことになり、嫌気がさすスタッフも出てくる。

 ああ、困ったものだ。こういうことを「恥」とする気分がバリ人には共通して強いような気がする。バレたことがわかれば、男性は会社をやめていくかも知れない。黙って見ているよりしようがない。いや待て、ここはきちんと言っておいた方がいいか、判断にあぐねた。

 そして、かくかくしかじかで言うけれど、あれこれあれこれと説明し、その男性スタッフにこういうことで会社を辞めることがないよう、そして配置換えをすることを申し渡した。女性の方はこのまま仲が続き、結婚するようなことになったら、会社を辞めると、自ら言った。

 ふーん。会社を辞めるかあ。恋愛はオープンであってもいいけれど、周囲の状況によって秘め事にならざるを得ない場合もある。一対一の関係、特に男と女の関係は特別な幻想の領域である。理性以前の本能というか感情であり、観念が加わる。こればっかりはしかたがない。これはたとえ相手方に夫や妻がいたとしても、起ってしまったことはいたしかたがないというものだ。

 ただ、どんな恋愛にしろだいたいが周囲のものを巻き込むものだ。そこがこの嵐の本質的なところである。僕は会社およびそこで働く人々との関係で無関係であってもいいものが、巻き込まれ、うーん、困った、と言っている。


2001年6月13日

ボディボードのことなど

 連れがいたため、今回のバリ滞在は、気ままに過ごせなかった。日曜日にどこかに出かけたり、夜ひとりになって、テレビを見たりあれこれ思ったりできなかった。

 今回の目的は会社の規程づくりの完成であった。だから、もっと時間があると思ったが、やはり連れが一人あると一人の時間はずっと少なくなってしまう。

 毎日が講師みたいな仕事である。経営計画書とは何か、なぜ必要なのか、バリの人たちにもわかってもらわなくてはならない。中核になるスタッフが必要である。

 良い天気が続いている。クタも毎日夕陽が見える。サーフィンについてはあまりよく知らないが、尾鷲の近くの浜にもサーファーが来ているから、そこの波と比較するとクタの波は断然高い。だが、映画 「カルフォルニア ドリーミング」で見たほどの高さではない。映画では高い波の上に乗るというより、押し寄せる波の山の内側にうまく乗っていたような気がする。クタの波はそれほどでもない。よくわからないが、初級・中級者には面白い場所かも知れない。もしかしたらボディボードには最も適した波なのではないか。

 恐らく僕が十代でクタの辺りに住んでいたらやりまくっていただろうと思う。昼間テニスをするには暑すぎる。ゴルフも汗かきかきだろう。

 レストランには様々な国の人が来る。サーファーグループがどっと来る時もある。オーストラリアの若者たちは本当に几帳面に割り勘で飲み食いする。イギリス人はカップルが多い。このレストランが珍しいのかほとんどの人が写真を撮る。みんな遥か遠くから来た旅行客で、リラックスしてバリの時間を過ごしている。

 バリ人はと言えば、サーフィンをして遊ぶことを羨ましいとも思わねば、カップルでひそやかに夕食をすることをねたましいなどとは思っていない風に見える。仕事の役目が終われば、バイクで村に帰る。クタでもレギャンでも大通りを脇に入れば、もう、バリの村である。バリ人たちだけの生活がそこにある。途中、盛り場で一杯やっていくということもなければ、仕事帰りにみんなで居酒屋に、ということもない。淡々とし、旅行客と自分たちを区別している、

 ジゴロであっても、夜も更ければ、村に帰るだろう。ホテル住まいのジゴロも多くいると聞くが、数にしてみればごくわずかであろう。

 いずれの時代、バリ人たちも夜の喧騒の中に多く現れるかも知れない。観光客を楽しませるのではなく、自分たちが楽しむために。

 いつも思うことだが、レストランで見る日本人の印象がとても良い。男性も女性もなにか大らかで、クタクタという感じがしない。「都会での仕事はストレスが溜まるんですよ」とよく聞くが、ストレスのありそうな人なんかいないように見える。バリに来て顔つきまでゆるやかになり、和むのだろうか。僕はいつもそう思うのである。

 日本の若者は、おじさん、おばさん観光客グループなんかよりずっとたくましく、礼儀正しいように見える。


2001年6月14日

空港にて

 夕方六時半頃に人が来て、十時半頃まで食事をしながら話をした。引き上げて、パッキングをしようと思っていたら「地球の歩き方」の編集人が来ているという。もう時間がない。さっさとパッキングをして、応対しようと、汗をかきかき荷物をまとめ、急いで戻ると、その編集人は明日、取材に来ると言って帰ったそうである。大きなプロモーションだから、頑張ってやるようにと幾つかのアドバイスを与え、グッドラックと言って、タクシーに乗った。

 空港は僕がバリの中で一番嫌いなところである。何度来ても慣れない。ビジネスビザへの税金、空港使用税、これは文句がない。イミグレーションで、何か金目のことはないか、嗅ぎまわっている男たちが嫌いなのである。何も悪い事はしていないのになんだか嫌な気分である。これは何だろう。もう帰るという時に、またひとつ緊張しなければならないことが嫌なのだ。過去、出国カードがないとか言ってストップになったことがある。空港の外にある入国管理事務所でマルチビザを更新した際、故意にか、ミスでか僕のパスポートにはさんである出国カードを抜き取ったか、もう不要なので抜き取ったかわからないが、とにかく僕は一応ストップをくらったのである。こういうことが最後のところであるのである。

 さて、イミグレを無事通り過ぎたら、ガルーダ888便は、四十分遅れである。

 空港から店を出さないかという話があった。それでブラブラ店をまわってみようと思った。空港は年々整備され、店も多くなった。まだ店を増やそうとしているのか。

 パンなどを売っているコーナー。三十分でパンを買う人三人、コーヒー四人、ミネラルウォーター一人、コーラ二人、ビール三人。一人あたり約15,000ルピア程。15,000×13で165,000ルピア。この調子で十八時間あったとして165,000×36で5,940,000ルピア。約日本円で七万円、などとこれを書きながら勘定している。

 このコーナーの店員が、僕に一万円札を千円札に両替してくれないかと来た。日本人がルピアを持ってないらしい。あいにく千円札や五千円札で一万円を持っていなかった。ルピアがあるのでその日本人にどうぞ使ってください、と渡した。

 すっかり、これまでの二週間のことが現在完了形ではなくなっている。気持ちは過去である。

 人間の気持ちというのはかくも変化するものかと思う。アナウンスがあり、ガルーダ名古屋行き888便は再度遅れるという。これで完全に尾鷲に到着するのは午後三時を過ぎる。

 「明日のことなんて、誰がわかる?」とオカが言ったのを思い出した。この言葉を聞いたような気がする。確かバリ人かインドネシア人を理解するための本でだったような気がする。この言葉が生きるためのキーワードになっているのではないか。近視眼的なワイロ、ちょっとのごまかし、ふんだくり、ふっかけ、も共通のキーワードからあふれ出ているものかも知れない。

 つらつらそんなことを思い、空港の片隅にいる。係員が来たので、「パンは一日いくつ売れるんだい」と聞くと約100個と答える。「コーヒーは」と聞くと「100杯」と言う。だいたいあたってるな、と思っていたら、搭乗の案内があった。

 「明日のことなんて誰がわかる?」か。


2001年7月24日

うーん

 名古屋からの便は客がまばらだった。キャビンアテンダントに聞くとここ一週間、キャンセルが相次いでいるらしい。

 外務省が「危険度1」と発表したからなのだろう。

 線香花火を料理に使おうと思って、試しに何本かスーツケースに入れ、別の店で買った同様の花火をショルダーバッグに入れていた。スーツケースの方はチェックにひっかからず、ショルダーバッグの方でひっかかった。機内に持ち込めない、と言う。

 僕も真っ正直にスーツケースにも入れてあることを言うとちょっとした騒ぎになり、飛行機に入れた荷物の中から僕のスーツケースを探し出し、僕はまたチェックインカウンターに行き、荷物を受け取り、花火を取り出し廃棄処分同意書にサインをし二つあった何と言うのかわからないがモニター画面でチェックする機械のうちどちらかで何時何分頃チェックを受けたかを聞かれ、ああ馬鹿正直に言ってしまったと思ったのだった。

 そんなことが飛行機に乗る前にあった。

 バリに到着すると、案の定涼しい。日本の今の暑さと問題にならない。最も良い季節だ。ルピアがさらに上がっていた。二日で一円十二ルピアも上がった。買い物があるため円を持ってきたため、かなり狂いがでた。メガワティ大統領歓迎のルピア上昇だろう。

 二十日から、バリのスタッフの一人が日本に来ている。彼は二十五日にバリに帰るのだが、彼の日本の様子をおもしろおかしく僕は空港に迎えに来てくれた彼の弟に喋った。ルピアを円に換えるところがないことを知らなかったこと、エレベーターで車を移動する新しいモータープールを見たときの驚きの表情、わさびに目を白黒させたことなど、など。

 弟はどんな気持ちで聞いていたのか知らないが、あとでわかったことには、日本に来いと言われるとお金がかかるだろうから、僕はちょっと考えるな、と日本人の同僚に言ったらしい。日本で兄貴の方がどれほど実入りが良かったかはまだ知らないらしく、海外出張についてきちんと明確に規程を知らしめていないことを反省しつつも、態度の貧しさにちょっとがっかりしたのだった。軽口である。お金がかかりそうなことを言ったまでのことである。日本人のスタッフも僕に告げ口をしたのではない。兄と弟の関係におけるやや複雑な感情について、それを例に出して話しただけなのだ。

 吐いた軽口がその人間の人格的な印象を人に植え付けてしまうことがある。

「近所の人は餞別でもくれたのかな」

と聞くと、弟の方は、

「家族以外誰にも言ってないよ。もしも言ったもんなら、日本にまで行けるんだからお金を持ってると思い、みやげをねだりに来るし、ねたまれるしで大変だ」

 うーん、それ以上話す気になれず、まあそんなものかと思ったのだった。

 グランブルーは盛況で何よりだったが、大阪でできることで勢いづいているかと思えば、妙に表情が堅い。まず一番行きたいと言っていた女性が怖気づき、両親に話してみないと、と言い始める。村で日本に行ったなどという噂でも広がれば、何を言われるかわからない、と思うのだろうか。それとも女の子だから親は心配するだろうし、決定権は親が持っているからなのだろうか。とにかく表情が以前と違っているのである。うーん。

 もうひとつ、ジゴロについて話を聞きまたうーんと感心して、バリに到着して三回うーんと唸ってしまった。


2001年7月25日

からまわり

  僕の身長は一七三センチである。バリ島で服を買おうと思えば、僕のサイズに合う服はSサイズでほとんどないに等しい。女性用も同様で日本人女性に合うサイズは探すのに苦労し、結局ない、ということが多い。

 僕は不思議でしかたないのだが、どうしてアジア人のサイズの服を作らないのか。

 オーストラリア人がおそらく観光客として多数になった時、サイズが決まってしまった。それからというもの、サイズの多様化を図っていないように思える。アジア人のサイズを作ればもっと販売力は上がるはずである。

 同じことだと思うが、僕はこれはたいへんなことだと思っている。自分を知らずして真似るこの国インドネシアのことである。

 アメリカは転職し、キャリアを積み、ステップアップしていこうとする社会である。このようにできる基礎は大学教育の普及と力強さにある。大学で仕事に役立つべく教育を受ける。会社に入ったら即戦力で使えるという人材教育がある。

 インドネシアでは大学にいくものはほんの少数である。日本も昔同じようだった。まだ使いものにならない新人に投資をして研修し、留学させたのである。それは終身雇用制と年功序列があったため、企業はそこまでしてでも人材を育てることができたのである。

 インドネシアは、転職が常識になっている。明日一円でも多く欲しいというのが大きな動機となっている。せっかく三年かけて教育をし、能力開発にお金をかけたのに、役立つようになる頃転職されたのでは、企業にとっては無駄でありリスクである。人材育成にお金がかけられないことになる。

 そうすると高卒の者は、能力開発がなされないまま、年を経ていくことになる。転職の習慣がなければ高卒の人も大卒の人以上に潜在的にもつ能力を伸ばすことができる。

 日本が戦後の経済成長をなしたのは、年功序列と終身雇用制がうまく機能したからであろう。それは互いに安心感の中で企業が不足している分の教育を実践できたからからなのである。その段階を経て、転職が一般化しつつあるように思う。

 インドネシアは教育の基盤がまだまだ弱いところにアメリカの先進的な「転職」を真似ている。今後の国づくりのたいへんな思い違いである。アフリカに、イギリスやフランス、ポルトガルやオランダは投資を続けたが、なんともならなかった。ヨーロッパの尺度でやろうとしても、結局はうまくいかず、サジを投げてしまった。こういうことがインドネシアに起こる可能性がある。富めるものはさらに富み、貧しい人々はいつまでも貧しい。教育の基盤のない国では転職はステップアップのように見えて、実は社会全体をステップアップさせていかないシステムだと思う。

 点検がなく真似ること、点検なく迎合してゆくことがいかなることになるか、スタッフを前にして声を大にするのだが、習慣化したものを変えるのは教育の充実しかないことに、そしてそれが長い年月かかることに、時々やりきれなさを感じるのである。


2001年7月29日

バリハイアットにて

 四年前のバリハイアットにはホテル内のガーデンツアーがあった。バリハイアットの庭は一冊の厚い写真集があるほどに充実していた。

 今回、そのガーデンツアーに参加しようと思って、バリハイアットに宿泊したのだったが、残念なことにこのツアーは廃止されていた。ガーデンの一部がスパになっていた。スバの充実に方針換えしたようだ。レストランには特別なスパメニューまであったから、バリ=エステ&スパの流れが定着したのだろう。

 それでもまだガーデンは充実している。ペリプラス社からインドネシアの熱帯の花の写真集が出ている。その写真集の花と実際の花を見比べながら、カメラにおさめひとつひとつの花を何らかのイメージにして、記憶した。

 さりとて花に詳しいわけではなく、桜の季節になれば桜を見、という風にしているだけで、積極的に花の名をおぼえたり、自ら育てたりしているわけではない。

 バリに来る度に、おやっと思う花があるので、だんだんと名前を覚えていった。ただその名がバリ語名かインドネシア語名なので、日本語名がわからない。あったとしても音をカタカナにしたものが多いに違いない。

 それにしても英語名はつまらない。誰が初めにつけたのか知らないが、形象を名前にしているのが多い。百合の一種で、薄い花びらから細い神経のような線が伸びている(何というのかわからない)。繊細で、どこか毒でも含んでいるような危なっかしさと優雅さをあわせもっている。前回のバリ旅行で、僕の母は素敵な花だと漏らした。英語名をスパイダーリリーと言う。訳せば「クモ百合」である。トランペットフラワーというのも、安易な名だ。ラテン名のダトララ、バリ名のケチュブンの方がずっとよい。他のものの名前を借りているのがよくない。花を見る時に、「トランペット」を浮かべてしまう。

 名前は、そのものを縛り、相手をも縛る。その名前をさらに一般化された名をつけることによって、その花の持つイメージは狭小化され、限定されてしまう。名前を知らない方がよかったということもあり得る。

 さて、バリでは香り高い花は、神に捧げられる。神はこれほどエロチックな香りのする花を好むのかと、そして花は女であり、実は女性の化身として花があるのではないかと思ってしまうほどである。チュンパカ、サンダット、セダ・マラム。すべて姿かたちや色は控えめだが、放つ香りは高い。大きな木の先の方、先の方に咲く。ダダップダタップという花は、深い血の色をしている。遠くから見れば、青空を背景に赤い班点が散らばっているように見える。この花をお供えの中で見ないから、神にはふさわしくないと誰かが考えたのだろう。

 バリハイアットのガーデンを歩きながらいろいろなことを思う。花は歌や物語と繋がっているから、新しい物語などをイメージしていると、それは自分のあり得べからず、あるいはありたいとどこかで思っているところのストーリーに展開されていく。


2001年7月31日

この国のこと

 三百もの民族がいて、それぞれの言語や文化が違い、しかも多くの島々からなるインドネシアは、宗教と政治を切り離すことで、スカルノ大統領という強大な権力者の支配でなんとかひとつの国を守ってきたと言える。

 スハルト体制が崩れ始めると、各地で民族闘争が起こり始めた。ワヒド大統領が一年と半、なんとかこの国を支えてきたが有効な経済対策が打ち出せず、ルピアは低下し、生活が改善されることなく、メガワティに政権が移った。副大統領がイスラム教の政治団体の代表である。メガワティがこけたら、イスラム教が政治を動かす国となる。ワヒド大統領以来確実にイスラム教の政治団体が政治に進出している。このイスラム教の政治進出に危ないと思ったのか、すかさずアメリカのブッシュ政権がインドネシア国軍を支援する旨を表明した。

 インドネシアは新たな段階に入ろうとしている。イスラム対アメリカという図式である。

 ヒンズー教徒が多数を占めるバリ島は、インドネシア政府の政治混乱による経済の弱体化の波をもろに受ける。よほど辛抱強い民族だと言わざるを得ない。ハイシーズンになると必ずこの三年の間、ジャカルタの政治に何かが起き、いっこうに三年以上前のような賑やかさが戻ってこないのである。そんなものなのだろうか、と思う。情けないとも思う。

 メガワティ大統領の舵取りにかかっている。挙国一致の連合政権で、アメリカと副大統領のバックにあるイスラム政治団体に気を使いながらさらに民主化を推進しなければならない。

 いくつもの重要な課題がある。相続税がかからないから、いつまでも大金持ち、土地持ちと一般庶民の貧富の差が縮まらない。税金を払うという意識が低いから、社会基盤の整備が進まない。今すぐできることもある。国を開く事である。具体的に言えば、パスポートの発行料をインドネシアの物価水準並みにすることである。出国税を無料にすることである。飛行機代が日本の二倍だというのも無茶な話である。外国人の投資促進においても、公平で安心できる環境を作ることである。諸手続きから生まれる利権を徹底して取り締まり、諸規程をきちんと公表し、ガラス張りの手続きにすることである。

 人々が行き来しやすくなれば、徐々に人々の意識は変わり始める。

 まずこの改革がなされれば大きな前進であると言える。するとこの国をどうしてゆけばいいのか、何が大事で何を拒否したらよいのか、なんとなく人々に伝染し始める。ただ、今日と明日だけを見、一ヵ月後、半年後、一年後、五年後、十年後と考えながら生活を送ろうとする人も増えてくる。この国の矛盾もいっぱい見えてくるはずで、逆にこの国のよいところも還りの視線から見えてくるはずである。

 スタッフたちを見ていると、しきりにこの国ということを考えてしまう。何とかしろよ、と言いたくなってくるのだ。


2001年8月1日

もどかしいくらいの遠さ

 いつものようにゆっくりと、だがしなければならないことはわかっているので穏やかに儀式の準備はすすめられていく。男性は一応の正装をし、女性たちは最も今流行している透け透けのクバヤに腰巻のスレンダン、そしてサルーンである。

 自分たち自らの文化を身をまとった時に見せるバリ人を見ていると、やっぱり日本人の男性は紋付に袴かなあ、と思ったりする。バリ人も日本人もとにかく洋服が似合わない。仏教徒であるエディはヒンズーの儀式には参加せず、式を見ている。年長者プジャナが儀式の進行を勤め、次の年長の者が聖水をまく。頭上で手を合わせ、神に祈る。次は花びらを手にしてまた頭上で手を合わせ祈る。米粒を髪の上、額につける。また祈る。マントラらしきものを唱える。歌が始まる。型にはまっているからか、慣れきっているからか、普段と別の人間のように思えてくる。

 バリスタイルのケーキが二つ並べられている。儀式が終わったあとのパーティ(というか食事会といおうか)用である。式が終わると僕に挨拶をしろと言う。挨拶を終えるとスピーカーからバカでかい音で「Happy Birthday To You」の歌がかかり、ケーキにナイフを入れろと言う。そこからが大はしゃぎである。ケーキを分けて食べ、紙折りに入ったナシチャンプルが配られる。ささやかな憩いのひとときであった。

 日本人同士だったら、その時の参加者の気持のあり様、しらけているとか義理で参加させられているとか、本当はしたいことがあるのに我慢しているとか、がわかるのだが、その辺はわからない。村にジョゲッド一座がやってきて、ゲラゲラと笑い、恥ずかしがり、興奮しまくって夜を過ごすのを見た時と同じように思える。

 彼らは何を祈ったのだろうか。この時ばかりは「言い訳の多いバリ人」も「明日なんて誰がわかるか、という行動パターンの多いバリ人」もどこかに飛んでいって、妙に素直で明るく神の子になってしまったような感じがする。

 ひれ伏す対象がない僕は、僕自身を客観化し、内省するしかなくそれがうまくできているかどうか、いつも心もとない気分でいる。浄化されきってしまったような自我もくそもないような世界についぞ行ったことがないのだ。それを羨望する気持もないことは確かで、バリ人の心のひだのようなところはやっぱり実感としてわからない。もどかしいくらいの遠さがあり、そして驚くべき近さも確かにあるのだが。


2001年8月2日

はや帰国

 今日は久しぶりに気温が1度ほど上がった。おそらく27度か28度くらいだろう。気持ちの良い日が続くので、こんな感じだったら六月、七月、八月とバリにいるのも悪くないと思う。四月は雨季から乾季の変わり目で最悪の気候である。避ける月は乾季から雨季への変わり目の十月、それに四月。次に避けたいのは三月、十一月、十二月、一月、二月であるが、花が咲き果物が美味しいのは雨季であるし、難しいところだ。僕は気温と湿度で言っているのである。

 もう帰る日が来た。一言でいえばいろいろあった。日本を離れていることでか、気分が解放的になっているのか、圧迫されるようなストレスはない。

 メガワティ大統領が歓迎されているのは、バリで暮らしている人々の声でわかる。警察官などももうこれでドンパチやらなくても済むと思っているし、ビジネスマンもこの辺でこの国が落ち着いてほしいと口にする。ルピアは急上昇をはじめ、買い付けをしに来た僕にはとんだ損だったが、ルピア上昇の気分は今のところインドネシアでは社会に勢いをつける。今日二日、観光客がクタに溢れ出した。朝のレギャンストリートの様子でわかる。日本人もドヒャっと来た。

 この時期のバリは「避暑地」である。暑さを避ける。ほどよい海の風にさらされる。強い日光を浴びる。熱帯のジャングルの酸素を身体に入れる。夜はめくるめくレゴンのダンスに酔いしれる。あるいは、一日中のたりのたりとホテルで過ごす。本を読む。

 さらに提案をひとつ。安い宿で良いコテッジやビラがある。ただ、日本的なもの、たとえば部屋が明るいとかシャンプーがついているとか、それはマタハリデパートで買えばよい。部屋が暗いと思ったら蛍光灯スタンドを買えばよい。とにかく安い。電気コードも四つのコンセントがあり5mのコードのあるものを買っておけばよい。シャンプー、リンス、蚊取り線香もしくはスプレーも揃っている。お茶は日本から持参する。お茶パックがあれば望ましい。ミルク好きの人がコーヒーを美味しく飲もうと思ったら、フレッシュミルクを日本から持ってきたらよい。栓抜きも忘れないで。

 そんなこんなで、旅先でくつろぐためには、くつろげる準備と段取りが必要だ。旅が多いとそんな知恵がいやおうなくついてくる。

 もう少しいたい、と思った。もっといたら、もっと何かがわかると思うがわかりすぎることもよくないと思う。そこそこに、ほどほどに。


2001年10月1日

バリ着

 ガルーダの機内誌で昨年の日本人観光客は過去最高で34万8千人を突破した、と紹介されていた。オーストラリアからの旅行客が長年トップだったが、今は日本がトップである。

 関西空港のチェックインカウンターで、テロの影響はありますか、と聞いたら、ありません、ということだった。機内では空席が二十ほど。

 今回の渡バリでは、

 一 緊急時のルール作り

 二 大阪店の料理点検

 三 仕事上の問題点の原因究明と解決そして合  

   意

 四 いくつかのホテルの部屋を細部にわたり写

真に撮ること

 五 バランシングオイルを開発すること

 六 来日するバリのスタッフに日本での生活等

レクチャーすること

 七 家具を見てまわること

 八 メルマガの新シリーズ「バリスタイル」の取  

材をすること

 九 長期滞在型の「ヴィラウタラ」をオープンさ

せること

 十 スタッフの養成

が課題である。これらすべてを九日間でするのである。

 機内食にナシゴレンとサテが出た。

 窓を見ると青空が下にある。その空にポツポツと雲が浮いている。

 学生の頃、僕らが目に見える空の上にまた空があって、それが本当の空なのかも知れない、と思ったことがあったが、空の上を飛んでいることは想像しなかった。

 全くの青空である。しかしこれは海のはずである。本当は海はスカイブルーなのか。

 僕には中学校や高校で学ぶような理科の知識などはないものだから、なぜ海はスカイブルーなのかがわからない。海は空でよいような気がする。そして僕は空と空の間を飛んでいる、と。



 ある時代が確実に変わったと思ったのは阪神大震災とオウムの事件だった。今回のアメリカ多発テロ事件で、時代が変わった、という人が多いが、僕は阪神大震災とオウム事件の1995年だと考えている。突然に近代都市が壊滅した。そして突然何の関係もない者がサリンで殺された。この二つが交じったのがテロ事件であり、世界はあの時から新しい不気味な時代に入っていたのだ。


 バリ島でバリ人たちに語るべき多くのことがある。もしもパキスタンの現政権が倒れたら。もしもアフガンの北部同盟が活発化し、パキスタンとも戦争状態になったら。ロシアが北部同盟を支援、アメリカもそれに乗じたら。イラクが何かをしたら。イスラエルが何かをしたら。インドネシアの過激なイスラム教徒が何かをしたら。混沌とした戦いが始まり、宗教戦争の様相を帯びるかもしれない。

 こうなった時、バリ島の観光業は閉鎖に追い込まれるだろう。インドネシアではすでに聖戦参加の登録者が三日で五百人を越え日々増加している。


 前回来たのは七月の下旬だった。バリ島はやや蒸し暑くなっていた。クタはいつもより観光客が多い。

事務所に着くと、ビデオ撮影で来ている古屋敷さんが痛みを伴う下痢でSOSに行ったという。聞けばたいへんなスケジュールで、これに同行したアキちゃんなどは毎日睡眠時間が二~三時間程で、バリ島の運転手たちもそうだと言う。古屋敷さんもはりきりすぎて身体が弱ったのだろう。バリでは八日を過ぎると疲れがでると、バリ日記にも書いたのだがなあ。

 打ち合わせをしていたら、ロンボク島の近くの小さな島ひとつを25年間借りたという男性が会いたいといってきた。トランスというジャンルの音楽をするのだそうだ。トランスパーティー参加者を集めたいため、インフォメーションの基地としてレギャンあたりにトランスの店を開きたいのだと言う。ふ~ん、変ったジャンルの音楽もあるものだ。トランスか、トランス状態になる音楽なのだろうか。

 夜中の12時頃、部屋にいたら、入国管理局だ、パスポートとキタスを見せて欲しいと部屋にやってきた。

「なんだこんな真夜中に」

「いやオレたちは24時間いつでも仕事だよ」

 たまたまKITASの切り替えのため、空港でイダにパスポートとKITAS等を渡してしまったのだった。私服を着、ぞうりをはき、タバコを吸い、これが政府の係員かと思う。

「身分証明書をみせてくれる」

と言うと、身分証明書やら、なにやら勲章みたいなバッジの大きいのを見せてくれた。

「イダに今日ビザ切り替えのために渡してしまったから、イダが持っているよ」

と言うと、電話をかけろ、と言う。

「こんな真夜中にかい。ちょっと無神経じゃないの」

「いやオレたちは24時間仕事さ」

で、イダとその男たち(三人いたのだが)が話をし、明日の朝、見せるということになったらしい。

 金にならなかったことを照れ隠すかのように急に握手を求めてきて、こういうところはやっぱり不気味である。


 もうひとつ大きな話があったけど、ここには書ききれない。日本人の女性とバリ人の男性の悲哀の話だけに書けば長くなる。

 一日はこのようにして終わった。明日からほどほどの調子でやらないとバテる。それだけは用心してかかろう。


2001年10月2日

  僕は神と向かい合ったことがない。何かにひれ伏すという経験もない。

 自意識を捨てることも出来ねば、自意識を神にする寄せることも出来ない。

 今日、万が一、バリ島の会社を一時閉鎖しなければならない時の対応のしかたを話し合っていた時、四歳とまだ一歳未満の子の母親であるダユはポツリと初めてその話し合いの場で言った。

「お祈りができて、食べていける生活、それだけあればいいのよ」

 バリ人たちの大半の気持ちかもしれない。またそれは、イスラム教の人々であっても、キリスト教の人々であってもおそらく同じような気持ちであるに違いない。

 自分というものを神にあずけてしまう。ぼくにはそれができないから、自分と向き合うしかない。自分で自分のことをいくら考えてもわからないから、そして〈わからなさ〉というのは〈不安〉を生むから、僕のような人間は自分を自分にあずけるしかない心の状態で日々送っていくことになる。

 バリ人たちには自分を預ける神、自分をあずける共同体があるから、それ以外の何かに身を委ねたいとあれこれ思う必要がないのかも知れない。

 あれこれ思う必要のある僕のような種類の人間は、ややもすればあれこれ思う気持ちが次第に一つの方向に向かい、ようやくめぐり逢えた場所で自分を燃焼させるか、あれこれ思いながら次第に年老いていくか、どちらかなのだろうが、僕は今のところ後者側に属する。

 神を持たない人間は、どちらかを歩むしかないところがある。

 「バリ人はお金イコール幸福だと思っている人が多い」という人がいる。

 「バリ人は好奇心がない」という人がいる。

 「バリ人は明日のことなんか考えない」という人がいる。

 これらの言葉は当たっているように感じる時があるが、本質的ではなく、核心でもない。経済的な事情によるものだと考えられる。

 彼らは、まさに神がいつでもそばにいると感じて生きている。お供えをする時の敬虔な顔つきも、聖水をかける手の仕草も、ただ単に習慣でやっているものではない。その姿は美しくさえある。

 僕の方は、その時の彼らの心のあり様がわからない。宗教教団はどうなれば、個々人の求める宗教に解体されるのだろうか。

 僕は宗教団体は、個々人の宗教に解体されていったほうがよいと考えている。

 個々人のレベルでは「お祈りをして、食べていける生活ができたらいいの」という信のあり方は、ごく普通のような気がする。しかし教団となり組織になってくると、それらはだんだんと内側に閉じこもり、頑なに他の考えを拒否するようになってくる。世界で起こる民族紛争は、宗教戦争とも言えるものばかりであるのも事実だ。

 個人の内部でおさまっている宗教というのはあり得ないのだろうか。

 ダユのような願いの質で日々生活は送れないものだろうか。

 巻き添えをくらうのは、ただただ生活の視線で黙々と生きている人間である。

 口の立つ人間などというのは、組織のリーダーなどという人は、実はえらくも賢くもないんだ、ともう我々は知りつつあるというのに。


2001年10月3日

したいことをすれば

 古屋敷さん(コヤシキと読む)たちがビデオ撮影に二十三日からバリ島に来ていたのだが、僕が到着した日は、最後の撮影日だということで、僕ものぞいてみようと楽しみにしていた。

 そしたら、古屋敷さんが急に腹痛に襲われて、SOSという病院に行ったらしい。病院ではなんとかという日本にはないバリ特有の大腸菌にやられたらしい。車の中でダウンしている古屋敷さんに会った時、

 「働きすぎるとバリでは七日目くらいでガクンと体力が落ちる、とバリ日記に書いてたでしょうが」

と言ったらにが笑いをしていた。僕も到着するや、フルスピードで片づけなければならないものをやっているので、この分だと必ずバタンと疲れがくるだろう、と思っている。原因は「生野菜」らしい。この辺のホテルかレストランは浄水器がなく井戸水をそのまま使っているから、日本人には要注意である。僕が知っているだけでも、身近に古屋敷さん同様になった人は四人いる。抗生物質を飲み、その日半日は休むことになった。

 次の日、薬が効いたのか、またビデオ撮影を始めた。体調は決してよくはないだろうが、あっちの角度、こっちの角度、やり直し、等々をくり返し納得のいくものを撮っていく。流石、プロだと感心した。体調が悪くても、もういいや、とならない。

 いつかバリに住みたい、と言っていたから、自分の感性でとらえた映像を作るのだろう。こういう仕事を楽しい仕事と言うのだ。さらにこのビデオを全国の人々が目にし、バリファンのひとりでも、ちょっとバリの気分になれば古屋敷さんの喜びもひとしおだろう。

 流石、プロだと思ったのはもうひとつある。モデルとの接し方である。仕事と割り切っているからか遠慮はしない。ベタベタもしない。さっさと片づけていく。僕だったら、遅くなってしまって申し訳ないですが、とかなんとか言っては、気にしたり、気を使ったりするだろう。古屋敷さんたちは無視したりはもちろんしていないのだが、そこは手慣れてモデルを映像の一部として見なければならない時はそうし、と言ってビデオができたら送るからとメモ帳を差し出し、住所などを書かせている。この間もあっさりしたものである。

 これはいいなあ、一期一会みたいな粘っこさもなく、いいなあ、と感心してしまった。妙に人間にベタベタして、腹の中では何言ってるかわからないようなのも多くいるが、このマイペースさは、大いに勉強になった。それは好きなものを撮っているから、そうなるのだろう。

 今日の夜中古屋敷さんたちは日本に戻る。理恵子奥様も絶対にバタンするはずだ。古屋敷さんたちにとってバリ島の魅力とは何か、それはビデオを見ればわかるのだが、僕が耳で聞いたことは記しておこう。

 「何ていうのかな、郷愁というのかな、懐かしさみたいなのがあるでしょ。実際、バリで見かける農夫の人、子供の頃にも見たことはないんだけど、記憶の中にあるような感じがするんだよなあ。それにコントラストがはっきりしていますよね」これ古屋敷だんなさん。そして奥さんの理恵子さん、

「バリのお店って、センスがいいですよね。それに物が安い!」

 バリの時間はゴム時間、とビデオの脚本で表現していた彼女は簡潔に言った。そう言えばそうだったと。ここは何もかも安いのだった。



2001年10月4日

Jamjam

 Jamjam。中味がいっぱいつまった、という言葉がjamでインドネシアの言葉では「時間」を表すのだそうな。これをさらにバリっぽく(インドネシアっぽくと言ってもいいのだが)言葉を重ねて、Jamjamと店名にした。株式会社モノリスの代表取締役である山下由見子さんと出会った。

 ベトナム、フィリピン、バリの雑貨を横浜の元町で約一年前にオープンした。

 こう書くと、やっぱり横浜とか東京って、地の利がよいな、とりあえずはガムシャラにやったって、いずれ大消費市場へ広がる可能性は大だろうな、と思う。

 一方、紀州の尾鷲。人口二万五千人。前は海、後ろは大台山系が連なる、いわば猫のひたいのような平地に、貝のように身を寄せ合って生きている土地。そこに住んでいる僕は、瞬時、美しさを感じる。

 「中心と周縁の理論」というのがある。さしずめ東京は中心である。横浜はその周縁である。

 周縁である横浜の中心、元町である。東京をやっつけるには絶好の場所ではないか。

 紀州だって、結構たいした発明をして世の中に貢献している。醤油がそうだ。

 この醤油を広めようと思っても、紀伊山地の中では広めるには余りにも消費人口が少ない。距離がある。そこでだ、そこで大きな決断がいるのである。黒潮に乗って、千葉の銚子や野田に行ってしまえ、一家まるごと、工場まるごと行ってしまえ、という決断である。もちろんその前に黒潮のルートをたどったかも知れない。知多半島が第一のステップだったかも知れない。


 建て替えや改装の時期に入っているマンションが多いらしい。そこに、ふと心休まるようなアジアの家具、インテリアを入れていく、と考えるらしい。

 僕の方も、現在の会社の流れに同じような考えがあるので、興味を持って話をしたのだった。

 そこで思う。短い時間は、その人のほんの一部しか知り得ないということなのだ。もっと知りたいと思っても、それは失礼に値するもの、であるかも知れない遠慮というものが起るのだ。

 一通りの仕事の話の段階がすんだ頃、三十歳の、頭にバティックを巻いてかぶったKさんがやってきて、アイスコーヒーなどを注文している。三日前一度話しをした。Kさんに声をかけ、山下さんを紹介し、一緒のテーブルで話しましょうと誘った。

 男が入り、それに僕の知らないジャンルの音楽、トランスのDJをしているらしくタイやベトナムを、いわゆる漂流し、インドネシアに渡って、もう何十年も東南アジア周辺にいるのである。トランスって何やねんと聞きながら、山下さんはああちょっと知ってる、などと応じながら、僕は若い男の言うことは、なんと直截すぎるのだろうと思っている。知識がそれほど豊富でもなく、あるいは閉じてしまった脳の知識の範囲と経験で妙な人生観をしゃべくる人より、やっぱり言葉不足の方がええ感じなやな、と思いつつすっかり酔っ払ってしまったのである。

 やっぱり、人が一番楽しい。わからん人ほどわかりたくなる。昨日、古屋敷さんたちとの会話と好奇心を楽しんだのだったが、今夜は今のところ好奇心を楽しんだのだった。今度、Jamjamに行こうと思う。Kさんにはどこに漂流していっても、アドレスだけはね、と言っておいた。

 僕は出会いというものの偶然さのシーンを描きたかったのだが、ここまでである。


2001年10月5日

アラック酒

 十月に入ったというのに雨が降らない。ひと雨ザァーときてほしい。暑くてたまらない。特に汗かきなので、不快である。すぐにねっとり汗ばんでくる。

 バリの人々は暑いとは言っているが、たいしたこともないらしく、気候と地球の回転速度にあわせて、ゆっくり歩き、ゆっくり働き、ゆっくり話をし、汗もかかず、夜中になれば気温が下がることは気にしながら、気候というものの呼吸をよく知っている。

 こんな暑い日は、カイピロチカという、アラックカクテル(まあチューハイみないなものだが)を飲むと口の中にバリのレモンとココナッツからできたアラック酒が清冽に広がる。暑気が払われる。カイピロチカにソーダをいれてほしいと頼む。ソーダを入れた方がさらに爽やかな感じがする。

 一番美味しいアラックは、自然にできたものである。ココナッツの花に切り口をつけ、そこに液を溜める竹の筒を取り付ける。これを毎日取り替えるのだ。竹筒に溜まったものをトゥア(Tuak)と言い、これは甘い。一週間もするとさらに発酵し、甘さがとれてくる。飲み頃があるそうだ。飲み頃が過ぎると酸っぱくなってしまうから、それも二時間や三時間で酸っぱくなってしまうから、いわばたいへん貴重なお酒である。 市販されているアラックは、人工アルコールを混ぜ、大量に生産している。

 概して、バリ人は宗教のせいか村落共同体を守ってゆくせいか、あまりお酒を飲まない。

 味はどうかというと、焼酎とウオッカとテキーラを混ぜたような、スキッとしたものである。米やさつまいもからできた焼酎はやや甘さを感じるが、透明感があり涼感がある。

 バリに長く住んでいるアキちゃんなどは、アラック中毒みたいなものである。

 やはり酒というものはその風土に合っていて、バリに料理を食べる時はこのアラックがよく合う。


 今日は散髪をした。アルフリーダという女性にバリカンとはさみでやってもらった。暑いので汗がにじみでる。切った髪の毛が首から入ってチキチキするが、なんだか散髪することで仕事の区切りができたような気になった。

 観光客がガクンと減った。バリ島はヒンズーの島で、現在は全く何のトラブルもないのに、心理的な影響でか、旅行をキャンセルする人がでているらしい。

 インターナショナルなリゾート地は、今回のようなテロ事件が最も困りものである。テレビで毎日のように報じれば報じるほど、浮かれ気分になれないだろうし、ますます消費は冷えるだろうと思われる。

 明日はクニンガン。祖先の霊が今の時期天から降りてきている。明日彼らは天に戻るのである。この日が過ぎるとバリ人たちは気持ちも普通の生活に戻り、本格的に雨季が始まるのである。


2001年10月6日

バレ

 クタ、レギャンのビーチは素晴らしい波が立っている。サーファーたちは刺戟的な毎日を送っているだろう。

 日常を忘れるためにバリ島に来る。これが大概の外国人である。活動的にバリでのリゾートを過ごす人たちがいる。一方でこんな日々があってもいいのではないかという風景に出会う時がある。

 例えば、アマンキラのプールサイドにあるバレ。アマヌサのプライベートビーチにあるバレ。茅葺きの屋根、床は木板だが、マットが敷いてある。そこにクッションなども置いてある。

 恋人と日がなバレで過ごす。本を読みふける。時に風が吹き、ちょっと倦むとプールに入る。一日がゆったりと過ぎるように見えるけれど、夢のような典雅な気分の時間は案外早く過ぎるものだ。

 このバレが東南アジアのリゾート地では特徴的である。ガゼボとも言う。

 バレには二種類あって、高床式で二階部分を米の倉庫にしていたもの。もうひとつは、村の入り口の割れ門を過ぎたところに村人がたむろしたり、昼寝したりする見張り小屋みたいなものである。

 日本の縁側というスペースは、バレと似たもので柱があり、涼やかな時には暖かな空間である。これは海の民族が運んできたものだろうと思う。

 古代、日本は中国と朝鮮半島、日本の三角の関係で、朝鮮半島がとちらと仲良くするか腐心してきた。かなりの文化は、半島を渡って日本に入ってきたのだったが、一方でフィリピンやインドネシアの方からも海を渡り、黒潮に乗りひそやかに入ってきたのだろう。

 話は逸れたが、バリ島で全く日常として使われているバレがさらに木彫などを施されてリゾートの一助になっている。

 それは特別な場所のように見える。プライベートヴィラのバレにいるのなら別だが、アマンキラのプールサイドにあるようなバレでは人の目もあるので、またアマンキラの風景の中に自分がいて、バレで本を読んでいる、その雰囲気にはいくらかの憧れもあるが、気恥ずかしさもある。

 西洋人はよく似合う。それは若者であれ、じいさんであれよく似合っている。日本人を見ると、僕はいつも違和感を感じてしまう。似合う人たちもいる。似合わない人たちもいる。それはなぜだろうと考える。姿勢の悪さ。弱々しい神経質な臆病さ。休暇を楽しむことへの自信のなさ。そんな風に思ってしまう。

 僕の自意識が強すぎるのだろうか。


2001年10月7日

バリ人

 バリ人は何を教えても上達しない。

 バリ人は人に情報を教えることをしない。

 バリ人はワイロが当たり前だと思っている。

 バリ人は忠告、助言をしかられていると理解する。

 バリ人は明日のことよりも今日が大切だと思っている。

 バリ人は法律が守れない。

 バリ人は約束が守れない。

 バリ人は見て見ぬふりをする。

 バリ人はジャワ人を見下している。

 バリ人は怠け者で、働きたがらない。

 バリ人は嫉妬心、ねたみが強い。

 こういう風に思っている日本人がいる。これは全く当たっていない。すぐにわかる。上の文を「日本人は」に入れ替えてみたらよい。自分のアホさ加減がわかるはずだ。

 こういう人は自分を何様だと思っているのだろう。

 バリ島に住んでいるのなら、決めつけてしまわないで、コミュニケーションで何が不足しているのか、どう言い足りないのか考えてみる必要がある。

 ブックツリーは企画をし、物を作り、販売している会社なので、ちいさなワイロ(バックマージン)が発生しやすい。仮に、ブックツリーのスタッフが商品の仕入れや製作の注文にいくと、業者からちょっとした謝礼をもらうだろう。それがバックマージンで日常的になる。相場は相手が儲けた金額の30%らしい。会社は通例これを禁じている。

 これを禁じないと、価格競争で負けてしまう場合があるからだ。

 バックマージンが毎月一定の金額の入ってくるようになると、そのお金を日々の生活費に組み入れるようになる。すると、常時、高くなった生活レベルを維持しなければならなくなるし、仮にローンで車でも買ったら、どうしてもバックマージンが切れてしまうと、たいへんなことになる。人間は誰でもそうなりがちである。バリ人でも日本人でもアメリカ人でも。

 日本はこの点ボーナスという形で会社への貢献度に応じて支払われることになる。

 会社は利益を追求し、全スタッフの生活の安定を図る必要から、仕入費、製作費が安いところに移動もするし、配置換えも必要になる。すると、バックマージンが切れることになりかねない。


2001年10月8日

バリの裏の裏の話

Aバリの裏の裏みたいな、笑顔の裏みたいなコ  

ーナーなんか設けたらおもしろいんじゃな

いかしら。

Bそりゃあマニアック過ぎるよ。

Aいえいえ、真実の姿ってやつですよ。

BよくTVドキュメンタリーなどで、「潜行、香

港の裏社会]みないなものかい

Aそうそうそんなの、バリ版。

Bふーん。我々はリゾートが売りだからねえ。

A逆に興味津々じゃないですか。

Bコミカルに? 真っ暗闇の田んぼの中でセック スしてるとか、そんなの。

Aいえいえ、やっぱあの笑顔の裏に潜むバリの村

での彼らの本音とバリのものすごくイヤな部分を。

B 文で?

Aいいえ、映像で。

Bで、本当にそんな驚くような裏の世界ってある

のかい。

Aありますとも。ありますとも。アタシはシラーとみているだけですけどね。ジゴロなんかおもしろいですよね。彼女と空港で別れたあとをひそかに追尾してね、顔は出さないからと本音を語ってくれと頼むんですよ。音声も変えちゃってね。

Bそれは以前どこかの番組でみたことがあるな。 

おどろおどろした闇のような世界が見えてくるかい。単なる貧しさだけが見えてくるので  

はないの、それじゃね。

A敬虔な祈りの姿と夜に跳躍するランダのよう 

な鬼の顔、なんてありますよ。

B日本人に服プレゼントしてもらって、家に帰っ

て、今日はドジったぜ、金じゃないと意味ない

んだよ、と言ってるガイドの男とか、そんなの

あるのかい。

Aうーん、わかりません。それはコミカルですよ。

Bブラックマジックに行くある男の行動とか?

違うのね。バリは光と闇がはっきりしているけ 

れど、それは人間もそうなのかもね。バリの男

性を見て、笑顔がとってもステキという日本人

女性が多いだろ。その奥にとっても根くらなバ

リ人がいる。それは女性も同じだよね。一般に

女性の方がむずかしそうな顔をしているね。

Aひがみあい、ねたみ、不平を言い、陰口をたた 

く。そりゃあ、あの暗い中でひそひそやってい 

たら、気持ち悪いですよ。これ想像ですけどね。

日本でもありますしね。

Bたいした話じゃないね。麻薬はあるでしょ。

A娼婦のいるサヌールは、明るい娼婦だったしな。

Bバリ社会は観光客の社会と全くかけ離れてい

ますね。

Aその辺は徹底してるよね。ガイドなんか絶対い

っしょに飲もうとしないもんね。遠慮もあるだ

ろうけどさ。食べる好奇心がわいてこないこと

もあるだろうし、だいたいバリ人って厚かまし

くないもんね。

Bそう言えばそうですよね。厚かましくないです 

ね。売り子のおねえさんも厚かましくはないな。  

ちょっと指摘すると一歩引きますよね。ムスっ

とした顔ぐらいは商売上しますけどね。

A厚かましいのが恥という気持ちは持ってるで 

しょう。恥じらいがあるのはバリ人の特徴だよ

ね。たいしたことはなかったですね。裏の裏

の話は。

A情報がないのかな。どこに行ってもあやしげな

よからぬ世界ってあるものね。ところでジゴロ  

ってジゴロになるためのトレーニングをする

んだってね。

Bそうですよ。デビューはロンボク、経験がつい

てきたらクタって聞きましたけど。

Aほんとかねえ。ところで人をおとしこめて や

ろう、というのはあるのかねえ。

Bそんなの日本だってあるだろ。

Aビジネスパートナーだった日本の男が、相手と  

不仲になって、身の危険を感じ、ビザやら脱税 

のことで自分で出頭して留置場に入れてもら

ったという話は聞きました。そしたら留置場ま

で人を送り込んできて、やられたらしいですけ

ど。

Bほお、それは怖い話だね。バリにはバンジャー 

ル(自治会みたいなもの)があるから、全くの 

ワルなんて育ちようがないと思うがね。

Aところで、そういう世界を探ってみます?

Bうーん。やめとこ。そんな裏社会なんてテロや 

サリンに比べたらごくどこにでもある当たり前のことに感じるね。



2001年10月9日

夢の枝

バリでビジネスを起こしてから三年になろうとしている。

 バリのスタッフたちですべてのことがやれるようにならない限り、僕のバリでの仕事は終わらない。

 一番よい体制は日本の事務所の持分とバリのグループ会社があ・うんの呼吸でできることだ。

 そうなった時、僕は次の段階へ行くことができる。「楽しいと思える仕事をする」というのが三年前の出発点の気持ちだった。

 CDを作り、木彫のマグネットを作り、対葉豆を作り、対葉豆ルルール、香水、それらをホテルのドラッグストアで売り、それをベースにアンテナショップを作り、エステサロン、レストラン、雑貨市場、ヴィラと手がけてきた。

 英語の指導法開発に明け暮れていた僕は、今全く別の世界で仕事をしている。

 十三年前英語の教材やら指導法のことばかりの生活からちょっと抜け出るため、別の会社を興したことがある。「紀州ひのき屋」というその会社は、「木炭」を普及させようとしたものだった。

 尾鷲には桧林がたくさんある。間伐しないと桧林は荒れてしまう。その間伐材を「木炭」にすれば、火持ちも適当で、始末も簡単で、安い木炭が提供できる。木炭を作る移動可能式の炉。これを普及させ全国各地で炭作りをしてもらおう、というわけである。

 当時、木炭業者の平均年齢はすでに七十五歳は過ぎていて全く斜陽、どうにもならない状況であった。人々もほとんど木炭は使わなかった。備長炭がうなぎのかば焼きか焼き鳥で使われるくらいのものだった。

 僕らの発想は違った。とりあえずは「バーベーキュー用の炭」として活動したが、炭の持つ特性として微生物が住みやすい、無機質である、電磁波を遮断する、であった。しかしこれらの特性で何かを作るには資金的にも無理があり、専門的な研究者パートナーが必要だった。炭を作る時、木酸液という液が製炭炉から出てくる。いわば、煙が液になったものだ。話の途中を省くが、これでムカデを追っ払う商品を作った。かなり売れたのだが、季節商品であった。年中売れるものではないといけない。そこで庭先にフンをする猫、車のボンネットの上で寝そべる猫、砂場にフンをする猫、つまり猫が近寄らなくする「ネコシャット」を開発した。

 流石この時の開発はおもしろかった。猫についての本を読んだ。本の中には参考になるものはなかった。猫の行動をビデオに撮った。そうこうして木酸液の匂いを利用した「ネコシャット」が完成した。新聞社、TV局とニュースで流れるとドッと注文が来た。臨時電話を10台並べても電話が鳴りっぱなしだった。その後、幾つかの商品を開発し、会社はりっぱに収益のあがる優良会社となったのである。

 その次がいけなかった。

 この勢いで「木炭漁礁」しかも6基の海中浮き漁礁を作ったのである。特許の申請をした。

 魚を集める。成功すれば必ず注文が来る。

 勢い込んで作ったのだった。漁業協同組合、海上保安庁、土建業者の方々の協力も得て、いよいよ、投入する日がやってきた。NHKも三十分番組にする予定である。

 見事、海中に計算通り浮いたのだった。

 さあ、あとはどうなるか待つばかりと、毎日の点検を行い、そうして半年が過ぎた。

 この年の十月、超大型台風が尾鷲を直撃した。浮き漁礁は見事に流れてしまっていた。

 楽しんですることのしっぺ返しがきた。周囲の人たちから批難めいた言葉は聞こえてこなかったが、本業の方がおろそかになっていた。その間、本業の会社は僕が木炭にうつつを抜かしている間に今思えば危機的状況に陥ってたと思う。「ひのき屋」を一緒にやってきた友人に譲り、僕は本業に戻ったのだった。

 この間三年。それから語るに尽くせないほどいろいろあったが、たいへん辛い思いもさせてもらったが総じて楽しい思いを結構思う存分したということだ。

 恐らく周囲の人々から見れば「困った人」だったに違いない。「困った人」にならず「好き勝手やりたい放題」ができるようにするにはどうしたらよいものか。

 漠とした夢は捨てることができない。身体の中から、夢の枝のようなものがニョコニョコと出てくる。

 こればっかりはどうしようもない。

 どうすればよいかこの点に関して教えを乞いたいと思う。

2001年10月10日

不安

どの国も同じだろうが、外国人がその国の中で働く場合、しかもその期間が三か月以上に渡ったり、何度も他の国を往復せざるを得ないような環境の場合、「在留許可証」というものをまず取得しなければならない。

 これまでインドネシアでは、一週間も待てば発行してくれたのに、メガワティ政権になってから、規程どおり二週間はかかるようになった。それでも早い方で日本なら二ヶ月はかかる。

 これはインドネシアがコネによらず、法の手続きで進めていおうとする政府の意志の表れに違いない。おかげでと言おうか、僕は日本に帰れなくなった。しばらく滞在せざるを得ない。いや在留許可証の更新がなされるかまだはっきりわからない。しかし、この国の不気味さがひとつなくなるような感じでありがたいと思っている。

 公表された法や手続きとは違うところで事が処理されていくのは薄気味悪い。僕は毎回、空港の入管で薄気味悪さを味わっているのだが、今回入るときも入管の係官がにんまり笑って小声で「カネカネ」と言う。カネを払う必要もないので、無視していたら、笑って通してくれた。その事と関係があるのかわからないが、到着の夜、三人の入国管理局の男たちが真夜中に、ホテルの部屋にやって来たのだった。

 こういうところに不気味さがあるのである。

 外国人に対して、こうしてください、こんな風ですよ、という紙一枚もない。公的に出された文書で、明らかにされていれば、それを読み、それを守っていればよいのだが、何が本当なのかわからないというのは常に不安である。

 商売あるところに利権は発生し、その利権によるどうしようもないリスクだけはいつも背負っていなければならない。

 アメリカやヨーロッパなどの先進国では、こういう点については安心感がある。

 アメリカで妻が車を運転し、僕は助手席、子供たちは後部座席に座っていた。すると、警察官が後ろから走ってきて、止まれと言う。僕は何があったんだと、ドアを開けようとすると、警察官はドアを開けるな、そこでじっとしていろ、と言う。妻は免許証を提示させられた。後部座席の子供たちがシートベルトをしていないと言う。後日、妻は裁判所に出頭し、罰金かボランティアのどちらか選ぶよう言われ、ボランティアを選んだのだった。ボランティアというと聞こえはいいが、労働刑、強制労働である。ボランティア団体みたいなところへ行って十日ほど働いたと思う。家から通え、厳しいスケジュールであるわけでもなく、妻は初めての経験で今は楽しい思い出かも知れない。

 こういう時も不安感は一切なかった。法に則してやっているからである。

 これがバリだったらどうなるかである。

 警察官がニヤけた笑いで、心の中では「金くれたら見逃してやるぞ」と言ってるような気がする。もしも金をくれてやったら、その事から弱みを握られたような気がする。仮に、カネを払わなかったら腹いせに何をされるかわからないような気もする。

 そうすると、一見穏やかそうに見えるバリの人々の心はどんなものなのだろう、と疑いを持ち始める。

 こういう〈わからなさ〉は実に不安なものだ。だからインドネシアの多くの人が支持したメガワティ大統領が清潔な政権であってほしいという人々の願いから発しているのなら、この国に未来がありそうな気がする。こういう〈不安感〉がある限り、先進国からの投資はスイスイとはいかないだろう。

 来る度に何かがはっきりしてくる。税務署、警察署、裏金のシステム。敵に回せば怖い存在である。まさにリゾート地とはかけ離れた現実のどす黒さである。

 正と濁。濁を知っているからといってえらいのでもなんでもない。この国を悪くするだけである。長いものに巻かれていくのを自ら断ち切ろうとすれば、たいへんな労力と精神力が要るのである。しかしだんだんとスハルト時代に社会の隅々まで浸透していた利権のシステムが壊れようとしているのも確かのようだ。


2001年10月11日

堕ちていきたいのよ、なんて

「堕ちていきたいのよ。」と女優は言った。

 「全部捨てるのね、仕事も親も親類も知人も家も名誉も、捨てるの、男だけね、その男だけよ、知らない町に行くの、ケンタッキー・フライド・チキンとかマクドナルドとか丸井とか絶対にないような町よ、死ぬわけじゃないのよ、二人でどうしようもない暮らしをするの。誰にも嘘をつかなくていいし、誰にも祝福してもらわなくてもいいでしょ? あきらめきって、ダラダラと二人きりで暮らすのよ。」と村上龍は銀座のバーで会った某女優との「道行き」についての会話を『すべての男は消耗品である』で紹介している。紹介後、

「よくわかる。オレだって憧れる。そんな二人は地獄へは行かない。そんな二人が罰せられるのは、制度の側の教訓だ」と書いている。

 僕は村上龍の「よくわかる。オレだって憧れる。」がわからない。女の気持ちならよくわかる。しかし「オレだって憧れる」と僕の場合ならない。まあ、これは某女優の酒の上の話だけど。

 数年前だったら、ふんふん、よくわかる、などと言っていたかもしれない。今はなんだかんだあることも、親が死にかかったり、知人や友人、そこにある家も、名誉も、逆に未練となって僕の中にある。この未練がある限り、死なないぞと思うし、二人して「道行の旅」や見知らぬ町であきらめきってダラダラともならない。

 なんでみんな生きているのかと言ったら、この煩雑な世にもかかわらず、未練があるからだ。

 某女優はロマンを語りたかっただけなのである。自分の現実の裏返しを酒の席で言葉に出して、村上龍は相槌を打ったのである。そして最後に「徹底的に制度と戦った者は、必ず天国へと迎えられるのである」と書いて〆ている。「徹底的に」がどれほど徹底的なのかわからないが、本当かよ、こんなの制度と戦っていると言えんだろう、と思う。

 僕に言わせれば制度と戦うというのは、ひらりひらりかわして、かわしながらも、パンチのひとつもくれてやり、制度の側がくたびれ、無に近くなる状態までやってしまうことだ。堕ちていったって制度の中だ。電気代も、水道代も、家賃だって払うのだ。また人の眼があり、関係が生じ、まあ二年くらいは村や町で「貴種流離譚」にはなるだろうけど、そこまでのものだ。

 ぐんぐんと締め付けてくる制度なんかかわしていかなくては、死ぬしかないだろう。債権者に催促されて死ぬ? 債権者に対して誠実になれなくて死ぬ?

 某女優の言葉は今が絶頂期の人が言う言葉だ。相槌を打つ村上龍も今が絶頂期だから、よくわかったり、憧れるのだ。今が絶不調で今がどん底の、堕ちていった果ての人なら、言葉は変ってくる。

 オレたちゃみんなまな板の魚だぜ、煮てなり、焼いて食うなりなんなりしな、と開き直りながら、ペロリと舌を出して、ちょっと逃げ、ひらりと交わし、転身してゆけばよいのだ。


2001年10月12日

イラワティのこと

イラワティはスラウェシで捕れたケラプー(ハタの一種)をバリ島に運び、そこから香港、シンガポールへと空路で輸送している中国系インドネシア人である。このホームページの「この人にあった」シリーズで紹介されている。

 バリ島に行くたびに、顔を見せに行く。取引があるわけではない。彼女のビジネスの進展を見たいのだ。海の上に浮かぶレストランはもうそろそろできるのではないか。どこかで仕事がつながっていくのではないが、と思う気持ちもある。

 また訪ねた。養殖を始めたという。見せたいから行こう、と言う。ヌサドゥアの海辺にある彼女の家からクタ方面へ、そして新しくできようとしているでこぼこの石灰岩のような道を走って、スランガンという海へ行く。

 漁村というのでもないが、防波堤には幾艘のジュクンがあり、目の前はマングローブの島がある。そのマングローブと防波堤の間に養殖イカダが浮かんでいる。ボートに乗り込もうとするとアキちゃんが「ヤバい。酔いそうだわ。」とつぶやいた。波のない海なのに、ボートはチャプチャプと横揺れするのだが、走ると揺れは全くない。イラワティはこのモーターボードを買ったのだろう。

 5mほどの正方形の網の中に5cmほどのケラプーがいる。一時間に一度、餌をやらないと共食いするんだそうだ。ハタ科の魚は美味である。薄つくりにしても、煮つけにしてもどんな料理にも合う。香港やシンガポールで高級魚なのだ。

 目玉と口が美味しいという魚とはこのケラプーのことか、と聞いたら、イラワティは「それはナポレオンフィッシュだわ」と言った。いくつも連なるイカダの上に大きな小屋がある。床と柱はヤシの木、屋根は茅葺きである。そこに鼻の上を真っ赤にした若い男がいた。イラワティの息子、ジョナサン。おっとりしたやや小太りだが、この養殖の仕事を始めたのだと言う。指導者なし。一人で試行錯誤して、ケラプーを育てている。仲買人からメーカーであり輸出業者になろうとしている。バリ島で初めての魚の養殖で、政府から、海を使う権利を50年で借りた。観光用の船も行き交うところなので、交渉に時間がかかったらしい。

 成功したら真似がでてくる。新しい産業にしようと、政府はまた別の業者に海を貸す。だんだんと海が汚れ、海の底も汚れ、やがて赤潮が発生したり、病気が発生する。餌をペレットにしたりの工夫が進む。日本がそうだった。バリの海はまだまだ日本に比べて汚っていない。イカダのフロートや網にカニがいたり、キビナゴのような魚が群れている。マングローブも海に良い影響を与えているのだろう。

 アキちゃんは小屋の中で、「もうダメです」と気分が悪そうだ。言っておくが、全く波のない静かな入江である。アキちゃんの身体の方が変なのだ。「私、右耳の(なんとかかんとかが)小さい時から悪くて・・・揺れるとダメなんです。」

 モーターボートで岸に戻って、少し歩くと、なにやら干していたものを手入れしている女性にイラワティが話しかけている。アキちゃんに何と言っているのかと聞くと、「この貝の殻はロブスターの好物だから、捨ててしまわないで、私に売って」と言っているらしい。よく見るとチャンポコだった。チャンポコの身を干しているのである。バリにもチャンポコがいるのかと、感動してしまった。「これチャンポコって言うんですか。」「いや尾鷲弁や。隣りの町ではボラと言う。シリタカ、ツブと言うところもあるだろ。」

 イラワティはこれまでのものを基礎にして着々と進んでいる。

 「ところでレストランは?」と聞くと、「政府の許可が降りなくって。船はスラウェシに置いてあるけど、この前ドイツ人が来て、これで世界をまわりたいから売ってくれって。売ろうと思っているのよ」と答えてくれた。

 やっぱり得手のいいところを伸ばしてゆく、それがビジネスの正当的な感覚なのだろう。


2001年10月13日

ミークワと夕陽

ミークワというのは、いわば、バリのラーメンである。普通バリではロンボンという屋台で食べることになる。地元の人に人気なのである。

 日本のラーメンのように試行錯誤の、より美味しいミークワ作りが行われているとも思えないが、実は多くのミークワがある。透き通った色のスープのもの、茶系がかったもの、赤味がかったもの。味も酸っぱい味のものから強烈なアミエビの匂いのするテラシーを入れたもの。日本のラーメンに近いもの。作る人によって味も具もいろいろだ。麺でさえ、生麺、インスタントの麺のように干したもの、春雨を使っているのもある。

 昔、台湾の屋台で夜中酒を飲んで帰る道すがら、小さなお椀に入ったラーメンを食べたことがあった。美味しかった。酒を飲んでいるために美味しかったのか、異国の地で夜の屋台で食べるということが美味しく感じさせたのかはわからないが、その後日本で食べる台湾ラーメンにはことごとく落胆した。

 ミークワも基本スープは鶏である。豚骨を混ぜる人もいるらしいが、だいたいは鶏である。野菜は人参、たまねぎ、ニンニク、キャベツ、ポクチョイ、チリを細かく切って使う。ごま油、ラジャラサ(バリのしょうゆ)、オイスターソース、塩、こしょうで味付けをする。どうしても日本の風味にならないのは、ポクチョイ(コリアンダー)を使うのと、ラジャラサというバリのしょうゆ、それにオイスターソースを使うからである。そこにテラシーを少し入れるとバリバリのバリ風となる。

 ミークワの専門店が、日本にも登場してくるような気がする。バリでも専門店化するかも知れない。人々の食への好奇心が許される経済的状況が来たら、あちこちにミークワ店ができているかも知れない。

今回は、ウブドそしてクンバックサリとか言うところまで行ったのだった。一時間車で走っている間。何台のミークワ屋台を見たことか。彼らの中からいずれミークワ専門店をやろうとする者がきっと出てくるに違いない。

 これでミークワについては終わりである。

 ウブドから途中海を見ながら東海岸の道に入るところにクトゥウェルというビーチがあり、その目の前にペニダ島が浮かんでいた。コカコーラの売店があり、ピーチでは地元の人たちだけが遊んでいた。右手にはサヌールのグランドバリビーチが遥か遠くにみえる。写真を数枚とるとフィルムが終わってしまった。また車に乗り海岸沿いを走っていると、突然前方にかつてこれまで見たこともない大きさの夕陽が現れた。あまりもの大きさに思わず感動した。確かな音をキャッチできていないかも知れないが、運転手が言ったのは左手のビーチはバーダンガラビーチと言うらしい。そのビーチの一分程手前のところである。六時四分だった。その太陽は見るに値する。なんでこうでかいのだろうと知識のない僕は不思議に思うばかりである。フィルムがもうなかった。網膜には写ったのだからと、納得したのだった。空は深いオレンジ色と紫色が混じり、風景がだんだんと闇に近づいていく。

 この風景を妻にも見せたいと思ったが、オレはやっぱりバリには住めないな、とまた思う。身体もクタクタでほぼ限界にきている。魚辞典などを夜読んでいるものだから日本の魚のことを思う。夕陽がどう美しかろうと魚にはもたんわい、などなど思いながらレギャンに着いた。


2001年10月14日

トランス

一つの島を25年借りて、そこでトランスミュージックパーティーができたらいいなあ、と思ったのだろう。

 わざわざ地図を知らせないで、どうしても来たい人だけがなんとか探し出して、トランスに参加する。それでいかにトランスが好きなのかわかる。日本だったら、山奥。一回のパーティーで一万人集まるほどになっている。

 僕は二人の若者とも言えない三十代前半のトランスDJと四十代近くのトランス・デコレーション担当の男たちと話をしている。「ほう、ほう」の連発で、そういう音楽のジャンルがあり、DJは音楽を構成するナビであり、ここにDJの腕があるのだそうな。デコレーションは音楽に合わせて周囲をそれ風に飾ってますますトランスを高めているのだそうな。「ほう、ほう」と言い通しである。

 それで二人は25年契約でロンボク島の前の周囲1kmの島を借りることに成功したので、一度バリに帰って、バリで宣伝できる場所を見つけて、再度島に渡るのだと言って、三日程の滞在後島へ行ってしまった。無人島である。

 ロンボクからは外国人たちがバリ島に避難し始めたという噂を聞いた。三日後、アキちゃんが「あのKさんたち、もうヨロヨロ、クタクタでヘナヘナでとりあえず五百円くらいで泊まるところないか、と言うもんですから、隣りのホテル紹介しました。本木さんにぜひとも会いたいそうです。どうやら彼ら、ダマされたみたいですよ。と聞いた。

 その夜はグランブルーに来なかったから、相当くたびれて眠り込んだのだろう。

 翌日、夕方頃、僕が仕事から帰ると二人は静かにコーヒーとバナナジュースを飲んでいた。どうだったか、と聞くとKさんが「何が何だか、本当のところがわからないんですよ。25年の契約だったはずでお金を渡したのですが、あれはデポジット3年分だと言うんです。話が違うじゃないか、になってそれで今後どうしようかと・・・」

 Nさんは「オレはね、お互いに信頼し合ってね、特に仲介をしてくれたアンとは2年もつきあってきてね、信頼できる男だと思っていたんですよ。オレたちの方も信用してくれって」

 彼らの心情面の話を抜きにして、簡潔にまとめれば、

「25年の契約を公証人を立ててやること。その25年分のお金を用意すること、いくらだい?」

「70万円。」

「一万人も集めようって計画なら、安いもんじゃないか。それだけの話だよ」

「オレたち、金もうけしたいんじゃないんですよね。口から口へと広まって、自然な形で人が集まってくれればいいなあって。」

70万円がないのである。

「なんならスポンサー紹介してあげようか。たとえば僕ならどうだい?」

「スポンサーに縛られると、トランスが楽しめなくなっちゃうんですよね」

「その島に人が来たら、貸しテント、船の便、いろいろ要るだろう。それの権利を売れば70万円くらい入るだろ。そこはどう考えてんだい?」

Nさんは「オレたちそんな才もないし、したくないんですよ。」

相当純粋にトランスをしたいのである。

「トランスをやっていると満ち足りるんですよ。」

「ふーん。トランス音楽というのは、明日への希望を翌日に湧かせるようなものなのかい? ほら麻薬は気持ちいいけど、明日につながっていかないものでしょ」

Kさんは「うーん、明日につながる人もいるとは思いますよ。」

Nさんは「トランスやってて、喧嘩することはないんですよね。」

「うーん、喧嘩なんて派手にやってもいいんじゃないの?」


2001年10月15日

テロの影響

イラクとの湾岸戦争の時は直接的に僕に被害が及びとか知り合いに深刻なダメージを与えるという経験がなかったので、フセインも相当な悪だが、アメリカも50年前と何もやり方は変ってないな、と思うくらいだった。

 今回のアメリカにおけるテロ事件では呑気な気分が緊張に変った。イスラム国家であるインドネシアはどうなるのだろうか、ということだった。当然、その影響としてバリ島はどうなるだろう、会社をどうすればよいだろう、という思いになる。

 9月30日にバリ島に着いて、今日で16日。滞在中の前半、バリ島は全くのリゾート地で、バリ人たちもこの事件の成り行きを結構、遠いものとして見ていたようだが、だんだんと僕の知る限りの人は口にするようになってきた。

 アラブ首長国連邦のヒルトンホテルとの契約が決まって旅立つはずだった若いコックのマデは、この事件で話がお流れになった。

 インドネシアからの荷物の検査が厳しくなった。

 噂では、どこそこのホテルが70%キャンセルになったとか、飛行機もキャンセルが相次いでいるという噂が流れている。しかしバリの町は観光客の数も昨年と変りはないような気がする

 さて、この愚かな戦争の事である。

 日本は戦争を永久に放棄した国である。世界で唯一未来にわたって誇ることのできる「戦争放棄」を憲法九条で謳っている。なのにアメリカにのこのこ追従していく。

 なぜ戦争はやめようと呼びかけがないのだろうか。世界中の新聞1ページでも買って、我々は戦争を放棄した国であり、戦争がいかに愚かなことであるかを訴えないのだろうか。どうして毅然とできないのだろうか。

 国と国との関係性はある。その中でギクシャクすることを避けたいのもわかる。識者は国々との関係、日本の世界的な位置、経済の動向もよく知っている。知りすぎているからできないのか知らないが、僕には簡単なことのように思えるのだ。

 どっちの仲間にもならず、孤立無援でも、言い続けたらいいし、世界に出かけて、説得を呼びかければよいのだ。裏工作なんてのはダメだ。堂々と言いつづけ、宣伝しつづけたらよいのだ。

 日本人が誇れるのは「戦争放棄」という理念ではないか。56年前に徹底して敗北したではないか。この56年で得たものはカスみたいな文言だけを言い換える術だけだったのか。アメリカにペコペコすることだけだったのか。

 未来に架ける橋を僕らは持っているのにテレビに出てくる人たちは、誰もこれが人類が今までにかちえた財産であることを言わない。誰が言うのか。僕にマスコミがインタビューでもしてくれればちゃんと答えるのだがなあ。


2001年10月16日

ビザがまだおりない

テロの影響で、在留許可証、労働許可証の切り替えをさっさとやっておいた方が万が一のためと思うのだろう。たいへんな混み様らしい。もう二週間以上過ぎているのだが、まだ労働許可証の更新ができず、ビザが降りない。念のためというわけではないが、早く手続きをはじめておいてよかったと思う。

 案の定、バテてしまって、気力が出てこない。頭の中に浮かぶものはなんとかしてゆこうとするのだが、何かを発見しに行ったり、好奇心をもって人に話しかけたりすることが億劫である。

 西向きのベッドの部屋だったが、昨夜頭を北向きにして寝た。ぐっすり眠れた。わかっていたことなのに、どうして始めからそうしなかったのか後悔した。

 薬局に行って元気になる薬はないか聞いたら、バイアグラを持ってきた。そっちじゃない、身体がだるいんだ、と言うと、今度は「コブラ」というこれもバイアグラではないけれど、そっち用の物を持ってきた。結局12種類のビタミンと8種類のミネラルが入ったドロップのようなものとロイヤルゼリーを買った。あわせて5万ルピア。ロイヤルゼリーは10本入り。

 ハッピーバリのために送った荷物が18日に到着する予定だったのに、21日到着という。何度も確認しているのにこのようによく予定が変ってくる。よく聞くとその船はスラバヤから出て、香港、東京、それから大阪と来るのであって、日本への到着は18日であった。

 あらゆることがそうなってしまう。

 例えば、昨年と同じ制服を今年また頼んだら仕上がりが全然違ったものがでてくる。やり直しである。あれほどサイズを徹底して言ったのに、サイズの違うものが来る。これまでオーダーをして一回で完璧というものはない。互いに確認し合い、さらにできあがり、それをまたやり直す、という手間をふむ。

 知る限りの人に、まあなんとかやっていくさ、という雇われ人の気楽さがある。

 というわけでハッピーバリのオープンは遅れに遅れ、費用がかさみ、早くても来月15日か20日、一か月遅れることになる。

 まあ宇宙的視野に立てば、人の失敗や時間の遅れなど微々の微々なのだが、と開き直るのも得意の境地まで来ているので、それでも事は進んでいくだろうと疲れた身体と頭でぼんやり思っている。

 テロの影響で仕事のシフトを日本に移行しなければならないだろう、とか観光客が著しく減った場合、店は休業せざるを得なくなるから、日本に物を輸出することに重点を置き、80名の全スタッフをその事に専念させようか。けれど80人は多すぎるよ、とあれこれ考えている。

 都合が悪くなったからと言って、レイオフをするのはなんともやりきれない。自分の能力は仕事を作ることだったじゃないか。バリで国内向きの仕事を作ればよい。こんなことができなければ男本木周一もたいしたもんじゃない。


 話はコロリと違うが、それにしても戦後56年は何だったのかなあ。人類の未来への一番の架け橋・理念「戦争の永久放棄」を日本は持っているのだがな。そこだけを砦にすればいいのに。全世界のテレビ、新聞、ラジオの時間枠を買い、日本は戦争を放棄してるんだ、戦争なんて愚かなことだと叫びつづければいいのに。


2001年10月17日

突き上げてくるもの

寿司が握れたら、寿司屋をやりたいのだがなあ、でも客が自分の作った寿司を食べるなんてのはドキドキものだなあ、ドキドキしすぎて、気が狂いそうになるだろうなあ。最高のネタを仕入れて、少し加工する。やってみたいなあと思うが、それをするには年をとりすぎたよな。

 漁師もいいよな。魚釣って暮らすわけだけど、父がそうだった。案外、釣り日和って少ないのだ。それで生きていけないから多くの漁師は廃業するのだろう。これももう無理かな。膵臓を悪くして低血圧気味だし、酔うかもしれないなあ。

 ショーロクラブみたいな、アコースティックなギターやマンドリンの4、5人の編成グループ。つまり音楽活動だ。職業にはならないかも知れないが、いくつかのホテルなどと交渉して、そこで演奏させてもらう。これはもう夢中になってしまって楽しいだろうが、ソロなんかにすると指が動かなくなってしまうのだろうかと心配する。

 先生。これは得意の分野だ。中学生や高校生の話を聞いていても、飽き飽きしてくることはないと思う。僕だったらビシバシ要領よく、おもしろおかしく教えてあげる。

 彼らとつきあうにはバイタリティーが要るからね。だいたい先生って根気が40歳まで持たないと思う。持たないから教頭とかになるのだろう。とすればもう失格だ。

 何だか飛び込めない世界が多いなあ。今から僕は何ができるのだろう。医者は時間がなさすぎてやってられないし、弁護士だって今から勉強する記憶力がない。すぐに忘れる。小説だって二回も三回も読んでいるのだから。

 政治家にもなれないなあ。あれだけ口で勝負するとなれば神経の一本、二本抜いておかないとできないよなあ。

 店を開くなんてとてもできない。バリで店を開いているのはいつも一回きりのお客様が相手で、僕でなくてもいいし、仕入れシステムも僕がいなくたって客の好みでスタッフが選んでくるようになるものだ。

 コンピュータの前に一日いたくはない。

 こう考えると、できるものってないことに気づく。でも何かをやりたいといつも思っている。そしていつだって何かをやっている。突き上げてくるものがあるから、それに突き動かされてやっている。責任感みたいなものとか、おっこれはおもしろい、やっちゃうぞ、てな感じだ。

 でよくよく考えてみれば寿司は握れなくても寿司屋は開くことが出来る。漁師はできなくても漁師と仲よくすることはできる。弁護士はあくまで代理人だから、要は自分で自分を弁護すればよい。法律を作れるのは政治家であるが、この手の人とお付き合いしたいと思わない。

 会社を起こしたり、ある企画に挑んだり、商品を開発したり、そんなことはできる。

 人はなんとか食っていくものだから、会社は残してしたい人がして、僕なんかはさっさと引退して、全く個たる自分に転身したいなあと思う。そんな職業ってあるだろうか。

 財産がどかっと入ってきて、そのお金で小説を書く。これだったらできそうだけど、小説は上手でないとね。何かありそうだと自分自身は思っているのに、いつになっても何かがわかってそれを突破することができない。

 休みの日になるとそんなことばかり考えていて、もうこの30年そんな調子で、どうしようもないのだ。

 日本に帰る予定が延びている。

 するとこんな風な妄想ばかりになるのだ。

 バリ島で空港で売るための菓子を作るぞ。作るぞ、というより作らせてデザインして、売り方考えて、売り先と交渉して、人員を揃えて、ああまた企画ものだ。

 バリ島の特産物に挑戦だ。



2001年10月18日

幕は降ろせない

バリでの仕事を始める前に5年間ほど毎年一回か二回、バリにリゾートしに来ていた。四泊と五泊の旅だったから、バリでの時間がとても貴重に思えた。プールサイドで本を読んでいる時間も欲しかったし、プラプラと町や村を歩いたり、レゴンダンスを見る時間も欲しかった。

 バリでの時間はゆっくりと過ぎてゆく雰囲気なのだが、旅行者としての時間はあっという間に終わる。食べるものも珍しかったし、店に置いてあるどんなものも珍しく新鮮に見えた。

 縁あって、イダとオカを雇うことになった。ようしひとつCDでも作ってホテルで売ろうじゃないか、ということがバリでの仕事の最初だった。ちょっとバリに色気を示したのが、今こうやってビザ更新を待っている身となっている。

 18日間、ウブド方面へ一回行っただけで、あとは半径30mくらいのところを行ったり来たりしている。散髪はエステでしてもらえるし、食事はグランブルーでいただく。ホテル内だからいつでも昼寝もできるし、どこに出なくても全部揃うのである。いわば王様のようだ。

 だんだんと仕事が拡大するにつれて、起ってくることが煩雑になってきた。伝達におけるミスアンダスタンティングが多くなってきたことと、どうしても常時、日本人が必要だということでここバリ島でアキちゃんを見つけ、日本からは林さんを送った。二人ともよくやってくれて、頼もしいのが有難い。

 林さんは林さん自身と娘がアトピーで、冬の乾燥期になると痒さで参っていたのだが、対葉豆で好転し、さらにバリに来てすっかり治ってしまった。黒ずんでいた腕や足もすっかり元に戻り、彼女の気分は上々だ。アトピーの方々にアクエリアスホテルに泊まってもらって、毎日対葉豆を500ml飲み、エステで対葉豆ルルールをし、潮風に吹かれて、グランブルーで特別メニューなんてどうですか、と言い出している。二人の子供を連れてはりきってやっている。

 日本人は気づくのが早い。約束の期限に遅れたその影響がどう出るのかもわかっている。気づくのが早い、いろいろなことがわかるということから、林さんの仕事の量はだいたい10倍以上になる。バリの物価でだいたい日本の10分の1くらいだから、ちょうどよいのかも知れない。はっきり言えば、まだこの経済社会的な基盤で日本人のように気を利かして働け、というのは無理な話だ。

 こういうことも実感的にわかるまで3年ほどかかった。バリの経済の最低の状況下で、ビジネスを始めたと思っていた。そうしたら、より大きい打撃に今バリは襲われようとしている。当然僕らも巻き込まれてしまう。

 3年が経とうとしている。これまで何度となく目にし、その時聞く人がいないのでそのままに放っておいた幾つかの事、そういったものを今回はなるべく把握しようとした。

 例えば、「ブリンギン」という巨大な木で、枝からはつるがぶらさがっている。この木の名前を知りたかった。ついつい聞き忘れていたのだが、今回知ることができた。葉は寺院でのお供えに使うし、巨木信仰や巨岩信仰に見られるものがヒンズー教と融合しているのがこの木である。この木には必ずと言っていいほど小さな寺院がある。

 イダが言うには人々のオーラを吸い込み、この木は巨木で何千年も生きるのだそうだ。木に人々の心のようなものが集まっているのである。人間として生きてゆく限り、それは同じような祈りのようなものだろう。人間に共通した思いをふと考えてみる。

 僕らはだいたいが同じだ。歩く幅も、手が届く範囲も、排泄することも、喜び騒ぐことも、悲しみで嘆くことも、怒りも、わからなさという不安も。 

 じっと考えればわかる。バリ人も日本人も共通した体の範囲と共通した感情の中で生きていることを。

 さて、ようやくビザが明日出そうである。帰らなければならない日が来た。事業成功の喜びをバリの人たちとも分かち合う寸前のところでニューヨーク同時多発テロ事件だった。テロ事件の影響で観光客が減少しており、臨時に80人の職を作り出してでも、この幕はおろせない。ある心の臨界点がくるまでは。


2002年2月13日

居心地のよさ

 関西空港発 ガルーダ883便。乗客は客席数の半分くらい。前日の睡眠不足で、機内で3時間は眠った。

 パリやモロッコ、バルセロナなどが舞台となる村上龍の小説を機内に持ちこんだ。異国の情緒で頭いっぱいにしてバリにいくのもいいな、と思ったからだった。

 ところがである。この小説「サビナ」はある女性の病的で破滅的な物語だった。

あまりにも破滅的なので気分が悪い。どうしょうもなく不快になるが、小説を読み進んでいこうという真面目な気持ちもあるので、時々休んでは気分を換え、また読んで不快になり、また休んで、主人公の女性のことを考え、中上健次と村上龍を比較してみたりして、村上龍は中上を越えられないな、などと思い、何度か読む、休むを繰り返したのち、ついにやめたのだった。気分換えしようとガルーダの機内誌に目を通したりする。

 今回の渡バリの目的にひとつにエステの話がある。

エステ。エステとはつまるところ「演出」ではないか、と思う。エステを日本で展開したいという方が二組来る。用材を提供する、というのはそんなにおもしろいことではない。「演出」を提供するほうがおもしろいのではないか。肌を美しくする。もちろんそれも同時に必要なことだろう。美白効果のある化粧品などはやまとある。

対葉豆とルルールなどもそのひとつだろう。アボガド、ヴァンクァン。効用はあるけれど、心のほうがだめになったら内臓も肌ももみんな悪くなるように思う。一度怒れば血液がドロドロになり、酸性化するというが、身体に心が影響するのは誰でも知っていることだと思う、 

 そうなれば、エステは「こころ」のほうに向かったほうがよいのではないか。

だから「演出」なのだ。気持ちよく、クセになるくらい気持ちよくなって帰っていただく。たとえば、エステを始める前から、聖水をかえ、気分を浄化する。

バランシングオイルを七つのチャクラに塗る。そうやっておいてから、マッサージを始める。アロマの香り、音楽。俯いたときにみえるバリの花。

そんあことをあれこれ思っていたら、機内アナウンスが着陸体制に入ることを告げた。服をトイレで着替え、しばらくするとバリ島が真近にみえてくる。珍しく雨が降っていた。到着時に雨が降っているというのは初めてである。

 グランブルーに直行した。

 スタッフの顔を眺めるとなんだかホッとする。このホッとする気分。これが日本にいる時と違うのである。よくバリ島にくるとホッとする、という人がいるが、僕は実感として初めて体験したのだった。鋭敏な人はとっくにこの気分を感じているに違いない。ぎゅうぎゅうの仕事のあと居酒屋へいってホッとする、というのではない。久しぶりに家で日曜日ホッとするというのでもない。何なのだろう。

バリ人達の落ち着いたゆっくりした動き。寡黙な出迎え。心の中の微笑み。それらが一体となってある雰囲気をつくりハーモニーを醸し出している。 居心地のよさを感じる。

今日はこれ以上考えず、ホッとした安心感のまま明日を迎えようと思った。そして寝た。


2002年2月14日

結婚

  この頃、脳が衰えてきたのか奇妙なことをしてしまう。火がついている煙草の方を口にくわえてしまったり、「りえこ」が「もとき」に聞こえたり、さっき言ったことを完全に忘れてしまっていたり、症状が甚だしい。

 今日はとってもビッグな商談を終え、内心ウハウハしているのに、脳がおかしい。

 今グランブルーにいる。バースタッフがお客様にカクテルパフォーマンスをしている。「ココノ コオリ ダイジョウブ、ヤマハ ウォーター」と言っているし、」「シェイカー フッテミマスカ」とか言っているし、賑やかに写真などパチパチ撮っている。

 アクエリアスホテル オーナーの息子の結婚式が18日。披露宴がハードロックホテルで23日にある。僕も招待されている。それにしても結婚式のもう一週間も前から毎日近所の人や知り合いなどが「プナラック」というロンンタル椰子の葉で編んだ籠を腕に抱えてお祝いやら手伝いにくるのだろう。費用も手間もたいへんな話で、結婚式だけで、相当な馬力の使い方だ。息子はオーストラリアの大学を出て今はこのホテルの後継者である。


 エステに来たお客さんは喜ばれる。めったに見れない、バリ人たちの日常の、しかもめでたい式である。いろいろなクバヤやサルンが見える。式のまだ5日も前だというのに、1500人は入らないからと、祝いにきては、そのへんでお菓子などを食べてしゃべっている風景が見える。


 日本にもこういう時代があった。すでに僕の感覚では、過ぎ去った慣習といってもよく、「病的なお披露目」としか言いようのないものである。バリ人からしてみれば当然の習慣なのだろうが。さらに時代を経れば、形式だけの結婚となり、やがて今の日本のように二人で海外で挙式となるのか。週末通い婚になるのか。

などと僕は「ハブラビス」というフランスのスープを食べている。


 昨日は午後から晴れてきたが今日はまた朝から雨である。


 人間は何らかの形で「対」になる人を求めるものである。またある対になる人と一定の時期いっしょにいたりして、いつも人の気配を感じていたいものである。

これは人間だけである。

さてその人間をこれだけ盛大に結婚式によって「あなたは今日このときから対なるものは求めずに、家族のため、社会のためだけにいきなさい」といわれているようで、たいへんだなあ、と高みの見物である。


 今度は「ロシアン サラダ」を食べている。これもクリーミーで野菜も小粒に刻まれていれ美味しい。 ところで明日、林さんの結婚式である。彼女はバリに来て八か月。恋に落ちてしまった。バリ生まれ、バリ育ちのジャワ人、モスラム。式もモスラム式で、お金もないから、僕もとんとこういうことに無関心だからちょっとでも豪勢にやれよ、などと言わない。こうやって仕事でバリにきたいと言ったのも、究極は「対になる人」を探す旅だったのだ。それは彼女の人生のドラマである。主人公は Rieko。

僕はそっと脇に退くしかなく、人生とはこんなもんよなあ、とつぶやくしかないのである。


2002年2月15日

バリで恋

 こんな話を聞いた。聞くだけだった。

 バリに女一人でいるといっぱい男が寄ってくるんだからね。一日め、出会う。二日め、好きになった、と言ってくる。三日め、結婚しよう、だからね。私と結婚したいんじゃないのよ。

お金、お金としたいのよね。

 一番のカモはバツイチの子持ち。これが一番ひっかかるパターン。子供にとりつく。味方にする。子供の面倒をみてやると働いているお母さんは安心する。ある日、子供が「お母さん、○○さんみたいな人お父さんだったらいいのに」などと言われたら、もう グッスンお涙、感動もんだからね。

優しさなんて本当の優しさなんかじゃないんだからね。まず家に入り込むでしょ。次は兄弟姉妹が出てくる。親、親戚がでてくる。面倒みてよ、ってやつ。そりゃあ美しい兄弟愛、家族愛かもしんないけどさあ、私はどうなるのよ、って感じよね。金が目当てだったんじゃない、となるわけよ。

こういうパターンはほとんどがジャワのバリ人が多いわよ。あんまり縛られてないからね。

言葉なんか動物語でいいんだ。なんにもわからなくたって、フィーリングでわかっちゃう。

セックスでわかっちゃう。優しさでわかっちゃう。バツイチ子持ちは子供に優しくしてくれるのに弱いからね、それに便利だよね。自分も女一人でたいへんだ。それで恋に落ちちゃうのよ。

まあ、結婚するとして、男、つまり夫は手に入れたわけだから、バリにいることもあんまり意味がなくなってくる。だって旅って、新天地に行くって、本人は気がついてないかもしれないけど、相手を探しにいくわけでしょ。「出会い」とか。何かを求めてね。究極は「恋」よね。これを見つけたら、そこで旅って終わっちゃうよね。で、子供の教育のことが心配になってくる。我が子のことを考えると、日本で教育を受けさせないと、と思うようになってくる。夫も行くという。稼げるからね。それで連れてくるわけよ。

そしたら立場が急に逆転するからね。かつて知ったる日本よ。不安なんかない。夫の方は不安だらけでの日本よ。バリで見た時のあんなに素敵な笑顔も自信のない笑顔になってくるんだから。働くところの世話しなくっちゃいけないし、条件のいいところなんてめったにないもんね。大きな子供一人抱えたようなもんよ。 それでだいたい終わり。女を食わせられない、食わせてもらうだけの能力がない、となれば終わりよ。

為替差、国の生活レベルの差の魔力よね。差がありすぎる。

あたし?あたしは絶対こっちの人と結婚しない。好きにもならない。いっぱい言い寄ってきたけど、今はこないね。そりゃあ、パートナーはほしいわよ。夜一人で家に居るのも寂しいものよ。そりゃあそうよ。でもさあ、金目当てかなこいつ、と思うとしらけてしまうのよね。あたしはダメ。夢中になれないのよね。こっちにいる日本人男性もいやな奴多いけどね。

言い方がまわりくどくってさあ。疑い深くてね。細かいひとが多いよね。なんでだろ。

そう、バリに来て六年だわ。母が帰って来い、というけど、日本にはなんにもないし、バリが住み心地良くているのよね。

 お金は社員にネコババされるしで、六年で金めの物は全部なくなっちゃった。

あっ、大事なこと忘れてた。バリにいついてしまう女性のパターン。母親のトラウマから逃れられない人ね。そう思う。「アブラハムの幕舎」(*大原富江 の小説、千石イエスらしき人がでてくる。主人公の女性が千石イエスらしき人の集まりに入っていく過程を描いたもの)の主人公みたいな女性よ。母から逃れるために「オッちゃん」のところに行ってしまうみたいなものよ。わかんない?

バリ島は逃れるには良い場所だと思うわ。

海があってね。ウブドみたいなところがあってね。懐かしい感じがしてさあ。

いつか通ってきた記憶があってね。それでバリにいるのかなあ。母親との解決がついていない人は男とそう簡単にはいっしょにならないと思うよ。


2002年2月16日

三年半が経った

 毎日雨が降っている。突然バシャバシャと3秒ほどのスコールが降り、パタッと止まって今度はしとしとと降る。

 恐らくこの四日間バリにリゾートに来た人たちはがっかりするだろう。

 普通、朝と昼は天気がよく、夕方頃か真夜中、あるいは朝方に雨が降るのだが、この四日間は異常である。

 今回はバリと日本を結ぶ核となるブックツリーの調整でやってきた。

三年半も経つといろいろな変化がある。成長してくる者。新しく入ってくる者。仕事も多岐にわたってきた。始めた当初、職を探していたものが入ってきて、やがて安定した生活を得る。ブックツリーという看板も大きくなってくる。ビジネスの僕なりのやりかたを僕から学ぶ。だんだんと欲が出てくる者もいる。始めは独立でもしたいと思っていた者が、性格的にか自分の適正を考えてかサラリーマンしようという気持ちになってくる者もいる。

 レンタカービジネスが盛んだから、なんとか借金をして車を手にいれ、それをレンタカー会社に貸して小遣いを稼ぐ。家の庭で生活費のたしにするのに、豚や鶏を飼っているのと同じようなサイドビジネスである。 サイドビジネスをする者も増えている。

 だがブックツリーという看板を使い、その土俵のを利用してサイドビジネスをするというのは、会社になんらかの影響を及ぼすため、厳禁としている。

 だいたい頭の回転の速いものがそういうことをする。三年半でわかってきたことを踏まえて、再調整しようということで僕は来たのである。


 決して怒らないこと。きちんと説明すること。一人一人が納得すること。それがイダからアドバイスされた調整の態度である。バリ人はプライドが高い、と彼は言う。人前での恥を一番嫌うという。

言い訳けが多いのもバリ人の特徴である。

 僕はまだバリ社会や現段階での商取引の習慣などまだわからないこともあるが、おおよそわかってきた。商取引に絡む場面でのバリ人の行動もわかってきた。

 裁判官、弁護士、警察官、税務署、入管、お金絡む場面でのマネージャーや担当者。政府の役人。事故などのトラブルで起こること、契約書のトラブルで起こること。

なんとこの社会はシンプルに「お金」を中心に動いていることか。

 もちろんお金に案外無頓着な日本人は、経済成長のおかげで、高度消費社会に入ったからであることも知っている。

 段階として見れば、古代と中世の平安時代とそれ以後の前高度経済成長期までの段階が近代法をもちながらもゴチャゴチャにあるという感じである。

 こういう中に人々はいる。普通に生きている人には関係のない話なのだが、バリ島で会社をするということは、普通に生きている人たちとはすでに違った層のところでやっていかなければならないのだ。つまり利権が絡む場面に始めから突入するしかないのである。


2002年2月17日

結婚式の風景

 アクエリアスホテルの後継ぎニョマンの結婚式が明日である。式の準備は十日前から始まっているようで、僕はこの四日間はだいたい準備の進行を外から眺めている。

 日本にもたぶんこんな時代があった。親戚や村の人々が出て手伝いをする。料理、飾りつけ、招待状の手配など。様式は違ってもたぶん結婚式は結婚式の業者がやるのではなくて自分たちでやっていたのだと思う。

 日本ではある時代に煩雑な仕事は専門の業者がやるようになり、それがだんだんと盛大に演出するようになり、近頃はそんな盛大さに意味がなくなったかのように、ひっそりと海外で二人だけで挙式、という風になった。


 結婚式が今後どのようになっていくのか想像すると、ひたすら家族だけ、または家族の了解のもとで二人だけ、という方向に進むと思う。儀式は形式的だからこれを拒否し始める。ついでに言えば、籍も形式的なものだから、拒否を始めるかもしれない。つまり同棲や、通い婚みたいな形になるのではないか。

 連れ添う相手が自分に本当にあうのか、我々の胸の内には「恋」が終わったあとの連れ合いとのことを試してみたい気持ちがあるのではないか。アメリカ人などはその辺はドライに、愛してる、と思わなくなったら離婚する、というパターンだが、かなり露骨に正直だと思う。二十代、三十代はもしかしたら試婚となるのかもしれない。


 バリの人々の結婚式の準備を見ているとイヤイヤながらというか、しょうがないな、という感じで手伝いにきているようには見えない。ワイワイと喋り、昼は準備作業をのんびりと多人数でやり、女性たちもワイワイと供え物や食事の準備をして華やかに賑やかにこのボランティアを楽しんでいるように見える。男達は夜になるといくつかのグループに分かれ、小さな賭け事に興じる。賭け事をするのはほとんどが男たちだが中には女性もいる。そんな女性は中年を過ぎた頃あいの、いかにも自力で商売をしているような雰囲気をもつ女性である。

眠っている者もいれば、なにやら真剣に話し込んでいる者もいる。

 花婿のほうにも一切の照れとか申し訳なさ、恐縮をするような素振りはない。みんな知り合いだから、という。

 1500人もの人に招待状を配っている。23日はハードロックホテルで披露宴である。

 人間がワイワイ集まっている時間は楽しい。しかし個人の時間や個人の空間を持たせること、その欲求を充たそうと日本人は働いてきた。

 僕はもちろん、個もないバリ島の生活ができるとは思わない。それはできない。バリ人になりたいかといえば「まっぴらですよ」と答えるだろう。

 バリ島民たちの経済の発展と収入の上昇によって次の段階に進んでいくことは予測がつく。日本人も次の段階に進むことも、欧米を見ていればある程度想像がつく。

それでは欧米の、特に先進的な地域の人々はどういう段階に向かうのだろう。個はどうなっていくのだろう。男と女はどうなっていくのだろう。集団の中の個人や、集団そのものはどうなっていくのだろう。

 1500人に祝われたカップルは離婚をすることが難しいだろう。この盛大な結婚式は、離婚なんてしなくてもいいのだ、対であるだけで十分ではないか、男は勝手にやるさ、女は操を守ればいいではないか。それが本当の男と女の関係のしかたではないか、と言っているようだ。自分さえよければいい、というのは十分に慎むべきこととしてバリ島の生活はある。


2002年2月18日

雲を動かす

 ニョマンの結婚式は本当は朝から始まっているのだが、披露宴は夕方から始まる。毎日雨が降っているので、大丈夫かとグランブルーのスタッフに聞くと、大丈夫だと答える。どうして大丈夫なのか、聞くと、朝七時から二人の雲を動かせる能力者が雨を止めるように念ずるのだという。 おお、今度は古代の話か、などと思い、本当にそう信じているのか、と念を押すと、信じている、と答える。素朴な話と聞き流しておこう。 雨がやんだら、報告することにする。

 確率は半々である。なぜなら昨日の七時半は雨が降っていたし、その前は止んでいた。その前の日は降ったり止んだりしていた。そう考えれば確率は50%である。

 こういう話をすると必ず日本人で、

 「そうなんだよね。そっかあ、バリには雲を動かせる人がいるんだあ。すごいよね。そういうことってあるんだよね。なんか僕らとは違う能力持ってんだろうね。」

  こういうのには実に閉口する。次の言葉がでなくなる。

  吉本ばなななんかはどう反応するのだろう。

「みんな優しいのかもしれないな。雨よ止んでくれって、みんなの優しい気持ちが雲を動かすのかもしれないな。私だって、信じる! 」 っていうのかね。

  さて翌日、雨が止んだのである。僕から言わせれば確率50%が雨が止む方に入ったのである。バリ人にしてみれば当然だとなる。

まあいい。結婚式はなんだかんだと進行していき、夜七時からは披露宴で、音楽と漫才と食事を楽しむのである。

  僕もだんだんとウキウキしてきて、みんなの中に混じると各会社のスタッフ達の代表が何人かずつ来ている。「ダンドゥット」が聞けるという。

  まだCDではなくレコード全盛の頃、と東京の確か秋葉原の石丸電気というところで、「ダンドゥット」の女王と言われる歌手の(名前は忘れた)SP(LPより小さいサイズ)を買ったのだった。十五年くらい前のことである。

  乗りのよい曲で、どこかなじみがあるがどこか違う、乗りのよい演歌のようで、アラブの雰囲気もある。

 ダンドゥットはこのごろインドネシアの若者からは敬遠されているようであるが、僕はいつか生で「ダンドゥット」を聞きたくて、よくバリに来ていた頃、「ダンドゥット」が聞ける場所を探したのだった。バリと言えば、レゲエかラテンかアメリカの一昔前のポップス、それに伝統的な各種ガメラン音楽だけだった。

  それが今日聞けたのはラッキーだという他ない。

    そんな音楽を聞きながら、僕は「ゴッドファーザー」という映画を思いだしていた。あの物語の中でもファミリーの誇示というか、力を示す為に、盛大なパーティーを開き、みんなが楽しんでいる間も、あいさつに伺うドロドロとしたファミリーとの関係を描いていた。それを思いだした。

  二時間程でほとんどの人は散々と家に帰る。おちょろけた漫才に腹一杯笑って、本当に真面目に聞いて、真面目に笑って、ケラケラ笑って、帰るのである。

  そしてやっぱり新婚夫婦はキラキラ輝いているのだ。オーラみたいなものだ。やっぱ、主役はいいよな、と思い、この島は古代や、陰陽師の時代、そして携帯電話やパソコンの瞬時に世界と通ずる時代がいっしょになって、それぞれが色濃く存在しているのだ、と思う。

 十時四十五分。披露宴が終わってから十五分が経つ。雨が降ってきた。


2002年2月24日

何と向きあうのか

 アクエリアスホテルの家族はのんびり暮らしている。この辺ではお金持ち、バンジャールの長。

 小さなレストランと客室数25ほどのホテルにテナントとして三社ほどに建物の一部を貸している。

 奥さんもなんだかだとしているが楽しそうである。

 今度結婚したニョマンにお姉さんがいるが、この夫婦も同じ敷地に住んでいて、彼女の夫も同じ敷地内でのんびりと静かに(そんな風に見える)暮らしている。

 彼らは何事にも穏やかで嵐のようないさかいなどないように見える。人とどのように関わり、人にどのように気を遣うか、いつも人がいる中で、付き合いかたの呼吸を心得ているようだ。

 良い生活だなあ、と思う。知らない事は決してあわてることなく知っている人に相談し、自分の知っていることはその逆をする。お金持ちだけが持てる特権かもしれない。本当の内実はわからないが、あわてることなく、慌ただしくなく、人望を得て、人が交わる場所の中心にいる。

 ビジネスとして考えるなら、一番の一等地を自宅にするのではなく、自宅をずっと後ろのほうに建てて、商売をすれば、と思うが、そうではない。

 ホテルの客は必ず、出たり入ったりする度に、アクエリアスの家族と顔を合わせ、挨拶をして通り過ぎなければならない。時々、面倒な時もあるが、彼らはそこは心得ているのであろう。面倒とも思わないのだろう。

 人は面倒なこともあるが互いに親和感の中で生まれ、育ち、死ぬ、そこには客であってもそうなんだ、という無意識というか習慣がある。



 僕の世代は核家族化の第一段階の世代である。両親は母の母(僕から言えば祖母)の家に住み、母の妹家族も住み、母の弟の子供も一緒に住んでいた。路地の一角だった。

 高度経済成長の頃、僕が高校生になって間もない頃、両親は家を建て、妹夫婦も別の場所に引越し、 祖母はある時期孫と一緒にに暮らしていた。

 祖母は結局、僕の両親の家で息をひきとったのだった。母が世話をした。

 両親が一家族で住むことを望んだように、僕も大学を卒業して以降は両親と別のところに住んでいる。両親は反対もしなかった。時代はもう家で死ぬことも許されなくなっている。世話は介護ビジネスとなり、人はだんだんとますます孤独になっている。


 孤独であることにどう対処するか、日本人はそれほど考えてこなかったと思う。

現在の五十代の人達が若干考えてきたのかもしれない。

この世代は次の世代に個人の尊厳も教えたのである。それは孤独を覚悟してのことだったはずである。そして時代は介護保険の下、介護ビジネスが進み、孤独に死を迎えることを余儀なくしてしまっている。西洋人のように神と向き合うことのない日本人は何と向き合って伴侶が亡くなった後を暮らすのだろうか。

 大勢の人がいる中で生きていくには仲良くやっていくルールを守ることが必要である。わがままもきかない場合がある。ひとり勝手に生きていきたいと思えば、一人死ぬことを覚悟しなければならないのが道理である。

おそらく、二つが重なる部分を今後我々の社会はどうしていこうか、という様々な方法が試みられるはずだ。


2002年2月25日

濃密な気配

若いエディーのエッセイ(このHPのバリ便り)を興味深く読んでいる。読みながら、自分のこれまでの経験と重ねて見る。息苦しいバリ社会が見える。

 今回の渡バリは会社をリセットすることだった。だいたいバリのビジネス社会や商習慣もわかってきたし、バリ人達の生活スタイルもわかってきたので、会社就業規則をもう一度見直し、新たに出発させることだった。バリは政治家だけに利権が発生しやすいのではなくどこにでもチャンスがあれば利権が絡んでくる。

会社を通じた仕入れ、会社を通して知り合った人脈、当然のことながら「利権」が当然のようにはびこり始める。こういう不安感がいつもあったものだから、ある機会をもうけてそれは会社の利益に反するもので、競争力を弱めるものだから、絶対にいけない、と、それをしたら不正行為で解雇をしなければならない、と念には念を押し、「恨み」もくそもないことを徹底させたかった。

 四人、契約の更新をしなかった。そのことを本人たちと会って伝えた。その晩、その四人のうちのワヤンが交通事故で死んだ。

 その夜、僕は酒を飲んで吐いた。急に吐き気に襲われた。十五年ぶりくらいの嘔吐だった。酒には相当強いはずだったが。

 ベッドで苦しみながら、ワヤンの恥じらった顔が浮かんでは消えた。トイレで何度も吐いた。「恨みはここで、今みんな吐いてしまうぞ」と思った。

翌日はすっきりとした。二日酔いも残っていなかった。ワヤンのお父さんと会い、会社ができることを話し会った。

エディの話にあったように、フロアスタッフがコンピュータを習えるとなると、妬まれる、と思ってしまうから習うのを途中でやめてしまう。飽きてきたとしても「飽きた、やりたくない」といわずに「別の部門のスタッフから妬まれる」という言い方をする。そしてそれが通る。見て見ぬ振りをし、人に聞かれていないかあたりを気にし、正しいと思ったことを言うにしてもそれは「恨まれるかどうか」が言う尺度になる。

人間が人間を恐れるため、物事が遅々として進まない。人間はそんなもので、それ以外の人間社会を見たこともないから、「恨み」「妬み」は当たり前と思っている。

人間の内部で思うことは濃い。濃く渦巻いていて、ドロドロとしている。いつも人間が密着しているから、そうなのだろう。関係が濃いのだ。

確かに人間は恐い。言葉も恐いし、目も恐い。暴力も恐い。集団も恐い。孤独も恐い。暗闇も恐い。

でもバリ島は 休みたい人、ふらっと短期間来る外国人には魅力的な島である。その魅力は実は人間、及び人間関係の濃さが生み出す空気の濃密さと原始から現代に渡る時代の段階が顕在化して一緒に存在していることにある。それに、島であることと熱帯の風土が重なっている。

確かにこの濃密ななにかは言葉以上のものがある。



2002年3月25日

コンピャン

 何度も書いたことだが尾鷲市は三方が海に迫る山、一方が海に囲まれた小さな町である。そこに大阪での仕事の帰り、コンピャンが寄った。初めての尾鷲である。

 コンピャンはバリ島のサヌールで生まれて育った。現在はブックツリーの建築のデザイナーをしている。本物のバリ建築の建築士である。

 桜が咲く時期だというので、暖かい季節だと思ったらしい。が、意外と日本はこの時期寒かった。

町を車でざっと案内しても十五分かからない。駅から港までは車で信号機で待つ時間を入れても三分である。

 僕の自宅は港に近いところにある。

住宅も店もごちゃ混ぜになったところだがしずかではある。案内しながら思った。

 10m前に干物屋があり、50m歩くと魚屋、花屋、酒屋がある。ここから20m歩けば、歯科医が2件、整形外科医が1件ある。隣は銀行である。

銀行から30m歩けば、床屋、今流行のドラッグストア、服屋、雑貨屋、レストラン、中華料理店、喫茶店がある。だいたいなんでもそろっているのである。

 市役所が運営する総合病院、体育館、文化会館、図書館があり、公園の中には天文台まである。

国道沿いには車屋、サラ金、CDや本やレンタルビデオ店、焼き肉屋、カラオケ、などがある。

 野球場は市営。テニスコートは四か所。桜の名所は二か所ある。

海では魚や貝がとれる。山では山菜が採れる。十五分車で走ると淡水湖があり、反対方向には原生林もある。原生林を抜けると磯である。

 コンピャンに案内しながら思う。道もよい。車もさほど多くない。これはなかなか良くできた町だ、と今更のように思う。

夜、友達がコンピャンに尾鷲の町の感想を聞いたら、「完全に整った町」と言った。僕も思わずその表現にうなずく。

 彼はバイクを家族が手にいれるまで、母親の商売の仕入れを手伝うのに、朝二時に起きて、リヤカーを引いていた。バイクが買えるようになって起きるのが五時になった。

 こういう生活を大学に通いながらやっていた。


 尾鷲はバリと比べたら、とにかくインフラが整っているのである。電気の電圧はしっかりしている。バリは電圧が安定していないから電気製品が故障するため、なかなか買えない。道がでこぼこが多くて交通事故が多いし、渋滞となる。雨季になると下水から雨水が溢れる。電話代が高い、外国製品が高い。こういう基礎的な経済基盤が充実していない。

 「なんてコンパクトで完全に整備された町なんだ」とそう言われれば思う。コンビニだって三軒ある。

 ここまで整っていてなおも人口が減り続けている。昔、三十年前三万四千人あった人口が今は二万5千人。*2019年で一万七千人まで減っている。

 一方サヌールは一番最初のリゾート地として開発された地域だが。人口は増えると言っても減ることはない。

 「もしもうまれかわったら、尾鷲とサヌールのどっちがよいどな? 」と友人が聞くと「やっぱりサヌール」と答えた。すめば都というのはわかる。しかしどうも社会基盤などのことで比較はしていないのである。「のんびりしていて人が行き交って、困った時は助けてくれる人が多くいて、自分は、子供が三十才になるまでは責任もって働いて、引退する。引退後は自分の好きな絵を書いて暮らしたい。プライベートに日々を過ごしたい」と言う。ムムム。

 「オレよりえらいやっちゃ、」と思う。僕らは考え過ぎてる。個人に執着がありすぎる。個人を前面に出すと、他者が認められなくなったらり、他者との差異ばかりを気にするようになる。

 コンピャンは「これを食いたい」と主張もしない。「みんなが食べるものを食べるから」と笑って答える。食への関心はそれほどない。「寒いとお腹が減る」と言う。

「寒いのは苦手だ、たいへんだ」と言う。

好奇心もそれほどムキだしにしない。

 ジャスコで妻へのみやげだと「アクエリアス」というスポーツドリンク二十本を買った。「持っていくには重過ぎやしないかい」と聞くと、「妻が砂糖が少なくて美味しいと言って、また買ってきてくれ、と言うから」と笑って答えた。思いものを持っていくのもなんともなさそうな感じである。さしずめ僕なら「重いから軽い指輪ですましておこうと考える。ムムム。勉強になるな、と思って、尾鷲を、また自分自身を客観的に見ることができた。

 バリにいるバリ人と日本にいる時のバリ人は違う。こういう風に居る場所の立場から物事を見直すのもなんとなく謙虚にうけとめてコンピャンの話が聞ける。

 新しい体験だった。


2002年3月26日

甃のうへ

  福岡ー名古屋ーデンパサールという路線になったおかげで前泊せずともよくなった。

朝 七時八分の南紀特急に乗れば空港には十時十分に着くことになる。とにかく尾鷲はアクセスにおいては不便なのだ。福岡からの客が増えたからなのか、春休みに入ったからなのか、ガルーダ889便は満席である。

 機内で何を読もうか、今回は「教科書で出てきた詩」を持ってきた。僕はいつも新学期の四月だけは今年こそ勉強しようという気になって授業に集中するのだった、国語において詩が教科書の最初登場する。

やる気いっぱいだからその頃の詩はよく憶えている。


甃のうへ   (高1)   三好達治


あわれ花びらながれ

をみなごに花びらながれ

をみなごしめやかに語らひあゆみ

うららかの跫音空にながれ

をりふしに瞳をあげて

翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり

み寺の甍みどりにうるほひ

廂々に

風鐸のすがたしづかなければ

ひとりなる

わが身の影をあゆます甃のうへ



 あの頃の僕はまだ十六歳だった。桜が満開となった日に尾鷲高校に入学したのだった。

尾鷲高校の桜並木は中学校の味気のなさとは違いもっと大人びた世界のように見えた。少し年を先にいく上級生たちがひどく大人に見えるのだった。


 一瞬に時は十六歳に戻りこの詩を感じた時のことを思いだしてみる。春の寺で華やいだ女子たちがざわざわと語らい歩む風景を作者はうらやむように、自分の孤独を感じる。このとき視線が甍のほうに移るのだが、その情景が最後のところで叙情に転化するのである。

この詩が好きかどうかではなかった。新学期のやる気まんまんだけが先生の解説を聞かせ、ノートにも写し、この詩をいつまでも憶えているものにしたのだと思う。おぼえさせるリズムのようなものもこの詩は持っていたし、何かしら情景の描写から浮かぶ甍や娘のイメージに明暗があった。この詩を引き締め読みごたえがあるものにしているのは視線がとらえる情景の明暗だと思う。


 まだ飛行機に乗って三時間。隣に座っている連れ合いの山下さんに異変が起こった。

心臓が苦しくなり、圧迫感を覚え,脈拍が乱高下している。血圧も乱高下している。彼はすぐに救心を飲んだ。

 キャビンアテンダントを呼んだ。すると機内放送があり、「医者が乗っていないか」を聞いている。と、すぐ日本人の医者が来てくれて、脈をとる。僕は簡易血圧測定器のデータを見せる。命に別状はないと判断され、彼は席を移動し、安静にすることになった。

 僕がどん底の時に、暖かく手助けをしてくれた人だ。青春時代からはるか遠くへきてしまった僕らだが、いつかニューヨークにまったくの趣味で寿司バーでもつくり、ジャズでも歌ってと、たわいないことを言って、やろう、よしやろう、と笑っている二人である。心臓が不調だと身体が不安感でガクンと不調になる。

バリまでまだ四時間ある。


 バリ到着前、調子を取り戻した山下さんはお医者さんのところに挨拶に行った。

「エコノミークラス症候群ですよ。お腹いっぱい食べたあと起こるんです。狭いところで身体を動かさずにいると起こるのです」

 新聞やテレビなどの紹介でこの言葉は知っていたが、我が恩人にそれが起こるとは。

老齢に入れば身体は自分の管理次第となる。空を飛びたかったら、それに耐えうる血液と血管でなければならぬ。でないと行動の範囲は縮まる。勢い、頭の中の想像力だけとなる。頭だけなどというのは頑固でどうしようもないものだ。

 到着後、山下さんは一人旅の若い女性相手に自慢話に一人で花を咲かせていたが、その後、絶不調となり、肩は凝る、首は凝る、ついに寝ようと席をたったとき、息子の雅弘さん(彼は整骨院などをやっている)がやってきて、プロのマッサージをしばらく受けたのだった。


 頭の中で青春時代が過ぎ去り、現実は老いという問題がすぐそこで起こり今回の旅はなにやら波瀾含みかな、と思った日だった。


2002年3月27日

税金、銀行、経済

 山下さんが体調依然不調で、息子の雅弘さんが仕事を途中で打ち切り、付き添いになって日本に帰ることになった。

 山下さんはこれまでお金の世界で闘ってき、その勝ち抜きに残り現在にいたっているから、今度は健康との闘いになる。それは自分自身との闘いとなる。

 本人は内心ショックだっただろう。こんなはずはない、と思ったに違いない。突然に心臓が締め付けれられるというのは尋常ではない。


 さて今日は山下さんも不調の中、銀行に行ったのだ。昨日は決算報告の分析を徹底的に行い、ニューヨークテロ以後の影響とテロ依然を分け、資金の流れを追ったのだった。

インドネシアの経済を 一外国人から見てみる。

 定期貯金は3ケ月、6ケ月定期とも年率14.5%である。普通貯金の利息はやや下がり9%である。普通貯金で百万ルピアで抽選券一枚がもらえ、抽選でBMWなどがあたるというキャンペーンをやっている。これが人気でBNIの普通口座に人は集まるのだそうな。

 金利から見るとひどいインフレである。借りる側は月率で2.5%。年にすると39%だから日本の町金融よりも高い。

 インドネシアは会社で言えば銀行の管理下に入っているようなもので、他国からの援助なくにっちもさっちもいかない状態が 経済危機以前から続いていた。それが明るみになったのがスハルト政権の崩壊であった。

 内に民族問題を抱える。更に人々の内に、国民、市民、という法の下では平等で個人も尊厳され、民主主義をおしすすめていくためのいくつもの意識の問題がある。

 交通事故の少ない道路を税金が少ないためか、どこかで消えていくためか一向に安全な道路はできない。電気の電流と電圧が一定でないため、電気器具がこわれやすい。そういう社会のインフラの整備が一向に進んでいないのは、税金とその使い方の意識の問題である。人は言う。「税金なんか払ってもそれが道や発電所になるのではなくて誰かの懐に分配されていくんだ。税金など払わずにみんなで分けたほうがいいんだ。」こういうシステムと意識ではインドネシアの発展はまだまだだと思わざるを得ない。デフレ下の日本の商品のほうが安いものも多くある。

 こうなると、より安い商品をと輸出は難しくなってくる。中国のように人件費を意識的に押さえ、対外競争力をつけていこうとする政策もやがて破綻すると思うが。

 僕がかかわり始めてそういう三年はインフレで推移し、他国の管理下で生きているインドネシアが続いている。

 インフレである限り、お金の値打ちが下がり、物の値打ちは下がるのである。

 まだしばらくこの状態が続くだろう。

 銀行はまわせるお金の量が不足しているから金利は高いのである。

二〇〇三年にインドネシアは経済危機以前に経済状態が戻ると発表している。

 

 国というものを考えるとき、いつも不思議に思うことがある。会社は倒産をし、新たな会社が現れ、人はその過程で生き、死にをくりかえす。国は政権は倒れても国として存在し、その中で人々が生き、死にしたとしても結果としてやがて大きな成長を果たすことも、ありえる。

 当面インドネシアは他国の手に委ねられた瀕死の倒産寸前の状態である。

これは当分かわりそうもない。

 嫉妬、恨み、呪い、互助、儀式、バンジャール(村の自治会)、階級と不均一な平等意識、明日食う為のお金、子供への愛。

 金利がせめて8%とか5%になり、貸し出し金利が10%とか、9%になってきたら、成長への段階に入るのだろう。そうなってきたとき、大きくこの社会の持つ意識は変わっていくのだと思う。 

 で来週、苦渋なる税金をガバッと支払うのである。どこへ、どう使われるのは報告がほしいものだ。


P.S. インドネシアでは観光客でも定期貯金ができたのだったが法の改正でキタス(在留許可証)がないとできなくなった。


2002年3月30日

ププタン

 バリ人を理解する上でちょっと複雑な話から始まる。

ロイはブックツリーで働いていた。笑顔がよく、明るい良い青年だった。そのロイが同じブックツリーグループのヤーマの女性スタッフと結婚する仲になっていたのを僕だけが知らなかったようだ。

 バリでは同じ会社で夫婦が働くことはタブーとされている。ブックツリーとヤーマとは完全に別会社であるのに、ブックツリーがコンサルタント、運営する会社だから、一緒だと思ったのだろう。


 シガラジャの叔父の商売を手伝うことになったので辞める、というわけだ。あれだけ話しあった就業規則もくそもない。また上司もあっさりしたもので、「一人分の給料がうくのだからいいんじゃないか」と思っている。

辞めてから一ケ月後結婚となった。同僚達は結婚式に出席した。

 二人はきっと夜な夜な相談をした。

「ヤーマもブックツリーも給料はよい。お前は女だから、あんなよい会社は、辞めてしまえば二度と就職できない。オレは男だから就職は女よりも探しやすい。お前は辞めるな。いいかい。そうしよう、うんそうしよう」と

(これをシガラジャ弁で表現できたらおもしろいのに)


それから二ケ月経ったある日僕がバリに行くとロイがブックツリーにいるのである。

「モトキさん、コンニチワ。今、ジュプンバリのドライバーをシテイル」と笑顔でいう。

「なにー? 本当かよ」

「おまえね、なんで、結婚前に一言いわなかったんだ」

「恥ずかしいから言えなかった」

「で幾らもらってんだい? 」

「三十五万ルピア。」

「ブックツリーの時の半分じゃないか」


ジュプンバリとブックツリーは提携していて、エステ・デ・マッサの車送迎を委託しているのである。その運転手としてジュプンバリに雇われたのである。

それで今日の話である。インペリアルホテルに用があって、ロイに運転をしてもらった。着いてから「エステ・デ・マッサ」から呼び出しの連絡があるまではここで待っててよ。呼び出しがあればその時は僕に連絡しろよ」と言い残して僕はホテルに入っていった。

 帰り、ロイがいない。探したがいないので、呼び出しがあったんだろうとホテルタクシーを使った。

 夕方、「モトキさん、マッサから呼び出しがあったので帰ってしまった」と照れ笑いしながら弁解する。僕はレストランで商談をしていたらしい。経験にない独特な雰囲気の中に割って入れなかったのだ、と言う。本人は笑っているのだから怒る気にもなれない。

 そこはかとなく子供っぽい。

気後れ、遠慮、恐怖、しょうがない嘘、バリ人と外国人の人間関係の中に多くある。

これが一人の場合、ただ怖気づくだけである。そのとき、ただただ人に迷惑をかけるとか、自分が信用を失うとか考えないのである。

 僕らの方に上下の意識などなくても、バリ人達は勝手に上下意識をもってしまうから、思いがけないところで異和感がある。この意識が気後れさや臆病さを作るのである。

去年の話である。ガルンガンがもうあと一週間でくる。社長である僕はは知らない。その日レストランはどうするのだろう。開店したばかりだ。お祈りはしたい。誰もガルンガンの日はどうするのか、聞かない。ミーティングの席で社長が何か他に連絡事項はある? と聞くがだれも言い出さない。個人的にも言い出せない。仕事に不真面目だと思われたくない。

 そして、みんながそれぞれ思いの限界まで来たとき、全員で言い出すのである。

それも前日の夜にである。いわば一種の「PUPUTAN」である。

PUPUTAN とは最後の堪忍袋の緒が切れて全員で死をかけて闘う。これで最終だ、祖先もクソもない、民族としての滅びをかけて闘う概念を言う。

 バリ人達いつもこのような小さなププタンをやっているのだ。

初め、ハイハイと良い返事をする。わかっていなくてもする。ここがミソなのである。初めいいかげんに返事したことを反省するでもなく、その後、積み重なってくる矛盾に最後には耐えられなくなって、なんやかやと言い出すのである。

「初めから、言っておいてよ」と言いたいが、こればかりは、三年たっても変わらない。そのことを知ってすべてを進めなければひどい目にあうのだろう。

 これがバリ人の解決のしかたなのである。そして結論はどこかに収斂されていく。収斂の場所が日本人だったら、日本人はプッツンする。

これは平均的バリ人の行動パターンなのだが深い深い話なのだ。


2002年3月31日

インターコンチネンタル ホテルのこと

 プールで両耳を水面下して仰向けになって浮かぶ。すると自分の呼吸が水に響いて大きく聞こえてくる。普段自分の息は聞こえないものだから、こんなに激しい息をしているのかと思う。この音を聞くたびに僕は映画「卒業」を思いだす。主人公は自宅のプールに浮いていた。あの呼吸の音を思えば録音技術者はどのように録音したのだろう。

 今回は途中で中休みをとることにした。ジンバランのインターコンチネンタルホテルでゆっくりすることにした。どうしても仕事場付近にいたら休まらない。思いきって、完全に仕事から離れた。いつものことだが六日してくるとバテるのは目に見えている。

 リゾートホテルに一歩入れば別世界である。

 ビーチにあるバレの中で写真集を見る。時々波打ち際や遠くの海、島を見る。左手方向の半島はたぶんフォーシーズンだろう。右手の半島は飛行機が着陸しているのが見えるからクタのほうだろう。ジンバランの波の音とレギャン、ヌサドゥアは違う。

もっとも安らぐ波の音はヌサドゥアである。レギャンはやや波音が大きい。ジンバランのは波打ち際の20mくらいのところで突然に音を立てる。

 写真集に飽きるとプールで泳ぐ。プール端と水平線が重なっている。大型ホテルは調度品、インテリアが楽しい。朝歩いていても気がつかなかったものが夜、気がつくこともある。こういうところまで、こだわってインテリアしているのか、と感心する。今は仕事柄、インテリア類、レストラン関係、建築関係にどうしても目がいってしまう。間仕切りの鳥を彫ったデザインには感心した。どのセクションもプロのデザイナーが考え尽くしている。ドア、天井、廊下においてあるもの、どれも興味深いものだった。いつか自分がホテルをしたらなどと思ってしまう。

 もうすぐ雨季が明けるが、既に雨は降っていない。湿気も少なく暑すぎることもない。

 今回は初めて日本で携帯電話を借りて持ってきた。いつも使っている自分の番号で使えるので便利である。日本からでもいつも日本でかけてもらうように、090 **** **** をかけてくれれば僕の携帯のかかるようになっている。その代わりバリ島内でかける場合一度日本を経由することになる。

 リゾートでくつろぐには本当にバリ島は良いと思う。日がなホテル内でのんびりし、夜はレゴンダンスを見た。それから食事をしたが、シーフードレストランでは一日目はリンディックを奏でていた。二日目はギター演奏、プールバーでは珍しいバリの木琴(竹製のリンディックではない)の三重奏をしていた。

 朝食は多種多様でサービスが行き届いていた。マンゴスチンもあったし、これまで経験した朝食で一番良かったような気がする。

 これまで幾つものホテルに滞在したが5つ星の大型ホテルの中では抜きん出ていた。

 惜しむらくはホテルの入り口にインパクトがなく、ロビーの明り取りがやや狭く、ロビー全体がやけに暗いことである。趣味の問題といえばそうだが、ビジネス的に言えば、もっとも外来者が見るところであり、僕だったらもう一工夫すると思う。


2002年4月1日

個人主義

 人間は絶えず二人以上でいることが本質的で、自然のあり方だとしたら、近代以降重んじられてきた個人主義の考え方を点検する必要がある。 バリの女性が赤ちゃんを産む。母親は個人ではなく二人以上と存在しているからエゴが希薄である。いつも近くに誰かがいるから用事があればちょっと世話を頼める。だから、女ひとりとしてのエゴ(というか思い)と赤ちゃんの世話をするということは互いに逆方向に分裂しないで赤ちゃんを育てることができる。

 赤ちゃんが乳をほしいと泣く。私は今テレビドラマの一番のクライマックスを見ている。こういう分裂である。

 この分裂の極限が虐待である。バリならこれはまずあり得ない。いつでも人が近くにいるからだ。

 バリには個人という尊重されるべき概念が希薄であるのと同様に「他人」という概念も希薄に思える。時々、自分と他人を混同している場面もある。

 人からの恨みや嫉妬はとても気にするが、他人を他人と思うのではなく、自分と同様に人がそこにいる。植物や動物がそこにいるように人がそこにいる。そしてその中でも「人」が一番厄介な存在であることは知っている。おそらくこういう感じである。

 一人でいる時間がほとんどないバリ人は日本で一人アパートで暮らすということがいかに恐ろしいことか知っている。一人でいることが自由きままになれる、邪魔はされない、何を考えてもよい、規制がない、と思わない。不自然だと思う前に恐怖なのである。

 日本でもこのような段階があったのだと思うが、個人の尊厳が教科書で唱えられ、経済の発展とと共に、人間関係のあり方が変わってしまった。今は病的な人間関係の社会となっている。「病的」というのは「エゴ」が丸出しにされて、それが保護される形で基本としてあり、そこから人間関係を求めていくという関係のありかたである。 隣近所の人との関係は避けながらネットでのグループに入るとか、自分の趣味をより満足させるために趣味の会に入るとか。意識して自分の都合のよい人間関係を求める、という風である。

 すべて「わがままきまま」の裏返しの「寂しさ」とか「孤独」から「他人」を求めるという風になっている。

 別段に、バリ社会を絶賛したいのでもない。恐らく息苦しい場面も多いに違いない。

 コンピャンが日本に来た時、「バリと日本、どっちがいい? 」と馬鹿な質問をした。コンピャンは「いつも周りに人がいて助け合えるバリのほうがいい」と言った。

 個人が自由な意思で振舞えるそのおいしさをコンピャンは知らないのだろう。

あるいはこれは相当な毒だと気づいているのだろうか。

 日本社会は90%が中流階級意識をもった人々で構成されている。この90%が自分たちは正常だと思えば正常であろうが、どこか別の場所から見ればみんなわがままな神経症であり、人間関係は「不安恐怖症」に陥っているように見える。

 個人の自由をはっきりと意識化し、その問題点を認識し、そして自分の足で立ち、しかも他人という個人を尊重して個人主義は成り立つのかもしれないが、そんなものは幻かも知れない。


2002年4月3日

食事にさそえば

 バリ人を食事に誘うとがっかりする。が懲りずにまた誘うのだが、まず習慣としてバリには食事をしながら談笑する、お酒を飲みながら、話をするということがない。

 もちろん外国人と食事をする場合、言葉の問題もある。

 もしかしてたえず上下関係を意識しているからそうなるのか、と思ったりするがそもそも食事とは唯一バリ人が一人になる時間である。だいたい十分ほど。

 レストランのスタッフを他のレストランに連れていく。ビールを飲むか、と聞くと、コーラとかファンタとなる。こっちはがっかりする。好奇心を旺盛にして、アルコール類などとの味のとり合わせや、デコレイションのしかたなど研究してほしいと思うのだが。

 ヒンズー教の影響もあろう。共同体を蝕むものが酒である、という考え方もあろう。またお酒や贅沢な食事にまで生活費を回せないという事情もあるかもしれない。

 レストランと関係のないスタッフとなると、ちょっと自分たちが見たこともないものがでてくると顔をしかめ、気持ち悪いを連発するから、二度と連れてくるかよ、と思うのである。

 人は一人ではない。常に二人以上であることが人だという風にあるバリ人たちはことさら場を設けて食事をする、人とある場所で約束をして、自分のスケジュールをいっぱいにするというような不安恐怖症的なところがない。

 儀式にはお金を費やす。自分や家の通過儀礼、血縁、地縁の通過儀礼、友人、会社仲間に使われる。この頃はそれらをお金で買わなければならない。

 資本主義的な拡大再生産がそこにはない。成り物を神に捧げ、それが腐ってしまうか、他の人に分配するか知らないが同じことを繰り返しているだけである。

 拡大再生産と言えば、豚や鶏を家の中で飼い、子供を産めば売れ頃に売って生活の足しにするということをしてきた。一匹が数匹もの価値を産むのである。

 この頃では、お金を銀行から借りられる人が、車を買い、レンタカー会社やトランスポーテーションの事業主に貸すという利殖法をしている人もいる。

観光産業に側面から貢献しているわけである。すると様々な職への波及効果が及ぶ。

 車の整備関係、部品関係、ガソリンなど。

 話がそれてしまった。

 早い時期から自立を迫られる西洋人。自立とは一生無縁であるようなバリ人。

その中間点にいるような日本人。比較をしてもせんないことだがつい比較をしてしまうのである。


2002年4月5日

名義貸し

バリ島でビジネスをしていく上で、あるいは売買に関して、基本中の基本、大原則は「他人名義を使わないこと」である。

 最終的に、他人名義にしたものは、たとえ自分がお金をだしたものであっても、公証人事務所でその旨の公正証書をとったとしても、それは誓約書どまりのことで、実際裁判になると、時間、費用、手間がかかり、弁護士、相手方の弁護士、裁判官も暗躍しだし、裁判をやりとおすことができなくなることが多い。

 正しくは名義を貸したものの所有物であるのだから、そう登記しているのだからしかたがない。何を言おうと文句を言う法律はない。

 裁判になるまで、惨憺たる過程がある。ビザを持っていないことが従業員に知れる。従業員はそれをだれかに言う。そんなところから、こういうことに手馴れた人の耳に入る。バリに来た時、入管もビザのチェックをする。情報もすでに入っている。「入れない」と入管で言われる。それで緊急に知り合いになんとかコネをつけてもらってお金を払い、入れてもらう。だんだんと会社も本当の名義は本人、オーナーのものではないことが知れ渡る。お金がひらひらと舞っているようなものだ。

 するとこれは他の者から見れば、安くたたき、買えるチャンスの到来である。バリ側のほうはこれに成功すればみんな儲かる。そこを使って事業をしたい人は安く買える。名義を貸していたものはリベートがもらえる。関係してくるものはだれであれ、利益を得ることになる。

 簡単なことだ。バリにその日本人を入ってこれないようにすればよい。もともと違反しているのだから、ということである。これはもうどうあがいてもダメである。

 ではどうするか。一つ方法がある。自分が代表取締役で日本人だけで外国人法人の会社を作る。そして名義を貸してくれている人と仲のよい状態のうちに、これではやっていけないことをきちんと話し(代理人でもよい)手切れ金(お礼金)の代わりにその名義人の会社から不動産、設備などを安く二十年とか三十年契約で借りる。借りてしまえば、名義人は売れなくなる。新会社によって正当なビザを発給してもらい、この際に、不動産、設備とも買いとってしまう。

 整理屋やブローカーみたいなのが入って来ないうちに一連の作業を進める。さっさと進めるのである。

 実行するのに資金的な体力がないということもあり得る。つまりもう投資できる資本がない、と言う場合だ。

 この場合はやめること、撤退することを決心する。それを信用のおける日本人に貸す。(転貸する)。この場合は契約書も生きてくる。あとで新会社に返してもらう。バリには譲与税とか相続税はない。

 バリ島で日本人が経営をして儲けるというのは至難の業である。基本は 法をきちんと通過しておくことである。くれぐれもご用心を。名義人は明日にも突然死ぬかもしれないのである。


2001年4月7日

アグン山の近くまで

 レストランの女性スタッフが結婚をするというので、式に参加することになった。いつも髪をきれいにして英語も話すしっかりもののコマンである。

本人は「カラガッサム、チャンディダサのすぐ近く・・三時間」とか言ったものだからすっかりその予定でいた。ところがチャンディダサを過ぎてもなおも車が走る。彼女が嫁ぐ家は チャントゥン バトゥリンイト(Cantung Baturingit)にあるのだそうだ。

3時間どころか、チャンディダサを越えて、テガナンを越え、聖なるアグン山を左手に真近に見えてくる。地図などはないからどの辺にいるのかわからない。アグン山のすそ野は潅木、せいぜい3mほどの木のジャングルが広がっている。そのジャングルの中を車は腹をこすりながら進んでいった。3キロほど走ったところで、バイクに乗った男がやってきた。聞くと、すぐそこだと言う。バナナの皮で作ったゲイト、それにペンジョールがある。彼女が嫁ぐ家だ。

 近所がない。一軒の家だけである。近所はと聞くと1kmとか3km離れているのだそうだ。彼女の夫になる男性はここで育ったのである。

 ブロックで作った2間ほどの家、庭に貯水のセメントタンクが3つ。あとは庭である。今日は結婚式の準備で、遠くからバンジャール(村の自治会)の人や男性側の親戚などが集まり庭で食べ物などの準備をしている。椰子の実の果肉のところをとる人、それをスライスにする人、粉にする人、豚の血、細切りにしたゼラチンのところなどをまぶし、ラワールを作っている人。別のグループはサテ(串焼き)を作っている。カメラを向けると男も女も子供達もきゃあきゃあ騒ぐ。しかし仕事は淡々とやっていく。

 家の回りを見渡しても、農地として何かを栽培しているようには見えない。売れる果物や野菜に適さないのだろうか。アグン山は豊富なすそ野を提供してくれなかったのだろうか。叔父さんとい人に聞くと、成り物をとり、鶏を飼い、豚を飼う、海が近い(近いと言っても10km以上はある)ので昔ながらの塩田をする人が多いのだそうだ。

若い人は都会にでていくだろう。コミュニティーさえもなく、一家だけがぽつんとあるのだから。それほど苛酷な条件の場所に違いない。

 シェフのバワやライの出身地であるバカス村も小さな村だったがそれでもコミュニティーがあった。人がいた。集会場があり、人が集まって闘鶏を楽しみ、人が通りを歩く、というような村の風景があった。

 ここにはそれがなかった。たぶんここを開墾する前に、観光産業が若い人たちを吸収してしまったのだ。

 子供たちは都会へ出て行ったから、両親二人がいるだけである。

 花嫁の家に行き、無事貰い受けて来た花婿が花嫁コマンと共に現れた。花嫁側の親戚の方々もいっしょにやってきた。

 コマンも初めてこの場所に来たのだそうだ。

 特に暑い日だった。結婚式のためにか、間に合わせのテントを上手にバティックで作っていた。ところどころ天井から紫、青、緑、黄、橙、赤の紙テープのようなもので、飾っていた、虹の七色だが、チャクラの七色でもあるので、どういうことなのだろう。偶然かな、などと思い、庭の自家寺院は金と黄と白のソンケットで飾られていた。

 式は二人だけで順を追ってやっていく。

 バリ島では僕の知る限りほとんどが「できちゃった婚」である。子供を産むことが最大の妻の努めという考え方がある。

 誰が着飾っているわけでもなく、儀式の時のクバヤを着ている人、普通のTシャツを着ている人いろいろだが、親戚など関係者はそれなりの身だしなみである。

 食事をよばれ、本物のアラックをいただいた。花嫁の両親とお兄さんにお祝いを述べたら、「ワヤンがお世話になって」という。「ワヤン? ワヤンってどのワヤンですか」と聞くと、日本に行っているワヤンだという。 「 ??? プジャナのことですか?」「そうです、プジャナです。」「ええ、コマンとプジャナは兄妹なんですか」

 どうやら二人はバリの慣習を破って、二人が兄妹であることを隠して入社したらしい。う~ん。堂々と言えばいいではないか。周囲の目をそれほど気にしなければならないのだろう。仕事を得るには、兄妹じゃない振りをする。それで誰にも言わずに秘密にしてきたのだ。それが今日、ひょんなところからバレてしまった。

 嘘っぽいスピーチもなければ、長々と自慢話をする人もいない。ごくごく普通の結婚式なのだろう。それでも、コマンの父親は、一人娘を嫁がせるのが嫌らしく、いまだにすねたり、泣いたりで、結婚式にもでてこないのである。

 二人は披露宴をしたあと、デンパサールのアパートに住む。核家族がひとつ誕生する。

結局往復八時間の車中でかなり疲れた。その夜、バリを発った。


2002年5月12日

廃虚

 もう何度めのバリなんだろう。バリに行く時は当然仕事だから、目的をもって行く。

 しかし今回のはそれが漫然としている。漫然としているはずがなく、するべき事を整理して飛行機に乗ったはずなのに、心ここに落ち着かず、という感じになってしまったのだ。

 そうなった原因はわかっている。二冊の本を読んだからだ。三木成夫の「胎児の世界」は十ヶ月の胎児の世界で実は三十億年前の生物の誕生から、今日までの歴史を再現することを検証している。この本をじっくりと読み、僕らが魚だったことがあり、両生類や爬虫類、それに空を飛ぶ鳥類だったことがあること、あるいは植物であったことも、三木成夫独特な文体で描かれている。

 これをすでに読んでいたことだ。再読したわけである。

 羊水の海に浮かぶ自分が胎児だった頃の感覚は今呼び戻すことはできないが、僕の細胞のひとつひとつの原形質の中に刻印されている記憶がある。文をゆっくり読みながら、羊水の中で変化をしていき、海から陸に上がる苦闘の一億年をわずか七日間ほどで通過してゆく(それは母親の「つわり」の時期に相当している。)様を思い浮かべる。

 人間は未来を築き上げていく時も、過去の懐かしい記憶を手がかりにしていくのではないか、と思ったり、懐かしさの果てのところまで、イメージできるようになってきた比較生態学のすごさを思ったり、気分は、仕事のことなどではないのである。

 もう一冊は久しぶりに駅のキオスクで買った村上春樹の短編集である。

 村上春樹の小説は「ノルウェーの森」があまりにも切ない話だったが、その切なさを倍にしたくらいもっと切ない話の集まりだった。

 すべて、話の入り口しか書かれていない短編ばかりなのだが、阪神大震災が起り、その映し出されるテレビ映像を倦むことなく見続けていた妻がある日、書置きを残して忽然を姿を消してしまう。

 夫にとっては十分に日常が平和だったのだが、妻の書置きには、「問題は、あなたが私に何も与えてくれないことです。もっとはっきり言えば、あなたの中に私に与えるべきものが何ひとつないことです。あなたは優しくて親切でハンサムだけれど、あなたのとの生活は、空気のかたまりと一緒に暮らしているみたいでした。でもそれはもちろんあなた一人の責任ではありません。(後略)」

 夫は、いくら待ったところで、いくら考えたところで、ものごとはもう元には戻らないだろうことがよくわかっていた。そして一週間の旅に出た。会社の同僚に釧路まで持っていってくれと、小さな箱を持って出かけたのである。空港で、その箱を受け取りにやってきた同僚の妹とその友達が男を誘い、ラーメンを食べ、用意されていたラブホテルに泊まることになる。同僚の妹は箱を持って帰り、その友達が部屋に居残ることになるが、小説の最後で「空気のかたまり」とは何だろう、という話になる。男は「中身がないということだと思う」と答える。

 そうして、急に、彼が運んできた箱の中身は何だったのだろう、と疑問に思う。妹の友達はひっそりとした声で、「小林さんの中身が、あの箱の中に入っていたからよ。小林さんはそのことを知らずにここまで運んできて、自分の手で佐々木さんに渡しちゃったのよ。だからもう小林さんの中身は戻ってこない」と思いつきのでまかせか、冗談かを言う。男は、遠いところまで来てしまったように思う。

 1995年に起きた阪神大震災がモチーフとなって、人間の内なる廃墟を、オウム真理教の影もでながら描いていた。

 わずか30ページの文字の並びからあふれでてくる切なさは何なんだろう。

 一瞬にして崩壊した近代都市と無関係な人を突然に殺した地下鉄サリン事件。それは当事者たちだけでなく、テレビで映像を追った僕らの中に、あるいは社会の中にどうつながっているのだろう。妻は廃墟となった神戸の町に夫の心の廃墟か、自分の心の廃墟を映し出してしまったのだろうか。

 あれから七年。まだ始まったばかりである。明日がよく見えない。

 二つの書物から、こういう気分に陥っている。僕も崩壊を味わった一人だった。


2002年5月13日

NさんやSさん

  インターネット上のホームページは、バリ島を仲介として様々な人に出会わせてくれる。実に様々である。日頃尾鷲にいる僕の生活では会うことのない人たちである。

 リゾートに来る人、仕事で来る人、いろいろであるが、昨日の朝は長野のNさんと空港で会った。なんとか彼女の愛するロックパンドをハードロックカフェで演奏させ、ファンツアーも実現させたいと思っている。

 バリ島に着いた夜、元レッドウォリアーズでベースを担当していたジェームズさん夫妻とグランブルーでNさんと共に夕食をご一緒した。ある時期に爆発し、潮が引くように関心が移り変わってゆく支持層と層そのものが薄い日本のロックミュージックの悲哀の中で、自分が40を過ぎてどう生きていくのかの幾つかの候補を同時に歩んで試してみようと思っているジェームズさんだった。

 もの静かな人だった。

 バリで会社をすべてまかされて、いっしょうけんめいになって責任を果たそうとし、それでも本社との軋轢が起き、なんとか事態を自分も含めてもっと発展的に解決してゆこうとするSさんに翌日、日曜日の午後会った。

バリ人の脳みその中を割って、のぞいたことないのでわからないが、日本人はたくさんのことを思い、考えなければならない段階に来てしまっているのかも知れない、と思ったりする。

 人類が考えてきたことの根本的なところはニセ二千年以上も前に考え尽くされているような気もするが、そういう蓄積のもと、もっともっと星の数ほどにも頭の中で思い考えなければならないのか、と思うとちょっとしたしんどさを思わざるを得ない。

 人はどうして知識などを持ってしまったのだろうか、という嘆息と探求は知識なしではあり得ず、未来もまた知識なくしてあり得ないでかないか、という知の喜びが相反して同時に裂かれてしまう。

 Nさんは以前臨死の体験をしたのだそうだ。そのときに見た光景と気持ちよさが忘れられず、バリ島に来るのだそうだ。死に頻したことのある人がトランスに陥る人々の中に何も思っているのだろう。死に頻したことで、今を精一杯に楽しみたい、やり残したくないという思いも強くなったという。それは知識をも取り払って、生と死の境地に身を任せてしまう現象への親和感となっている。

 Sさんは、自分の生きる基盤をここバリ島で築きあげようと、ほぼしている。

 自分は社会や人間の関係性の中でどんな風に役立っているか。自分を評価し、認め、それ相応の金品があり役立っていると思うことのできる何かとは何か。探しながら止まり、幾分頑固になって、また進む。広い道だったものがやがて細い道となり、また広い道を求めてという風に人どうして歩まなければならないのか。

 Sさんは頑張る。Nさんは気のおもむくままにやる。なぜか僕は切ない。それをうまくいえない。初めて会う人とは切ないものなのだろうか。だからもっと話をして、もっと心の世界を知ってみたいと思うのだろうか。どこまで、どの深さ、奥行きまで。


2002年5月14日

無言のバリ人

 ウィドニー。二十一歳。ヌガラから働きに出ている。家族想いで、仕事にも励んで、適度に前向きで、客への応対も評判がよい。独身であり、バリでは美人と誰もが言う。

 ワヤン。二十五歳。僕から見れば相当な美人。美しい姿、形をしているが、はつらつとしたところがない。十九歳で結婚。アメリカのラヴソングが大好きでありながらアメリカ的な恋とはもっぱら遠い性格のように見える。

 グスティー。二十一歳。既に結婚し、幼い妻をシガラジャに残したまま、単身でクタに来ている。子供ができてしまったからにはしかたがない、と責務の気持ちでいっぱいである。「お金のこと」が頭から離れないという。

 ウェイトレスやウェイターをしていれば、語学力がつくと思っている。まして人間というのは、一度入った仕事の世界から、全く違うと思われる仕事の世界にいくことは困難である。だからブックツリーのオフィスワークに移ることに不安、恐怖を抱き移りたがらない。

 「ここ」にとどまりたがり、別のところに移ろうとしても同じような「ここ」に移ってしまうのは、人間のもつ宿命みたいなものに思えてくる。

 しかし、気持ちのどこかに、今自分をリセットできたら、とリセットする前を描いたようなドラマやリセットしてからありたいと思うようなドラマに心を向けてその日その日を過ごしてゆく。

 人生に対して、あがき、もだえる、そういう自由の方を僕は好ましく思う。平穏でありたい、自然と共に暮らしたいというのも、自由のおかげである。たぶん、もだえたのだから。自分をよくよく考えたのだから。あるいは感性が平穏であること、自然の声を聞きながら自然と共に暮らすことを求めたのだから。

 ウィドニーもワヤンもグスティーもささやかな平穏を求めている。僕には、本当は彼女らが何を思っているかのかわからない。「夢のカリフォルニア」というTVドラマの登場人物たちは、何を思い考えているのか、割合と明瞭にわかるのだが、ウィドニーたちの思いはわからない。つかめない。ガソリンが再び値上がったことが、ワールドカップの話と同様、人の口にのぼり、ジャワではデモまで起っているという。ガソリンが値上がることにより他の様々なものも値上がるのだが、ウィドニーたちの生活に影響してくる値上がり分の金額は三万ルピアほどである。

 服、化粧品は我慢する。遊ぶことというのはほとんどない。食と住と儀式でほとんどを費やしてしまう。

 享楽や刺戟は日本のように個別に分散されていないから、人々は性のことに集中するようになる。性に関する間合いが極端に短い。

普通、性に関することでドラマは二幕、暗転、三幕、暗転とあるようなものだが、食の相から性の相が早く、また即食の相に変る、という交代劇は、余裕を生むことなく、人間とはこんなものかと結論づけてなんとなく人々は汲々としている。

 観光の島となったバリに、逃れるようにして外国人たちがやってくる。メイフラワー号でやってきた清教徒たちと同じである。きつくなってきた母国の経験で、バリの人々を見る。バリ人を馬鹿にしきったかのような物言いでささやき合う。

 人は誰もがその人の領分で心も身体も生きるに必死なのだが、それは天秤では量れないものだ。

 しかしもがき苦しむことの自由は、先進国の人々は誇ってよいと思う。それだけが、自由を求めてきた歴史の価値である。しかし自慢にはならないし、優位でもない。

 バリ人たちは無言で、他所から来た人々を抱えつづけている。裕福であるが心が生きられない人々がやってきて、貧しいが心は生きていけるバリ人。極端に思えばそうなる。


2002年5月15日

一日が一年

 宇宙があって、太陽があり、月がある。地球は自転しながら公転をして、月の引力がもしかしたら遥か彼方の土星や木星からも影響を受けて宇宙が作りだす波動を浴び、また海の生物や陸の生物、無生物までも波動を起こしながら、そういう中に人間いるかも知れない。

 ランブータンというゴムのような弾力のある棘皮があってブドウのような味がするバリの果物は三か月に一度実をつける。マンゴーも同じである。この熱帯の気候の中でこの周期を守っている。3か月に一度実がなるのなら、またすぐ食べられるさ、となる。“待ち遠しさ”も“はかなさ”や“さみしさ”もないだろう。

 ブーゲンビリアもフランジーパニも毎日咲く。次々と枯れ、次々と咲く。そういうリズムである。気温は一年中だいだい一定している。温度も乾季こそは乾季というだけあってやや乾くが、だいだい一定していると言ってよい。温度は微妙に違うが、日本人からみれば一定していると言っていいだろう。

 こういうところに長くいると心や身体はどうなってゆくのだろう、と思う。

 神経は緩やかになり血管は弾力に富むものになる。動きが遅くなり、思考も緩やかになってしまう。感情は、千々に乱れず、儚さはなくなるだろう。花はすぐに咲き、実はすぐになるのだから。

 日本では桜の時期になれば、すぐに満開になり、散ってしまう花を惜しみ、翌年までの時の流れを思う。あと何度桜が見れるだろうか、と。この季節の移り変わりに日本人は独特の美意識を育んできた。

 一方、バリ島はめくるめくように花は散り、花は咲くが、何事もなかったかのように、変わらぬようにして花はある。どうもバリの人たちは、毎日の中で咲き、生まれ、死に、恨み、あきらめ、怒り、穏やかになっているのかもしれない。

 一日は日本人の一年に相当し、人の一生はひどく長いのではないか、感覚的にそうでないのかと想像する。しかし、その心を見ることはできない。このことは、この三年の間、親和感で一緒に仕事をしてきたバリ人の時間感覚と僕の時間が替為差ほどに違っているのではないか、と思わせる。一年とか二年、三年のスパンで考えていないようなバリ人。今、そしてせいぜい明日。それは子供のようであるが、それが人生というものだ、となれば、僕には認識しようのないものである。ただ想像するばかりである。


2002年5月16日

外を知らない人々

 これは生活の知恵だろうか。インドネシアは、(というより発展途上の国の人々はと言っていいかも知れないが)明らかになるべき段階になるまで物事が明らかにならない。国や県が外国人に対して、インドネシアでビジネスをしたり、会社を起こしたり、居住したり、税金を払ったり、ということについて詳細は手引書をオープンにしてないからである。こういう元々の事情があるから、例えばこんなことが起きる。

 僕は、バリ島から東京までの20フィートのコンテナー輸送料は、手続し、梱包等も含めて1550ドルだと思っていた。えらく高いと不思議に思っていたのだが、ホームページで1100ドルで扱っている会社があってびっくり。カーゴ会社に、そのホームページをプリントアウトして、「おかしいじゃないか」と言い寄った。今度から1100ドルにすると言う。それでも本当はなお疑問である。カーゴ会社と船会社は一体どうなっているのか、明瞭ではない。とれるうちにとっておこう、バレたらひっこめようみたいな感じがする。郵便局のEMSも同様である。なぜか高い。国際的に共通した値段があるはずである。これも他の会社は〇〇ドルなのになぜうちが、と文句をいうと、さがることになる。

 会社のこと、税金のこと、次から次へと小出しにしてくる。始めから言っておいてくれよ、とうんざりするが、もうどうしようもなく巻き込まれてしまっていて、相手が一枚も二枚も上手である。前にも書いたが、これは、ビジネスだけでなく、個人でも同じである。最後の最後まで言わない。とうとう本当の最後になって言い出す。なんとも、どうにもならないところだ。今日、県の税金をチェックしにくる人が来た。僕は不平を言った。「この国はフェアーじゃない。エステから税金を10%とろうとするなら税の表し方を統一するべきではないか。あるところは内税で、二重帳簿をする。正直に外税にしたところは、『税金をとるのか』と客に言われる。税を徹底したいのなら徹底して税の広告(エステとスポーツレジャーには国税以外に県税がかかる)をし、観光客を納得させたらどうか。その為には、外税で統一するとかすべてのエステ店に県税のシールを貼ってまわるとかしたらいいのではないか」

 彼らは穏やかに対応したが帰りがけ、「これから家族のような付き合いをしよう」と言って握手をしてきた。こういうのが不気味なのだ。不気味でしょ?

 一ヶ月に一度やってきて、チェックだけをし、税金はとらないのだ。こちらはちゃんと準備してある。たぶんこれが明らかになる日が来る。根くらべみたなものだ。

 小さな世界、小さな共同体は恐い。個人もだが、家族も、共同体も、国家も聞かれた方がよいのは当然のことだ。この島は、薄い膜で覆われ誰も外の世界を見たことのない人が90%はいるのである。



2002年5月17日

グランウリ

 買い付けのため、いろんな店をまわっていて、アグンは、Gelang Uli を見て、これだ、と思った。

 海の植物(ウリ)からできた腕輪(グラン)である。一本のつるのようでバネがあって、輪になっている。この腕輪は幼児につければ骨を矯正し、大人がつければ、外からの悪霊から身を守ってくれるのだそうだ。これだ、とアグンが思ったのは、その腕輪に背景的なストーリーを感じとったからだ。

 と言ってバリ人でこの腕輪をしている人を見かけないが、アグンの中に思い出として、不思議なまじないのような存在をふと思ったのだろう。

 バリ人もこういう「お守り」系のものを軽んじるようになっている。この種のものは日本にはたくさんある。どこへ行ってもある。バリはヒンズーを利用しての商売っ気というものが日本の神道ほどないから、この腕輪も日本人向けだと思ったのかも知れない。

 しかしこの腕輪は数珠のようになった、なんと言うのか知らないが人がよくつけているものよりは、ずっと良い。良いというのは雰囲気がよい。原始の趣がある。

 海の植物を干して作ったのだろうが、これをブレスレットにしようと思ったのには何か理由があるに違いない。例えば、この腕輪をつけると、乳児が風呂で身体をバタバタするのがやむとか、この腕輪をたまたましていたら、大きな災難から免れたとか。あるいは外国人がやってきて、これはブレスレットにいいんじゃないの、と示唆されたから、もっと作って売ってみるとよく売れたとか、そこに人間の力が働いているに違いない。

 若い頃は、迷信だと鼻で笑っていたが、身体に効力があるというのは別にしても、成り立ち方に人間の思いや感性がこもって、いいじゃないかと思う。が、僕はそれを身につけない。ファッションとしても僕に似合わないと思うが、それは夢枕獏のよく言うところの「安倍晴明」の言葉、「それは呪だよ」である。名前すら呪であるのだから、身にまとい、身につけるものも呪である。

 僕はこの腕輪をつけることによってある思われ方、をする。それが呪である。

 僕は指輪ができない。髪を整えることも好きではない。バンダナなどはとてもじゃないができない。なるべくその種のところからは遠ざかっている。

 久々に大当たりしそうなものを見つけてきたアグンはちょっと得意気である。こんなものが商品になるのか、とみんな不思議そうだが、やがて、この腕輪にまつわる話を個々人が始めて、座は和らぐのである。


2002年5月19日

沈黙

 ほとんどの日本人にしてみれば、バリ島はリゾートで憩う場所、遊ぶ場所、趣味の場所、ひっそりと隠れる場所となる。

 働く場所が日本にあって、年に一度か二度一週間ほど取れる休暇。あれやこれやと雑誌をめくり、インターネッで情報をとり、次はどのホテルにしよう、どんな過ごし方をしようと話すのは楽しいものだ。

 自分にとってのリゾート地は、のめり込むことなくほどほどのつきあい方で、距離を置いておく。でないと大切なリゾート地であったはずのものがリゾート地ではなくなるのであり、厄介な場所となることもある。

 僕はこれまでなんとかこの姿勢を保とうとしてきたのだが、やはり、バリ島でも仕事を持つ以上、だんだんとこの辺が怪しくなる。

 外国人法人を設立して、接触をしなければならない人は特別な利権をもったり、地主層であったりだ。まずこの層の人々は腐っている。「利権」である。 

地主層は働らかない。こう書いて、この文がだれかにチクられたりすると、この層の人から「嫌がらせ」を受けるかもしれない。チクリはどこの国に行ってもいっぱいいるが、こんな思いをさせる国というのは明らかに後進国なのである。

 この国インドネシアは未だ日本のように社会基盤の整備ができていない。道路、通信、電気。それだけではない。法によって物事をすすめる、法をオープンにして、だれでも手続きができる、申告ができる、時間も守られる、ということがない。外国人には仕事をするのに困難な国だ。先進国の人間はお金を持っていて、高いお金を何についても(ビザ、会社手続き、出国税、飛行機チケット、売上税)払うのは当然だと思っているのではないだろうか。

 日本からは一兆円もの借金をし、返済の繰り延べをされている。これをいたしかたのない贈与だという意識が僕らがもてればよいが、外国人からお金をなるべく多くとろうとする国家の姿勢がある。

 この国の嫌な点と不気味な点はこれに尽きる。


 このようなことがなければ、すべてが明らかになっていれば、すっきりと仕事ができ、合間に休暇を楽しみ、それから日本に気分よく帰れると思うが、妙に薄気味が悪い。

 いろいろな日本人がバリで商売をしているのだが、みんなどう思っているのだろう。

 土地を借りたり、家を建てたり、店を持ったりして、外国法人の株式会社を作ったりしてここに住んでいる人たちは皆安心して暮らしているのだろうか、と疑う。税金、在留許可証、、投資調整庁への報告。

 県、警察への登録。こういう手続き関係にすっきりしないものがある。

 アメリカはこの点は明快ですっきりしている。きちんと国として手続き上のことがアナウンスされているし、関係の手引き書が多くでている。インドネシアは国自体がアナウンスを明快にしていない。簡単な手引き書が英語ではあるが、たとえその通りにしても、時間がかかったり、たらい回しにされては何度も行かなければならなかったりする。早くするためには妙な代理人が存在するというわけである。

 これは意識のレベルが相当に低いのと「金」が今もっとも緊急で重要な関心事だからである。

 バリ島を神秘の国、神々の島だ、と言っても、それは大事なことを隠し、だれか利権を持つものたちが暗躍し、煙にまいているだけの話であり、この窮屈な共同体村落の中で、トランスでもしなければやりきれない心の鬱積があり、迷信と迷妄が今もずっと色濃く存在する島というだけである。

 がしかし、リゾート地として、一観光客からしてみれば、旅の気分で、見るものが珍しく、人々の笑顔は素晴らしく見えるし、第一に花はきれいだし、レゴンダンスやケチャッ ダンスも素晴らしい。ゆったりした時間の流れもいいものだ。

 ちょっと僕はこの国からしばらく遠ざかりたいと思い始めている。人々は肝心なことを最後の最後になって言い、それまでは沈黙をする。だんだんと泥沼のようなところにはまりこんでいくようで、やっぱり薄気味が悪い。それがまだ取れない。取れたと思ったらまた出てくるというやつだ。

 ところが一方で利権などとは関係なく生きている人たちがいる。90%以上は利権などとは関係がない。

 神に真摯に祈り、ウィドニーのように自分で働いて。弟を自分のアパートに住まわせ、食費も彼女がだして援助している。それは家族のために当然のことだと思っている。

 彼女たち普通の人々はやや近代化しつつあるバリ人の生活を送っている。ワイロもクソもない。

 今回の帰国時に入管の係員が僕に聞いた。「なんていう会社?」「グランブルー」と答えると、「どこにある」などと聞いてメモしている。「今度いくから」と言う。

 一度夜中に押しかけてきたことがあったが、ああいう連中は、出国の際の情報を誰かに知らせるのだ。

金目のものを探している、と思われてもしかたがない。うんざりだ。

 能力のない「日本領事館のバリ駐在所」は自分たちは「村役場」などと言っているが、村役場なのだったら、日本人が安心して働けるよう、外交交渉をやってほしいと思う。

 と今回は「うんざり編」でした。


2002年7月9日

バリ着

 ガルーダ889便は四年前は十二時出発だった。だからJR特急南紀七時九分に尾鷲を出ると、九時二十五分名古屋着で、新幹線口にある空港バス乗り場に急ぐと九時四十分の空港行きに間に合うのだった。バスで二十分から二十五分。十時くらいには着くのだった。

 出発時刻がだんだんと早くなってきた。十一時半、十一時。今は十時半である。車で空港に行かない限り、前泊を余儀なくされるようになった。


 今日は、空港の中はわりあいと人が少なく見えたが、デンパサール行きはほぼ満員だった。チケットカウンターで夏休みの増便のお知らせがあった。これまでの月・火・木・日に金曜日が臨時に増発されるようだ。

 飛行機の中は圧倒的に若い人たちだった。

  久しぶりにCDリピーターを荷物の中に入れた。部屋の中で音楽を聴こうと思ったのである。ソニーのCDリピーターはプレーヤーにスピーカーがついているので便利である。軽く、機能的である。

 レストランのために音楽を揃えることはした。自分のために音楽を流そうということをしてこなかったことを不思議に思う。したいとは思ったけれど強烈ではなく、なんとしてもCDリピーターを持っていこうとは思わなかったのである。余裕が出始めたのかも知れない。新しい歌を覚えようという気にもなっている。桑田圭祐の「東京」。この偉大なアーティストは、人に余裕をもたせ、CDを買わせようとし、歌を覚えさせようとする。

 朝五時に起きたので、飛行機の中では始終眠い。週刊誌を読み、「新潮45」の広島の一家四人と犬が突然消えたというレポートを読み、うつらうつらしていたら、夢なのだろう、昔、僕の下で働いていたIが現れた。頭の一部がはげていて、髪には白髪が混じり、「死ぬんだからもういいんです」と言う。Kという男と三人でソファに座って、さて事情を聞こうというところで夢が醒めた。続きを見ようと思って再び目を閉じたのだが、二度と彼は現れなかった。

 入眠幻想というやつだ。自分は起きている、醒めていると思っているのにリアルな夢が脳の中に現れる。

 コンピャンと智美さんが空港に出迎えてくれた。日本よりずっと涼しい。コンピャンは鼻かぜをひいているらしい。智美さんはようやく仕事にも慣れたようである。

 二ヶ月ぶりである。バリは相変わらずのように見えるが、店に置いてあるものは二ヶ月前とちょっと違う。

 僕もやっぱり二ヶ月経っただけだけど、ちょっと気分も今後に対しても考え方はちょっと違う。

 グランブルーに行った。バワ、プトゥ、マデ、アユたちとあいさつを交わす。

 バワと情報の交換をする。あの店が閉じた、レギャンで空き家が出た、などいろいろである。


 インドネシア語の「男と女の会話」の本へのコラム、三十タイトル書くことを引き受けた。

 そんなこと、明日のこと、日本に帰ってからのことを、各会社、店のことを光が点滅するように思いながらビンタンビールを飲み、食事を終えてから殺虫剤と帽子を買いに外に出たのだった。

 いつもの店で、ジンセン(朝鮮人参)を買い、「バイアグラいるか?」と聞かれたので、「アガリスクいるのなら売ってやるよ」とアガリスクの説明をしてふざけあって、ホテルに戻った。ヘレンメリルのボーカルを聞きながら、これを書いている。帽子代三百円、ジンセン六百円。いずれも不必要といえば不必要なものである


2002年7月10日

着いた翌日はいろいろとある

  バリに来ると必ず毎朝グランブルーで遅い朝食をとる。トラジャコーヒーを頼み、パンはジャッフルにしたり、クラブサンドウィッチにしたり変えるが、バナナにヨーグルトと蜂蜜をかけものは定番になっている。トラジャコーヒーは美味しく、二杯も飲んでしまう。バリコーヒーというのはインスタントコーヒーのように細かく挽いた豆をカップにそのままいれて湯を注いでしまうものである。ろ過紙がないので、しかたなくそうなったのだろう。粉が沈殿するのを待って、上澄みを飲む。当然おいしくない。粉も浮いてきたりして邪魔である。

 それから事務所に行く。アキちゃんがビザ更新から帰っていた。シンガポールのインドネシア領事館がテロ対策でシンガポールを経由する外国人に厳しさが増し、何日も待たされたのだった。もしかして帰ってこれないかもしれないと思っていた矢先だったので、

安心をした。彼女は世界を放浪して歩いているので、パスポートは相当にスタンプだらけであり、不信な点も多いはずである。で、まあ無事、KITASと労働許可証発行となるので、よかったよかった。アキちゃんもややふっくらしていた。身体は以前と変わらず、どちらかといえば悪くなった、と言う感想を漏らしていた。身体の不調はそのまま心の不調になるので、身体がどうしようもなない場合は心の調整を自分の意思や認識力でしなければならない。

 ブックツリーのリーダーのイダは突如昨日休んだことを詫びた。理由を聞くと、妻がバリアンになる修行をしていて、ロンボクの寺院に御参りにいくと言い出し、連れていったのだそうだ。家族全員で。 

奥さんは一人っ子である。イダは彼女の両親と共に住んでいる。男の子を期待し、男がいないので、と言う言葉ばっかりを聞いて育った彼女である。結局夫婦に男の子ができず、家にイダを迎えることになったのである。その彼女は癇が強く、自らバリアンになりたいと言い出したのだそうだ。

 バリアンとは呪術師である。阿部晴明みたいなものである。

 薬学などの知識をしっかり得なければならない。憑依して占ったり、解決法を示すバリアンもいる。バリでは心の問題、わけのわからない不定愁訴の問題はバリアンにいくのである。すると「恨み」が大きな原因であると言われる場合が多い。「恨み」を解き放つのがバリアンの大きな仕事である。


 仕事の打ち合せをした。この日は大阪から仕事上での知り合いTさんの招待旅行である。応援である。女性十二名、男性四名。飛行機が関空を早く出発したらしく、予定よりも三十分早く着いていた。のんびりしていた僕らはいくらったても空港から出てこないので、急遽ホテルにいくことにした。ホテルで旅行会社の人が説明をしていて、まだ部屋に荷物を運んでいなかったので、胸をなでおろした。遅刻とは格好が悪い。感じのよい人達ばかりのグループでバリは初めてだそうだ。事前情報をチェックしているらしく、

 「すぐアーユルベーダがしたい」

 「象に乗りたい」

 「ラフティングがしたい」

 「レゴンダンスが見たい」

 「ウブドゥにいきたい」

 「エステがしたい」

 「ゴルフがしたい」

 「家具、インテリアのもが見たい」

というリクエストがあった。

 すべての希望を叶え、手配するのが今日の仕事である。スタッフ六人であたった。

 この仕事が終わり、ジュプンバリツアーのグデと確認作業をグランブルーに戻って行い、「失敗するなよ」と念を押し、たいへんなスケジュールをこなしていこうとする女性のパワーに感心したのだった。

 マデが現れた。対葉豆が乾季のため葉が落ちてしまい、予定のキロ数とてもじゃないができないという。シガラジャに土地を借りて、そこで栽培しようという提案である。

 対葉豆の全国販売がもうすぐ始まる。う~ん困った。スマトラ島のほうにまで足を伸ばしたほうがよいか、ちょっと思案した。

 いつも表情が暗く、何を思案しているのかと思える印象のワヤン。今日は会うやいなや妙に明るく、話すのも積極的である。どうしたんだい、と聞くと、いつもと変わらない、という。そんなことあるものか。そう、いつもと変わらないのだろう。だがなんとなく機嫌がよいときがあものだ。気分はちょっとハイになり、口も軽やかになる。そういう時がある。


 オランダのカップルが二週間毎日グランブルーに足を運んでくれ、食事をしていってくれたそうだ。有難い。二階がこのレストランの全くのハンディである。一階だったらすごいだろうと思う。かなりのレストランを回ったが、味はグランブルーが一番だと自負している。

 ホテルのセキュリティーにあいさつし、部屋に戻ったのは十二時だった。既に酔っ払っていた。


2002年7月12日

コーヒーとアガリスク

 バリ島のホテルやレストランのコーヒーがまずいと日頃思っていた。今日、日本からコーヒーの豆の収穫時期ということで、日本のコーヒーメーカーの人たちが、僕をたずねてやってきてくれた。スラバヤのコーヒー豆問屋さんの方、輸出手続をするシンガポールの人、コーヒーについて詳しい人ばかりである。

 良いコーヒー豆はほとんどが輸出にまわされてしまい、業者にはねられたのがバリに残るのだそうだ。コーヒーの産地はどこも同じようだと言う。

 日本のコーヒー豆を入れる袋には窒素ガスが入っていて、ある程度品質を保持するが、バリ島ではそれができないため、焙煎されてから三日もしないうちに香りや味が変わってしまうらしい。デリケートなもんだ。

 僕への話は、日本の焙煎方法をスラバヤの問屋さんに伝授し、できあがった商品をバリ島で売ってもらえないか、ということだった。

 ピアインターナショナルの富永さんが来た。明日、僕らはヌガラへ行き、ピアのアガリクス農場を見学する予定であった。道を教えにきてくれたのである。社長の大澤さんは、千葉のショッピングセンターを売って、アガリクスの開発に全財産を投じたのだそうだ。彼が特許をとった発酵アガリクスで、現実に癌を克服する人を目の当たりにして、この研究を続けていこうと決意し、最も気候風土が適し、環境の汚染がないヌガラを選んだのだそうである。きのこ類は環境汚染がもっとも悪いのだそうである。これは富永さんの説明である。

 富永さんは10年以上前は日本でも必ず上位5位までは入るカーレーサーだった。練習中の大事故で8日間意識不明。九死に一生を得て生還したのだそうだ。日本では寒い季節は身体が痛み、暮らせない。

 社長は研究開発し、富永さんは伝道者のごとくアガリクスを宣伝してまわる。

 アガリクスは普通繊維にβ―グルカンがくっついていていくら食べても排出されるそうである。予防的にはカプセルで上等で、すでに癌が進行している人にはエキスタイプを使うのだそうな。免疫力を高める、肝炎、肺炎、癌などから身体を守る。富永さんも肝臓破裂からアガリクスで立ち直ったと言う。

 これが本当なら、どれほど人々の命を救うことだろう。アガリクスは多種多様に商品として出回っている。安いものから高いものまで、毎日のように新聞や週刊誌で宣伝されている。

 こういう状況の中で、戦い抜いていくには本当に効くものしかない。本物であれば必ず生き残ることだろう。ぼくはあまり興味が湧かない。

 バリ島にいると自分の知らない世界に住んでいる人と出会う。

 なんかくたびれた。夜、別の場所で夕食を、と思ったのだが、一昨日からのツアー客に気疲れしたのかもしれない。

 大阪からのツアーの人たちは過密スケジュールで超ハードにバリ島をエンジョイしている。バリが初めての日本人は忙しいのだ。


2002年7月13日

ヌガラへ

 ヌガラは牛のレースとジェゴグオーケストラで有名であるが、これまで行ったことがない。

 富永さんの招待で、アガリクス農場を見学することになり、ちょっとした旅行気分になっている。

 グランブルーのレストランのスタッフ、ウィドニーはヌガラ出身で五か月も家に帰っていないというので、じゃあ一緒に行こうと言ったのだった。これが申し訳ないこととなった。

 ウィドニーの弟が前日伝令としてヌガラへ行き、僕らが来ることを両親に知らせ、掃除をし、もてなしの準備にと大騒動なのだそうだ。そうだった、シェフの家へ行った時も親戚の人も各地から集まり、もてなしの準備を朝早くからしたらしいのだった。  

気楽な僕らは恐縮するばかりであった。

 朝十時半の出発。タバナンを越えて、西へ海沿いに走る。左は白い波頭が幾重にも巻いた海面、サーファーが喜びそうな高い波のビーチ。右側はライステラスが続く。

 ヌガラに入って、最初の信号のところで富永さんは待っているはずだった。彼はヌガラまで二時間くらいと言った。なんの三時間かかったのである。

 農場に着くと大澤さんの奥さん以下スタッフが総出迎えで、ヌガラの海の幸を使った奥さんの手料理で歓待を受け、またそれが品数も多く、さらに美味しかったので、客をもてなすというのはこういう気分にさせることなのかと、今更ながらまた思ったのである。

 アジをたたいて、味噌としょうがでうっすらと味つける「なめろう」は富永さんの料理で、これは日本酒で食べるとたいへん美味いだろうと思ったが、出てきたのは、アガリクス・アラックだった。アガリクス・アラックも上等だった。

 最初のアガリクスが土から出るのに二年かかったそうだが、現在は順調に生産されているようだ。日本では四センチくらいにしかならないアガリクス茸がバリだと二倍の、どっかりとしたものができる。

 これはどういうわけなのだろう。朝と夜に適度な寒暖があって昼は暑いというのがいいのだろうか。

 きのこ類は環境汚染のホルモンも吸収するそうで、アガリクスの栽培地は絶対に環境汚染のない場所が大澤さんの作る条件なのだそうだ。

 多種多様に、値段も高低いろいろある中で、大澤さんがいくら良いと思っていても、世間一般にその優位性を知らしめるのは難しいだろう。

 アガリクス栽培の初めから終わりまでを見せてもらって、おいとまをしたのが四時半だった。

 帰り道、ウィドニーの家に寄る。ウィドニーと両親、弟、姉夫婦が出迎えてくれて、またごちそうが出た。

 今度は、ヤングココナツそのものと、小ガツオの焼いたものだった。小ガツオといえば、父が元気な時はよく小ガツオ釣りに連れて行ってもらったことがある。二十センチほどのカツオだが、これを焼いてしょうがしょうゆで食べると美味しいのである。ウィドニーの家の小ガツオの食べ方も焼くのは同様で、しょう油らしきたれがまぶしてあった。お腹がいっぱいだったが、魚が好きな僕はやっぱり食べてしまう。

 家の裏、二百メートルほど椰子の林を歩くと海辺である。子供たちが遊んでいる。子供を抱いた母親や父親もいる。公園みたいなものなのだろう。砂の高いところにはジュクンが並んでいる。ここから舟を出して漁に行くのである。インド洋。ジャワ島が右方向にうっすら見える。きっとカツオとマグロの宝庫のはずだ。アカアジ、シマアジの宝庫でもあるはずだ。

 海に近く、潮風や波しぶきが強いから、農地に向かない。広い土地でも使い道がないのである。しかし、メンクド(モリンダ、またはノニフルーツ)が家の前にある。ということはメンクドは十分海の近くでも耐えられる植物なのだ。

 空き地の利用法を話し合って、記念写真などを撮り辞去したのは六時半だった。レギャンへの到着は九時半。急いで空港へ行くと、運良く津田さんらツアーの一行のバスが到着したのだった。間に合った。みんな笑顔なので、つつがなくスケジュールをこなしたようだ。

 普段、テレビばっかり見て過ごしている僕にとって、久しぶりのいい日だった。

 いい日だと、明日からもっといい日が続くような気がする。


2002年7月16日

歌をおぼえる

 昨日からブノアにあるアストンホテルに泊まっている。ブノアは幹線である一本の道路から海までの距離が短いのだろう。大型ホテルが少ない。アストンホテルで大きい方である。

 ブノアはなぜか陽の光が明るい。ひなびた海辺の町の雰囲気がする。しかし若者にはマリンスポーツの基地となっている。

 ブノアから、レンボンガン島や他の島々とをつなぐ船が出ている。

 仕事の大半が終わったので、ゆっくりするつもりだった。久しぶりに歌を歌えるよう歌詞をおぼえ、メロディを集中しておぼえようとした。歌詞を見ながら歌をおぼえるなんて本当に久しぶりである。

 ひとつは、桑田佳祐の「東京」。もうひとつはヘレンメリルの「You'd be so nice to come home to」でジャズの曲である。「素敵なあなたのいるところに戻ってくるわ」という、スウィングっぽい昔のスタンダードナンバーである。 

 ピアノに合わせてジャズの曲を歌ってみたいという気持ちはあったが、どういう気分か、今のうちに歌詞をおぼえておこうという気になった。

 不思議なことなのだが、中学生くらいの時はメロディなどは一回か二回聞くだけでおぼえたものだ。

 今、桑田佳祐の「東京」のメロディを完全におぼえるには、十回以上は聞かなければならない。さて、この二曲をどこかで歌える機会はくるだろうか。ゴルフはやらないのですか、とよく聞かれるが、ジャズのカラオケはやらないのですか、とは聞かれない。

 三十代の頃は夜、よく外へ飲みに出かけたものだった。三十五歳の時まで、音楽番組はだいたいチェックし、歌も結構おぼえていたのだが、四十五日程オーストラリアに行くことになって、これもなぜかわからないが帰国後、音楽番組をチェックしなくなったし、新しい歌をおぼえることもめったになくなったのを憶えている。

 どういう気分の起伏があるのだろうか。僕は、今度は一曲「ファド」をおぼえようとも思っている。調子よくいけば、次は「モルナ」の曲をもうひとつ。

 いつでも、どんな時でも、リスボンやパリでもニューヨークや六本木でも、チャンスさえあれば、バッグさえあれば歌ってしまおうと意気込んでいる。

 こんなことができたらいいなあ、と思うことが幾つかあるが、そういうことをひとつひとつやっていくのも楽しい人生だと思う。

 仕事とは関係のないところで、ちょっと楽しみをもつということがなかった僕の心の具合はちょっとした変化の中に入っているようだ。

 大きな契機のひとつに、バリ社会、バリ人についての不可解さや疑念のようなものがなくなったということだ。

 行動を起こし、考え、失敗し、喜び、苦々しく思い、様々な経験をするうちに、バリ社会やバリ人、法律や慣習、文化など総合的に「わからなさ」がなくなったのである。

 知らないことはまだ多々あるだろうが、不安感というものがなくなったのは、とても大きな出来事である。

 今回このことに気がついた。


2002年7月17日

願えば叶う

 願えば叶うものである。

 アストンホテルで、たまたまモンゴリアンナイトというディナーがあって、何のことやらと参加したら、並べてある野菜や肉、魚介類を選び、さらにスパイス、ソースも自分で選んで料理してもらうのである。これをモンゴリアンスタイルというのだそうだ。

 この中から自分で、前菜用、メインディッシュ用などを選び考える。味付けは自分の責任である。

 僕はたいそう気に入り、たいへん機嫌が良い。

 ついつい隣のドイツ人家族とも話などをしてしまい、五週間も休みがとれるのを羨ましいと思ったり、物価の値上がりで飛行機代が高くなった、というユーロの事情を聞いたりしていた。

 すると、ピアノ伴奏に合わせて歌手が一人、歌い始めた。

 さあ、ここはなんとしても積極的に次の希望につなげなければならない。僕はハト胸の女性歌手のところに行き、「You'd be so nice to come home to」がわかるかと聞いた。残念、彼女はやれると言ったが、ピアノ奏者は知らないと言う。しかし、彼女の歌に一度合わせたら弾けると言うので、リクエストしたのである。うん、まあまあ無難にこなしたのだが、僕がもっているスウィングの調子とは違うのである。ピアノが弾んでいないのである。

 ここはあきらめて、食事に熱中し、僕はその間に良い案を浮かべたのである。

 僕が部屋に持っているCDプレーヤーは、スピーカーつきである。それでその曲をピアノ奏者に聞かせる。こういう調子だよ、このくらいのテンポだよ、と失礼ながら言わせてもらう。

 さらにチャンスがあれば桑田佳祐の「東京」のCDを彼にあげる。これを練習して来いよ、と言う。

 すると、僕は次回の渡バリで二曲歌えるかも知れない。一挙に昨日書いた日記の中での願いが叶うことになる。

 こういう面はバリ島は気楽でいいなあ。

 このようなピアノと歌手のパターンでやっているホテルは他にもある。ヌサドゥアビーチホテル、メリアバリ、グランドバリビーチ。

 僕はやがて、この三つのホテルでもデビューを飾ることになる。次回は「東京」をさらに三枚用意しておこう。みんなそんなに真剣には聴いていないだろうから、一曲僕が歌ってもまあ許されるだろうと勝手に考えて、ひとり自分で興奮している。

 ところで夕方、僕はこのホテルのエステに行ったのだった。肩こりとかない僕は、何が気持ちよいのかわからなくなっている。二年前はたいそう気持ち良かったのだが、脂質とコレステロールが減ってからは、マッサージがなんとも気持ち良くない。が、スチームバスに入り、バリニーズマッサージを受け、さらにボレを受け、フラワーバスに入ったのである。妙な気分だった。雰囲気はあったが、なんとも言えぬ虚ろな時間であった。言っておくが、アストンのエステが悪いと言うのではない。僕の身体の調子で多分エステに向いてないし、肌に関するこだわりもないのである。つまり落第。こういうことを言う資格がないのである。

 とこんな風に楽しい一日であった。


2002年7月18日

後遺症

不思議なことがあるものだ。

 今年でバリは三度めのTさんは交通事故の後遺症で、京都ではたいへんに身体が痛むのだそうだ。痛みと不快の毎日なのだが、バリに来ると全く痛まなくなるのだそうだ。

 同じ話を元カーレーサーの富永さんから先日聞いたばかりだ。飛行機が赤道を越え、バリに入ってくると痛みがとれていくのだそうだ。スタッフのアキちゃんも今後遺症に悩んでいるが、バリに来ると痛みはとれるのだそうだ。三人、交通事故の後遺症で苦しむ人がいて、バリに来ると、調子が良くなるのである。

一年ほど前、突然に足が痛くて動かなくなり、原因不明で日本ではどうしようもなかったところ甥に暖かいバリ島にでも行ってみたらと勧められて、10日程の予定出来たものの、痛さはなくなり、普通に戻ったので、もしも日本に帰ったら再発するのかもしれないと思い、ビザが満了するまでずっと延泊した60代の男性の話を直に聞いたことがある。彼は、バリ島は赤道の近くで一番に膨らんだ付近にあるから、地球の回転によって振り飛ばされる力が大きく、その分重力が余計かかるから身体の消耗も激しいのだ、と言っていた。早い新幹線や飛行機に乗っていてなぜか疲れると同じ原理だと言う。

その方は、3ケ月経ってから日本に戻り、経営していた会社は売り、すっぱり仕事もやめて、バリに移住してしまった。ゴルフ三昧の毎日のようだった。足の痛みもなく普通なのだから、日本で普通であったようにいずれ何かをしはじめるかもしれない。



バリの女性達になぜバリに来たら痛みがなくなるのか、ときくと「マジック」だと安易に言う。「バリは神がいっぱいいるから」と言う。「そんなことあるもんか」と僕が言うと、笑って、「まあそんなことはないだろう」という顔をする。 アグンが言う。「それは磁気だと思う。アグン山、ブサキ寺院、そしてバリの海は磁力が強い。メディテーションの原理と同じではないか。ピラミッドみたいな中に入って瞑想したりするのはそこには何か磁場が形成され、それがチャクラを起こし、身体を調整する。バリはその三角のピラミッドと同じで、強力な磁場を持ってるんだと思う」

僕は「ふ~ん」である。と、アキちゃんはシンガポールでも痛くなかったですよ、と言う。とすると、暖かいところがいいのか、と思うが三人とも七月や八月でも日本では痛いというから、「あたたかい」ということだけではすまない。イダが、「赤道と南半球」というのが関係するのではないか、と言った。すると口々に、気圧が違うのではないか、月の引力と関係があるのではないか、と言いはじめる。

結局納得いく答えが得られないままである。

内臓関係には関係がなさそうである。これは僕が知っている。バリに来て胃や腸がよくなったという覚えはない。骨とか骨に関係する神経が関係しているようである。脊椎動物というのは北半球のほうが生ききづらいのでなないか。交通事故のような突発的な事故で身体に歪みが生じた場合、人間は自分を守るために南半球に戻りたがるのではないか、などとも思ってみる。ここでは人間は無理しなくてもよいからだ。植物のようにして居ることもできるし、ゆっくりと動けばよいし、身体が冷えるということもない。また何か大きな磁場のようなものがあって、絶えず、身体を調節していてくれるのかもしれないなどと思ったりする。

もしかしたらインドの医学、アーユルベーダとか、メディテーションの本でも読めばとっくに解決していることなのかもしれない。

だれか説明できる人が居れば、論理的に説明していただきたい。

インドとインドネシアバリ島は共にヒンズー教である。磁場でつながっているのではないかと思ったりする。なんとなくだ。

ジャムーという生薬もその考え方はアーユルベーダから来ているのかもしれない。チャクラやオーラという言葉は誰もが知っているし。今度その辺のことを調べてみようと思う。

事実は僕の知る限り現実の結果として四人の人が実証しているのである。

なぜか、だけである。

生物の誕生から現代までのものがすべてあると言われるインドネシア。

まだまだミステリアスだけれども整合性のある根拠があるのだろう。

「神々の島」などと呼ばれるのも案外、単に神の名が多いのではなくてその背景には科学では分析はされていないけど、整合性のある理由があるのかも知れない。



2002年7月19日

テレビドラマ

今バリでは日本のテレビドラマが大流行らしい。「エンドレスラブ」というそうな。五、六年前のドラマだと思うが子供を取り違え、やがてその子達が大きくなって、取り違えに気づき、と言う話らしく、毎日月曜日から木曜日夜の七時からは何をおいてでも見る、とコマンは言う。

日本のドラマをどう思うか、と聞くと、まず返って来た答えは、「ストーリーがおもしろい」であった。インドネシアのは、ワンパターンで、大金持の家族、家、がでてきて、恋愛があってといつも同様らしい。「他に違いを感じないか」と聞くと、「画面、ビデオの取り方が日本のは複雑でおもしろい」と言う。インドネシアのはこれまたワンパターンで撮るところが決まっていて、画面も安上がりで工夫がないことを言いたいらしい。

「外国映画はどう思うか」と聞くと、「外国映画というのは殺し、アクションばかりで、喧嘩が強く、物騒で恐いと思う」と。「いや、本当はそんなことはないんだ。たぶん安い映画ばっかり買ってくるんだ。てっとり早く楽しめるのはアクションだから。それはあくまで嘘話で、素晴らしい映画もいっぱいあるよ」と説明する。それにしても三流のアクション映画が多いのは確かである。

 インドネシアは、ミスユニバースには参加するがミスワールドには参加させないのである。なぜならミスワールドはビキニを着なくてはならないものだからだそうである。このくらい、こういうことは厳しいものだから、テレビなどではキスシーンなどはないのである。セックスシーンなどは絶対厳禁である。だから海賊盤CDVが流行る。

テレビやラジオ、インターネットがある限り、情報を遮断することは難しい。

日本人の若い人の物の考え方もバリの若者の中に反映もされる。普通に生きている人のドラマも放映されるから、ドラマのパターンの目も肥えてくる。

一人で生きていく女性も知れば、互いに信じ合い、助け合いできる伴侶を持つことのありがたみを感じさせる夫婦というものを描くドラマもある。もうとっくに気持ちはさめていて、女性のほうが別の男性と仲良くする云々というドラマもある。

電波によって、人間がみな共通する気持ちと、今はまだ不思議だと思う気持ちなどが入り交じった思いを感じながらドラマを見ているのだろう。

十年前はテレビを持つ家は少なかったが、今はほとんどの家にテレビがあり、しかも両親の部屋、息子夫婦の部屋などと部屋別に持つところも多くなってきている。つまりこの二十年で夜のテレビという娯楽が増えたわけで、いつか日本の居間のように、ご飯を食べながら黙ってテレビを見、食事のあと親父はこっくりこっくりと居眠りをし、兄弟はチャンネルの争いをする風景に変わるのは目に見えるようだ。

「今日はエンドレスラブがあるからセレモニーがなかったらよいのに」などとも言いそうである。

これで観光産業が順調に発展を続けたら、きっとまだまだそうなる。経済の力がつくと、個人個人の思いも増えてくるものなのだ。

やがて経済力がついてきて、家でも建てて、子供部屋でも作ることになれば、引きこもりの子供もでてこよう。受験勉強で子供の尻をたたくのもでてくるだろう。親は犠牲になっても我が子の希望はかなえさせてあげたいという親もでてくるだろう。

バンジャールやバリヒンズーの指導者はどのような道を指し示すのだろう。

一つ経済発展の阻害をするのは寺院である。寺院がある限り、サヌールー、 クタ、 タバナン、ヌガラ、ギリマヌク までの高速道、クタ、サヌール、デンパサール、ウブド、シガラジャ までの高速道などは無理だ。では地下鉄は? 地下に住む悪霊ブタカラをどう解釈するかによるだろうが、気が遠くなるほど、困難なことだと思う。バリ島がさらに発展するには基盤となる幹線道路か、地下鉄しかないのは確かなことである。 このようなこともどう判断していくのだろう。まあ、僕が僕が生きている間くらいにはそれらのテーマは一度は俎上にのぼるだろう。さてどんな議論になるのか楽しみである。


2002年9月6日

またまた大失敗

 準備万端。これでよしと出発の荷物にロックをした。そのキーを手荷物に入れておこうとポイッと投げた。一秒、二秒は憶えていた。でも十秒後にはすっかり放ったことを忘れていた。

駅のホームでふと気がついた。妻に電話をした。出ない。またした。今後は出た。事情の説明をしているうちに列車が来た。

 スーツケースの鍵は、磁石になっていて、どうして開けたらいいよいのかわからない。とんだ出発だった。車で追いかけてもらうには南紀特急の方がずっと早い。松阪駅で僕が降りそこで一時間程待って、妻が来るのを待つという方法も考えた。妻に申し訳ないとも思うし、乗り換え電車が近鉄なので、泊まるホテルとは反対方向の出口である。

 結局、車内から妻にメールをうった。「なんとかあけてみる。空港であけろといわれたら、金槌持ってきてくれと言って、壊す。」と書いた。

 またやってしまった。

 パスポートを忘れたことがあった。

 シアトルで日本行きの飛行機にあと一歩で乗り遅れたことがあった。大金を二度盗まれた。全荷物をフランスのパリの空港で盗まれたことがあった。 

ユーラシア大陸の果てロカ岬で、その記念写真と証明書をもらい、カメラと共にタクシーの中に置き忘れた。この前もバリ島でタクシーにデジタルカメラを忘れた。

 なぜこうもぼんやりしているのだろう。

 全くの方向音痴だし、人の名前や曲の名前はおぼえられない。通った道もおぼえていない。病気の一種か性格のものなのか。自分にげんなりする。

 駅には十分な時間をとっていれば気がついても鍵を持ってきてもらえるかも知れないのだ。

 このことを分析してみると、この種の僕のミス・事件は、人が間近にいる時起こることが多い。

 タクシーに乗る。停まるところを言わなくちゃならない。チップをいくらあげるかも考えなくてはならない。すると脇に置いてあったカメラなどを忘れる。じゃあなぜカメラと証明書などを脇に置くのか。カバンに入れればいいではないか。なぜかその時カバンを持っていないのだ。

 今日の鍵の時も、妻が僕の準備を見ていた。すると妻が声をかける。「もう行かなくちゃ。「まだ時間はたっぷりあるよ」とこういう会話をしている間に鍵のことを忘れてしまう。

 うーん。僕は今日、いくつかの決断をし、これから二十日間程留守をするために留守の間のことを、つまり仕事の段取りのこと、お金のこと、すべて完了させて荷物の準備に入ったのだった。そして発つ瞬間に大ポカをしてしまった。バリ島に着いたらスーツケースを壊すことになる。失敗ばかりしている男だと思われるだろう。

 まあよいか。



 こういう風に今回の渡バリは始まった。極めて個人的で社会などとは何の関係もない。

 ただ思ったことは、

・ややこしいものは持つな

・自分を縛るものはなるべく持つな

ということである。自分の名前にさえ縛られるのだからあんまり自分を縛るものを持ってはいけないな、と思った。さあ忘れて、バリを楽しもう、と気分を入れ替える。明日の朝は目覚しをかけた。これも縛るものだなあ、と思いながらセットしたのだった。

 もうビールを飲んでいて心地よい気分で、テレビをチラチラ見ながら今回のバリ日記は始まった。今度のバリ日記は、バリヒンズーを腑分けするのである。出来る限りやってみたい。ご期待を。

2002年9月8日

バリの占い 1

  飛行機の中では半袖だったら凍死しそうなくらいだ。これはこの六年変らない。

 なぜこんなに機内は寒いのか不思議である。さらに不思議なのは、それでも半袖でいる若い人たちである。ノースリーブの女性までいる。

 僕の体がエネルギーに満ちあふれていないのか、弱っているのか、彼らが異常なのか。だからキャビンスタッフに注文をつけるのを臆するのである。

 経験のない老人だったら必ず、体調が悪くなると思う。

 ところがキャビンスタッフはよく働くから、寒さを感じないのかもしれない。

 どういう理由なのだろう。日本の二十年前はどの店も凍るほどクーラーがガンガンきいていた。客に対して無神経で、ガンガン冷房を効かせればよいみたいだった。国鉄もそうだった。今のJRはほどほどである。近鉄が今も二十年前と同じである。客のひとり一人のことを考えずに、効かしゃあ文句ないだろう、という感じである。


 バリ島は最高気温二十八度、最低気温二十三度。日本の尾鷲の方がじめじめ暑い。

 空港ではイダとアキちゃんが迎えてくれた。

 今回の渡バリの目的は通常の仕事の他にバリ・ヒンズーといわれる宗教の中で、インドからのヒンズー教と、ヒンズー教がバリに入ってくる以前のアミニズム的なものを腑分けしたいという思いがある。きちんとできないかもしれないが、これはヒンズー教から来たもので、これはヒンズー以前からあった考え方だと、だいたいわかればよい。

 学者ではないのだから。すると、バリ人の意識の層が見えてくるに違いないと思う。

 と言って、僕はバリ人を主に考えるというのではない。ただ好奇心である。。そして、その好奇心は最近、青山圭秀の「アガスティアの葉」と飛行機の中で「理性のゆらぎ」を読んだことが起因している。そして、人間を考えてみたいという欲求に起因している。僕は彼とは違う見解を持っている。奇跡やよくあったている予言はあるかな、と思っているがその受け止め方が違う。彼は奇跡を起こすサイババに圧倒されている。僕はサイババの奇跡はありうる「病気」だと思っている。

 そういうことに触発されて、思ってみれば、「バリ人がわかった」などと言っていた自分は、「バリ人とビジネスをする心得」みたいなのがだいたいわかったということであって、バリの人々の奥底に沈殿する意識層をクリアにしているわけではなかった。ゴチャゴチャと入り混じった像でとらえていた。

 それでも差し支えはないのだが、欲を言えば、もっとバリ人の意識を体験したいと思ったのである。

 グランブルーに着くと、早速僕は聞いた。

 「僕の『カルマ』過去、未来がわかる人はいるかな?」

シェフのバワが、

 「生年月日までもわかる人を知っています。」

と答えた。

 「生年月日がわかるということは、僕が死ぬ日もわかるということだよね。」

と僕が言うと、

 「それはわかっていても、言わないかもしれませんが。ミスターモトキはそういうことには興味がないのではないか、と思っていました。」

とバワは言った。

 「いや、これは信じる、信じないの話ではないんだ。多分バワは根っからそれを信じている。否定のしようがない。僕はすべて僕について語ってもらったうえで、胎児の以前、精子や卵子であった様々な段階のことを考えてみたいんだ。考える手掛かりだよ」

 過去の記憶を連綿と持ちつづけている人がいる可能性はある。人類が地球上のあちこちで誕生し始めた頃から精子や卵子、細胞の一つにすべての見聞きしたことを一体化して閉じ込められており、それを自由自在に取り出せる人というのはいるかも知れないという可能性である。

 そう思うようになったのは、サバン症候群の人たちをテレビで見たからだ。算数は全くできないのに、過去の年月日の曜日はことごとく言い当てられる。習ったこともないのに、一度聞いた音楽をピアノで弾くことができる。こういう人がいる。

 もしかしたら僕らの脳は、人類の発生から今日までの情報を本当はすべてインプットしているのではないか。本当は今生きるのに必要な分しか情報を取り出せないように仕組まれているのではないか。そう考えたからである。  実は、青山圭秀が体と遊離する「脳死体験」や「ヨガ修業」で得られる何かは説明のつかないものではなくて、また身体と魂に分けて考えようとしなくてもよいと思われる。目に見えないが、羊水の中でまどろんでいた頃、聴覚が機能して、そこから脳に映像を映し出したのではないか、ということと受精してから人間らしくなるまでの間に、鳥であった時期があったはずで、鳥の眼と聴覚が一致したからではないのか、と僕は考えているのである。


 大雑把な話だけれど、僕のイメージのしかたからいくと、サイババや過去や現在のことがわかる人が地球上に何人かいてもおかしくはない。

 ただ問題は「未来」である。

 しかし未来をあてることはさほど難しくないように思われる。過去と現在の姿がわかれば、未来は顔の表情や行動、物や人への反応のしかた、でだいたいわかるに違いない。

 バワが

 「明日はサラスワティの最後の日だから、日が良いので明日行ってみますか。」

と言った。

 「その人はバリアンなの? 」

と僕は返すと

 「わたしはバリアンについては50%ほどしか信じていません。うさんくさいバリアンもいます。わたしがお連れするのはプダンダです。ヒンズーの」

 来た、来た、来た、と思った。

 そうかバリアンは一応、バワの中ではヒンズー教とは違ったところにいるものなのだ。ヒンズー以前の村落共同体には呪術師がいたかも知れない。プダンダはブラーフマナ(僧侶階級)の僧侶を言う。プダンダの中では、単に吉凶を告げたり、儀式を司る人もいるが、特別な修業、訓練を受けたプダンダがいるらしい。


 「朝の方がいいでしょう。ゆっくり話が聞けますから。」

 「智美さんは明日来るよね。通訳が必要だから」

 「わたしも行きますか」

 「いいよ」


 バワや智美さんの前で、僕は自分の過去をさらしてしまうかもしれない。ちょっと困ったな、と思ったが、もう「いいよ」と言ってしまった。

 明日行くことにする。



2002年9月9日

バリの占い 2

 バンリにあるプダンダの家は人里離れたところにある。クタから車で約一時間半。日本の十月の晴れた秋の日のように涼しい。湿気がない。この辺は水が不足しているそうである。バリ島は肥沃な大地をもつところも、水がないために、住むのに厳しいところもある。

 前もって僕らが行くことをバワが連絡してあったのか、プダンダは快く迎えてくれた。バリコーヒーとお菓子でおもてなしを受けた。それが終わらないと、始まらないとバワは言う。

 Ida Bagusとは、ブラーフマナ層(僧侶の階級)の称号であるが、最高司祭となるとIda Pedanda となるのだそうだ。どのプダンダも、髪を頭頂で束ねて花で留めている。そして顔は穏やかである。「ハンニバル」のレクター博士のような顔つきはしていない。

 バワが言うには、このpedandaは病気を治すのだそうだ。脳梗塞の人も、ここに来て治ったとか、いろいろ実績をバワは挙げた。つまりこのプダンダはバリアンも兼ねているのである。バワは、バリアンなら50%信じると言ったが、この人はヒンズーの最高司祭のプダンダであるから、バリアンとしての病気を治す役割を果たしていても信じられる、と言うのである。バワはIda Bagusだから身びいきがあるかも知れない。

 僕は病気をみてもらいたいと思って来たのではない。僕の過去、現在、未来を当ててもらうために来たのである。

 コーヒーとお菓子をいただきながらも、プダンダがそばに座っているので僕は話しかける。

 アーユルベーダでは身につける装身具は重要である。特に指輪やブレスレット、ネックレスもベーダの科学的根拠をもっている。

 「指輪を三つしていますが、何か意味があるのですか?」

 「ウォー、意味があるんじゃよ。生年月日などから調べて、その人に合うものを決める。ほとんどのバリ人はそうじゃ。ファッションでする人もいるがの」

 アーユルベーダは占星学で指輪やブレスレットを割り出す。これと関係しているのだろうか。

 「何に基づいて決められているのですか」

と聞くと、

 「神の声だ。」

と答えた。

 「神の声? 神の声を誰かが書き写すのですか。」

 「そうじゃ。ヨギが神の声を聞き、書き写すのじゃ。」

 「ヨギ?」

 「霊性を高め、神の近くにいける人じゃよ。」

 「ヨーガなどで修練している人ですか。」

 「そうじゃ」  こんな話をしている間に、いつ始まりともなく、始まったのだった。

 「今日、来させていただいたのは、僕のカルマを教えていただければと思ったからです。僕の過去、現在、そして未来を教えていただきたい。」

 「うん。なるほど。生年月日、その曜日、生まれただいたいの時刻がわかれば教えられる。」

 僕は始まって十秒で終わっていた。ドジである。生まれた曜日も知らなければ、時刻もわからなし。母にこれまでたずねたこともなかった。

 ここでおしまいである。また出直さなければならない。

 これで帰るわけにもいかない。

 「病気はどのように治すのですか?」

 「薬草じゃよ。しかし今日は病気を治す日ではない。」

 「病気を治すにも日があるのですか。」

 「プマンクがいない。プマンクは今日は休みじゃ。」

 「ああ、単なる休暇の日なんですね。」

 「違う、違う。病気を治す日じゃないから、プマンクが休みなのじゃ。」

 「何か暦のようなもので調べるのですか。」

 「本じゃ。本に書いてある。」

 「本? 僕の生年月日、その曜日、時刻がわかれば、僕の過去、現在、未来がそこに書かれているのですか。」

 「そうじゃ。」

 「僕の死ぬ日はわかりますか」

 「いや、それはわからん。」


 本とは、ロンタル(文書)のことではないか。ロンタル椰子の葉に書かれた文書のことを言う。南インドの「アガスティアの葉」とよく似ている。「アガスティアの葉」は個人の予言が書かれたものである。

 後で聞いてみると、ロンタルは小冊子風になっていて、分類化されているらしい。真言(マントラ)、薬草、吉凶、方位、祭礼などあらゆる人間の存在のしかたについて書いてあると言う。

 バリの高貴で難解な言語用法で書かれ、それを吟じる。普通の人はわからないので通訳が要るそうだ。僕らが仏教の読経を聞いてもわからないのと同じなのだろう。

 バワの弟が言うには、ロンタルを読み解けば死ぬ日までもわかるそうである。しかし、「時々、そうじゃないかと思う時がある」とつけ加えている。ある人が死んだあとに、バリアンがあらかじめわかっていたような言い方をする時があるらしい。


 ロンタルはイダ バグスの本家系統が代々受け継いで、家の中に所蔵されている。イダ バグスだけがプダンダになることが許される。ロンタルが読めるようになる修業が必要となる。吟じること、意味を理解すること、知識を身につけること、そして聖なる精神が必要とされる。

 例えば、ロンタルにはチュティクと呼ばれる毒を用いて人を病気にさせる方法も書いてある。その毒を解かす方法も書かれている。チュクリという陸貝の一種と海で採れるルンシンという貝をココナッツオイルで揚げて、その油をとり、北東の側にある椰子の木の若い実の汁とまぜて患者に飲ませるとよい、とあるらしい。

 僕は人間の一つの細胞に全人類の記憶が閉じ込められているのではないかと今、思っている。

 ある男の細胞とある女の細胞が混ざれば、受胎と同じように新たな人間が誕生するのではないか。今はまでその技術が獲得されていないから、精子と卵子の結合、つまりセックスという手段でしか新たな人間は誕生しないのである。

 そして、精子にも卵子にもその歴史の全情報が入っており、それはやがて脳のどこかに本当は刻印されていて、封印されたまま保存されているのではないか。


 サバン症候群の自閉症の人たちや、少数だがある痴呆症の人たちが、習ったこともないのに、ピアノが自由自在に弾け、たった一度楽曲を聞くだけで、ピアノでその楽曲を再現できるという能力や、生きていたことのない年月日の曜日が即座にわかるとか、一度見た風景を絵でその通りに再現できるという能力は、脳の一部の破損によって、別の部分に回路がつながり、これまで封印されていた個所を開くことになったのではないか、と研究者たちは感想を述べていた。

 それはあり得るのではないか。

 すると、ある時代、時代にすべての人の精子や卵子の中にある情報をある程度とり出せる人が出てきても不思議ではない。

 「アガスティアの葉」はそのような人によって書かれ、ロンタルも同様に真似られたか、あるいはバリ島の実情に合わせて、バリ島にこのような人が現れたか、いずれにせよ、あながち嘘や偽りのものではないのではないか、と思う。


 ロンタルが読め、その中に書かれた知識を勉強しなければプダンダにはなれない。しかしロンタルは古い時代に書かれたものである。それが基礎となるが、ヨギ(女性。ヨガは男性で神の言葉を聞き、書き写す人)によって新しい神のお告げがあり、それが書き写されプダンダは新しい文書を本のような形で持っているらしい。


 「今日はこれで失礼します。母に僕が生まれた時刻を聞き、曜日も確かめ、また来ます。ついでですが、人相とか手相で占いはできますか」

 「ある程度じゃ。難しい」

 「その本は星と関係ありますか」

 「ない」

 本当だろうか。こういう時、言語能力にイラ立つ。

 「方位とは関係ありますか。」

 「方位は重要である。」

 これ以上突っ込んで聞くには通訳が物足りない。

 なぜ曜日が重要なのか、そして時刻が重要なのか。七つの星が地球、そして僕の母や僕自身に影響を与えているのは至極当然であると思える。太陽なくして我々は存在しないし、月の満ち欠けも人間の身体に影響を及ぼす。僕が生まれた時の土星や火星の位置もきっと影響を与えているのだろう。


 翌日母に聞くと、僕は火曜日生まれで、しっかりとは憶えていないが午後二時から三時頃だったと言う。

 バワにそれを伝え、今度はアキちゃんに通訳してもらうことにし、再度でかけることにした。


2002年9月10日

バリの占い 3

 再度、プダンダのところに行くまで間がある。

 宗教について述べておきたい。

 僕には宗教がない。寺はあってもその宗教を信心しているわけではない。宗教をもっている人を否定はしないが、宗教は解体されるべきだと思っている。解体というより開かれてしまえばそれでよいのかな、と思っている。どの宗教でも神や天に祈りをする、その時の雰囲気はなぜか好きだ。敬虔な雰囲気が祖母とよく通った天理教にもあったし、葬式のあの奇妙な静けさも好きである。しかし、宗教は解体された方がよいと思っている。

 こういうことを書くと宗教を信じている人は怒り出すかも知れない。あえて承知して言えば、宗教はそれを信じる人の世界が閉じてしまうことに最大の欠陥があると思う。個人も閉じれば、団体も閉じる。

 しかしながら、宗教家からいろいろなものの考え方を知る。たとえば「一言芳談」が良い例で、「この世などはちっともよくないものだから、早くあの世へ行った方がよい」と言う言葉の裏には〈死〉という場所からこの世を見、この世のつまらなさを強烈に光あてて、地位も名誉も、金も学問もそんなものちっともすごいことではないのだよ、と逆に言っているところがある。こういうのは宗教を信じて得る知識ではなく、ひとつの思想として、胸に響く言葉である。

 ただ何でも信じたらいいものでもないだろう。

 奇跡を起こすのを目の前で見たからといって、すぐ帰依するものでもないだろう。

 奇跡は起ると思っている。そして奇跡が起る範囲は、人間の手の内、人間の心の内、もっと言えば、人間の胎児の内、人間の精子の内、人間の細胞の内と言ってよい。

 前世だ、カルマだというのは、脈々と続く精子や卵子が記憶をもっているからではないかと今の僕は思っている。精子であった頃の記憶を取り出せる人がいて不思議ではない。

 こんなことを思いながら、再度プダンダと会うのを楽しみにしている。しかし、そこで占いが当たっていようが、いまいが、僕はかまわないのである。それは奇跡が起ろうが起るまいが、「なんにも」というのと同じである。

 奇跡などが起きようが、死んだら死にっきりである。


2002年9月11日

グランブルーのこと

 レストラン・バー グランブルーのオープンスペースのエリア、そのレギャン通り側のガラスを全部撤去した。そして、テントも取りその柱も取り払った。そうしたら、広々となり、通りから中が見えるようになった。すると、客がこれまでの二倍から三倍入り始めた。

 ここまで来るのにちょうど二年かかった。くやしくも、レギャン通り側の壁を取り払うことは一年前には思いつかなかった。

 フロアーのスタッフと話し合いをしていて、なぜか取り払おうと思った。最初はテントと柱を取り払うつもりで話をしていたのだった。急転直下、壁も撤去しようということになった。

 人情話になるが、バリ人はボスに対して口などきけないと思っている。僕は役割だと思っているところがあって、それぞれのスタッフが、勇気を出して意見を述べ、ああでもない、こうでもないと言い合った方がよいと思っている。しかし、「そんなことは言えない」というのがスタッフの心情だった。

 今回の渡バリでも、これまでの調子かと思っていた。ところが違った。フロアーマネージャーのグスが言い始めた。「他店のリサーチがしたい」。 僕は「テントを取りたい、どう思うか」

それでミーティングとなった。結果はテント、柱、ガラスの壁を取り、その後デコレーション、音響の位置、すべてスタッフの知恵ですることになった。

 クリエイティブになり始めると、クリエイトすることのおもしろさが出てくる。みんなが口々に言い始める。するとバーもキッチンの者も、「言っていいんだ」と思ったのか言い始めてくる。

 これまでいくつも町のレストラン、ホテルのレストランをまわったが、バワシェフの味が一番良い。身びいきではない。バワのいない時の失敗などはあったが、ほとんどの客が喜んでくれ、美味しいと言ってくれた。バワは値段にも材料にも妥協しなかった。新しいメニューを作ることにも取り組んだ。

 僕の力不足で、バワの料理を広く宣伝する知恵が思いつかなかった。

 ツアー客は、だいたい行くレストランも日本の旅行代理店との提携先へやられてしまう。バリ島内の雑誌はどこに広告を載せても、すでに行く先が決まっている客が80%は占めるからなかなか打つ手がない。

 「あれこれバリ島、発見・発掘」からの縁で客が来てくれて、やがて企画ツアーで来てくれる人も増えてきた。

 客数が増加し始めたところで昨年ニューヨークでテロ事件が起きた。八か月、バリ島の観光客は激減しこの間、多くの店が閉じた。イスラム国であることと、飛行機に乗っての観光地であることが影響した。

 運命は決まっているものではない。切り開くものだ。切り開いたことまで「運命」だと言うなら、言う奴はいい加減偽者である。仮に本物だとしても、本物は「言わない」ものである。だから本物を見分けるのは難しい。

 ここまで来たことを素直にみんな喜んでいる。テキパキとし始める。生き生きとしてくる。

 さて、ここで問題は良い循環の中に入れられるかである。


2002年9月14日

ココナッツオイル

 「ココナッツオイルに塩を混ぜて体に塗ると疲れがとれるのよ」

ブックツリーのダユのこの言葉に商売気が首をもたげる。

 良い情報を得たと得意げにグランブルーへ行くと、バワがニタニタ笑いながら、

「それにちょっとジンジャーを混ぜるともっといいんですよ。」

と言う。フムフム。どうして、ブックツリーでは「ジンジャーが出てこないんだ、と思って、翌日聞くと、そう言えばそうだ、とみんなが言う。

「まだ何かあるんじゃないのか。ココナッツオイルを利用した何かを喋ってくれよ」

 と言うと、

「ココナッツオイル(ハンドメイドのものでばければならない)にサンダットを混ぜて、子供の頃、ヘアーリキッド代わりにしたもんです。

「えっ、何? ココナッツオイルにサンダットのエッセンシャルオイルを入れるのかい?」

「違いますよ。花をそのまま入れるのです。花を入れたオイルに熱を通して、オイルを濾過します。その濾過したものを髪につけるんです。」

 するとスリアシが

「チュンパカを入れる人もいる」と言う。

みんな一時代前の話をしている。こんなことにどうして興味をもつんだろう、と思っている。

 昔と言っても十年程前まで使われていたものである。

 ハイビスカスの花からマニュキュアを作っていた。シャンプー代わりにもその葉を使っていた。 シー ハイビスカスは 髪を豊かにし、つやつやとして、男性ははげの予防にもなる。今も必要そうな人は使っている。

 シリ(キンマ)は虫歯、口臭止め、わきが、汗の匂い、便の匂いをとるのに使う。今は歯磨きが登場したために、使われなくなった。


 恐らくこのくらいのことは日本やアメリカの製薬会社やエキスメーカーは分析し尽くしているにちがいない。 

僕は専門的な知識がないので無知のままひとりで好奇心を抱いているのだろう。

 昔ながら使われてきたものがもう一度見なおされる日がバリにも来るに違いない。

 バリ島に来ると。なぜか髪の毛がパサパサとする。アキちゃんが「そうなんですよね。水のせいかいしら。」

と言っていたが、リエコさんも同じ感想をもっていた。髪にうるおいがなくなるのである。

 今日一日中ココナッツオイルを仕事の関係で触っていた。無意識にオイルのついた手で髪を触るのだろう。パサパサの髪が心地よくなめからかである。

これには驚いた。しかし本当は髪の内側からしっとりとなってこなくてはならない。でも散髪屋さんのヘアーリキッドやヘアークリームよりよっぽどよい。

 ハンドメイドのココナッツオイルについて述べておきたい。

複雑な工程を経て、オイルがしぼりだされるのだが、甘いクッキーを焼いたような香りがするのが特徴である。

 肌に塗ってマッサージをしてみると吸収力が早いのに驚く。

この吸収力の早さは精油(エッセンシャル)を体内に運び入れるキャリアーオイルとして優れている。甘いクッキーの香りを取り除きたい場合はパンダンという葉を入れるとよい。

 一度めに身体にすり込んだオイルはベタベタ感がない。二度目になると、吸収しきれないのか少しベタベタ感がある。それをタオルで少しふき取るのである。シャワーでおとしてしまうのはもったいない。

 純正のハンドメイドのココナッツオイルをキャリアーオイルとして使っているところをこれまで多くのエステに行ってみたが、ないのが実情のようだ。マーケットで売っている粗悪なもの、もっと悪いパラフィン、サラダオイルを使っているところも多い。

 パラフィンを使われて「ああ、エステだ、気持ちいい」などと言っている風景を想像すると、気の毒になってくる。

 不健康でストレスいっぱいと思い込んでいる日本人女性は本当は日本の日常生活を離れるだけで神経的な「病気」は治っているのである。しかしストレスの残像があるからエステに向かうことになる。

 マッサージをしてもらうと気持ちがよい。しかもバリ島は年がら年中暖かいから、血管が膨張して血液の流れをよくするように思える。

 とりあえず、エステ・デ・マッサで 明日から「キャリアーオイルとしてハンドメイドのココナッツオイル」を使ってみたい。

 ホホバオイルよりも優れたものであればなあ、と思っている。

日本でもっと分析してみようと思う。


2002年9月16日

時は過ぎ行く

バリに来て九日になる。二日前から、またバテ気味である。バテないようにと忙しくしなかったはずだが、やっぱり体がだるくなる。毎日ビールを飲むのが肝臓に負担になっているのかと疑ってみたり、やっぱり赤道近くにいるせいだろう、とかいろいろ思ってみる。

午前中はプラザバリに新商品の売りこみに行った。

 マッサージオイルのキャリアーオイルを精製していない手搾りのココナッツオイルに変えようとしていたところ、丁度ラッキーにも自家製化粧品や石鹸などで有名なサビーさんがバリに来られて、いっぱい教えを乞うた。さすが専門家である。本に書いてあるのよりも生の体験と豊富な知識があり、とても助かった。吸収力のよいココナッツオイルをキャリアーにすることを喜んでくれた。おそらくバリ島で初めてではないかと思う。午後はサビーさんの話を聞き、彼女が帰ったあと、成美堂出版の取材の方が見え、新しい開発商品の写真をいっぱい撮ってもらった。その時は疲れも忘れてしまう。成美堂といえば、サビーさんが本を出しているところである。

 新商品を作るのは楽しい。だいたい十作ればひとるくらい当たってよいと思っているが、今度のオイルと、トロピカルハーブティーは根気よく続ければだんだんと良さがわかってくれる人がでてくるのではないかと思っている。サビーさんは二年ほど対葉豆を使ってくれて、そのよさを十分に体験したと言って、今度取り上げくれるそうだ。うれしいものである。ニキビの多いバリの女性をみると、対葉豆のお茶がヤーマにあるからは飲みにこいという。毎日三杯は飲むようにと言って、次にバリにくるとニキビはすっかりなくなっている。対葉豆は便秘にもひどくよい。開発からすでに三年である。

 昼はこんな風に時が過ぎてゆく。オーストラリアの人がホテルのプールでのんびりしているのを横目に時々横になりたくて部屋に戻る。

 部屋に入ると、し忘れた宿題のようにまたいろいろとバリ島のことや人間の発生のことやらを考える。

 考えることが職業でもないのに、ずっとそんなことばかり考えている。恐らく十五歳くらいの時からだからもう三十五年以上もこの習慣は続いていることになる。

 人間はどのようにしてあるのか、何が解決されなくてはならない問題なのか。能力がないから、まとめて本などにする力もない。

 生きられる時間も残り少なくなってきた。体力も衰えてきた。記憶力もさっぱりである。

 さて、プダンダのところに再度いくことになっているはずだのに、バワから一向にお誘いが来ない。どうでもいいといえばどうでもいいのだが、もう一度だけはバワにどうなっているのか聞いてみるか。バワは二十一日に チャルの儀式をするとかで、(なんでも大きな蛇がいて、バワの家胃を祟っていたのだという。その蛇を殺し、清めのというかおはらいの儀式をするのだそうだ。それで忙しいらしい。)

 バリの人々は祖先の霊が再生すると考えている。精子と卵子が結びついて子供ができることは知っている。避妊をすることも知っている。今は産児制限ではないが、子供は二人までにしようというような政府の啓蒙活動も行われている。

 海に漂う祖先の霊か天上に漂う祖先の霊か知らないけれど、それが女性に宿ると考えられている。原始の頃、子供が生まれるまで十か月の期間があったから、セックスが子供を産むことになるという認識がなかった頃のことを今も持っている。

 宗教とはそんなものなのだろう。


2002年9月18日

プロモーションビデオ

 バリ島では常に英語の番組を見ることができる。チャンネルは六局あるが、興味をひく番組がないことにも驚く。時々、バリのテレビ局がバリを再発見するような番組をしている。ドラマも映画もぱっとしない。ありきたりのメロドラマと、殺しばっかりの外国映画が多い。

 そんな番組の中で、最先端の音楽事情を伝える、MTVというテレビ局がある。

 これを見ていると、音楽番組なのに、とても音楽を聴いていられない映像の邪魔さがある。いわゆるプロモーションビデオを流すというやつである。僕は、信じられない。

 音楽は耳からのものであり、耳からの映像を聴く側が自由に想像する世界である。それを、いかにも音楽に合わせたかのような映像が目に次から次へと飛び込んでくると、音楽家の感性を疑ってしまう。なぜ、人の想像力の邪魔をするようなことをするのか。どんなりっぱな曲を作ろうが、こんな映像を許すとしたら、ダメ音楽家だと言いたい。

  耳からの映像というのは僕らが母の胎内にいたころに、超感覚的に持っていたものだ。六か月で聴覚からの映像を胎児はもつことになる。視覚の映像は目が見え始めてからのものだ。

 音楽に映像をつけることによって豊富な音の世界は視覚によってますます退化したものになる。もしも映像とくっつけるような音楽家が原始的な、自然回帰的なものに憧れるなどというのなら矛盾もはなはだしく、どうせたいした音楽家でもない。

 で、MTVというのはそんなものばかりだ。その番組を見ている若者から抗議の声もなく、番組が存続しつづけているのはなぜなのだろう。

 考えられることは、若者を擁護して言えば、若者達は、音楽を聞くのではなく、映像で、ファッションや奇怪な行動や演技を見ているのかもしれないということだ。もうひとつある。

 音への感覚が退化しているのかもしれないということだ。これは、僕には嫌なことだが、若者は聴覚からの映像感覚をテレビ局や映像の作り手から剥ぎ取られているようなものだ。

 バリ島の映像が流れていた。今のバリ島の生活の一部を紹介する番組である。バリ島の生活風景のバックグランド音楽にミステリーさながらの音楽がかかっていた。このお粗末さにも驚いたのだった。

 日本を紹介する映像に琴や尺八といったワンパターンの音楽以上に悪い。映る人々がみんな犯罪者のように見えてくる。

 これは聴覚からの映像がバリの風景とあっていない、僕が拒絶しているのだと思う。

 映像は映像でよい。これはこれでおもしろい。

 なぜ、一緒に音と映像を一緒にするのかと言えば、映像のほうが音より惹き付ける力が弱いからだ。映像のほうがやっぱり持続させる力がないのである。そこで音楽に頼る部分があるのだろう。

 プロモーションビデオは 完全に倒錯している、と思う。

 そしてどちらも貧困である。


2002年9月19日

バリアンの二面性

 バリ島のバリヒンズーと呼ばれる宗教は、バリ人の社会生活を取り仕切るものである。

 ヒンズー教がインドージャワからバリに入ってくる以前に、精霊崇拝のようなものがあった。インドの聖人・アガスティア崇拝などがあったようにヴェーダの影響も見受けられる。

 僕の知識ではその判別は難しい。

 ヒンズー教は多神教のはずなのに、インドネシア政府公認の宗教として認められるには、唯一神をもつことを強要された。シヴァ神、ウィシュヌ神、ブラーフマ神のヒンズー三大神の上に「サン・ヒャン・ウィディ Sang Hyang Widhi」をベェーダ文献のなかから見つけて、策としてこの神を置いた。

 これは明らかに政治的意図によるものである。

 バリは神や祖先の霊は天上から降りてくるもので、寺院の中には神はいないことになっている。バリ島で今も続けられている様々な儀式は、ヒンズー教によって吸い上げられ、現在に至っていると思われる。

 ウク暦は順列的暦で、古代バリからのものであり、サカ暦は陰陽暦であり、ヒンズー教の影響である。バリはこの二つの暦に従って生活を送り、ビジネス界では西暦を使うという風である。

 方位に対する考え方はバリの独特のもので、互いに相反するものを対峙させる考え方もバリ特有である。

 また、〈死〉の世界から再生する、という考えがある。祖霊は再生して自分の子孫の誰かにうまれかわると信じている。ヒンズーにもこのような転生の考え方はあるが同族の中で生まれ変わるという考えはない。

 ついでにバリアンについて述べると、バリアンとは、「呪医」のことである。憑依によらず占いを行い、呪術や薬草などを用いて病気治療を行う人を言う。ボルネオ南部のンガジュ族の女性シャーマンを指す「バリアン」と関係しているらしい。バリアンの行う「右の呪術」は病気を治すもので、「左の呪術」は人を病気にさせるものだと言われている。ヒンズー教が入っている以前からあった。

 「サドゥク」という神との交流を行い、神に憑依され、神にうかがいをたてて、占いを行い、治療法を教え、また祖霊や死霊をおろし、祖霊や死霊の意志を自らの口を通じて伝える女性もいる。スードラ出身であり、文盲だそうだ。僕はまた会ったことがない。

 いずれにしろ、バリ島は僕には相当息苦しそうな社会である。バリアンを例にとってみると、バリアンには二面的な意味があるように思われる。

 病気から解放すると同時に、不安や恐怖、疑心暗鬼、葛藤を植えつける。

 病気が「先祖の霊をねんごろに祀っていないからだ」とか「誰かが呪いをかけた」と言われたら、信じているからこそ、「そうか」となるが、本人もそばに聞いている人々も、「オレも呪われてるのではないか、誰かに」となるに違いない。

 病気にならないために、祖霊をねんごろに祀る。呪われないように人とのトラブルを避ける。言わなくてはいけない時も言わなくなる。でしゃばったら、恨まれるのではないかと思う。そういう社会に発展は望めない。

 だから、若い世代はバリアンを敬遠している。あっけらかんと、「病院にいくわよ」という人が多い。

 これは、若い人々がバリアンから離脱をし、不安や恐怖、疑心暗鬼や葛藤を避けているのだろうし、バリアンは癌やエイズを治せるわけでもないことを知っているからだ。

 バリアンとヒンズー教を切り離して考える傾向にある。

 自分が再生するのは結構な話だが、今生きている時間こそ最も貴重で、離れがたいものだ、とほとんどの人は思っている。

 この傾向には抗しきれないものがあるように思える。


2002年9月20日

波頭

バワは家に悪いヘビが出たというので、チャルセレモニー(地下の悪霊を鎮める儀式)の準備に仕事の合間をぬって大忙しである。毎日、料理とか段取りの打ち合せにクルンクンのバカス村まで行く。父系制の総領の跡継ぎだからか、力を誇示する必要もあるのか、たいへんそうである。

 僕のププタン行きなどはすっかり忘れているようだ。どうせ好奇心のものだろう、と思っているのかも知れない。

  「ワヤン、最近ご主人の商売はうまくいっているかい。」とスタッフのワヤンに聞く。ワヤンの夫は新しい商売を手掛け、なんとか一旗あげたいと思っているのだが、なかなかうまく行かず、これまで三度職替えをしている。

 「今、CDを売ってるのよ」

 「えっ、CDって音楽の? ははー海賊盤なんだろ?」と笑うと

 「そうだ」と言って笑う。

 「いずれ、捕まるぞ」

 「えへ、警察官にお金をちょっとあげて・・・」

 子供をシガラジャの親の元に預けて、夫婦二人でクタに出てきてもう二年以上になる。まだ子供を引き取れない。ワヤンはとびきり可愛い。映画俳優にでも、モデルにでもなれそうな容貌である。英語もよくできる。

 ブックツリーのコマンに赤ちゃんが生まれた。女の子だった。同時にコマンの夫は仕事を辞めた。子育てをするためである。アグン山のふもとのジャングルの中にある村から出てきた夫は、子供を親に見てもらうわけにはいかない。

  ヤーマのプトゥにも「だんなは最近どうだい?」と「果物行商はうまくいっているかい? 」と聞くと、今は仕事をやめて、子育てをしていると言う。

  マッサのアルフリーダは、スラウェシ出身のカトリック教徒である。バリ人と結婚した。二か月前、「ドイツの美容院から誘いがあった。二週間まず下見をしてから決めたいので二週間休ませてほしい。」と言ってきた。僕はそれは潔さながない。下見してやれると思ったら、ここをやめていくのだから、それくらいの責任とリスクは背負うのがスジだよ。とマッサを辞めることをすすめた。しかし、他の国でさらに美容を習い、また帰ってきて美容院を開きたいという意欲は、僕の好みなので、辞めても連絡をとるように言った。現在、彼女はドイツから帰り、スラウェシに夫や子供と別れて暮らしている。ドイツではやれないと思ったのか下見の段階であきらめたようだった。僕のいない間に、そういう連絡がブックツリーにあった。

 彼女はバリを嫌いだった。キリスト教の影響かも知れない。独立心というか自立心がバリ人とは色彩が違う。

  スラバヤからイルリンさんが来た。彼女は三十年前高校卒業後、五人の留学生に選ばれ日本で都市論を研究し、博士までなった。夫はその時いっしょに日本に留学した人で、建築家である。

 五人のうち、十二年後、三人は母国に帰った。

 イルリンさんは菜食主義となり、禅に興味をもち、現在はスラバヤの日本領事館の建築にかかわったり自宅で、手芸や切り絵などを教えている。ナチュラルな化粧品を作ったりしている。彼女は中国系のインドネシア人である。


 人生は海の波頭のようである。


2002年9月21日

恋愛または性愛のこと

ATLウィルス(成人T細胞白血病)が日本列島人(ヤポネシア人)に分布する特徴について、日沼頼夫は、ATLの発生の地理的偏在としてATL患者の発生は九州に圧倒的に多く、それに四国南部の一部と紀伊半島、沖縄に多発する。特に僻地、海岸地帯、職業的には漁業のような肉体労働者が多い、と述べている。

 さらに、B型肝炎ウィルス・キャリアが日本列島人(ヤポネシア人)に分布する特徴については、HBS抗原には四つの型(①adr②adw③ayr④ayw)があるが、結論から言ってしまえば、日本国内の分布は①のadr型が75%で、②のadw型が25%。つまり、ATLウィルスとHBウィルスのキャリアを見ると、確信をもってATLウィルスのキャリアが古代モンゴロイドに属し、これが同時にHBウィルスのキャリアである場合にはadw型であろう。つまり奄美、沖縄、台湾、フィリピン、中国南部、広西の少数民族、ジャワ、メダン、南インド、アフリカ東岸、アメリカ大陸、インディオ、イヌイットは元は同じだったということである。

 長々とウィルスのことを簡略して説明したが、僕が何を言いたかったのか、と言えば、紀伊半島生まれで漁師育ちの僕も、バリ人も元は同じじゃないかということである。

 元が同じであるという認識はつかみやすそうで実はつかみにくい。肌の色も歯列も、鼻の高さも言葉もよく似ている、というだけではいかない。先祖の霊を大事にするなら、我が一族の先祖の霊などと言っていないで、元は同じだったという科学的な認識が必要だと思う。つまり、我々の世界で1+1=2である、というのと同じように。

 親族や近所どうしでも仲たがいするのだから、民族の相互理解は難しいものだと思うが、もっと掘り下げて種族と言えば、案外理解は易しいのではないだろうか。民族や種族を越えて、人間が個々に行動を起こす場合がある。

 それは「恋愛」であり「性愛」である。


 人間ははまってしまえば、つまり、自分のどこかを充足させてくれる人が現れれば、「恋愛」や「セックス」を民族や種族の元のところまでいったところで結びついてしまう。互いの言語がわからなくても、言語の元のところで結びついてしまう。

 こういう現実を目の当たりにすると、ATLウィルスもHBウィルスも関係ねえや、となってしまう。人の恋愛やセックスはそれほど人間の根元までいってしまう。これには学問も科学も宗教もお手上げである。いったんこういう局面に入ったら、他人は何を言おうとダメなのである。種族の初源、人間の初源のようなところまでわずかな時間で行ってしまう人を、誰が何を言おうと説得などできるわけがない。理性とか文化とか考え方とかとは違った原始の、たとえば母の羊水の海の水面のようなところで、二人は出会っているからである。

 水面がさざ波打っていたからそういう衝動が起こるのか、荒れた希望のない海だったのか、それとも凪のような水面だったのか、僕にはわからないが、感覚的に、たぶん二人は(永遠の二人ではない、その時その時の二人である)そこで出会っているとしか思えない。

 こいうことは僕はなんとなく知っている。

 映画の世界で様々なカップルを見る時、僕らは瞬時に母の羊水の海まで降りている。

 また、「ドクトルジバゴ」のような「本当に愛する人とは一緒になれない」というようなテーマの映画に感動するのも裏返しの感情であり、やっぱり羊水の海の水面に降りているのだと思う。

 文学や芸術というのはひたすら元のところまで行きたがる衝動ではないかと思う。

 するとATLウィルスやHBウィルスの研究というのも、どうしようもない人間の衝動なのかも知れない。が、人間は文学やら科学とはおかまいなく、言葉も論理もなくふっと時空を遡ってしまうのだと思う。

2002年10月13日

爆弾テロ起きる

 この夜のことは日本で特別に書く。

 この日の朝、グランブルーの盛況ぶりを見に言った山下さん親子がから空港に着いたと電話が入った。昨晩、山下さん親子はグランブルーを発ち、空港に着いた頃、十月十二日の午後十時頃にグランブルーのあるレギャンで爆弾テロ事件が起きたのである。そのことを伝え、無事でよかったと言った。

 とにかく彼らは無事だった。

バワから連絡が入った。エステ店のガラスが割れたくらいで、グランブルーのガラスは割れなかった。

 当面、レギャン通りは封鎖、ということだった。

 オーストラリア人の観光客の多い、ディスコバーが狙われた。スタッフ全員に家で待機するように指示した。


2002年10月30日

村に帰る

 十月三十日、名古屋発のガルーダ889便の乗客は四十人。そのうちインドネシア人が三人、白人女性が一人。日本のビジネスマンらしき人が十人ほど。家族連れの観光客が一組。他は女性ばかりの四人連れ。二人連れ二組、カップル二組である。二十日以降はこんな調子が続いているようだ。

 ングラライ空港はガランとしている。出迎えロビーのところは人はまばらで、空港駐車場もガラ空きである。

 ジュプンバリツアーのグデに出迎えをお願いしておいた。ブックツリーやグランブルーのあるレギャン通りには入れないので、町を見てまわることはやめにして、シェラトンヌサインダーに向った。ングラライバイパスは現地の人ばかりで観光客はほとんどいない。

 十二日の爆発事故以来客はゼロ。グデは元気がない。ヌサドゥア地区に入っても人がいない。シェラトンもロビーに入ったら僕ら二人だけだった。客は全部で十六人ということだった。ほとんどのホテルが約5%。土曜日にはシェラトンはインドネシア人たちの会議があって10%になるという。十二月はロシアからの客もあり、今のところそこそこだという。レストランマネージャーたちからの話や、グデの話によると、インドネシア政府は各国からの支援金で大々的なプロモーションを行う予定で、とりあえずは十一月十五日にレギャン通りをオープンさせてお祓いの儀式を行い、各国旅行代理店にプロモーションをかけるということだ。

 「グデ、どうやって食べていく?」と聞くと、

 「最悪の場合は村に帰るかも知れない。銀行のローンがあるから、とりあえず二台ある車のうち一台を売る。一人で客をとる。それで生活できなかったらバカスに戻る」

 バリ人たちには戻るところがある。いつでも戻るためにか、故郷との縁を断たないために、慣習として、たとえ他所に出て行った者も、故郷のバンジャールに籍を置く。故郷には度々帰る。

 「一年もこの状態が続いたら、バリ島はもうダメだ」

既に失業者があふれている。シェラトンもスタッフの人数を極端に減らしている。

 「忍ぶしかないよ、グデ。オレもできる限りのこと日本からするから。」

 「グランブルーやエステはどうするの?」

 「閉じるよ、しばらく。そしてまた再開する。ブックツリーだけは三~四人交替で事務所に常時いるようにするから、ツアーのやりとりはできるから。」

 「ウブドはどうだい?」と聞くと、

 「ここより、もっと静か。ほとんど客はいない。サヌールもゼロに近い。」


 部屋のNHKテレビでは、アジア危険情報を流していた。イスラム過激派の本拠地を、東南アジアの地図で示していた。四つのグループがネットワーク化していて二つがインドネシアにある。

 アメリカは外交官、その家族が退去、という報道があった。

 イスラム武装闘争グループの特徴は、ネットワーク化にある。組織だてされていない。登録もなければ位階もない。アラーの神を信じ、忠誠を誓うだけで、個人それぞれが活動できる。上からの指令があるなしは関係がない。アメリカのテロとて、本当にビンラディンから指令があったのかどうかあやしい。自爆テロが示すように勝手にジハードをやってしまい、ネットワークが追認、あるいは共に背負ってしまうという形である。

 武装闘争を容認する人々が一千万人以上いるというから、アメリカの唱える「テロ撲滅」は至難に思える。

 「バリ島で同じようなことは二度起らない。」

と誰かリーダーが宣言してくれたらよい。その言葉がTVで流れるだけでこの島は助かる。そういう寝技師みたいなのはいないものだろうか。州知事にそれほどの交渉器量があればよい。


2002年11月1日

半日は明日のことを考えない

  一時的に銀行に預けているお金を引き上げることにした。仮に次のテロがバリ島で起れば、経済封鎖になるかも知れない、という判断をした。インドネシア政府も外国企業の資金の引き上げを心配しているが、こればかりはどうしようもない。会社を守るためにもと決行した。

 BNIも相当説得にかかってくるかと予想したが、全くそれもなく回復には六ヶ月から一年かかると思うので、安全になったらまたお願いします、ということだった。 ルピアから円が一円78ルピアであったのを76ルピアで交渉した。

 デンパサールに行く途中、村の通りにペンジョールが立ててある。オダランかと聞くと、グデが寺院の改装記念だと言う。

 デンパサールのマタハリデパートで、六~七枚CDを買った。今一番バリで流行っているバリの流行歌、WIDI WIDINANAのKAOUNG BELUS。グデのおすすめのBaleganiur Semarandana(ガメランのロックみたいなもの)、SIONG、RINDIK、それに古いダンドゥットと一番新しいダンドゥットのCDである。

 今、シェラトンのビーチ前で、スロンディンを聴きながら、海を見ている。遠浅の海が今日は澄みきっている。十年以上も前に夕方の六時頃になると潮がすっかり引いてしまい、そこを通って家路を急ぐ現地の人たちの列を見たことがある。見たことのない風景だった。近道なのだろう。

 バリのどこが危険なのかわからない。今、こんな静かで、のんびりとして、陽は輝いている。

 ロシア人らしき女性、ドイツ人らしいカップル、中国系らしいカップル、日本人の新婚のようなカップル、白人の老人がビーチを散歩している。

 プライベートビーチなのに、いつの間にか物売りの男が貝の殻をケースに入れて前方でサインする。これ、どう、と身振り手振りをまじえて、商品を見せる。誰も相手をせず、無視していると、いつの間にかどこかへ消えていった。

 現地の人が投げ網をもって現れた。じっと魚がいるかどうか見ている。僕も興味をそそられて、その男のそばに行き、同じようにして海をじっと見るが、魚の動きは僕には見えない。彼は黙ってじっと水面下を眺めて、いつでも網が打てる姿勢である。背のカゴをのぞくと、イシダイの子、サンバソウだった。彼には水の中が見えるのだろう。僕も昔、魚や貝の気配がわかったのだったが、今は勘も鈍ったのか、気配もわからない。魚を捕るというのは山菜を採るのと違って、緊張感がある。網を投げようとする姿勢に感じ入りながら、僕はくつろいでいる。

 プールで泳ぎ、部屋でシャワーを浴びて、NHKのニュースを見る。

 シェラトンのレストランは「イカン」という海辺のレストランのみオープンでメニューが極端に少ない。食べるものがないとも言っておれないので、昨日と同じようなものを注文した。

 そこで驚くべき発見があった。

 シェラトン専属の四人の音楽グループである。初め、どこにでもいるラテン音楽をやるグループかと思っていた。演奏を聞いていると、トランペットの音やトロンボーンの音、あるいは鳥の声や犬の声も聞こえてくる。不思議に思っていると、四人のうちのパーカッションを担当する男が声で、トランペットをやっているのである。

 その声のトランペットは、低い音も高い音もでて、一流のトランペット奏者のようである。

 「ククルク パロマ」になると鳥の声やら、犬、カエル、にわとり、いろんな鳴き声が出てくる。たいへんな特技に僕らは大感動。

 久しぶりにのんびりした半日だった。この半日は明日のことは考えないことにした。

 明日、レギャンの様子は全部わかる。


2002年11月2日

クタ、レギャン 1

 朝十時、レギャンに向って出発した。クタのエリアに入って、ベモコーナーのところで車はストップ。レギャン通りには入れなかった。開けている店、閉じている店をチェックしながら、ブックツリーの事務所に向った。

 グループ会社の全員が待っていた。レストラン、エステ、みやげ物店、そして本体であるブックツリーを閉じるかどうか、そして雇用者側、被雇用者が互いに協力し合って、どこで今、落ち着かせるかまた僕らも落ち着くことができるか。

 今度同じような爆弾事件があれば、バリ島はほぼ壊滅である。

 各会社、それぞれ事情が違うから、それぞれの会社で僕らへの要求をまとめてくれ、とリーダーたちに言った。僕が直接言っても黙るばかりである。当然のこととして彼らは彼らの生活を守りたい。会社はつぶしてはならない。

 要望事項をまとめる間、僕はこの爆発があったクタ地区のバンジャールの長のところへ行った。僕の要求を伝え励ました。

 APECでバリ島への支援金が発表された。まずこのお金の一部をクタの再興に使うべきだ。みんなして、日本領事館へ行き、次いでバリ州政府に行き、クタ地区のすべての店がオープンしている状態にできるよう、働く人たちへの支援金を出せ、と要求するべきだ。違法の路上駐車は禁止するべきだ。そして支援のお金で、バリのクタ、レギャンを代表する者たちが、オーストラリア、日本などを訪問し、テレビ局に働きかけて、プロモーションをするべきだ。僕がお手伝いする、と説得した。

 「説得」と言わなければならない。なぜなら彼らは支援金が出るとニュースで聞いても、あてにはしていないのである。違うところにお金が流れていくと思い込んでいる。また、そういうことは訴えるものではない、待っているべきものだ、とトンチンカンなことを言う。さらにトンチンカンなことを言う。ます、「お祓い」をすると言う。

 僕は「結構だ、だが同時に進めなければならないこともあるんだ。儀式のことが100%ではない。毎日毎日、店は閉じてゆき、働く人は減り、路頭に迷ってしまうのだ」と言う。

 名誉職のようなバンジャールの長というのは、バランスばかり考えている。ちょうどそこに州の役人がいたので、「支援金などをくすねたり、クタやレギャンの人、会社のために第一に使わなかったら、僕らはマスコミに訴えるぞ」と言った。

 「日本領事館へ行け、交渉しろ、とりあえずバリの店はみんなオープンにさせろ。安全の確保は当然のことだ。警備する人間を今の百倍、千倍にするためにその支援金を使うべきだ、そうしてから、日本やオーストラリアにプロモーションだ。さっさと、バンジャールの役員全員とクタの住民全員でやってくれ、僕らもできる限りのことはする。」



 グランブルーから結論が出始めた。彼らは、この十一月の給料は全額払ってほしい。そして十二月からは無給で自宅待機をし、ローテーションを組んで店の管理をすると言う。

 このグランブルーのスタッフたちの宣言と合意書で、他の会社も右にならえとなった。本体のブックツリーは全員、基本給だけで耐え忍ぶことになり、毎日三人が出て、すべてを管理することになる。

 こういう合意書作りで、時間は過ぎてゆく。するとレギャン通りから何かトランペットの音楽が聞こえる。追悼の行列である。爆発の地点までレギャン通りを北上する。みな黒いTシャツを着ている。「サリクラブ」とその前の「ペディス」は吹っ飛んでいる。十五日にPurificationが行われる予定である。

2002年11月2日

クタ、レギャン 2

 実際バリに来てみると自分の目と耳、そして肌で感じることがある。

 この島の安全対策は十分か。他の場所でも起る可能性はないか。素人眼で見ていても、スキだらけで、厳重な警戒体制とは程遠い。タイのプーケットの映像と比べても、警戒体制はぬるい。

 今度起きたらバリ島観光産業は壊滅であることはみんな知っているはずだ。

 日本を含め各国からの支援金は何に使われるのか。バンジャールの長たるウェンドラさんの政府への期待感が薄い。復興へのプログラム作りにも積極的とは言い難い。彼らは必死である。まず儀式を考える。すべてはそれからだと考える。

 支援金がいつバリ島に届くのか。どのように使われるのか、各国の領事館は見張る必要がある。

 失業者が十五万人から二十万人出るとも言われている。

 店を閉じればせっかく来た観光客もがっかりする。店はいつもオープンしている状態にしておく必要がある。こういう一連の施策を誰が訴え、誰が実行してゆくか、である。


 支援金の使われ方のひとつに宣伝活動がある。十分な安全体制確保ののち、テレビや雑誌などマスコミでPRすることである。クタ地区のバンジャールの役員や住民が宣伝に出かける方がよい。州の担当官が旅行代理店なのにあいさつにまわる。バリに招待して安全であることを確認してもらうのも悪くないが、クタの人たちのプロモーションをするべきだ。被災地にはモニュメントを作る。しかも誰もが一度は見たくなるようなモニュメントである。

 バリ人たちは、この事件を深層の意識のところでは「バチがあたったのだ」という思いも持っている。ディスコ、麻薬の交換所。この二つのクラブは白人社会を象徴しているように見えたはずだ。白人たちの中には喧嘩をする者も、ののしり合うのもいる。女を買い、連れて歩き、あたりのホテルに一夜を過ごす。そういう汚れた場所の象徴として感じとっている人も多い。享楽を慎むバリ人はひっそりとそういう思いを抱いている。

 多くのジャワ人はジャワに戻っている。バリ人たちのジャワ人に対する感情が激しい。今度、小さくても同様の事件が起れば、おそらく、バリとジャワの対立は決定的になるに違いない。

 バリの観光産業も冷水をかけられて、観光にかかわる人々がそれぞれに反省する期間となればよいと思う。

 こういう機会に、観光産業の基本から、新聞社などでキャンペーンを起こすとよいと思う。

 ぼる、だます、ひっかける、サービスとは何かを何を大事にすべきかを考える。まだこうのような記事は見当たらないが、ちょっとずつ人々の口から口へと伝わり、再生した時のバリはこれまで以上に安心でき、心癒される島であってほしいと思う。


2002年11月3日

神の声

 ヌサドゥア地区やジンバランのホテルなどは厳重な車両のチェックを行っている。空港については国内線ゲートが厳重である。各港も厳重である。今度同様の騒ぎが起れば、バリ島はもう壊滅だと、ほとんどの人が思っている。

 観光都市を守る宣言をASEAN会議で採択されたが、反テロ声明とリンクされているから、それでテロが防げるわけではない。あくまでも政治的な声明であり、問題を解決するものではない。

 世界はイスラム原理主義とどのように向き合うかというグローバルな問題として解決しなければならない。

 不思議なのはバリ人たちのおとなしさである。怒る声を聞かない。帰る村はちゃんとある。そこでならなんとかやっていける。金はないがまあやっていけるかという気持ちもある。政治や州は何かしてくれるわけではないと思っている。怒りはジャワ人に向けられる。我々に対しては黙るだけだが、怒りの感情はジャワ人に向いているように思える。全体的にそういう印象を受けた。慣習的に、行政組織たとえば市や県や警察に解決を求めていくことをせず、村の自治組織バンジャールが大半のことを決め、その掟に従ってきた。そしてバンジャールと行政組織は別になっており人々にとって優先はバンジャールなのである。

 クタで働いているのに、クタのバンジャールに所属していない。だからクタをなんとかしていこうと思っても、よそ者になってしまう傾向がある。バンジャールが第一で、島全体が第二、そして外の島からやってくる者はよそ者と見なすという三重の構造がある。ジャワ人たちはバリ島で職を取り、違法のトランスポーテーションをし、ドラッグなども売る。つまりバリ島を汚しているという感情をバリ人たちはもっている。行政に対しては黙り、ジャワ人に対しては隠すように悪感情をもつ。僕はこの四年の間でそういう印象をもっている。

 今回の爆発事件はクタで起り、観光産業を一時停止にした。州政府がやるべき事はある、と思っている。そして気持ちとして、支援金がどれほどこようともその使途について、州政府をあてにしていないのが実情である。

 前回でも書いたが、この「サリクラブ」、「バディーズ」をターゲットとした爆発事件も、バリ人特有のものの考え方が深層の意識にある。享楽と退廃。観光地で毎夜現地人を排除して、バカ騒ぎをする場所、ドラッグが交換される場所。仕事が終わればまっすぐ村に帰るバリ人たちにとって共通して、ディスコやカラオケは〈好ましくないもの〉として映っていたのである。人の命は尊いけれど、このような場所が消滅したことにも何か神の声を聞いているようである。


2002年11月4日

結婚式の日

 爆弾事件があってから、どういう理由か次から次へと難敵が襲ってきた。敵の攻撃にひるまず、やや後退させたと思った翌日は結婚式だった。

 先輩であり、会長であり、友人であり、つまりパートナーであるYさんは、連日の神経戦で疲れたのか昨晩は食欲もなく、夜の八時には部屋に入ってしまったのだが、翌日の結婚式は、心も晴れやかなものだった。

 結婚式の主人公たちにまた自慢話だ、なんだかだと話かけて不興を買ったら悪いと思い、なるべく遠ざけるようにして、「見物するだけやで!」と念を押しておいた。先に言っておく。彼はその約束を守ったのである。

 十一月三日に結婚式を挙げると、僕がバリに発つその日に最終的な決定があった。バリの日本人スタッフは帰国していた。僕が急遽案内をすることになったが、のん気な気持ちでいた。

 Aさんカップルは二日に到着。午前十一時半にホテルで待ち合わせだった。Yさんは車の中で待たせておいた。そんな事に気を遣いながらも肝心なことを忘れていた。

 Aさんたちとの打ち合わせである。僕はてっきり二人は知っているものと思っていた。それを知らずになかなか約束の時間にやって来ない二人に本当に到着しているのか心配したので、フロントで確かめた。確かに二人は居た。電話をするとまもなく二人はロビーに現れた。

 あいさつをするやいなや、二人は不機嫌である。帰りのガルーダ航空がキャンセルになった、と言う。ガルーダの職員は、成田ならある、そこからは自費で、と言うらしい。時間もかかる。結局、しかたなくシンガポール経由を選んだらしい。不機嫌なはずである。

 さらに僕はその不機嫌さに輪をかけてしまった。何の打ち合わせもなく、お迎えのBMWに乗せてしまったのである。運転手は気の利いたことなど一言も言えない若いバリ人。彼は緊張している。「Congratulations!」とか「Happy Wedding!」などと言えるような男じゃない。運転手は黙っているものだと思っている。

 本当は運転手の隣りに僕が座り、ガイドのようにするべきだった。しかし僕は心から遠慮した。「二人だけの方がいいですよね。私はあっちの車で行きますから。」などさっさと言ってしまったのだった。


 バリ島の西、車で五十分程走ったところにタバナンという農業地帯がある。米とクローブ(丁子)の産地である。ここのクロポンという草餅も有名である。中にはパームジュガーのシロップが入っており、表面にはココナッツをまぶしてある。

 タバナンにケラビンタン宮殿がある。王制が廃止されてから、敷地面積は10ヘクタールから2ヘクタールに減った。今はもう王ではないが、第八代目の元王がここに住んでいる。

 渋滞もなく車は走った。タバナンの中心地に入るともうすぐ宮殿である。僕らと同乗しているバリのスタッフたちは悠然としたもんである。日本のような式の緊張感はない。なんとなく始まり、なんとなく終わる。わざとらしく演出を凝らし、涙を誘ったり、感動を起こさせるようなことはないだろうと思っていた。

 宮殿に車が着いて、二人を着替え室に案内した。不機嫌である。打ち合わせもなにもない、と言っているのが聞こえた。僕は冷や汗もんで、

 「おい、イダ、オレが通訳するから式の順序を説明してくれよ。」と言うと、イダはのんびりと優しく順序を英語で説明した。僕は初めての経験なので、通訳すると「・・・・・らしいです。」と言ってしまう。

 なんとか格好がついた。思えば、運転手の役割分担のことも地方のことも、宮殿のことも、式の順序のことも、なんとなく始まってなんとなく終わるような文化についても、僕は予め説明しておくべきであった。

 僕は、昨日、一昨日よりも疲れてしまった。

 日本だったら、着付けをする人も恐らく「本日は、おめでとうございます」くらいは言うだろう。そういう言葉もなく、二人は着換えをし、メークアップをした。衣裳が変り始めると、二人の機嫌が良くなってきたように感じて、ホッとしたのだった。

 新郎が背に剣をつける頃になって、ガメランの楽団員たちがゾロゾロと現れてきた。どのように測っているのだろうか。着付けの人がサインでもするのだろうか。

 するとどこからか踊り子たちが列を作って現れて、着換え室に入っていった、と同時に激しいガメラン音楽が始まった。太鼓を打ち鳴らす。グンデールをたたく。ドラが鳴る。踊り子たちに続いて新郎新婦が出てきた。バリの白い傘を持った男性が両側の先頭を歩き、庭を二周すると、門の前に新郎新婦が立ち止まった。進行の案内役がちゃんと二人の横にいて指示してくれる。祝福の踊りが始まった。花びらが二人にばらまかれた。二人の表情を見ていると、すっかり式の中に入り込んでいて、初めて見る踊りや祝福のされ方に驚いているように見える。するとトペンが門から現れた。王宮でしか見られないというトペンダンスである。その仮面も驚きだろう。

 そばで見ていたYさんは、なにかしら興奮している。以前、別の宮殿で宴をもったことがあり、その時と重ねるようにして今日の式を見ているのだ、きっと。

 トペンがおわると、宮殿の中にある寺院でお祈りと誓いをたて、さらに宴会場の前で互いに三回ずつ聖水をかけあって浄めをしたり、椰子の実を三回ずつ蹴ってこれからの人生に訪れる悪い敵を蹴るのだ。人生の甘さ、辛さ、苦さを表す砂糖や塩、バナナなどを互いに食べさせる。盛り立てることなどは何もない。淡々と進んでいく。たえず、楽団が演奏を続ける。食事をする時間があり、そうしてなんとなく終わった。

 Yさんは感激しきっている。彼はすっかりいろいろ想像をめぐらし、「オレもやりたい!プロデュースしてくれ!」と連発し始めた。もう彼の妨害はないと思い、Aさん夫妻にあいさつもしてもらい、その後彼は上機嫌で宮殿の見学をAさん夫妻に同行して見学したのだった。

 終わってから、ここの主、元王様夫妻が登場。記念写真を撮って、二人は機嫌よく帰路に。すみませんでした、と心の中で謝りながら見送った。

 車の中で、Yさんは興奮がやまないらしく、自分もやる時のことを騒がしく、あれやこれやとうるさい。

 ホッとした僕は、次の課題、インペリアルのドラッグストアをどうするか、という問題をなんとかしなければならない。四十分後はインペリアルホテルである。どうするのがよいか。ドラッグストアを閉めてしまうと、この時期わざわざバリに来て、このホテルに泊まってくれたお客様に迷惑がかかる。うーん、とまだまだ難問は続く。


2003年3月9日

空港

 約四ヶ月ぶりのバリである。

 関西空港発ガルーダ883便の乗客率は80%。春休みのせいか学生が多いように見える。

 うつらうつら居眠りをしていて気がつくと機内のモニターテレビは、あとデンパサール・ングラライ空港まで十五分と表示していた。すると右側の窓からアグン山が間近に見える。アグン山を中心としてバリ人たちの宇宙観や生活観があると思えばこの島は神々の島であり、この島だけで人々はひっそりと息づいているように見える。麗しい島。

 ングラライ空港で、アディが迎えてくれて、ングラライバイパスから、カルティカプラザ通り、クタスクエェアに入り、パンタイクタ通りに出てクタ海岸沿いを走り、ポピーズレーンⅡに入る。車が走っていない。観光客は通りに十人もいただろうか。ポピーズレーンⅡを抜けたところがサリクラブである。爆弾事件の跡地には新しい店舗が建ち始め、レギャン通りもあと二か月もすれば元に戻るかのような雰囲気がある。が、旅行客は非常に少ない。

 爆弾で崩壊したパディスが今度はバウンティーの広場の前面に新しいディスコを建設中である。

 サリクラブは現在のところ再建の噂はない。

 ディスコはイスラム原理主義から見れば退廃のシンボルであった。また貧しいバリ人たちから見ても、ディスコはのぞいてみたい気持ちもするが、「よからぬところ」という村の宣伝がある。

 「レストランを今度作るならスミニャックがいいと思うけど、どう思う?」

と聞くと、やっぱりレギャンだとグランブルーのスタッフ全員が答える。

 「だって、レギャンって駐車場はないし、一方通行で交通渋滞はあるし、爆弾テロはあったしでいいことろがないじゃないか。」

と言うと、レギャンを中心としたホテルの数のケタが違うと言う。四月からはオーストラリア人も戻ってくると言う。ディスコもまたできる。するとやはり中心地になると言う。

 イラクと米英との戦争がどうなるか。バリ島のこの二、三か月は、イラク問題が人々の気持ちに大きく影をおとしている。生活の予想をたてるにも、目の前にイラク問題が立ちふさがり、予想をたてられなくなる。

 シェフのバワ、フロアースタッフのグスはレギャン通りの様子を時にじっと見る。かつてないほどの不景気。かつてないほどの大打撃。

 夜八時。盛況だった時の十分の一の人。つまり、チラホラ程度の通行人。

 ぼんやりと二階から通りを眺めるバワやグスに元気がない。

 元気をつけるために僕は来たのだった。明日から十日間。みんなに希望の灯を点さなければならない。


2003年3月10日

あの時

  わずか一発、二発の爆弾が三百万人のバリ人達の生活をおびやかしている。爆弾テロから五か月経った今なおバリの観光は復興しない。

 ヌサドゥア地区で約15%、クタ・レギャンで20%、サヌールで10%、ウブドで15%という客室占有率である。

 夫婦二人で住んでいたアパートに入り、家賃をシェアする。故郷に帰り、マンゴスチンやドリアン、コーヒーの収穫の手伝いをして、わずかばかりのお金を得る。携帯電話を手離す。あらゆる手段を使って節約し、なんとかしのごうとしている。どこも火の車である。

 のんびりしているのは相変わらず地主成金の連中で、彼らがバンジャールという村の自治会を牛耳っているから、この社会は貧富の差が大きく、あまり変わりようがない。

 昨晩、グランブルーのマデというコックにミーゴレン(焼きそば)を注文した。すると、かなり塩っぽくソースが濃いミーゴレンだった。ホテルの部屋に帰って、水を何杯も飲んだ。翌日、マデにそのことを言った。マデはあわて戸惑い、「頭の中がいろんなことでパニックだった。一歳にならない子供が病気になって病院に行った。毎日お金が足りない。やりくりを考える」と言い訳をする。「味を一定に保ってこそ料理人だよ。そんなんじゃだめだ。危機に備えとくのも、味を保つのもおまえの器量だよ」と僕は冷たく言う。しかし、それは言い訳にしろ彼らの心中にテロは暗い影をおとしていることがわかる。結婚が今しばらく延期となった女性たちが、僕の知る狭い人間関係の中で三人いる。ヒンズーのセレモニーはお金がかかるから親が出してくれない限り、自分達で結婚費用を貯めることになる。

 ほとんどのホテルやレストランやみやげ物店は給料が半分程になったから、これまで貯えていたお金を吐き出すことになった。

 元サリクラブの土地所有者とバリ州政府との間での記念碑のための買収問題が決着がつかないでいる。記念碑ができたら、世界各国からTV各社が取材にくる。この宣伝効果は大きい。モニュメントの候補地でないところには、新しく店舗か建ち、再建を急いでいるように見える。が、肝心要の場所がはかどらない。

 「予期せぬ出来事」というのがある。人生には予期せぬ出来事があるものだ。思わぬ事故。

 僕は七年前、バリ島から帰る車の中で何気なくラジオをかけたら、社員のYさんの名前が耳に飛び込んできたのだった。初め耳を疑った。同姓同名の女性がいるものだ。阿曽付近の国道42号線で正面衝突だった。Yさんの友達のAさんは即死だった。家に着くとすぐ連絡をとった。Yさんに間違いはなかった。その日Yさんたちはゴールデンウィークの最終日、大阪に行く途中であった。

 一か月前の予定では僕ら家族とバリに行く予定だった。一緒にいくはずだった同僚の女性がオーストラリア旅行が当たり、バリ島をキャンセルした。結局、この旅行は僕ら家族だけで行くことになった。 

 あの時、同僚の女性がオーストラリア旅行の方をキャンセルしていれば・・・。あの時、Yさんらの出発がもう一分遅れていたら・・・。あの時、友人の車が外車でなく助手席が左側であったら・・・。あの時、友人が大阪に行くなどといわなかったら・・・。

 そんな風に考えていくと、最後には矛盾にぶち当たる。「あの時、Yさんが生まれていなっかたら・・・。」と。そしてさらに、それは両親の時代にまでさかのぼって行き、永遠と無限の「あの時、~でなっかたら」という慰めの問答を行うことになる。

 爆弾テロで死んだ人達も同じであろう。

 彼らの運命の余波をバリ人達は今受けている。テロリストはニタニタ笑って新聞の上にいる。

 人々の怒りは、そのテロリストに向かない。怒りが拡散し、浮遊して、狙いどころもない。

 ただ苦心して、今日、明日をどうしていくか考え、行動するだけである。そして耐えるしか方途がないのである。当然、ぼくらの店にも補償金はない。


2003年3月11日

若者

 昨日は夕方ひと雨降り、また真夜中に降った。今日は朝八時頃から一時間程のスコールがあった。雨期も終わり頃になると通りの樹々の成長の早さに驚く。通りの各店の看板は、ほとんど役立たないほどに、葉は茂っている。

 サーファーが多いようで、サーフボードを持って歩いているのは日本の若者たちだ。オーストラリアのサーファー達はあまり見受けられない。

 僕はいつも思うのだが、日本の若者の多くは印象がよい。バリで会う若者は礼儀正しく穏やかで、豊かに育ってきたことの良さが感じられる。

 その点、現在の日本の五十代、六十代の横柄で社会のルールを知らないトンチンカンな男性、女性をよく見るなかで彼らに若者を批判するような資格はあるものかと思う。電車内の携帯電話も、マナーモードにすることにも気づかず、聞きたくもない仕事の話を大声で喋る。平気で座席をひっくり返して、足を伸ばす。会社でも学校でもこの世代の人は人を縛ることしか方法を知らない。彼らの全部ではないが、僕は若者たちの方の穏やかさの方を評価する。

 テレビで紹介される若者は茶髪でピアスをして、同じような喋り方をし、成人式で騒ぎ、精神の障害を持ち、キレやすく、ネットで自殺心中をする。大人はそれを見て「とんでもない若者たちだ」と思い、自分の若い頃のことは棚にあげている。

 先日テレビのニュースで広島で行われたNO WARの人文字を作り、世界に戦争反対を発信している若い人達を見た。個々に集まり、人文字作りが終われば個々に帰ってゆく。明るい戦争への抗議だった。東京からバスをチャーターして、人を集めたり、リーダー格の男性は「開かれた個人として、開かれた運動になればいいんです」と言っていた。

 僕は感心した。個人を尊重し、集団に出入りすることも個人が優先される開かれた関係で、さらに開かれたインターネットを使って世界に発信する。こういうことが言えるのである。

 連合赤軍も閉じた集団を作ってしまったために、あのような結果となったのだと思う。あの頃若者たちの多くはアメリカに支配される安保条約を拒んだのだった。やり方は暗く、閉鎖的だった。その後、時代は完全に高度経済成長の波に乗り、日本人は豊かになっていったのである。

 豊かさの中で育った人たちが大人にになり、個人と個人、個人と集団、そして個人そのものの関係性をなんとなく知り始めたのかも知れない。すがすがしいニュースだった。

 ここで、バリの若者に触れなければならない。彼らは村落共同体の一員である。個という概念に乏しい。集団の中でのやり抜き方をよく知っている。

 物事は宗教的な思念で解決を図ろうとする。テロ事件→神のバリ人への警告→試練→良いカルマ→未来は明るい、いう風に。

 しかし個の度の過ぎるわがままさは他から抑えられる。自分でバランスを保つと言うことはない。他人の忠告、他人の眼があって、なんとかバランスを保っている。個なんて要らないと思っているような節もある。その辺があいまいになってきている。バリ人の人あたりは非常に良い。だが家庭の中の彼らの本当の姿を僕は知らない。


2003年3月12日

贅沢な日

 どうも心ここに落ち着かないという状態が続いている。みんなの表情が冴えないし、コンピュータの調子も悪い。主要な仕事は一日で終わってしまった。朝、雨が降り、午後も断続的に雨が降った。ジュプンバリのグデと二時間ほどバリのよもやま話をした。「死んだ人には悪いけど、バリ人の多くは今回の爆弾事件はバリ人が傲慢になった神からの警告だ」と言う。なんて分かりやすい解釈だ。宗教はそれだから嫌だ、と思う。グデを嫌だとは思っていない。宗教がそのように解釈させるのである。「交通事故にあった。死ななくて済んだのは信心のおかげである」というのと全く同じである。

 こういう信じきった考え方を覆すのは並大抵のことではない。千の神経や万の根気を必要とする。結局「今は試練の時です。ニスター・モトキは良いカルマがあるから、次の代の息子さんはもっとよくなるでしょう」などと言う。本当は自分に向かって言っているのである。そこに信心が現れる。

 「バリは二年ごとに悪災に見舞われる。一九九五年のコレラ。一九九七年の経済危機。一九九九年の暴動、二〇〇一年のアメリカ同時多発テロ、そしてバリでの爆弾テロ。観光地化して心がよからぬ金のほうに動いていくのを神は見かねるのだ」と言う。

 「どうして自分たちのほうにばかり引き寄せて神を考えるんだい。お前の神はサリクラブで遊んでいた白人を救わないほどに差別をするのかい」と言ってしまう。

 「お前の神はお前だけのもんなのかい? それともバリ人だけのものかい? 俺はお前の神から見ればどうでもいいのかい?」とそこまで言う。次は言うのを止める。

 「そんなご都合主義の神の論理なんか言うのは止めな。テロリストも神の意志と思ってやっているんだ。つまらん自己慰めなんかやってないで、代わりにほれアグレッシブに、ほら客をゲットすることを考えろよ。臆病になるなよ」と言う。

彼は本業のツアー会社がこのテロの影響で客がなく、耐え忍ぶのにジャカルタの会社の健康食品を売っている。日本のデフレの現象を知らないから、日本人には安いもんだろう、と勘違いしている。

 グランブルーで雨が土砂降るのを見ながら、熱帯の植物の成長の早さに感嘆しては通りの樹木を見て、雲の激しい動きに目をやる。

 四時。日本にいるマンタラの家族が今が旬のランブータンとサラックをいっぱい持ってきてくれて、話をし、今度はソンダルの兄貴がやってきた。日本にいる彼らからの渡し物をとりに来たのだ。マンタラの家族は対葉豆の生産も引き受けてくれた。ソンダルの兄貴は公務員だからできない、と言う。

 ほう厳しくなったもんだ、と思う。彼はバリの電々公社にいる。ユダからは奥さんに渡してくれ言われた物があった。ユダの娘が来たのは六時。僕は顔を知らないし、その娘が本当にユダの娘かどうかわからないので、身分証明書をと言いたいところだが、ハッピーバリに電話してユダに確認をした。

 デンパサールに買いつけに行って帰ってきたスタッフと共にに買いつけたきた物のちょっとした品評会。

 七時から「あちゃら バリ」という雑誌をやっている五十嵐さんと会った。僕の方から無理やり誘ったのだった。な、なんと十一年もバリにいるという。東京の通勤が嫌いなのだそうだ。集団の中にいるのが得手が悪いのだそうだ。「バリでなくてもどこか、パースとかアメリカのどこかとかで暮らすでしょうね。仕事のチャンスがあれば」と穏やかに話す。東京に帰る気がないようだ。いろんな人がいるもんだ、とバリで人に会う度思う。たいへん良い出会いであった。

 そんな風にして時間は過ぎた。スラバヤ、スマトラ島に行く事もなくなった。十五日、ヌガラに行くことだけが予定である。贅沢にとりとめもなく過ぎた。

 マンタラの奥さん、妹と父親が来たので、事務所から大阪のマンタラに電話した。電話器を父親に渡し、話をしては、と勧めた。父親は照れているのか、電話器を取らない。物静かで穏やかな人だった。

 先日、実家に行き、父の様子伺いをした。母は外出していて父は寝転んで「鬼平犯科帳」を読んでいた。父は四年間病気で苦労した。向こうから何度も呼ばれたと言っていた。父とは魚釣りを一緒にしたくらいで、話し合ったり、互いに笑いあったりしたことがない。物言わずで黙ってテレビをつけて横になっているのだった。酔えば戦争に行った時の話をした。遠洋漁船に乗っていたから、子供の頃は滅多に会うことはなく、逆に帰ってくると日常の生活パターンが違ってしまうし、重たい空気の塊に包まれたようで息苦しかった。

 実家に帰っても笑い顔ひとつするでもなくいた父が始めてにこやかに話しかけてきた。何かないいいことがあって笑っているのではない。息子を見てニコニコしているのである。

 僕がバリ島に生く度に母に「順一はまだ帰らんのか」と心配そうな口ぶりで言うらしい。ちょうど三月の始めだった。この時期、父を見ると「えたれいわし」を思いだし、無性に食べたくなる。昔は少しおすそわけをしてもらっていた。ほどよい脂がのるのはこの一週間である。

 父がいくらニコニコしていても、互いにいつまでも話をするような習慣はなかったから、また世間話は互いにしない性質だから、二言三言喋るだけであとはもう話がない。

 マンタラの父親を見ていて父親というのはそんなものかな、と思った。

 父親と話なれていないので、娘や息子ができてどう接してよいのか、自分には刷り込みがないような気がした。当然誰でも親になるのは初体験のことだ。だが、父親をどんなトンチンカンな話でもプロ野球の話や相撲の話でもしている経験があれば自分の子供とああでもないこうでもないと話しているに違いない。

 親孝行をするにもそのやり方がわからない。母親にだったら旅行でもしようか、今度カラオケでもいこうかと言える。何が父親を喜ばせるものなのかわからない。父となった僕も同様に子供たちに対して、無駄な話はしていないように思う。言うときは肝心な話だけを言う。

 それでも最近息子が久しぶりに帰ってきて「やっぱ我が家はよいな」と言われると嬉しいのである。


 さてマンタラの父親は結局息子と話をしないまま帰って行った。僕を見に来たような気がしてくる。日本人のボスはどんな男か。奥さんは嬉しそうに電話で話をしていたが、その様子を穏やかに見ていただけである。しかし父親の役割をしっかり果たして帰ったのである。僕はマンタラにきっと言う。「お前のお父さんは良い人だ。りっぱな人だ」と。


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2003年3月13日

ヴィラを訪ねて

 メルマガの「ちょっとバリ気分」でヴィラ紹介をシリーズ化しようと思い、取材にでかけた。僕はアポもとらず直接行くのでバリ人のスタッフは驚く。驚くというよりヴィラ側にあきれている。インドネシア語の上手なアキちゃんはすでにバリ人と見られているようである。コンピャンはバリ人である。まず彼らは取材の電話をする。それから企画書をだす。そういう手間がいる。そしてお断りという場合もある。逆にいえば、そういう手間をホテル側もかけている。無駄なことだ。僕は直接行く。「日本ではヴィラが人気である。今度のスミニャックのビラを紹介したいので、案内書がほしい。そして幾つかの質問に答えてほしい。もちろん写真はすべて取らせてほしい」と頼む。断るはずがないではないか。宣伝になるのだから。

 それがバリ人同士だと、とたんに厳しくなる。ホテルを運営する側はとにかくバリ人にホテル内をうろうろしてほしくないようだ。

 今日は五つのヴィラを取材した。ヴィラは家族やグループで泊まれば安上がりかもしれない。またどこにも出かけず、のんびりするのならいいのかもしれない。

 僕にはヴィラと言えば敷地の狭さが気にかかる。せいせいしない。ヴィラはどこも敷地が狭い。オベロイのようなホテルヴィラだと敷地も広く、ディナーもレゴンダンスなどを見て楽しめるし、テニスやエクササイズも楽しめる。貸しビデオもある。普通いわれるヴィラではいちいち外に出かけなければならない。ショッピングも外になってしまう。しかし気の合う仲間がいて、誰にも気がねせずいられるのだったらヴィラはいいだろうな、とも思う。僕は宿泊場所は音楽をやっていたり、バーがあったり、いろんな外国の人がいてプールサイドで楽しんだり、テニスができたりしたほうがよいので大型ホテル、贅沢を言えばホテルヴィラの方がよい。どこにも出なくて、すべて済むところがよい。

 どうしようもないようなヴィラが、オベロイよりも高い。スタッフの質は高そうでもない。異論のある人がいるだろうが、個人的な見解である。

 スミニャックは結構観光客がいると聞いたが、ほとんどいない。ヴィラはがら空きであった。これまでどこもヴィラの客は日本人と台湾人が多いということだった。

 汗が顔から吹き出るので、ヴィラの前にあるジャワ人がやっているワルンに入った。現地の二人は客なのかどうかわかないがチェスに熱中している。一応ウエイターの少年が「いらっしゃいませ」とも言わず、僕らを無視しているので、勝手に冷蔵庫から冷えたテ(甘茶みたいなものだ)を取りだし、ナイロン袋が油でヌルヌルしたパンを取る(これは美味しかった)。

 「勘定!」というと裏庭からのっそりおばさんが出てきて、無愛想な顔で勘定を言う。バリの女性もそうだが、インドネシアの女性は怒っているように見える。話し合いの時などは喧喧諤諤のようにように見える。

 行く先々でみんなイラク攻撃の話を話題にする。十八日にどうなるか。もし戦争が起きればまたバリ島に観光客は来なくなると考えている。

 クタのイマンボンジョールからスミニャックまでのサンセットロードがやっと完成し、今は車が軽快に走っている。それまではアナボコだらけの道だった。この道が完成することで、スミニャックが注目され、ヴィラが多くできたのだろう。

 ロイヤルスミニャックのマネージャーと会った。8%の客室率だそうである。僕にこっちに移れ、という。特別な値段をだすと言ってくれる。ちょっと心が動いたが仕事では便が悪い。

この二日、雨はない。雨期は終わったのだろうか。

 相変わらずバリに来ると身体がだるくなる。もうずっとだるい。原因はわかっている。アルコールの飲みすぎで肝臓が疲れるのと、やはり強い引力と強い重力の関係なのだろう。

 バリニーズマッサージではこの疲れはとれない。内臓の問題なのだ。夜、エステに研修に来ている女性と、仕事に行き詰まって一週間考えに来たという男性に「顔色が悪い。大丈夫ですか」と心配された。グランブルーは青いレストランだからそう見えるのだろうが確かに身体がだるい。部屋に帰って、鏡で自分の顔を見た。こんなもんだろう、と安心した。

 と言いながらビールくらいしか飲むものないし、さていまからビールを飲むか、飲まないか思案している。きっと飲むと思う。


 エカはイダ・バグスのカーストである。クルンクン県のバカス村には3つのイダ・バグス家があって、その3つのイダ・バグス家の長男がグランブルーで働いている。エカはバカス村を出て、クタにアパートを借りて住んでいたが、爆弾事件後、アパートを出て、叔父の家に居候している。

 そのエカにガールフレンドができた。二人は結婚したいと思っているが女性のほうはカーストがスードラである。両親は反対。兄弟にはこのことを言えず、苦しんでいる。

 おそらくエカが主張を強くすれば、結婚はありえるだろうと僕は思う。違うカーストのものが結婚するのは近頃では珍しいことではない。慣習としてカースト制度は残っていても、法律上禁じてはいない。国の理念がはっきり示されていればその理念のほうに人々は動く。

 コンピャンもオカもバワも違うカーストの女性と結婚している。だいたいが5%ほどしかいないイダ・バグス。カーストの中からイダ・アユ(女性の名前)を見つけるのは至難の業だろう。彼は親の反対にあっている。悩むだろうが彼の決断が最も尊重される社会になっているから、あとは勇気の問題である。


 ワヤンの夫が今収穫時期であるマンゴスチンとドリアン、コーヒーを栽培しているシガラジャの実家に手伝いに行っている。 彼はシガラジャから子供を残して夫婦でクタに出てきたのである。いろんな地方から若い人たちがデンパサールやクタに出てきて働いている。昔、各地方から東京や大阪に出て職を見つけたのと同じである。それによって地方は都会との情報交換ができるようになる。

 マンゴスチンが地方の農家でキロ五百ルピアとか七百ルピアで買い取られ、マタハリデパートではキロ二千ルピアになっているのを息子から聞くと、それは不条理で、なんとか直接に売れないものかと思うのは人情だろう。

 思えば、マンゴスチンは高価らしくホテルでも夕食や朝食に出し惜しみをしている。きっと仕入れ値が高いのであり、中間マージンが大きいのだろう。

 単純に言えば、息子と父親はデンパサールのマーケットに卸したらどうか、という発想になる。その話を聞いて、僕は、バイパス沿いかクタやレギャン通りにでも「フルーツの店」を開いたらいいではないかと思う。きれいにラッピングをしてある店であればマンゴスチンは一個五千ルピアで売れると思う。ランブータンも一房五~六コの実がついて五千ルピアでいけると思う。ただし売る方法が必要である。買わせる方法は消費資本主義の日本の人なら優れている。それを伝えるがなかなか理解できない。  

一番消費者と接する小売店が生産を引っ張るということがまだわからない。日本の政治家もそのことは本当に実感としてわかっていないが、バリ人はもっとわかっていない。店をどんなものにするか。ラッピングをどうするか。味の均一をどう農家に伝えるか。看板をどう作るか。広告をどうするか。果物のセットをどう作るか、などなど、そこまで考えは及ばない。馬鹿にして言っているのではない。

時代の段階の壁を打ち破っていく人たちが必要なのだ。

 こういうことをする人に銀行はお金を貸せばいいのだが、銀行は担保のとれるものしか貸さない。バリには心優しい外国人がいる。彼らがエンジェルになればよい。

 エンジェル基金でも作ってそういう人たちに資金を提供する。ふと思いついたことだがいいなあ、そのアイディアは。


2003年3月14日

バリ島

 フランジパニは愛らしくプールサイドで咲き、ブーゲンビリアはホテルのベランダを鮮やかに装飾する。夜のセダ・マラムは妖しげな香りを放ち、ロータスはひっそりとその花を朝早く開く。ハイビスカス、フラボヤント、熱帯の花々はバリ島を包んでいる。

 花の中で暮らしているようなバリ人である。

 バリ島には我々の細胞の中に染み渡る懐かしい記憶がある。ヴィラに篭っている人達でも周囲に懐かしい記憶があるから安らいでいられるのだ。これがイギリスだったらそうはいかない。どこかに違和感が生ずる。三十年ほど前、イギリスにいたことがある。僕はその人工的な公園に違和感を覚えてしょうがなかった思い出がある。整然と整備された公園は僕が遊んでいた頃の原生林の山とは違っていた。

 バリ島は世界のリゾート地の中でも最高級な環境を持っている。舞踊、絵画、木彫や石彫、種類の多い音楽、原始と現代にわたる人々の生活。花々、香辛料、動物や植物。おそらくバリ島を支配したオランダ人はこの島の豊かさに驚き、感嘆しただろう。

 旅のおもしろさは人と出会うことでもある。カタコトの外国語や身振り手振りで話す。一期一会である。それがよい。会う人々は舞台の上で会うようなものだ。バリ島ではすべての人が舞台で演ずる人のように見える。

 小さな島である。北へクタから三時間。西へクタから五時間で共に果てである。

 棚田は美しい。椰子のシルエットも紫色の夕暮れ時に美しい。半分の土地は水が十分あり、半分がいつも水不足である。もう少し人口が少なかったら自給自足は可能なのかもしれない。ガソリンを求めなければ。

 バリ島は90%がヒンズー教徒でその民族をバリ人と呼んでいる。彼らはその昔南インドの方からきたのだろう。ジャワに渡り、そしてバリに入ってきた。この豊かなバリ島を守るために彼らは必死で村落共同体を守り、連合し、今日にまで至っている。「神々の島」と外国人に言われるほどに神や霊と関係する儀式や祈りは多い。その文化があまりにも強固に残されているため、旅人にとって最高の異空間を作り、同時にそこにある印象と見たことがあるような回想がだぶり感動を呼び起こすのである。


自分のこと

個人は優先されるべきだが、自分のことはいくら考えてもわからない。考えれば考えるほどわからなくなるのが自分である。すると考えないほうがよい。流れにまかせ、何かが自分にやってくるくらいの気持ちのほうがよい。

「仕事で行き詰まり、社会にも入り込んでいけないんで・・・・」とバリに来た男性は言っていたが、社会にはいやおうなく入って行くときが来る。バリだったら、個人という概念がほとんどないし、自分のことを考えるということもあまりないので「社会に入れない」とか「仕事に行き詰まった」というような気分はないと思う。バリ人から見れば「何言ってるの」となるだろう。先進国人の悩みは「自分のことを考えることだ」。しかしそれは通過しなければならない段階で、自分を考えた末に結論はでないが、より内面と外面が開かれた個人になっていく。

 バリ人は内面が未発達の社会っぽい。閉鎖的。恨み。妬み。セックス観、世間や周りを気にする態度。物が言えない不自由さ。経済の発達で徐々に開かれていくのだろう。


 後進国の民族ほど宗教を信じるというデータがある。貧しい国ほど宗教心が高い。世界の宗教心に関するデータはアメリカのみ違っている。アメリカは超先進国である。が、キリスト教の原理主義が多い。イスラム国にイスラム原理主義の人がいるのとどこか共通しているのではないか、と思うほどだ。

 アメリカも広い国である。ニューヨークやロスはほんの一部のアメリカ人であり、映画で見るアメリカ人もそのあたりの人たちだろう。実は南部や中西部にかなり保守的で、キリスト教を純粋に重んじている人々がいる。彼らは日本などはあまり知らない。海を見たこともない人も多い。極端に言えば世界は彼らの住む社会である。それでも世界のニュースは入ってくる。そのニュースをキリスト教の原理主義の理念で選り分けるのである。いわば、アメリカのこれらの地域は後進国並なのである。

 それが大変な量の核や生物兵器を持ち、世界の警察と勘違いしている。迷妄である。彼らも個人というものを考えたことがないのだ。テロの行う悪よりも国家が行う戦争のほうがなお悪いということすらも気がつかない。そして、「世界の各国の歴史の段階」に思考を及ぼす力もない。排他的で差別主義である。

 話がまたもやそれてしまった。自分のことをどれほど考えても結論はないし、わからなくなるだけで、わからなくなると不安が増すばかりである。しかし、それは通過しなければならないのだ。逃げてばかりもおれない。やがてどうしても、イヤイヤながらでも社会に出るのだ。そして心を開いて待っていればよい。淡々と。そう思う。


2003年3月15日

ウブドへ

朝方グデがマルベリー(桑)の葉とクリサント(菊)のお茶をもってきた。身体によいのだという。彼の説明をきくと万能でいかにも長生きしそうである。あと珍しいコーヒーを持ってきた。記憶力減退によい、というのである。そのコーヒーにはギンゴといわれる植物が混ざっているというのだが、日本語や英語で何というのかわからない。商売というのは何が当たるかわからんからね。試しに一ケ月ほど飲んでみるか。

 昼前からウブドに出かけた。ヴィラの取材である。ウブドにも観光客はほとんど見なかった。ホテルにいるのかもしれない。が訪問したヴィラには一人の客もいなかった。

 もうすぐオープンが来年の四月頃のオープンになるというロイヤルピタマハはまだ工事中であった。コンセプトは以前と変わっていないように見える。バリ木彫が基本である。ヌサドゥアの「バレ」とは対極である。「バレ」はバリのコテコテ感を削ぎ落とし、雰囲気はインターナショナルである。ロイヤルピタマハはバリの彫刻がどこにも装飾されていて、ジャングルの中にいる雰囲気である。ヴィラからはアユン川の渓谷が見える。

 いくつかヴィラを見学させてもらった中で、特筆に値するのは二〇〇三年の一月にオープンした「ガヤトリ」というヴィラと昨年の十二月にオープンした「カユマニス Kayumanis」というヴィラである。

 車の通る大通りからは外れていて一本道を中に入る。互いに近所どうしである。ガヤトリは三棟のみである。しかも3ベッドルームと広いリビング、広いプールがある。日本人の女性が作ったのだそうな。広々としていて、先日見学したスミニャックやヌサドゥアのヴィラのように暑苦しくない。スミニャックのヴィラは樹木が少なかった。太陽の照り返しがきつい印象を受けた。ガヤトリはこじんまりとして静かだった。マウンテンバイクやDVDなども用意されている。

「カユマニス」は 1寝室のヴィラが6棟、2寝室のヴィラが2棟。3寝室のヴィラが1棟でレストランとスパもある。

各ヴィラはちょっとづつデザインが違う。スマトラ島のデザインをとりいれた家具、ジャワ島のものおを取り入れたヴィラ、プールも広く快適そうである。

 特筆するのは両ヴィラとも道を登り下りしなくてもよいほどにこじんまりしていることだ。ウブドのホテルの多くは斜面にできているところが多く、これがたいへんである。老人には向かない。

 おそらく都会の狭いマンションやアパートに住んでいる人はため息がでるだろう。都会の多くの人が手に入れられない別荘を数日提供する。仕事でクタクタになっている人にはたまらんだろうと思う。

 ウブドに出かける度に村のなにがしかの儀式の行列に出会う。オダランのため寺院に供物を持って歩いている女性を見る。

 その風景は十年前と変わらない風景である。

 棚田では人が多く出て、農作業をしていた。

 バリ人の季節感はセントゥルという果物の花が咲くと、風が強くなり、雷雨が降り、乾期の到来を思う。あるいはドリアンも季節感を呼び起こすものである。日本の春の桜のように、バリ人たちの微細な季節感はあるに違いない。そんな話をゆっくりグデとしながらレギャンに帰ったのだが、なにせ言葉が英語だから互いにもどかしく。もっと季節感とか文学のことを深く聞いてみたいのだ。


 近頃バリ島ではジャムー(インドネシアのハーブを使った漢方薬みたいなもの)離れが起きているようだ。ほんの最近まで夕方になると男たちはジャムー売りの屋台や薬局にいき、苦いジャムーに蜂蜜や卵を入れてスタミナをつけ、気合をいれる風景があった。この頃は簡単なものが出てきて今多くの男性が飲んでいるのは「エクストラ ジョス」という粉を水に混ぜて飲むものが流行りである。味はレモン水のようである。

 「IREX」というインドネシア バイアグラというのも出まわっている。こちらは少量の液体が少量袋に入っているものである。

 娯楽の少ないバリ島では刺激が拡散しておらず、セックスは最大の刺激的な娯楽のようだ。

 先日、オフィスに行き、ちょっとコンピュータを使うよ、と言ったら、スタッフの一人が最初の画面に戻そうとした。すると、何を間違えたのか、男のチンチンを口にほおばる女性の画面が出てきて、「なんだこれは、こんなもん見とるんかいな」と笑ってしまった。今はインターネットがあるからどんな情報も取れる。テレビのキスシーンも禁じるこの国はこういう風にして変わりつつあるのだ。


 今日仕事の終わりかけに男性スタッフと女性のスリアシがいて、ちょっと世間話になった。四年前のスリはまだ高校の出たてで、メガネをかけたあどけない女性だった。この半年でめっきりおしゃれをするようになり、髪も普段の仕事の時は後ろで束ねているが、帰り際になると髪を長くおろすようになった。それが色っぽく見えるのである。ボーイフレンドができたことは知っていた。ボーイフレンドでこれほどまで変わるものかと驚く。グスティーが今年こそは結婚したいというので、その話で花が咲き、話題は「スリお前はどうなんだ」ということになった。スリは少し照れたが、笑いながら「妊娠してから」という。バリ島では妊娠が結婚の必要条件であるのは知っていた。スリのよう若い女性もそういう考えをもつのか、と思う。バリ島には「恋」とか「愛」を至上のものとする人もいることは知っている。しかし次代を作ることも大事なことだと考える。それは循環の思想から来ている。生まれ変わってくる者を断ち切らないことがひとつの命題である。

 子供ができない夫婦はいくらでも日本にはいる。それで肩身が狭いということもない。日本社会がやや開かれた証拠である。バリ島にはこういう点でも窮屈さがある。

 卵巣は言うまでもなく我々の身体は宇宙の太陽系の天体の相互の影響し合うリズム(波動)に合わせて生きている。鮭は餌を食べる食の位相から故郷に戻り産卵と射精をする性の位相に変化し、ダムができてもひたすら次代を作るために溝を見つけては劇的に這い登る。

 思えばスリは僕ら日本人よりもより強固に鮭のように這い上がる無意識を持っているのかもしれない。

 先進国では人間は罪刑法定主義の中、法を犯さなければどんな夫婦のあり方も、生活も、認められるようになっている。それは人間とはもっと複雑なものであり、難しいものだからだろう。その難しさにスリが当面したら、スリもボーイフレンドは何倍も苦しむことになる。放っておけばよいことを放っておかない宗教的な物の考え方が周囲にある。しかしそれも変わっていくのだろう。ジャムーが変わってきたみたいにだ。


2003年3月16日

母と子

一回3時間会っただけの感想である。彼、ワヤンは器用に日本語を使いこなす。ハンサムである。格好がいい。頭の回転もよいと日本人の奥さんは思っている。

 彼は日本の「潔癖症」に否定的な考えを持っている。サーフィンが大好きでサヌールの浜で今の奥さんをひっかけた。奥さんのほうは、なんとなく彼に惹かれていき、(電気は走らなかったと言った)、妊娠することになり、ついで結婚することになり、両親共反対することなく、父親のほうは賛成となり、母親の方は行く先を思えば反対のほうにまわったのだったが、赤ちゃんも生まれ、もうすぐその赤ちゃんは六か月になり、その時オトナンという儀式を行い人間の仲間入りをする。

 奥さんの母親がワヤンの今後が心配で、アドバイスもしたくて今回バリにやってきた。ワヤンに一人立ちしてもらいたいと思っている。ところがワヤンは商売のこと、ましてや会社のこととなると知識がない。サーフィンの話だと目を輝かせるワヤンは会社の設立となると元気がなくなる。ポーズなのか、照れているのか判別はつかない。

 グランブルーの連中に「ビジネスは苦手だ」と言っていたらしいから、今が良いのだろう。ビジネスは煩わしい。奥さんものほほんとしている。

 僕から見れば、奥さんは「母親から離れたかったのではないか」「無意識にそういう方向に行動がいってしまったのではないか」と母子の会話を聞いていて思う。母親が悪いとか底意地が悪いというのではない。どう見ても人が好いし、朗らかで、直球で物事を言うように見える母親だ。お酒も好きだ。

 ただ僕が感じたのは、その母親が自分の母親との関係がおかしな時に身ごもってたときの心の状態があまりよくなかったのではないかと想像する。なぜかと言えば、娘が物を言うとき母親が代わりに言おうとすることが二、三度あった。娘はそんな母親から離れていたいと思い、また今自分に子供ができたら母親の気持ちもわかるような時期にさしかっているように思える。母親の方もそれを察知していて、「離れているのがいいんですよ」と笑って返す言葉を持つようになっている。

 母と子の物語は、母とその母や父、母とその夫、その時の時代的な社会の環境が織り成されるものである。この親子は僕にそれを吐露するようにやりとりの中で垣間見せる。

 こういう私事な話を書いてしまうと反転して僕はなんと私事の秘密を守らない男かということになりそうだ。しかし心配することはない。母親の懺悔も、母親の歴史ももう娘は認識している。娘は愛情と謝ることを心の中で二重に受けて育った。そして大人になって十分に認識する環境になっている。ワヤンを見つけることがそうだったのか、母親を越えていくことがバリ島だったのかはどちらでもよい。一歩足を踏み出したところで人生は変わっていく。それも人生、何も言うことはない。他人から見れば。


 その母親に乞われて、翌日ワヤンの家族たちが基地とするレンボンガン島に行くことになった。サヌールを出発してバンダン海峡を渡る。海峡に入ると波が高くなる。高速で飛ぶように走るモーターボートで三十五分。

 レンボンガン島が真近に見えてきた。透明で、岩に砕け散る波の飛沫は白く、ところどころ青い宝石のルビーのような破片が見える。海は透き通っている。ワカメを栽培しているらしく規則的に点在して白い砂地にワカメの一群がある。

 長細く見える島で幾つかの砂浜があり、できるだけ砂浜の近くに寄るような境界線に集落がある。

 漁民の島である。漂海民だったのだろう。島は乾燥していて、水が不足しているため、農作物の栽培はできないように見える。

 水遊びがここを訪れるわずかな旅行客の目的だろう。

 段々になった石畳の道を汗だくになってワヤンの兄が経営しているバンガローに入った。ハワイの男に名義を貸していて、そのままハワイのオーナーは来なくなったので、今はワヤンの父と兄が自分たちのものとして使っている。三つのバンガローには二組の日本人と一組のオーストラリア人が滞在していた。ワヤンは調子よく、

 「午後からはいい波が立つから、俺もいくぜ」とオージーの男に言っている。

 ワヤンはサーファーの身体をしている。猟師の身体は魚のようにヌメッとして筋肉感はないが、ワヤンは胸の肩、腕、腹の筋肉が発達している。そのわりに足はほっそりとしているのだ。海の上でボードで手こぎをする筋肉なのだろう。腕と腹に刺青をしている。

 きらりとした良い目をしている。たくましい美男である。人気俳優のようなオーラがある。彼は一時代前なら猟師になって海に毎日出ていたのだろう。今はサーフボードに乗って漂っている。サヌールで客をとってサーフィンをする。ホテルを紹介すればちょっとした手数料をもらう。兄貴のバンガローを紹介する。妻の母親は独立してなにかビジネスでもしたらどうかと勧めるが、実際のところビジネスなどしたいと思っていない。あんな窮屈な計算事は嫌だし、割り算とてまともにできやしない。釣りが大好きである。日本人の妻さえいれば、気楽なのは事実だろう。

 行くところもない島なので少し歩いてみたが、不便このうえない。ちょっと歩けば段々である。歩くのもやめて僕はレンボンガン島の海が刻々と変化している様を五時間ほど見ていた。

 夕方、サヌールに戻った。日曜日のせいか船を碇泊させる海辺やその裏の広場は現地の人で賑わっている。サテ売り、とうもろこし売り。よい匂いが広場に漂っている。

ワヤンは僕らをホテルまで送ってくれてから、

「夜はカヌーで釣りに出かけるから、ママ達を頼むよ」

 と僕に言って、釣りに出かけようとする。

「サーフィンから帰ったばかりなのだから、奥さんのところにも寄って、顔くらい見せろよ」

 照れ笑いもせず、ピッとクラクションを鳴らして行ってしまった。

 義理の母親は限りなく男性に近い女性だ。娘はこのどこか荒くれたところがあり、単純にファッションで刺青をしてかっこいいと思い、波に乗り、魚を追う男に惹きつけられていったのだろう。まだ未開の本能のようなものがある男に吸い寄せられたのだろう。

 母親はワヤンを幾つもの違う感情からワヤンを見る。

それに気がついておらず、ごっちゃに言っている。娘の母親という点からは「もっと独立を考え、収入を得、娘や子供にたいしてしっかりとした男性になってほしい。」

女としての母親からみれば、「なかなか惚れ惚れする息子ができた。出来の悪い奴ほど可愛い」

人間の立場から言えば、「そんな人生もあっていいだろう。やがて落ち着くところに落ち着くだろう。」

 恐らく娘のほうは子供のような夫を得て、さらに子供を産み母親からますます離れた段階にいることを自分で獲得したのである。ワヤンは母らしからぬ「飲めば口うるさい妻の母」につきあっている。 

明日はオトナンである。親戚が集まり、子供が人間の仲間入りをする儀式を行う。母親は黙ってヒンズーの儀式を見て、これまで思ってもみなかった異界と縁ができたものだと自分の人生を訝っているだろう。 



*今回の「僕のバリ日記」はこれで終了です。次回は5月の渡バリになります。

メルマガ「人・社会を考える 本木周一の二十五時間め」は日本で書いたものを週一回で発行しております。雑誌「自由」の5月号、6月号でも掲載されます。ぜひともご一読ください。


2003年6月12日

未来へ

 名古屋からと大阪のガルーダ航空は六月末まで欠航。初めて日航のデンパサール経由ジャカルタ行きの便に乗った。来週からは、これも欠航だそうである。客はインドネシア人が多く、日本人のバリ観光客は三十人くらいのもだろうか。

 思いもかけないSARS騒ぎで、バリの事業計画の再度の変更を迫られているのと、僕の在留許可証の期限切れが十三日であるのとで、ぎりぎりの十二日にバリに行くことになった。滞在は二週間である。本当は一か月いなくてはならないのだが、先にパスポートをEMSで送り、手続を先行してもらって、二週間の滞在で許可証がでるようにしてもらった。こういう場合は融通がききやすく、有り難い。

 爆弾テロがあった昨年の十月十二日以降の三か月より、今の方がバリの状態は悪い。アメリカ同時多発テロ、バリ島爆弾テロ、イラク戦争と積もり積もったボディブローが効いてきたところへSARSという敵の見えないウィルスの攻撃であった。

 これまで経理関係もきっちりとやっていた我がレストランだった。昨年の八月は最高新記録の売り上げとなり、初期投資の回収も早まると喜んだのだった。

 SARSの影響以後、レストランで働く人たちも、明日のことよりも今日をどうするか、という風になってきて、売り上げからお金を拝借したら、その連絡がなかったりと混乱している。

 誰もそのことを止めたりできない。黙認している形であり、報告もないという状態なのである。総コントロールをするブックツリーのバリスタッフとて黙認している。この状態がイラク戦争からSARS騒ぎを経て今日にまで至っている。

 バリクリフ、メリア、グランドミラージュが閉鎖、又、ヌサドゥアの他のホテルは半分灯りを消し、耐え忍んでいる。レストランは閉鎖が相次いでいる。

 そんな中グループ会社のスタッフの一人が自殺し、一人が「できちゃった婚」で結婚した。

 シェフのバワも、他のスタッフも一様に表情が暗い。バワは同郷の者を六人ここで働かせている。リストラ策に容易に賛成はできない。

 誰がいくら借りたか(持ち出したのか)、このリストを作ること、誰が、いくら他の金融機関からお金を借りているのか、まず、それを正直に申告させることにした。

 イラク戦争が起きるまでは、とりあえず十二月まではこれまで通りの給料であった。運よく一月から三月までの期間はやや回復しだした。しかし、皆で話し合い、出勤を半分にして、なんとかしのいでいこうと決めたのだった。イラク戦争が終わり、なんとかしのいだと思ったところへSARS騒ぎとなった。バリ島ではSARS患者はゼロであるが、旅行客の心理はバリの観光業も飲み込んでしまった。

 爆弾テロ後、日本からお金を送り、しのいできたが、リストラ策をとらない代わりに全体の経費をきりつめる策をとった。

 うまくいっている時はいいが、悪くなり始めると、効率や能力の差も目立ち始める。二十人で働いていたのを十人でやろうという考えも出てくる。すると、全員が疑心暗鬼で不安になり始める。今、自ら会社を辞めたとて、この悲惨な状況は変わらず、仕事を探すのは難しい。

 パニックになる寸前のところだった。

 グランブルーは底力があることがわかった。こんな状態でも、客はほどほど来る。これが何よりもよくわかったことだった。

 僕は今回、みんなの様子を見て、手を打ち、資金注入も図って、より万全なものにしようと思ってきたのだが、実はもうひとつ計画があった。それはバリ島に新しい産業を興したいというアイデアがあったからである。そのためのリサーチを前もって日本でしたが、果たしてバリ島で僕の考えに乗ってくれる人々がいるかどうか。今回の滞在の半分以上は、バリ島でのリサーチとうまくいける可能性があるならば説得に使いたい。それは、アメリカ市場、日本市場、ヨーロッパ市場を狙った「花」である。品質の良い花と品質を保つ輸送、品質どおりの市場への到着である。

 うまくいくかどうかはわからない。花農家を消費者の立場から育てる。良い花を世界の各地に届けられるようになったら、自分の知恵や情報にも交換価値がつくし、バリ人の花農家も一歩踏み出すことにはなると思う。


2003年6月13日

  翌日、ゆっくりと起きて、ゆっくりと朝食兼昼食をとった。昼から経理関係のことをチェックし、やおら、「花」の探索に出かけた。まず、花を見てみようというわけだ。もっとも気になるのはバリでの「輸出の実績」と「品質」である。

 雑貨にしても「キズ」をバリ人はなんとも思わない。それはそれでそんなことを気にしない大らかさと認めるのだが、日本のマーケットに入ってくると、そんな大らかさは通用しなのである。日本人はその点は逆に病的でもある。

 デンパサールの花屋を見て回った。案の定、花は話ならないほどキズがつき、傷み、素人の僕にさえわかる。セダ・マラムもなんだか汚い。大きなホテルのロビーに置いてしまえばわからないかもしれないが、花屋で個人が選んで買うとなると許されないだろう。

 デンパサールで「ラン」を専門に栽培している花園を訪問した。見事にランはいっぱいあるのだが、なぜかしらキズや斑点が多い。日本では売り物にならないだろうと思う。「輸出などまっぴら」で、十分バリ島だけで採算がとれて、儲かるのだそうだ。

 たとえばデンファレ一本が花の数によって値段が決まり、五つの花があれば四十円する。それだけで日本への輸出は無理である。輸出ならば一本五円くらいにならないと商売にならない。はたして一本五円で買い取るとし、デンファレの栽培をする人がいるか、である。

 クタにあり、一度だけ輸出をしたことがある花屋に行った。確かに選び抜いたセダ・マラムのオランダ種、地元種、菊、などが置いてある。すべてジャワから来るそうである。ならばジャワに行くべきではないか。話はそうなる。するとジャワに品質を見定めるスタッフが必要になる。

 人材の育成の手間を考えれば、バリのこの店から買ったほうが安全である。

 まったく知らない世界だから思いは巡る。実際に花を見定めて、買い付けをし、梱包をして、ラベルを貼り、植物検査をとおり、飛行機で運んで、再度検査を受け、税関をとおり、トラックで運んで市場に着き、値が決まるまでをやってみないとわからない。僕は一日で「う~ん」と唸っている。

 バリ島で花を作るのはどうか。水がないという。地域が限られるという。暑いところはだめで、ブドゥグルが適しているという。ブドゥグルが最も適しているが運送に遠い。

 いろんな人から話を聞けば「花商売」は難しそうである。しかしである。誰も本格的に外国市場を狙った人はいないようである。

 たとえば日本市場を狙って花を作る人はいないようだ。ならば、日本市場向けに花栽培をすれば、自動的にヨーロッパやアメリカを狙えるのではないか、と思う。

 五円のデンファレでも五円のセダ・マラムでもよい。それを一回一万本出して、それを月に十回だせば五十万円ではないか。コーヒーを作るよりもよほど良いような気がする。1平方メートルに五十本できたとしても1アールで五千本できるではないか。10アールあれば五万本になる。すると1ヘクタールとなれば五十万本になるはずだ。すると2ヘクタールや3ヘクタールの農地を利用すれば海外市場は狙えるのではないか。

 ブランドとして育てたらよい。ブランド品となり十円になれば一挙に二倍の収入になる。


 僕は計算をし、可能性を探っている。可能性を探るしかないのである。はじめからダメだと閉じてしまったら、可能性がなくなる。

 一歩進む。それにはとにかく「花」を輸出してみることだ。するとこの厳しい世界はあきらかになりはじめる。「馬鹿だ、ちょんだ」と言われてもやってしまう者はやってしまうのである。やってしまえる人がいる。最初の開拓者だ。こういう人を幸運な人と呼ばず何と呼ぶのだろう。


2003年6月14日

デンパサールの新しいレストラン

 バリのスタッフの窮乏状態はバリに到着するやいなや理解した。一般の人々が今日のお金にも困っているのがバリの状態のはずである。

 シェフのバワが見せたいところがあると言ってきかない。繁盛しまくる店がデンパサールにあるというのである。ほんまかいな、と夜の九時頃、その店に行くことにした。シェフの言うとおりである。客は地元の人ばかりである。驚くほどの賑わいである。セレモニーがあったのかクバヤを着ている女性、サロンを巻いた男性、ジーパンの若いグループ、お金持ちそうな家族連れ。デンパサールの中心街にあって、周りは外国の事務所や政府、大型銀行のオフィスがある。

 この程度の店ならサヌール、ブノア、ジンバラン、クタ、レギャン、ヌサ ドゥアにもいっぱいある。しかしデンパサールでは初めてらしいのだ。そこのオーナー曰く、「ちょっとモダンに外国風を真似て、安くて恋を語りあうロマンティックな雰囲気を地元の人に提供したい。

 それが見事にはまったのである。観光地のレストランは瀕死の状態であるというのに、これほど賑わっているのは、なぜなのか? それを聞いてみた。するとオーナーは笑いながら「爆弾も戦争もSARSも関係ないよ。地元には土地成金がいっぱいいるんだよ。三年で使っちゃうけどね」という答えである。

 バリ島では外国法人は自国でよりも割安で買える。建築費も改装費も日本やオーストラリアよりは安い。バリの農地持ちの人は自分の農地を手離すか、貸すかして、現金を手にする。本当は一生食えるお金である。こういう人をターゲットにして新しいレストランができる。昔の六本木のピザハウスみたいなものだ。

 ようやく首都デンパサールに地元客を相手に、ほどよい雰囲気(椅子は安物のプラスチックだが)で、新鮮なものをほどほどの値段で食わせる店が登場したのである。

 ここで思い起こすことがある。

 ジンバランの海辺に並ぶシーフードの店は昔、地元の人ばかりであった。それが逆に、地元の人ばかりの店ということで、徐々に観光客が来始めた。するとだんだんと値段が高くなっていった。ついには観光客ばかりとなり、地元の人は来れなくなった。観光業に席巻されたのである。

 そして今、爆弾事件以降、客が激減したのである。

 よいことも長く続かないものだ。さりとて悪いことも長く続かないものだが、しかし店はスタイルを変えてしまったためにもう当分地元客は来ないのである。そうこうしているうちに新しい店ができる。

 デンパサールの店のオーナーの顔は自信と笑顔が満ちて、十二人の女がいると豪語し、自分の成功に酔いしれているようであった。人の世にはこのようなラッキーな人がいるのかもしれない。十二人の女がいると豪語したほうがオープンで、人を受け入れやすくするのかもしれない。ほとんどの人が「景気が悪い」と言っているのに、彼だけが(まだ彼の他にもいるのかもしれないが)勝ち誇っているように見える。

 不思議なデンパサールの情景であった。


2003年6月15日

プダンダ

 バリ人の男性は結構結婚が早い。しかしイダ・バグスという僧侶の階級の男性は適齢期を過ぎても、なかなか結婚しない。

 ライは二十九歳。ワルティカは二十八歳。共に独身であり、イダ・アユと出会うのを待っている。

 クルンクン県のバカス村にはイダ・バグス家が六つある。その中で、代々、プダンダになるのがライの一族である。ライはプダンダにならなければいけないと親戚のもの、親から刷り込まれている。

 プダンダとはもっとも位の高い、僧侶で、ヒンズーの儀式の中心的な役割を果たす。吉凶を教えることもする。村にはなくてはならない存在なのだ。

 「イダ・アユってめったにいないだろう。どうするんだい」と言うと、イヒヒヒと笑って、「みんな探してくれてるよ」とか言って、「ガールフレンドなら日本人がいい」などと平気でぬかす。

 「階級にこだわるような世代でもないだろうが。バワも、コンピャンもオカも違う階級の女性といっしょになったじゃないか。」

 「おう、ダメダメ。プダンダになる家はそれを許してくれないよ」

 僕らは古代から積み上げてきた宇宙観のようなものをもっている。ヒンズーもそのひとつ。仏教もそのひとつ。ヒンズーや仏教が生まれる以前から積み上げてきたに違いない。

 近代に入って、産業革命とともに発達した科学は現在までその発展のスピードを緩めず、合理的な精神で迷信や天国や地獄を無視して走ってきた。しかし以前にもこの日記で書いたのだが、古代から蓄積されてきたこと、例えば、西のほうはいつもあけておくとか、死者は北枕にするとか、先祖への供養が足りないとか、様々な古くて迷妄だといわれたものを再点検する時期が、つまり科学の発展とともに、振り向いて検討される時期がいずれやってくるに違いない。

 僕は馬鹿馬鹿しいと思うが、プダンダになるには先祖からずっとイダ・アユの血が必要なのだろう。なぜなのかときくと、リ・インカネーションがうまくいかない、という。先祖から引き継がれた記憶が細胞の中にある。その細胞に別の細胞が混じれば、物事はリセットされる、と考えている風だ。

 たとえば、バワは別のカーストの女性と結婚した。すると、彼女の氏名は変更させられる。名前はワヤンとかニョマンとか一番目に生まれた子供、二番目、3番目、4番目と名前があり、5番目の子供は1番目の名前と同じになる。イダ バグ家に嫁ぐと、その女性は四つの姓はなくなって「Jero +バリの花の名」とつけられるのだそうだ。Jero だけでは何か奇妙さを感じるのか、Jero Sandat というふうに花の名前をつける。

 Jero は単なる印というよりも存在を無にしているように見える。子供が生まれたらその子にイダ・アユ(女性)とかイダ・バグスとつけることができる。その子はまたイダ・バグスかイダ・アユを見つけられなければこんなことにどんな意味があるのか知らないが、彼らの宇宙観による根拠を持っているのだろう。都合よくできていると言えばできている。

 政治制度の中では法律的にもカーストはなくなったが、慣習として観念の中に生き続けている。

 自分を「特異なもの」と自分については思いたがる狭量さを人間はもっているから、窮屈だとライは思いながらも自慢でもある。イダ カーストは誇りでいっぱいである。そして結構人生を地味に生きている人が多いような気がする。


はげの話

 どうしてバリ人にはげの人が少ないか。ほとんどの人が髪がふさふさしている。以前、ワルー(シーハイビスカス)をヘアトニック代わりに使っているという話しを聞いたが、今回はバワからもっとはげ予防の詳細を聞き出すことができた。なんとも習慣的なものだが、おそらく科学的に分析すればつじつまがあっているのだろう。それを紹介したい。

 まず赤ちゃんが生まれる。四か月間は毎日クンチュールという生姜とターメリックを合わせたような植物と米粉を昼にとった水を晩おいてその水で翌日混ぜる。それを赤ちゃんの頭に塗るのだそうだ。さらに六ケ月が経つとオトナンという赤ちゃんが晴れて人間の仲間入りをする儀式があるが、その日から十回、剃刀で頭も毛を剃るのである。剃ることでよい髪の毛が生えるようになるのだそうだ。この十回が大事なのだそうだ。

 髪の手入れは香りのよいプダックという葉から汁をとってつける。それは任意に行う。ワルーを使う人もいる。ファイアーハイビスカスを使う人もいる。このように、髪の毛についてはかなり神経質にケアされるのである。

 なぜ、はげを赤ちゃんの時から防止するのだろう。なにか特に理由がありそうである。それを他のバリ人に聞いてみた。

 すると解答が違うのである。クンチュールを確かに四か月塗るがそれはまだ赤ちゃんは人間になりきっていないので、頭が冷えないようにクンチュールを塗るらしい。バリ人は体が冷えるのをひどく気にする。温度が二十六度にでもなれば冷えることを恐れる。冷えると抵抗力がなくなることに過敏である。クンチュールを塗るのはそのためで、別に髪のためでないという。またオトナンの時に髪を剃るのは人間以前のものを浄化し、きれいな体になって人間になるためだという。

 話が違っている。たぶんどちらも本当なのだろう。体を温める力がクンチュールにはある。それを頭に塗る。なにがしかの効果はあるのではないか。頭を剃るというのも、剃ることによってよい髪の毛が生えてくるのもどうやらそんな気がする。鍛えれば強くなるのと同じだ。

 バリでは髪のほそいしなやかな髪の女性が肌のやや白いことの次に美人としての重要な要素である。男は短いのがよいとされている。

 禿げる遺伝子が少ないのかもしれない。ということは禿げるようになる環境があまりないのではないか。体を冷やさないために頭にクンチュールを塗る。頭の血行はよくなるはずだ。十回頭を剃るというのは一種のマッサージである。足の毛でも剃ってしまうと濃い毛が生えてくる。抜けてしまわないようにするにはワルーがある。万が一抜けてしまったら育毛をするものがある。すると環境から言えば、フェロモンのように空気中に髪の毛によい物質がいっぱい漂っているのではないかと思えてくる。

 ただそれだけの自然のことなのか、バリ人が髪を特に大切に思うなにかがあるのか、わからない。まだしつこく質問をしてみる。なにかわかるかもしれない。

2003年6月16日

家具の話

 バチュラという村が中部ジャワにある。村全体が家具を作っているところで、インドネシアの家具はほとんどがここで作られるらしい。バリ島はここから家具を送ってもらい、塗装なり部品の取り付けをして、客に売るという中継地と小売りの役割を果たしている。おおよそなんでもバリ島は観光地であるせいか、生産地というよりも消費地になっている。つまり観光客が来ないと物は売れないのである。輸入をするには当然物は高い。運賃と手間代、仲介代が入っているからだ。インドネシアの家具で輸出に耐えられるのは10%ほど。90%は耐えられない。木材の水分含有量がインドネサイの家具は25%から15%ほどあり、それを日本のエアコンの効いた中に運ぶと割れてしまうか縮んでしまうかする。すると乾燥機が必要になるから、乾燥機まで使って外国用に家具を作る会社というのは大手の会社しかない。それが10%というわけだ。

 日本では婚礼家具の売れ行きが悪くなってきた。小売り店は安い家具と新しい家具を求めるようになってきた。ある日テレビを見ていたら、資本主義国でインドネシアが一番労働賃金が安いという。鈴木さんは「これだ」と思った。それからアセアンセンター、ジェトロ、インドネシア大使館の経済部を回り、インドネシアでの家具作りの調査をした。バチュラにたどりついたのはインドネシア訪問3回目の時である。とにかく品質が悪い。結局乾燥機まで運ぶことにした。そして10年。ようやく家具職人が育ちはじめた。

 日本のバブル後の空白の10年が幸いした。満足のいくものではないが小売店から許してもらえるようになった。客も、日本のような精微な品質までも求めなくなり、アジアの家具はどこか手作りの感覚があるほうがよい、という傾向にもなってきた。割れてしまうかもしれないという恐怖もなくなった。それ以後一か月に一度二週間インドネシアに通っている。

 何が幸いするのかわからない。精微な家具作りを目指した彼は今は従業員に精微でないものを作れと言っているらしい。

 こういうエピソードから何を学習できるだろう。作る人は頑固にこれまでのやり方で作ればいいということだ。消費者は変化していくが生産者はあまり変化はしない。それで結局、消費者は円を描くように戻ったり、離れていったりするということだ。消費者のその運動を誰が察し、予測できるだろうか。

 大手の会社が宣伝をかけて、消費者をひっぱる。新たなニーズを作りだす。これは大手ならできる。もうひとつできるところがある。雑誌社だ。この手の出版社は意外と影響力をもつ。当然、出版社は世の中の消費の動きを敏感にいつもキャッチしている。

 鈴木さんはバチュラで家具を作り続け、いずれはデザイン、品質とも完璧なものが売れる時代が来ると思っている。しかしあんまりインドネネシアの家具が流行しないことを願っている。競争相手が増えるからだ。



豊かさの基準

 人の人生もいろいろあるもんだ、といろいろある人に親和感がある。みんななにかせよいろいろあるのだが、いろいろにも程度がある。こんなことで悩むかよ、ってことが本人には死ぬほどつらいということもあるから人間の関係は大変なのである。百万円の借金が「大変だ、大変だ」と神経症になる人もいれば、百万円さえも絶対に借金などいやだという人もいる。また一億円の借金があっても平気な人もいる。すべて性格のなせる業なのか。そういう風に生まれついたのか、そういう風に訓練されたのかわかないが人間それぞれに世界を持っていて、その世界が自分にとっては当リ前の、正しい世界だから、その世界に口を出すことは存外難しい。

 あえて、そういう世界には口は挟まず、踏み込まず、まあまあの距離で関係を保つほうがよい、と考える人も多いだろう。

 まして人間四十も過ぎればその人の世界は変わりようもない。変わりようもない人といくら喋っても結論は互いに違い、違う世界で収まるのだから、これほどおもしろくないことはない。

 なぜおもしろくないかというと、可能性や期待、つまり可変性をを期待できないからだ。互いに変わる。互いに影響し合え、互いになんだか成長したような気がしてこそ、話をしていて楽しいのでる。

 対談でもそうだ。ちょうちんもちの対談より、意見もぶつけあうほうがおもしろいし、そこで素直に得られるものは得たという感性の持ち主の話のほうがおもしろい。

 学ぶ意欲や好奇心というよりは変わり得る可能性を感じる人がおもしろいし、よいと思う。十代でも不変の者はいるし、七十代でも可変の者はいる。ただ、可変の者は少ない。だいたい瀬戸内寂聴でも「私は二十五歳までの人に話をするんです。」などと平気で言っている。「だって四十五も過ぎた人は頑固で変わりようがないもの。」とテレビで彼女は言っていた。僕は「あちゃあ」とショックを受けたのだった。俺もその境界から外された人間かと。おまえだってそうだろ、と瀬戸内寂聴に言いたくなるが、そう言えばそうなので、こういうことをスパッと言えて羨ましい人間だな、と思ったのである。

 で話は「人生いろいろあるもんだ」の話である。

 一見幸せ風に見えて実は心の中は「地獄」というのがある。誰にも見えないし、見せない。たいへん経済的に苦難していて振り返ってみれば「苦労はしたけどなかなかよかったなあ」という人もいる。わからない。喜びや幸せの基準はわからない。それで一定のほどよい豊かさを言ってみたくなる。

 お金はないよりあったほうがよい。それもほどほどがよい。週に一回ほど外食ができて、季節の変わり目に服など買えて、車は五年に一回ほど替えられる。海外旅行には年に二回。親子には親和感があり、三世代同居か子供は近くにいる。土地は百坪程度あればよい。

 時には買いたいものも我慢しなければならない。近くに病院があって、気の許せる友人が二、三人いる。そして一番肝心なことに母親が余裕をもって妊娠前から子育てができなければならない。

 こんな風に描いて、それでも基準はやや下でもよいかな、と思う。もちろん高級な車にでも乗れたらもっといいのかもしれないし、中古の車でも、新車を十年、十五年乗ろうとそれぞれの好みだ。いきすぎると「不幸」も同時に見えてくるからそこは用心、用心。


2003年6月20日

祝いの日

 楽しいのは、知らなかった世界を知る刺激である。花について調べている。読者もこの探索についてきてもらいたい。

 デンパサールの花屋で出ている花の品質や出荷元を調べる。すると栽培農家がわかってくる。こちらは専門家を連れてきて、専門家の目でみてもらう術を使う。ランの農園で品質を見分け方を勉強する。コーディーラインやフロリダビューティー、クラトンなどの花ではなくて葉そのものが勝負の植物が意外ににもしっかり栽培され、オランダに輸出されている。白、ピンク、黄色のカラーなどの球根類に果敢に挑戦し、失敗をしては、また挑戦する人たちがいる。国内向けランだけを作っている農家もある。ほとんどが海外市場を狙った花作りをやっていない。

 バリ島は花や葉を育てる地域が限られている。海抜からの標高。水の有無。これが一番の重要時である。

 スミニャック、クロボカンを抜けて、シガラジャ方面に向かう。北にあるブドゥグル方面に進むのだ。その農園は7ヘクタールもあった。水も十分にあった。経営者はここの他に四か所の農園を持っている。需要はほぼ、島内である。海外までやらなくても十分にやれるから、海外市場の話に勢い込まない。「1ヘクタールを1億ルピアで貸してあげるから自分でやってみれば」などといわれる。

 それよりも僕は妙な気分になる。葉が売れるサンドリアナなどは葉の色が白、黄色、緑とあるが、この葉を3種類も作る、3種類の用途を人間が作り出していることのほうに驚く。フロリダビューティーでも同じである。それを求める人がいる。専門家に聞くと、日本でもやっぱり同じだそうである。葉が人類によって選び抜かれてきた感がある。

 花については「大いなる指導をしながらいっしょに育てていく」「種を提供し日本市場用に育てる」ことしか花は商売にならない。ところが葉はいつでも出荷できるほど完璧である。ところがどこにでもある葉では特色がない。だから堅実に、ちょっとの利益なのだろう。花ほど難しくないのかもしれないが、市場での値の変化や花屋さんの期待度が少ない。

 僕はこの三日間でたいへん勉強した。まだプロとまでいかないがランのよしあしの見分け方はわかるようになったし、葉の切り取り方などもわかるようになった。自分に何か新しい知識がついていくことが楽しい。

 観光客はこの二、三日増えている。依然とは比べ物にはならないが、特にヨーロッパの人たちが増えているようである。僕たちは「ヌサドゥアビーチホテル」に滞在しているのだが、日本人は僕らだけで、あとほとんどがヨーロッパからの人たちである。

 花の視察を終えて、バーで飲んでいると、アメリカの男性がピアノでブルースを弾き始める。すると踊り出すカップルがいる。やっぱり5スターのホテルだな、と気持ちよくなって僕らは静かに杯を重ね、この二日見た花を思い浮かべ、以外だった葉を思い、これらのことをどうしようかと考えている。次に思いはグランブルーのことに移る。あそこを修理し、あおのテーブルや椅子を新しいデザインのものに変える。7月には新しいメニューにしたい。人で構築するシステムについてもあれこれ考える。

 やがてバーも閉店となり、花は明日農場主との昼食会を行って終わりで、またレギャンの仕事に戻ることになる。

 ガルンガンも終わった。九日後はクニンガンである。今このバリ島には先祖の霊が降りてきている。色濃く昔が残っている。バリ人たちと違い、僕はもっと客観的になっている。日本でも僕らよりも二世代上の人々は同じように祖先の霊を大事にしていた。

 僕は祖先からの遺伝子と細胞から成り立っているのだが、そのことは科学的にわかるものの、生活の実感的なものとは違っている。自分があることの感謝の念がバリ人よりはずいぶん少ないように思う。それは必然であって、恣意的ではない。もっともかわいいのは自分であり、自分たちである。

 もの思いが終わり深いチェアーから立ち上がり、会計をして部屋に向かう。三日間、贅沢をさせてもらった。

 たとえビジネスで来ようとも、こういうホテルに泊まったほうがよいな、と思う。仕事場から離れるのもよい。

 なんだかうたぐたと埒もあかないことを言ってしまっている。

 バリ島はたいへん過ごしやすい天気が続いている。アートフェスティバルも始まった。もうなにも起こらなければよいがと思う。

 翌日、クタにショールームを開いている店の社長とアポイントをとって、会った。これがまあなんと言おうか、人目見るなり、今回は成功だとわかるのだ。顔に書いてある。

「みんな受け入れますよ、あなたたちの希望は・・・」と書いてある。話は早い。彼女は世界の花市場の情報をみんな知っている。わかってやっているから、日本人が来れば、どれくらいの値段で、どのくらいの量で、どのくらいの品質で、運び方はどうかも知っている。話が早い。気持ちもよい。僕のリクエストを受けて立とうという気概もある。ビジネスの場面でダメなのは神経質すぎる心配症とすぐに判断してしまう想像力だ。頭がよい人ほど、すぐに判断してしまう。その脳みそが自分自身の世界のみであることに気がつかないのかもしれない。

 彼女と兄妹の契りまで結んでしまって、ブドゥグルの5ヘクタールの農園で、カラーを栽培し、ニュージーランドに負けない品質で日本市場をせめようということになった。ブドゥグルの彼女の 農園まで火曜日の二十四日にいくことになった。とても楽しみにしている。

 ロイヤルスミニャック(元インペリアルホテル)の人と話し合いしている最中、出版社から電話がかかった。音楽のあるショートストリーに僕が応募していて、それが最終選考まで残り、発表をペンネームにするか本名にするか、決定してほしいということだった。

 本になって、FMラジオで朗読されるのだそうだ。と言ってもまだ決定ではない。最終審査に残っているということだ。嬉しい話ではないか。

 その夜、日本人の花の専門家夫婦はたいへん感動してバリを去り、その日が僕の誕生日だったため、バリのスタッフたちが祝ってくれた。何を? 生きていることを。つつがなくいることを。もっともっと元気でやってほしいという気持ちもあったと思う。僕はもっともっと元気でいようと思った。テロもSARSも完全に忘れていた。賞も花も祝いの言葉も同じほど嬉しい。


 仲間が日本に帰ってしまった。なんだか寂しいような気もするが、こういう寂しさに慣れている。もしかしたらこういう寂しさにも耐えれない人というのもいるのかもしれない、ふと思うし、これ以上の寂しさになれっこになっている人もいるのかもしれない。要するに They have gone. で I am still here. である。お金の用意、もしくは使い方、仕事の指示が僕の仕事である。バリに一切の不安感は今はない。日記のバックナンバーを読んでくれたらわかると思うが、ビジネスの当初は不安気だった。わからないことが多かった。今は呼吸や間合いがわかるようになっている。


2003年6月24日

デンパサール

 「粉にするマシーンとシュリンクの機械を見て、それからサトリアでナシチャンプルを食べて帰ろう」「そうしましょう」ということで、暑い中デンパサールの住宅街を歩くことになった。路地が入り組んでいる。ややゴミの匂いのする住宅街を歩いていると、なんだか懐かしい感じになる。北京の大通りを一本を奥に入った路地や香港の家船の基地となっている島の町の路地、台湾や韓国の住宅街でも見たことがあるような気がする。もっと遠い昔、紀州の尾鷲の僕が生まれた路地に似ているような気がする。昔住んでいた路地にある生家の裏庭になつめや無花果がなっていた。井戸があり、鶏もいた。トカゲがチュロチョロといた。自殺して死んだ従兄が「カナチョロ釣る」といってトカゲを釣っていたものだ。僕は路地で育った。周りには二、三つ上とか下の子が一筋の路地にかなりいた。学校に入るまでは路地の仲間たちとよく遊んだものだった。小学校に入ってからは路地の仲間とは時々顔を合わすくらいになり、学年も違うことから学校の友達が遊び仲間の主となった。路地よりもおもしろい遊びがいっぱいあった。行動の範囲が広がることはなによりも楽しかったに違いない。真夏の暑い夕方、路地に家を借りていた子供を二人もった夫婦が、路地の者と一線を画すように暮らしていた。学校の教師ということだった。なんだか雰囲気が違っていたが、なにしろ暑い日だったから、教師一家の夕食風景が見えたのだった。袖無しの麻の下着とステテコのスタイルの夫と化粧をし、特に唇の紅が鮮やかな妻と二人が座っていた。夫のほうは片ひざを立て団扇で顔をあおいでいる。確か、女性の方はパーマをかけていた。この夕暮れなのに子供たちがいないのを訝った。夫の方は肌がテカテカとした男性だった。いつとも知れず、この家族はこの路地から離れていった。路地の前に電電公社ができることになり、しばらく空き地になっていて、蝙蝠が夕暮れに飛ぶ中に佇んでいたことがあったが、その頃はもう小学六年生だった。高度経済成長は始まっていたのだろう。高校の一年生の秋に親が念願の家を建て、別の地域に引っ越したのだった。そこは核家族の住まいであった。

 デンパサールの路地を歩いていて一気に昔が甦ってきた。生活の匂い、路地でたむろする大人、庭に生えるマンゴやメンクドは尾鷲の生家の庭のなつめや無花果と同じに見える。なにがしか食べられるもの。

 季節が過ぎるたびに僕らはだんだんとひとりひとりの思いに更けるようになっていった。

 イダの親戚の夫婦はブロイラー種のコーヒーをシガラジャから買い付け、自宅で焙煎して粉にし、パックにして、ワルンやレストランに売っている。仕入れ値に二倍を手間賃としてかけた商いである。

 「去年は一か月で1トン商ったが、今年はテロとSARSで200kgがやっとだ。競争も厳しいし、好い日が来るのかねえ」とにこにこして言っている。普通のサラリーマンなら100万ルピアとか200万ルピアの固定収入であるが、シガラジャから買い付けたコーヒーを加工することで、1トン、つまり2400万ルピアも稼げたら上等である。

 「そのコーヒーミルで対葉豆も挽けるかな」などと話をし、ハッピーバリの「バリコーヒー」もここから買おうかな、と思ったり、ここの路地の夕暮れがどんな風だろうと思ったり、面影の中を漂うように、僕はまるで縁側のようなバレの床に座っている。 

デジャブーが起こりそうであった。彼はコーヒーの仕事が暇なので家の屋根瓦を一部なおしているところだった。この家にもアグン山の方向に家の寺院があり、仕事や台所はそれと反対の方向にあった。昔の東京の家のように、家の一部をアパートとして貸していたが、今は一人しかいないそうだ。こういったところにバリ島はこの二十年で変貌し、経済的には発展したことを覗わせる。

 イダの親戚の家を辞去して、歩きながら、

 「イダ、二十五年前のことを憶えているかい?」と聞くと、

 「シガラジャからバスで来て、そこから馬車で来ました。車はほとんどなく、貧しかったけど、のどかでした」と笑いながら答えた。イダはバリ島が今や観光産業に誰もが頼っていることを知っているが、バリ人が変わっていく様を見て、忸怩たる思いを持っている。それは日ごろの彼の言動からわかる。バリ人はこうであらねばならない、というものでもない。豊かになることは嬉しい。しかし、と思っているのだ。

 サトリアでナシチャンプルを食べてタクシーで帰ったのだった。

 その夕方、「高速道路」について話をした。「シガラジャとウブド、デンパサール、クタをつなぐ高速道路ができたら、北部には新しい産業が生まれるだろうな」と僕は言った。するとナルミーニが、高架の道路は寺院よりも高くなるからいけない」と言った。「電信柱も短くしているのよ」と言う。すでに高速道路を知っている時代の段階にいる僕は「知っている」という折り返しの視点でバリの高速道路を考える。彼らはまだ未経験である。これからきっと選ばなければならない。第三の方法もあるだろう。迂回、例えば、ひたすら海側を走る道路を整備するという方法もあるだろう。

町が変貌しつつあるデンパサールを今日は感じたのだった。


2003年6月23日

プラガ

バリ人たちが家族で憩うブドゥグルの手前にプラガという村がある。ほぼバリ島の中央に位置する。今日はこのプラガの農園に行くことになった。途中、今日のホストのローズ社長が車を止めて、何やら買い物を始めた。川魚である。グラミという一週間ほど前にから揚げで食べた魚である。美味しい魚である。彼女は5kgの生きた魚を買い、土曜日に食べるのだという。88万ルピアだったから、相当な金額である。

 ひたすらくねくねとした道を走る。前方にブラタン山が見え、右手、時に左手にアグン山が見える。やや高地になっていて、乾燥している。ここにパシフィック ローズの花園がある。国内用と海外への輸出用にと挑戦した農園である。趣味も昂じているのか、戦略なのか、バリ島では見ない花ばかりを植えてある。ペーパーデイジーというドライフラワーのように見えるけど生きた花や、ひまわりも種類多く咲いている。話の通りカラーも育成中であった。隣の農園はマンダリンみかんを栽培している。このあたりは農園だらけだ。

 九月からカラーを週五百本。十月からは週千本。そして徐々に出荷数を上げていく。この計画でよいかと念をおすと、それでよい、と自信たっぷりに言う。冷蔵庫もある。虫対策もしている。言うことなしだが、カラーはまだ生えていない。昨年失敗している。今年は大丈夫だという。本当に大丈夫なのか。歴戦のつわもののような顔をしたローズおばさんであるし、兄妹の契りまで結んだのだからまあ、信用することにしよう。

 このプラガも中心地から近ければと思う。おそらく高速道路ならば二十分そこらである。二時間かかったがひどく遠く感じる。バリの道は緊張に満ちていて、のんびりと居眠りなどしておれない。鶏は飛び出す、犬がふらふら歩いている。単車がヨロヨロと走る。オダランの行列がある。車はどんどん前方から来る。クラクションが鳴る。特に近年車が嫌いになっているので、僕は神経をすり減らす。ローズおばさんは特等席は助手席だと思っているらしく、二時間ずっと落ち着かなかった。昔は車は平気だったのに、年を重ねるにつれて、知り合いや部下が交通事故で死んでいる。おそらくその経験のトラウマのようなものなのだろう。交通事故死ほど残念な死に方はないと思う。発展途上の国は車が忙しい。せわしない。アメリカであれば4車線が当たり前である。日本も昔は今よりせわしなかった。僕は日本はまだまだ道をよくするのは課題だと思う。その点では道路族に賛成だが、道路公団の利権や、いつまでたっても無料にならない高速道路行政にはあきれている。

 爆弾テロ以後、車を手放す人が多い、ともっぱらの話であるが、なかなかどうして車は多い。

 農園を見学したあと、ぎょろりとした目のローズおばさんは、ジンバランでレストランでもやらないか、と巨大なガルーダ像のあるジンバランの文化公園に連れていった。コンサートなどのイベントの中心として、ショッピングセンターなどが建ち並ぶ、巨大ゴーストタウンである。つまり、お金持ちの人がこのプロジェクトに乗って資産としてこの一画を買ったが用途がない。どこも空き店舗で誰も住んでいない。ローズおばさんのルカも、一目、僕にチェックを入れておいてほしかったのだろう。このゴーストタウンがそれらしくなるまでまだ二年、三年、いやもっとかかるだろう。

 車中、バリ島には観光業以外にまだ産業が必要だ。そのひとつに植物のエキス抽出がいいのではないか。日本などで、メディカルバレーが各地にできつつあるから、インドネシアにしかない植物のエキスをもっとさらに詳しく分析して、確かなデータにして生産、販売する工場などどうか、と僕は提案した。すると、「ああ、やってる。スラバヤに工場をもっているわ。弟にまかせてあるけど。ノニジュースを一番先にやったのはアタシよ。韓国に輸出している。チュバという癌に効くというのもやってる」と言う。驚いた。な、なんと幾つもの事業をしているものか。また共通の話題ができて、今度スラバヤに行こう、ということになった。人生は不思議なものだ。こういうふうにしてエネルギーある人と偶然知り合う。

 前回バリ島で会ったF・Fさんも傑作酒豪で、行動も早かったが、僕は男よりも女のほうが豪傑が多いのをこのごろよく目にする。

 男はどこかしらうじうじと、ねちねちとしている。これは相性なのだろうか。


2003年6月26日

日が悪い

明日予定通り日本に帰る。今日はろくなことがなかった。

 朝、剃刀を取り替えようと、新しい刃を挿し込みをしていたら、プラスチックか、剃刀の破片かわからないが、左目に飛び込んだ。万分一の確率である。一瞬目が痛んだ。目を洗ったが、その後異和感がある。瞬きをするとやや痛い。放っておいて明後日日本の眼医者にでもいけばよいか、とも思って、散髪しに行った。

床屋が近くにないので、美容院に行く。前に一度行ったことがある。この辺だったかな、と思ってドアを開けると以前と様子が違う。ダラッーと女性二人が座って、ニタニタと笑う。ここのマネージャーらしき人が席を勧めてくれたのだが、その席はちょうど日が射していて暑そうだった。「ここは暑いよ」と言うと、別の席を指して、「ここでいいでしょう」という。先の二人の女性たちが座っている隣であり、相変わらずニタニタ僕の顔を見て笑っている。本当のアホとはこんなものだろうと思う。美容院の店員なのだから、化粧くらいはするのだろう。厚化粧で、オシャレはしている。でもアホなのである。それがわかる。この店の名は「ニューヨーク」という。ちょっと髪を切ってもらいながらこの娘たちにニタニタしていられたらかなわんな、と思い、やめることにした。何が起こったかわからないということもわからいようで、立ち上がりもせず、「バイバイ」となった。店を出て、以前の美容院を探したら、3メートル先にあった。なんだか安心した。手早く髪を切る美容師さんもいた。ツーリストを相手にした美容室である。

 まず、髪を洗ってもらう。ここが日本と違うところだ。すかさず、クリームバスのように、洗いながらマッサージをする。これが気持ちよい。冷たい水で体の暑気をとれる。次がヘアーカットである。助手が真剣に見ている。この美容師は手早い。スパスパと切り、サッサと整え、またスパスパと切る。何度も何度も同じところを切っていない。僕には気持ちがよい。髪形などはどうでもよい。スパスパとやってくれるほうが僕はよい。あのネチネチと1本の不揃いも許さない理髪師がいるが、僕はいつもちょっとイライラする。再度、髪を洗い、すかさず、クリームバス風マッサージで4万ルピア。600円くらいだ。

 さあ、今日は買い物でもするか、と思った。しかし、目の調子が悪い。時間があるものだから、クリニックに行こうと思った。これが間違いだった。偶然、クタにあって、二十四時間体制、緊急の対応も万全と書いた、Mなんとかというクリニックがあったので入ったら、日本人の看護婦さんか、案内する人もいるという。入ると、受け付けで、アンケート用紙があって、まず、SARS関係のアンケートである。「いや、目にちょっとゴミが入っただけなんで」と言っても、この質問票に答えなければならない。初診料が60ドルとある。「えっ、60ドル?。レギャンのクリックなら四分の一じゃないか」と言ったら「ここはインターナショナルですから」と言ったので、「おいおい」と思って、レギャンのクリニックへ行ったのだった。

 ここは看護婦よし、女医さんよしで、初診料が十七万五千ルピアである。僕をベッドに寝かせ、懐中電灯を持って、僕の目の中を肉眼で調べまくる。たぶん目に入ったのは透明の小さな小さなプラスチックの破片だと思う、と僕は訴えた。看護婦さんと目をひんむいて探すのだが、どうやら異物はないらしい。痛むのは傷のせいかもしれない。ジーパンをはいたそのバリ女医は自信を持って「無い」という。目薬と薬をくれて、勘定となると、やっぱり60ドルくらいだった。以前血圧を測りに行ったときは無料だったので、安いのではないかと思いこんでいた。病院は高いのだ。二重価格になっているらしい。

 目は前よりも痛くなって、トホホ、とした気分だった。

それでも買い物をするため、レギャン通りを歩き、お目当ての「ミュール」というサンダルに似たものを買ってきてくれ、という妻のリクエストなので、その「ミュール」なるものを探したが、誰もそんな言葉を知らない。妻の足のサイズは23cmであることは知っていたが、店員は23cmがわからない。比較表などを見て、バリの4が23cmだと言う。これほど日本人が来ているのに、足のサイズひとつ、まともに対応できないのはこの十年変わらない。4とはなになのかわからない。しかし、23cmは4だというので、二つ買った。途中、よいメキシコの音楽が聞こえたので、それを買い、よい旅行かばんがあったので衝動買いをした。事務所に帰って、みんなにヘアーカットしたことを冷やかされ、ナルミーニ(可愛いモデルのような女性で以前はワヤンと言っていたが、ワヤンが多すぎるのでナルミニと呼ぶことになったのだった)に、「ちょっとこのサンダル、ヨーコに買ったけど、センスはどうか」などと浮かれた調子で言っていたら、サイズがヨーコには大きすぎるのではないかという。みんな出てきて、大きい大きいと言う。確かに大きい。しかし不思議だ。同じサイズ4ある。ひとつは23cmのようであるが、もうひとつは大きいのである。

 まあ、毎度のバリっていう感じであるが、この種のサービス精神の欠如にはいつも情なくなるのである。「その日よければ」である。こっちが学習しなければならない。

 よし、4と言ってもサイズを比較してみることが必要だ、と学習をして、もう、今日はなにもしないでおこうと「ひきこもり」をした。何か悪い時は一度にやってくる。

 今日は日が悪い、というやつだ。

 花と勉強をした今回のバリだった。観光客もやや戻ってきそうな気配もある。ローズおばさんと会ったのも収穫だったし、これまで勘違いしていたこともあって若干の修正もできた。天気は毎日晴天だった。魚が意外とあることも知った。人々は意識してかしないでか、親から離れて暮らすこともかまわないようになってきている。デンパサールのような都会ができるということはそういうことなのだ。都会というのは近代の都市なのだ。昔からのバリ人も、外国からやってきたものも飲み込んで、歴史をひっぱっていく。

 今回はこんなところかと、思ってこれで今回は最終回。

 遠くからトペン(仮面)劇の声とガムランが流れてくる。どこかの村のオダランに違いない。


2003年10月1日

台北の夜

 台北は相変わらず賑やかで騒々しくエネルギッシュな都市に見えた。中国語が飛び交うせいかも知れない。士林夜市で目当ての甘辛く煮た小さな巻き貝とガーリックとチリで炒めた渡り蟹を買って、あとはこれを食べる屋台をうろうろと探して歩いた。渋谷に売っていそうな安物のアクセサリーや衣類の店が並ぶ通りを抜け、新しく引っ越したという飲食店が並ぶエリアに足を運んだ。

 小粒の蛎や白菜を入れたお好み焼きのようなもの、鉄板の上にアルミを敷き、濃厚そうなソースで炒めた野菜や鶏肉や牛肉。どれも美味そうに見えたがそれは我慢した。妻は食べたいものがあるらしかったが、とりあえずは巻き貝と蟹を食べるためにちょっと元気がたりない主人の客も少ない一角の店に入った。

 僕はビールを頼み、巻き貝と蟹を注文した。妻はいろいろと注文したので、それを肴に気持ちよく、満足の気分で飲んでいた。すると四十代らしき男性と三十代らしきカップルが来て注文を始めた。僕らが食べているのをこっそり見ながら注文している。よそ者だとわかった。食べ終わる頃その男性が話しかけてきた。

 「日本から来たの? 先月札幌に行ったんだ。ひどい台風に遇ったよ」

 台湾の人だと思ったが英語が流暢すぎる。奥さんだか愛人だかわからないが彼の隣にいる女性は美人である。きっと台湾生まれの外国育ちなのかもしれない。二人とも英語が上手である。

「カナダに住んでるんだ。投資の仕事をしていて、世界あっちこっち行っている。息子はイングランドで勉強している」

調子よく話をしていて、この男性は香港の人で、今カナダに住んでいることがわかった。その女性は奥さんであることもわかった。買い物好きだということも。それで結局は連絡先の交換をして、See you again. と挨拶をしたのだった。

 ますます気分が高まってさらにその界隈をぶらぶらしていると、衝動買いで珍しいハーブを二十 種類も買ってしまい、台湾ドルがなくなってしまった。両替屋がない。銀行は閉まっている。バリならどこにも両替屋があるが士林夜市ではそうはいかないのだった。前方にを見ると薄汚れたビルがあり、「ホテル」という看板がある。相当古いから両替はないだろうと思いながらも、入っていった。僕よりは年とったおねえさんがいて、

「両替はやってないよ」と言う。

「なんとか替えてくれないか」と頼むと、

「レートはいくらだい」とプロっぽい言い方をする。

「空港で2・95」

「そりゃあ歩が悪い。だめだ」

と足元をすっかり見られている。

「じゃあ、2・6、まあいいや、2・5でどう? 一万円、2500ドル」

というと、笑みになって、サイフを取り出した。

 今度は広い通りの屋台の店に入った。昔食べたタンツー麺が美味しく、ぜひタンツー麺をということで、ビールを頼み、タンツー麺を頼んだ。台湾のタンツー麺はスープがあっさりしていてとても美味しい。しかも小さなどんぶりなのがよい。

 すると四十代の男と七十代の日本語ができる老人が話しかけてきて僕らの前に座りこんだ。若い四十代の男はビールを頼み、茹でたイカと茹でた海老を頼んだ。それを僕らに遠慮せず食べろと言う。イカにはワサビがついている。海老はチリソースがついている。

「僕は七十五歳だけど、日本人の軍人さんから日本語教育を受けた。頭に染み込んでいるよ。日本人は表裏がない。中国人は表裏がある。だから日本人が好きだ」

と言って日本人と会えたのが嬉しかったのか、日本が台湾を占領したときの話を聞くことになった。

 台湾での日本帝国軍人や教師たちの評判はよい。下水道を整備した。これが台湾発展の力になった。お茶の技術も教えた。中国本土のお茶とは比べ物にならないほど台湾のお茶は優れている。物作りのこだわりを教えた。戦後台湾がやや遅れてでも成長を遂げたのは日本人を敵視しなかったからだ。そういう素地があった。

 二人は僕らの前にどっかりと腰を落ち着けた。若い四十代は旅行会社をやっていている。陳さんと言う。老人は彼の叔父である。やはり陳さんと言う。長身でガッチリしたとても七十五歳には見えない老人だった。僕らが食べた分までお金を払ってくれた。よく似たようなことをしたおぼえがあるから、それは奇妙とも思わず、奢ってもらった。奢ってもらう理由はないのだが、雰囲気はそうなった。自分で頼んで僕らに勧めるのだからそうなるのは当然でもある。

酒もたっぷり入ったし、「カラオケに行こう」と若いのが言い出した。ちょっと断れない雰囲気だ。「温泉街に台湾一のカラオケがある。そこへ行こう」と言ってタクシーを止めた。僕らはレトロなバーに行くつもりでいたが、それはあきらめてついていくことにした。興味もある。

 二十分も走ると北陸の温泉街のようなところがあり、着くとたくさんの女性に中国語で迎えられた。カラオケバーにいくのかと思っていたら、地下にある広い部屋に案内された。そこには大きな回転式テーブルが置いてあるだけだ。女の人たちがドコドカ入ってきて、先ほど屋台で食べ残した料理が配膳される。それに新しい料理が加わる。女たちが中国語でかしましく声をたてる。

「生バンドがくるから」と陳さんは言う。床を畳に替えたら日本のお座敷じゃないか。女性は白いポロシャツである。若い女性は一人もいない。日本酒をもってきてついでくれる。どうも水で薄めているようだ。女将さんらしき人は目もしっかりしていて着ている服も違う。もうひとり制服でない女性がいたが、陳さんにだらしない顔してよりかかっているから、女将ではないだろう。チーママってところか。

 勝手がわからないため、どうも楽しめない。身包み全部剥ぎ取られるのではないかとも思った。七、八人はいるコンパニオンさんが次々と「カンペー」とか言ってくる。ためしに相手のを飲んでみたら「水」だった。う~ん、良心的、自分を守ろうとしている。毎日酒ばっかり飲んでいたら身がもたんよな、などと思っていると、バンドがやってきた。さて何を歌うんだろうと楽しみにしていたら「大利根月夜」だった。すぐに僕に歌えという。誰もじっとしていないから落ち着かない。

「銀座の恋の物語」を歌えという。「赤いグラス」を歌えと言う。それもこなして、潮時を考えていた。両陳さんはすっかりご機嫌である。

 ここはどこだかもわからないし、「逃げる」というのもなんだし、「陳さん、もう十二時も過ぎて明日は早いからもう失礼するよ」と退散の申し出をした。

「何を言ってるのか。二時間、借り切っているのだから、あと一時間はいなさいよ」とひきとめにかかる。バリで五百万円やられたことが疑心暗鬼にもさせている。

 そのうち旅行会社で景気がいいのか、若い陳さんが100ドル紙幣3枚ずつ女性たちに配り始めた。それを機に「これで失礼します。ありがとう。大阪かバリに来たらお返しするよ。台湾でバリ旅行を企画したら、現地コーディネイトはするから」と言って、握手して外にでた。ママさんがタクシーをすぐに呼んでくれたらしく、すぐにタクシーは来て、ホテルの戻ったのは一時を過ぎていた。

 タクシーの中でいろいろなことを思った。人昔、「社長、社長」などとおだてられると大盤振る舞いをする人がいた。僕もしたことがあった。

 昔、と言っても十二年ほど前、会社にアメリカやオーストララリのスタッフが入ってきた頃、あまりにも尾鷲の人が「飲め」や「食べ」やでどの店に行っても奢ってくれるで不気味がっていた。僕はその雰囲気はわかるので(外人は尾鷲の人には珍しいし)説明してやると安心したのか、その後は奢ってもらうのが当然のような顔をしていた。

「台湾は独立するべきだ」と老人は言う。

「でも国民党は捲土重来、悲願は大陸の中国に帰ることにあるのではないか」と僕は言う。

「中国はだめだよ」と老人は言う。息子を日本の大学に行かせた。日本びいきである。軍人にたたきこまれた人だけに背筋をピンとし、たいそう紳士的な老人ではあった。だが、僕に台湾のお座敷のシステムを説明するには語学力が不足していた。

 けたたましい台北の夜であった。道を聞いても英語のわかる人と出会わなかったのも十二年ほど前の日本とよく似ていた。塾の数の多さにも驚いたのだった。話す英語ではなくきっと受験の英語をやっていると思う。


2003年10月2日

元気を取り戻せ

  三かケ月ぶりのバリである。到着するやいなやチュルクに行った。帰るまでに銀の細工を作ってもらわなければならない。時間が限られている。やり直しがあるに違いない。銀のアクセサリーの店をやっていた。一昔前はツアー客で大もうけしたであろうこの店の裏庭には広く、様々な果物がなり、屋敷も大きかった。しかし今回行ってみると店は閉じていた。爆弾事件以後この後継ぎの若夫婦と会っていなかった。母親はやり手で、この若夫婦に店のあとを継いでもらいたかったのだった。留守番をしていた女性によると、その母親も出かけていて、娘はスカワティの近くにオープンした小さなマーッケトの半畳くらいのスペースを借りて地元の人たちに衣類やアクセサリーを売っている、ということだった。お婿さんはホテルに働きにいっている。

そのマーケットまで行くことにした。彼女は小さな店にいた。明るく手を振った。こちらは四人なので、マーケットの人たちは一斉に好奇心で集まってくる。

 設計図を見せ、これを銀で作ってほしいと、細部について説明し、製作は可能か、いくらになるか、何日かかるか、を教えてほしい、と注文をつけた。明日、電話で返事する、ということだった。いっぱい注文をくれ、と言う。もちろん成功したらいっぱいする、と言って、辞去した。

 マーケットに並んでいる品は一昔前のものばかりで、どうしてこのような店が今になっても建ち並ぶのか不思議である。

 スカワティもチュルクも全く元気のない村になっている。


 グランブルーは賑わっていた。立ち代わり客が入ってくる。どうやらだんだんと元気になってきたようだった。レギャン通りの様子を見に、通りを北に歩いてみる。

 アパッチという店が賑わっている。マカロニが改装を終えて大繁盛だ。通りに数あるレストランやみやげ物店はどこも客が入っていない。特に、地元の人が経営している店が閑古鳥である。テロで店が持ちこたえられていないのだろう。品不足と新商品のなさが資本力の不足を物語っている。爆弾の跡地には塀ができて供花が置かれ、その前は今工事中である。あと八日であの爆弾テロ事件からちょうど一年である。

 マタハリデパートは三階以上を閉鎖している。今の時期さえ置いてあったマンゴスチンもランブータンもない。

 よい匂いをさせてシーフードを売るレストランも活気がない。忍の一字。みんな忍んできたのだ。それがありありとわかる。シェフのバワが急に辞めていったスタッフのことで話をしているうちに、「みんな頭の中は金、金、金なんだ。今日の金のために信義も誠実もルールもあったもんじゃない。今、我慢して腕を磨きあげるということも考えない。お金には苦労してますよ。みんな」と、やや元気なく言う。

 「今、調子が戻りつつあるのだから、思いきってメニューも替え、テーブルも替えよう、花をもっと置こう。食材の質の向上も図ろう、今やっておこう」と僕は言った。一年は長かった。みんなも不安がずっと続いたのだ。花がしおれるように人間もしおれてくる。

 ヤーマもエステ・デ・マッサのスタッフもしおれている。肝心要のブックツリーのスタッフも淡々とはやっているが、元気がない。あるのは自分ばかりか。

 この一年はなにもできなかったのだし、シフトを日本に替えたのだった。明日から元気を取り戻させるために日本で練りに練ったプランを実行に移すのが今回の渡バリである。


2003年10月5日

レゴン・ラッサム

 ウブドゥにアルマという美術館がある。そこでに日曜日の夜「レゴン・ラッサム」の完全版をやっているということで、見に出かけた。

 レゴンダンスと言えば、「ティルタサリ」のレゴンダンスなどをこれまでに見ている。少女の軽やかで、俊敏な動きと、めりはりの利いた身体の動きがなんと言っても特徴で圧巻であった。

 観光客用に二十五分ほどに縮められているそうだ。だから期待してアルマに行ったのだった。今日の歌舞団はプリアタン・マスターズという。ここのレゴンダンスは俊敏な動きというものがなかった。レゴン・ラッサムだからなのか。

レゴン・ラッサムはレゴン・クラトンよりも前のレゴンダンスだという。

レゴン・クラトンも古典と言われているから、ラッサムはより古典というわけである。しかしこの知識は定かではない。

 観光客にレゴンダンスを見せるようになってスピード化が起こったのか、おそらくティルタサリのは華麗で早い。今日のはやや趣が違い、ダンスの主人公が王に扮するダンサーになっている。ティルタサリのは侍女が主役っぽく、華麗に舞うのであるが、今日のラッサムは王と王妃の踊りが主になっている。比較すると悪いのだが、蜂や蝶のように舞うことはなかったので、なんだか物足りない感じがした。

 僕は身体の動きは心の動きだと思っているところがある。膵臓の働きが悪いと身体の動きが悪くなり、当然心の動きも悪くなる。あるいは中上健次が書く小説「千年の愉楽」で描写される主人公とその女の身体の動きは一方の人間の究極のエロスというよりも自然な男と女の交わりと感情と心を表現しているように思える。

 レゴンダンスは健全な女子が踊るべきものであり、不健康な女子ではとてもできないように思う。

 踊り=ダンスというものを見るとき、気持ちが騒ぐのは身体の動きで心をどこまで表すことができるのか、また心の有り様を越える身体表現というのはあり得るのか、というところに目が吸い寄せられるからだ。

 古典と言われる「レゴン・ラッサム」。昔、この踊りが宮廷で演じられていた。その時代の人間の心はわかるはずもないのだが、普遍的にわかる部分もあるというのが今日みたものの素直な感想のような気がする。

 完全版といわれてもついていけない僕だった。演じる側が下手なのか、僕の見る目がないのかわからないが、逆に古典を演じるもののたいへんさを思う。過去に遡って過去の人間の心模様や時代の背景を感じとって演じなければならない。

 ガムラン演奏者の質は高かった。惜しむらくは演奏スタイルにもっとパフォーマンスがあってよいと思う。太鼓を打つ人はもっと手を上げてもよいし、青銅器楽器を奏でるのももっと目立ってもよい。音はアルマの屋根に響き、百花繚乱の音なのだから。

 レゴンダンスを見に行こうという気分になったのだから、そしてこれについて書こうと思ったのだからバリ島も落ち着きを取り戻しつつあるということだと思う。


2003年10月6日

オールドバティック

 今年は雨季の来るのが早いという。十月は暑くてじめじめし、おまけに風が吹き、突然雨が降るという印象だった。実はそんなことはないのかもしれない。印象が重なりあって、勝手にイメージを作っているのかもしれない。毎日、毎日涼しい日が続いている。いつも汗をかきっぱなしなのに、今回はハンカチが要らないほどだ。

 朝は、ガムランボールの写真を撮り、それを日本に送ることで過ぎてしまい、昼に大阪ハッピーバリのスタッフの家族が来ては話をし、元気でやっていると伝えていると、オールドバティックを探し、それをアレンジしてクッションやバッグを作る女性とそのだんなさんが来た。彼女のセンスは優れていて、どこか洗練された趣がある。生まれもってのセンスなのか、センスの流れを絶えず追っているのかわからないが、彼女の作るものはよい。イレーンという名前だが、そういうブランドはできないものかと思う。彼女に金の繭でできた丸いランプを作ってほしいと注文した。ハッピーバリのランプシェイドはすべてイレーンが作ったものである。来ていただいた方はわかると思うが金の繭を通してでる明かりの雰囲気はなんと呼べばよいのか心が和む色合いをしている。店は高級感が漂うようになる。彼女の本職はガーデニングであるそうな。庭をデザインする。バリ島のようなリゾートホテルの多いところではおもしろい仕事だろうと思う。朝、昼、夕と夜、同じ庭でも表情が違う。それをどう演出するか。見えないところにいかに気を使うか。植物や石や土のことをよく知り、設計をする。

 クッションカバーもバッグの柄も庭と通ずるところがある。思いがけず見つけた五十年ものの好きな色と柄のバティックは、誰にも売りたくないのだそうだ。話を聞いているとその気持ちは趣味のコレクターの気持ちと同じようだ。

 新しいバティックは綿でもプリントのせいかごわごわしている。オールドバティックの肌触りは年月を経た分だけ格別の肌触りである。見たこともなく模様のよいオールドバティックに出会うと興奮し、誰にも渡さないという気持ちも出来上がったものを見ているとわかる。

 オールドバティックの難しいのはそれを置いたり使う場所である。たんに腰巻きで使われるようなものをアレンジするのである。それを現代の都市の空間で素敵に見せるようにするのである。古いバティックに命を再び与えるようなことをしている。

 彼女は庭だけではなく身の周りの物にも目をやり部屋のインテリア全体へと仕事の幅を伸ばしているように見える。いずれ彼女を起用する建築事務所などがでてくるに違いない。

 アセアンの会議が明日から始まる。オーストラリアから三千人の人が一度にくるという。ブッシュ大統領も近々くるという。まだまだ昨年並みにならないけれどだんだんと活気づいてきているバリである。

 だからこそイレーンという女性とも会える。

終わりに

 二〇〇三年十月六日でホームページ「あれこれバリ島、発見・発掘」での「バリ日記」連載は終えた。そして「二十五時間目」というブログを開設した。日本で日常的に考えることを書き始めると、「バリ日記の続き」はその「二十五時間目」の中にごく自然に入っていった。それから十六年になろうとしている。

 ぼくの仕事は二〇〇五年に起きた二度目のバリ島爆弾テロで、レギャンからサヌールへの移転を余儀なくされ、レストラン&バーは閉鎖。管理・運営を請け負っていたエステ・デ・マッサも閉鎖。本体のブックツリーも閉鎖するしかなくなった。仕事上のパートナーもこれを機に離れた。

 ぼくはサヌールでエステの学校を開く準備をはじめ、ナルミニ、スリアシ、イルー、コマンを引き連れ、ナルミニにマッサージの学校に通わせ、日本語の学校にも通わせた。その間に学校法人の手続きをした。学校法人と言っても日本のようではない。どちらかと言えば、社団法人のようなものだ。それで「バリ州政府公認のエステ認定証発行」の資格を取った。この認定証をエステサロンの壁に飾るのだ。

 ぼくはテキストを作り上げ、世界にある美顔術やマッサージ技術を調べ上げ、研究の果てには、「力の伝え方―疲れないマッサージ」「ボディチューニングー歪みの調整」「姿勢と歩き方」が自分では「売り」だと思っていた。日本から若い女性や時には男性も学びに来た。

 尾鷲では話す相手がそれほどいなかったが、バリ島に来ると、若い人たちと賑やかな日々を過ごし、それでぼくの若さもある程度は維持できたのかもしれない。だいたい二か月に十日ぐらい理論講習のためバリ島に出向いた。実技はナルミニたちが行った。ナルミニが新マッサージを見れば、それを獲得し、実技の絵も描いた。すべてナルミニの能力のおかげであった。イダはトランスポーテーションをして独自に講習生たちの空港送迎や観光案内をやってくれた。

 ぼくの母親が交通事故の被害者になったことで、この学校を売却することになったのは二〇一五年である。およそ十年ほど続けたのである。

 日本にいる間は、「田舎暮らし支援サイト」を作って、空き家を移住してきたい人たちに売った。相棒のYさんは不動産屋さんをやっていた。Yさんは尾鷲内の人が客だとばかり思っていたのだった。尾鷲以外の人たちに情報を発信しようと提案し、僕が始めたのだった。これが成功した。

 しかしYさんが足裏が灼けるように熱くて痛い病気となって結局不動産屋さんを廃業した。不動産屋さんを介さなくてもよいという方には司法書士などを紹介して、支援したが、それも今はやらなくなっている。

ぼくは三年前から民泊事業を始めた。まあまあの成績である。人生の中で仕事的には十勝九敗のようなものだが、 借金も大方片がつき、十一勝、十二勝目を狙っている。そんな風にしか生きられないのだ。この性分にはほとほと家族の者は呆れていることだろう。

 現在のところ、母親は八十九歳のとき車に跳ねられて九死に一生を得たが、九十三歳でもうすぐ九十四歳となる。物忘れはひどいが食欲もあり、まだ衰弱していることない。娘、奈々子には紗希という七歳の小学二年生の子晃希という四歳の幼稚園児がいる。息子周平には百合子という小学一年生の娘がいる。それぞれ東京に住んでいて、年二度。尾鷲に顔を見せる。

 時々、村上春樹の短編小説「日々移動する腎臓のかたちをした石」を思い浮かべる。腎臓は二つある。ひとつでもまあ生きられる。人生に意味ある女性かどうか、父から植え付けられたような観念だが、それに主人公はこだわっている。そこへキリエという高層ビルで綱渡りをする女性とあるパーティーで出会い、セックスもする仲になるが、やがてキリエは姿を見せなくなる。主人公は「揺さぶられて何かを書く」人間である。揺さぶる人間はここではキリエである。キリエはこの男を意味ある男と見ていない。キリエは風が意思あるもののように重要である。主人公が小説の中で作った女医と妻子ある男との不倫は主人公がキリエをあきらめたときに腎臓の形をした石が消える、というメタファーになっている。

 生涯で意味ある人・事・物。まだなんだか探している自分がいる。観念の中で。すると行動となる。

二〇一九年六月二十日

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バリ記 本木周一 @shuichi-motoki

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