竜の送り人 Ⅱ

「この辺りには、渡り鳥が越冬に来んだよ。けれどね、水辺はダムや護岸整備で消えて、渡り鳥のえさ場もなくなっちまった。代わりと言っちゃなんだが、冬にも田に水を張ってえさ場を作ってやる風習が残っていてね……」


 その顔に刻まれた皺の深さからするに、一世紀近い人生を振り返っているのだろう。自分の軌跡は満足なものだったのか、老婆の表情は満ち足りている。


「ちょうどじいさんが死んだ頃、翼を怪我したのか仲間と渡りそびれた白鳥がいたんだよ。だから田の一角をそいつのために残して、何年か世話をしてねぇ」


 それだけのこと、と老婆は笑う。

 けれども軽いことではない。動物は正直なのだ。この人ならば怖くない。頼れるという信頼が何年も揺らがなかったのは生半可なことではない。ましてやそれから月日を経て、形を変えて戻ってくるなんて御伽噺となる話だ。その事実だけでも思い測れる。


 なら、その中でこの白鳥は老婆に何を返そうと思ったのだろうか?


「お世話の中で恩返しに繋がりそうな出来事に心当たりはありませんか?」

「さてねぇ。随分と前の話だ。そんなことまで覚えちゃいないよ」


 無償の善意だったからこそ、白鳥のことは覚えていてもそれ以外は記憶が薄いのだろう。

 さて、どうしたものだろうとミコトは顎を揉む。


 猫又や付喪神然り、力を持った存在に変わるにはそれ相応の時間がかかるので、こうして方針が定まらないことは少なくない。最悪は白鳥自身に声を与えて教えてもらうのだが、必然を呼び寄せるおまじないに比べて奇跡を起こす魔法はコストがかかるので大変厳しい。

 具体的に言えば、そういった魔法薬を調合すると食費数ヶ月分が吹っ飛んでしまうので、できれば取りたくない手段だ。

 お金稼ぎのビジネスではないのでこの点は世知辛い。


 ショルダーバッグに手を当て、進むべきか否かを迷っていると、老婆の手が上がった。彼女は細い指で縁側を示す。


「昔話みてぇなことがあっただけで十分だよ。それよりねえ、家のもんはこの時間は眠っちまうし、縁側に連れてってくれないかい? しばらくぶりに夜空を見たいんだ」

「はい。その程度でしたらすぐに」


 普段、人間大の狼にじゃれつかれることもあって痩せ衰えた老婆一人を持ち上げることくらいはわけもない。要望通り、縁側に座らせる。

 彼女は新鮮な外の空気を肺に満たしてから空を見上げた。

 その表情はただ眺めているのとは違う。何か思いついたように口を開けた後、視線を向けてきた。


「そういえばあったね。こうして空を見上げたんだ」


 呟きながら白鳥をひと撫でする。


「じいさんはお天道様のところへ行っちまった。白鳥もいつか北に帰る。そげなもんだから取り残された気になってね、遠いあの向こう側を見てえもんだ。いつか連れていっておくれと言った気がする」


 何とか手繰り寄せられたものの、記憶はか細そうだ。けれどもこの答えはまさに白鳥が求めていたものだったらしい。ばさりと翼を広げた後、視線を向けてきた。

 なるほど。確かに白鳥の身では叶わないが、竜の身ならば話は変わる。ささやかな願いに対してなんとも贅沢な姿を得たものだが、それこそ動物の純真さ故の展開だ。


 頷き返したミコトは老婆に問いかけた。


「おばあさん。その気持ちは今も変わっていないですか?」

「何を言うとるんかねえ。あのでけえ姿ならできるかもしれないけど、先が短いばばあには無理なことだよ」


 老婆はそう言って震える腕を上げ、すぐに力尽きたように脱力する。こんなところが精一杯なのだと、続けて向けられる表情が語っていた。

 自分もグウィバーの背によく乗るのでわかる。空を飛ぶというのは見た目以上に大変だ。特に竜は風を翼で受けて舞い上がる鳥と違い、翼で空気を叩きつけて強引に飛ぶ関係上、乗り心地が酷く悪い。出歩くこともできない老婆の身では、明らかに無理な話だ。


 だが、その辺りは工夫でどうにでもなる。魔法の御業すら必要ない。


「大丈夫です。それを何とかするために私はここにいますから、大切なのはおばあさんがその時の気持ちをどうしたいかだけです」

「ほんに夢みたいなことを言う娘さんだねぇ。だったら、冥途の土産だ。見られるところまで見てみたいもんだ」

「わかりました。それならできる限りのお手伝いをさせてもらいます」


 オーダーはこの老婆と白鳥が空を飛ぶこと。そのまま実現は無理だが、白鳥は竜になれる。ならばあとは老婆側の問題をどうにかすればいいだけだ。


 無論、用意はあるとも。

 ミコトはショルダーバッグから小鉢を取り出す。


「そりゃあ、何をするんだい?」

「望んだ夢を見るためのお香を焚きます。ただ、それだけでは足りないので少しだけアレンジを」


 言いながらアカシアの葉と八角を入れる。これらはスパイスや薬として古くから用いられているので知っている人もいるだろう。

 追加するミルラもそうだ。ミイラの語源はここからきているとも言われ、その防腐処理や鎮静剤、鎮痛剤、その他お香としても利用された代物である。


 この粉末を焚くことで望んだ夢を見られるというおまじないだ。

 竜と空を飛ぶ夢を見るなんてそれこそロマンチックな夢だろう。

 あとはアレンジである。


「おばあさん、髪の毛を少しだけ分けてもらってもいいですか?」

「ここんところ散髪もロクにしていない髪だ。好きに持っていくといいよ」


 老婆が震える手で髪を梳くと、二、三本の白髪が指に絡まっていた。ミコトはそれを受け取り、老婆の傍で座ったままの白鳥からは綿羽をもらう。

 綿羽に白髪を結びつけている傍ら、ミコトは老婆と白鳥を見た。


 猫の香箱座りみたく足を畳んだ白鳥は老婆の足に顎を乗せ、ぺたりと密着している。きっと、北に帰りそびれた時もこんな瞬間があったのだろう。

 大切な繋がりだ。


(少しだけ、胸がチクチクするなぁ)


 お役目は彼らの絆を善意で取り持っているのではない。全く別の側面で利用もさせてもらってもいる。害意あるわけではないが、その点は少しだけ心に引っかかっていた。

 そうこうしているうちに細工は終わった。仕上げとして杖に括り付けている火竜の鱗を外し、小鉢に入れる。


「――在りし日の熱を思い出せ」


 手をかざし、呪文を唱えると鱗は熱を発した。

 最初はタンパク質が焼け焦げる臭いがしたものの、すぐに香の匂いが勝り、周囲に漂う。

 線香の香りに慣れているであろう老婆は、その甘くスパイシーな香りに頷きを示した後、ゆったりと目を閉じた。


 元よりこの落ち着く香りで快適な眠りを誘う。そんなところから生まれたおまじないである。こうして身を委ねてもらえれば後の誘導は楽なものだ。ピアノの奏者みたく心地を調律し、夢の流れを整えてあげるのである。


「白鳥さん、準備はいい?」


 問いかけると、白鳥は庭に飛び降りた。再びその身に淡い光が満ち、竜の姿を取る。

 あちらの準備は完了。次は老婆の番だ。ミコトは彼女の手を取る。


「おばあさん。空を望む夢を、私が誘います。目を開けて立ち上がってください」


 お香の効果もあってうつらうつらとしていた老婆の耳に囁きかける。

 寝たきりと思しき老婆には無理な相談であっただろうが、驚くべきことに事実は違った。催眠術でも掛けられたかのように老婆は言葉に従って立ち上がる。


 否。立ち上がったその姿は老婆(・・)ではない。

 顔に刻まれていた皺は煙となって消え失せ、肌にはハリとツヤが生まれ、痩せ衰えていた手足にも活力が戻っている。その事実に自身も驚きなのか、元老婆は目を丸くしていた。


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