竜の送り人 Ⅲ
「こ、こりゃあ……?」
「これはひと時の夢みたいなものです。今のうちにどうぞ」
かつてシンデレラにかけられた魔法もこんなものだったのだろうかと空想しながらほほえみを返す。
元老婆を前に緑竜はぐるぐると猫のように喉を鳴らした。彼女が跨りやすいようにと身を低くしていることからも、離陸を催促していることがわかる。
「ありがとうねえ、お嬢ちゃん」
元老婆はそう言って笑みを返すと、竜に跨った。
庭を駆けて翼を打ち、空に舞い上がっていく。ばさりばさりと翼を打つ度に高度を上げていくと、驚き半分だった元老婆の表情にも変化が現れた。見たこともない鳥瞰図を前に感動が勝ってきたようである。
手綱もなしで飛び上がるなんて現実では恐ろしかろうが、彼女らにとっては夢半分だ。感動を素直に楽しんでいることだろう。ミコトは縁側に座ってその様を見守り続けた。
――ついには山向こうが白んできた。
その頃になると緑竜は地上に戻ってくる。その背にはすでに元老婆の姿がない。うたかたの夢という言葉の如く、消え失せてしまったのだ。
すうすうと寝息を立てて肩に寄り掛かっている老婆を抱えて布団に戻したミコトは杖を手にして緑竜の前に立つ。
「想いは遂げられた?」
高くも低くも飛び、風景のみならず飛行そのものまで二人で楽しんでいたようには見えた。惜しむらくは北の大地へ渡る時間まで与えられなかったことだ。
それが後を引いていないかと問いかける。
緑竜からの答えは顔をすり寄せることだった。
少なくとも二人にとっては後悔が残るものではなかったのだろう。その意思が伝わっただけ心が楽になった。
さあ、朝日が昇ってきた。幻想的な時間も永遠ではない。終わりを告げる時である。緑竜の体は再び光の粒子となって消えようとしていた。
ミコトはそれに対して杖をかざす。
「人とこの土地を好きでいてくれてありがとう。願わくは永く永く、穏やかに見守ってあげて」
とん、と杖で地面を打つと幻光が地面に紋様を描いた。それと同時に緑竜は一気に光の粒子となって散り、地面に吸い込まれて消える。
「熱っ……」
それと同時、ミコトは顔を少し歪めて左袖を捲った。
そこには何画もの入れ墨で構成された文様が並んでいる。その先端に新たな一角が刻まれたのだ。
良い事をすればそれに応じて名も知れぬ神様からのご褒美がある。このお役目に代々引き継がれてきた特殊能力であり、証だ。
認めたミコトは両手を組み、空に祈りを捧げる。
「|全ては神様と自然のために。どうぞ良きお導きを。《かんながら たまちはえませ》」
祈りを終え、目を開ける。緑竜がいたはずの場所に残ったのは預けたはずの幸運のお守りだけである。
ミコトはそれを拾うと老婆のもとへ歩き、その手に握らせた。
これにてお役目も終わり。そう思って立ち上がろうとした時、老婆はぼうっと目蓋を開いた。
「――夢は、いつか覚めるもんなんだねえ」
若い時分の肉体から今の状態まで戻ったのだ。その落差は単に夢から覚める程度のものではないだろう。
彼女らの絆を利用させてもらっている手前、不義理はできない。ミコトは返答する。
「……はい。ずっとは続かないものだと思います」
答えると老婆は深呼吸をした。
酸いも甘いも味わってきたことだろう。彼女の動作は現実とはそういうものだと静かに受け入れるような所作だった。
「あの白鳥はどこへ行ったんだい?」
その問いかけは少しばかり痛い部分だ。
老婆を慕って戻ってきた白鳥は彼女と再会して終生幸せに暮らした――そんな御伽噺とは異なるからだ。
「地下水みたいにこの土地に流れている大きな力の流れに還りました。あの子たちは願いを叶えるために竜になって、力を蓄えます。けれど強い存在ではないので、想いを遂げると力を使い果たしてしまいます。その後はこの土地の守り神になってくれたとでも思ってください」
「ほんの何年かお世話をしただけだっていうのに、随分大きなお返しだよ。まったく」
老婆はボソリと口にする。
大きなお返しという言葉はミコトの胸にもズキンと響いた。手助けをしているとはいえ、彼らの純真な気持ちに便乗しすぎている気持ちを否定しきれないからだ。
竜も含め人外とは、人が抱いた夢と信仰の産物。故に幻想種と呼ばれ、人々の信仰なくては生きていられない。生物とも異なる特殊な存在だ。
けれども不可思議な事象も未確認生物も科学技術によって解明されていく現代では信仰なんて生まれようがなくなってきた。
その結果、幻想種は三百年ほど前に丸ごと別世界に隔絶され、今では完全に分断される危機すら迫っている。
だからこそ、この老婆と白鳥のようなことを手助けし、信仰と繋がりを維持しようとしているのだ。
そうすることでまた別の動物が竜になる猶予ができ、おまけに本物の幻想種たちも生き残ることができる。お役目とはそれを円滑に運ぶための仲介人と言えよう。
これが現代の幻想種の生き方であり、ミコトと竜はその生き方の一例なのである。
老婆が口にしたように、夢とよく似ている。いずれ滅びる運命が確定しているようで、なんとも危うい在り方だ。
無論、ミコトはそれを良しとしていない。
白鳥との出来事も幻想種という存在も、単なる夢では終わらせたくないのだ。その気持ちは常に胸に抱いてお役目を果たしている。
ミコトは喪失感を覚えた顔の老婆に再度向き合った。
「おばあさん。確かに夢はいつか覚めてしまいます。けれど、意味がないものではありません。突飛なことも起こるかもしれませんが、夢は現実を捉え直す契機にもなってくれます。だからどうか夢と現実を切り離して考えないでください。今日の夢はあなたにとっても白鳥にとっても無駄なことなんかではなかったんですから」
そう言ってミコトは幸運のお守りを握らせた老婆の手に触れる。
白鳥はこの土地の守り神として地に還り、贈ったお守りは老婆に託された。見守る対象がすぐに死んでしまっては白鳥としても浮かばれないだろう。
言葉にされずとも、老婆はこの意味を察した様子だ。
「見守られているとあっちゃあ、そうすぐに死んじまうのは情けないね」
お守りを握り締める老婆に頷きかけた後、ミコトは縁側から外に出る。
人々が夢から覚めてこないうちにグウィバーの背に飛び乗り、空へと帰っていくのだった。
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