(8)9月23日

 被害のあった家の二階での生活。なんとなく居心地が良くなってきている。あの濁流から12日目だ。もうそんなに経ってしまった。

 相変わらずの私は、午前2時に目が覚めてしまう。もう寝ていられなくなる。4時半にランドリーに行って、いつもの顔ぶれに朝の挨拶をして、話をして。連帯感というのか、同じ町内、同じ体験、究極の経験をした者同士は、言葉にできない何かがある。

 アイコンタクトで、笑顔を見せあう目の奥には、あきらめ、割り切り、失望、喪失感、そして希望。様々な感情が交差している。

 突然、津波被害の事を思った。目の前で昨日までの”普通”が流されてゆく。瞬きする間に、何もかも命までもが流されてゆく。今改めて、その怖さの本質を知ったように思った。

 私の”普通”って何だったのだろう。今この時点で失ってしまったすべてが普通だった。

 朝起きて、身支度を整えて、卵を焼いて、コーヒーを淹れて、パンをトースターに入れる。家族が揃ったところで、いただいて、それぞれが出掛けて、犬たちが残りのパンを欲しがるものだから、隠れてコッソリあげたりして。

 ある時は、大型スーパーで買ったばかりの”するめスティック”をテーブルの上に乗せておいた。私も家族も出かけていて、小一時間位だろうか帰ってきたら、その買ったばかりのするめが無くなっていた。その代わりに、2匹の犬達のお腹が上から見ても解る位、パンパンに膨らんでいる。するめが犬たちに良くない事は解ってはいるが、もう手遅れだった。

 想像は出来た。小さいヨーキーが、椅子を足場にテーブルに上がり鼻でツンツンして直径20センチもあるプラケースを落としたのだろう。大きなラブラドールは、そのケースなど前足1本でたたけば、簡単に蓋を開けられる事を知っている。二匹の共同作業で、すばらしいおやつにありつけた訳で、全部食べてしまった。あまりにもすばらしい作業に私たちはあっけにとられた。

 またある時は、不用意に置いてあった蓋の緩んだピーナツバターのびんを、ヨーキーが顔をつっこんで全部なめてしまった。帰宅してびっくりした。何事? 顔中、目の上までピーナツバターがべったりと付いている。あまりの滑稽な顔に笑いが止まらなかった。

 そんな平凡で静かな楽しい一日一日が過ぎていた。それが私の普通。そして失ったものすべてが普通。その普通の大切さを改めて考えさせられた惨事だった。

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