#085:号泣で候(あるいは、光/ただそこにありき)


「や、やあ薫子かおるこさん、入るよ?」


 と、<303>とのプレートが嵌まった扉の前で、小浮医師は、そうしゃっちょこばって室内に声を投げかけるわけだが。


 果たして、あらセンセ、今日は遅いじゃなあい、との、意外にしっかりした年配の女性と思しき声が返ってきた。おばば様……薫子殿か。


 何でえ、割と元気そうじゃねえか、とのギナオア殿の言葉に、口の前に人差し指を当てると、……覚醒している時は、しゃんとしてるように見えるんだ、でも一日に二時間も無い。後は昏睡の状態が続いている、と小浮医師が囁く。


 ベージュ色の室内は、ベッドが二床あったものの、手前側には誰もいないようだ。窓からの穏やかな陽光が、室内を照らしている。四角く吊られたカーテンはほぼ開け放たれていて、枕元側が緩やかな傾斜を持ってせり上がったベッドの全容が見える。


「あら何か今日は大勢で。総回診かい? でもそれにしちゃあ医者っぽくないね、そこの髪と顔の長いのは死神みたいに見えるよ」


 もたれかかるようにして仰臥していたのは、透き通るような白髪をさっぱりと短めに揃えた、初老、と表現しても差し支えのないほどの、肌の透き通り方に目を瞑れば、若々しさすら感じさせるような、そんな細身の女性であった。いや、細身というか、痩せ細っていると表現した方がよいかも知れぬが。その口許に透明な酸素マスクを着けていなければ、重篤な患者とはとても見えない。


 死神たぁ、ひでえ言われ方だな、出会いのキューピッド様に向かってよぉ、と、ギナオア殿はずいずいと歩を進めると、窓際の壁にもたれかかり足を組む。その横には点滴のスタンドが2台設置されており、各々からチューブが2本ずつ、薫子殿の両腕に向かって伸びていた。


「ああ、あの、今日は薫子さんにお客さんだよ、その何と言っていいかは……なんだけれど」


 何だいセンセは相変わらずはっきりしないねえ、との薫子殿のはきはきした言葉の中、小浮医師はこちらを上目遣いに見やって、入って入って、と身振りで示してくるだけである。しかし、


「……姫様」


 モクに背を優しく押されるものの、姫様は顔を俯けたまま、自分では室内に進もうとはなさらなかった。


 何とか、モクに肩を抱かれて、一歩一歩、足を引き擦るようにして進む姫様。その御顔は表情を浮かべず固まったままだが。


 無理もない。


 ―おばば様にお会いして……わらわは何を言えばいいのであろう?


 ―いまさら、なのではないだろうか。そもそもわらわのことなど、知らぬはずだ。身内はいないと、そうおっしゃっていたのであろう?


 姫様の逡巡の御言葉が、頭に蘇る。そんないたたまれない空気になったのであれば、私が痴れ者や道化となってでも、場をうやむやにして乗り切るまでよ。そんな思いを胸に、姫様に続いてベッドに近づいていく。


 その時であった。


「あらアロナコちゃんかい? 随分大きくなってぇ」


 薫子殿は、姫様の俯けた顔を見るなり、からりとした声を、からりとした笑顔から発したのであった。自分の名前を呼ばれた姫様が、弾かれたように上げた顔の前に、枕元から取り出した桃色の二つ折りの端末ケータイの画面を向けて来る。


「……!!」


 後ろから覗き込む私。そこには、三つか四つかくらいの頃であろうか、王宮の一室にて、青色のドレスを身に着けておすまし顔をしている姫様と、その小さき御顔に御顔を押し当てている妃殿下、サクラ=コ様の曇りなき笑顔が小さき画面に表示されていたのであった。


「あの子は週いちくらいで写真を送ってきてくれてたんだよ、便利な世の中になったもんだねえ、……これは、お庭かい? あんたの住んでるところは、空が綺麗だねえ、こんなのも、ほら美味しそうなお料理、これも、これも」


 次々と画面を切り替えていく薫子殿であったが、突然起こった大きな音に驚き、手を止めてしまう。


 うわあああああああああああん、と子供が如く、棒立ちのまま大口を開けて顔を歪め、泣き声を御身から振り絞るようにして泣いていたのは、他ならぬ姫様なのであって。


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