第弐部
壱
次に目を開けた時には、ものすごい血の臭いが鼻を衝いた。
広い畳部屋には、二人の男の人が倒れている。
仰向けになった一人は、黒い紋付き袴姿の、がっしりした大柄な人。そのそばには、お医者さんみたいな白衣を着たおじいさんが、屈んで治療しているみたい。
そして、もう一人は――。
「
わたしは、思わず叫んでしまう。
ついさっき『灰ノ殻』を旅立った時とは違って、
――生きてる!
すぐに駆け寄ろうとしたけど、白い法衣を着た男の人たちがわたしを取り囲んだ。手には小刀や札を構えている。
「貴様、どこから潜り込んだ!」
「婚儀の場を
「えっ、あ、わたしは――」
ヤバい。無理。しんどい。
確かに修羅場は修羅場だけど、大ピンチすぎる!
視線をめぐらせると、燎司さんの正面に、
きっと、あの子が本物の
このままじゃ、燎司さんが危ない。
自分が『
「すみません、どいてくださいッ!」
バッと両手を体の前へ突き出すと、わたしの前後左右を光の五角盾が囲って、男の人たちを弾き飛ばした。
――よし、できた!
やっぱり、
「何ッ!」
「何だ、この術は!?」
驚く彼らの間を走り抜けて、わたしは燎司さんのそばに座った。足やスカートが血で濡れるけど、そんなのかまわない。
「燎司さん!」
「……っ、
吐息に近い小さな声が、紫色の唇から漏れて。うっすらと開いた彼の目が、わたしを見上げようとする。
ほっとして、わたしはセーラー服の襟から赤いリボンをほどく。
「今、止血しますからッ」
燎司さんは、胸の辺りを鋭い刃物で刺し貫かれてしまったみたい。背中側の布地も破れて、血まみれだ。
保健体育の授業で習った、応急処置の仕方を思い出そうとするけど、リボンを握る指が震えてしまう。もしかして、トラックにはねられたあとのわたしも、こんなひどい有様だったのかな。こんなショッキングすぎる光景、十七年の短い人生で一度も見たことがない。
――あぁもう、しっかりしろ、わたし!
心の中で自分を叱りつけた時。
「リョウ
女中さんたちの腕を振り払って、灯璃さんが駆け寄ってきた。
わたしの反対側に座った彼女は、こっちを見つめる。涙でお化粧の
「きみが、リョウ兄の魂を連れてきてくれたの?」
「え、あ、その……っ」
「ありがとう」
しどろもどろになってしまうわたしに、優しくお礼を言ってくれて、灯璃さんは燎司さんの傷口に両手をかざす。
そのてのひらからあふれた白い光が、シャボン玉みたいに傷を照らして。燎司さんの肌に付いた血が、ちょっとずつ引いていくのがわかった。
――そっか、これが『
燎司さんのストーリーには、
「灯璃様、そのような
「灯璃様にまで穢れが――」
「黙って、気が散る」
怒鳴ったわけでもないのに、灯璃さんの一言で周りの人たちは静かになった。
わたしも、ただただ祈ることしかできない。両手に握り込んだチャームを、
――お願いします、生きてください、燎司さん……!
せっかく帰ってこられたのに、灯璃さんとも再会できたのに、また死の
どのくらい祈り続けただろう。癒力の光が、すぅっと消えていく気配がした。
畳に染み込んだ血は、ほとんどそのままだけど。破れた長着の布地からのぞく傷口は、跡形もなくふさがっていた。
燎司さんのまぶたが、またゆっくりと上がっていく。
「リョウ兄っ」
「燎司さんっ」
「……灯璃?」
腕を動かして体を起こそうとする彼を、灯璃さんが横から支える。
なんとか仰向けになった燎司さんは、わたしたちの顔を見比べて微笑んだ。顔色はまだ蒼白いし、
「よかった、おまえたちが無事で――」
「全っっっ然よくないよ、バカッ!」
ちょっとキーンと耳鳴りがするくらいの声量で、灯璃さんは怒った。その表情が、みるみるうちに泣き顔に変わっていく。
わたしも、早速もらい泣きしてしまった。眼鏡のレンズが曇り始める。
「なんで、ぼくのためにこんなに傷ついちゃうの……すっごく心配したんだからね……っ」
「ああ、ごめんな」
やわらかい声音で謝って、燎司さんは灯璃さんの頬にそっと片手を添えた。
「謝罪で
「リョウ兄が生きててくれなきゃ、意味ないよ、そんなの」
「……そうだよな。だから帰ってきた。生きて、罪を償うために」
「うん……おかえり、リョウ兄」
「ただいま」
そして、彼はわたしにも優しい眼差しを向けてくれる。
「な、修羅場だっただろう」
「びっくりしすぎて、どうにかなりそうでした……」
「すまん。――灯璃、この子は
「そうなの?」
「あ、いえ、そんなたいそうなものでは……っ」
うれしそうに見つめてくる灯璃さんにも、照れてしまう。
その時、周りの人たちがざわめいた。
もう一人、倒れたままの男の人――たぶん、あれが
彼のそばにいるおじいさんが、悲痛な表情で首を横に振った。
「手は尽くしましたが……ご臨終です」
「何たることだ……」
「あの炤一郎様がお隠れに……!」
声を上げて泣き出す人もいる。一族の当主、しかも歴代最強とまで言われていた和魂騎士が亡くなったなら、鳥羽本家にとってはかなりの痛手なのかも。
彼らの言葉を聴く燎司さんは、無表情になっていた。炤一郎さんへの強い憎しみを、今も抑えつけているのかな。
「灯璃様、どうか炤一郎様にも癒力を!」
「
「もう何をしたって助からないよ。みんな、わかってるくせに」
切実に訴えかける親族っぽい人たちに、淡々と灯璃さんは即答した。
彼女の小さな手が、燎司さんのそれをぎゅっと握る。誓いみたいに。
「リョウ兄は、確かに炤一郎さんを
「灯璃様……」
「しかし……!」
「いいでしょ? お父さん、お母さん」
振り返った灯璃さんの視線の先には、正装姿の中年のご夫婦が佇んでいた。灯璃さんと燎司さんを、彼らは切なげに見つめている。
目配せをしたお二人は、こっちにしずしずと歩いてきて、灯璃さんの両側に正座した。部屋にいる全員に、深く頭を下げて。
「皆々様。
「燎司の処遇は、どうか私どもにお任せいただけませぬか……」
「わたしからも、お願いします」
灯璃さんも、ご両親に倣って三つ指をついて、頭を垂れた。
親族の偉い人たちも、反論しようにも何も言えないみたいだった。お三方の態度が、あまりにも謙虚で真剣だからだろう。
人だかりの真ん中に進み出た、がっしりとした体つきのおじいさんが、重い口を開いた。
「――ふむ。ただし、そこの小娘も罪人として処すぞ」
「は、はいっ!」
わたしは、びくっとして背筋を伸ばした。
最初から、燎司さんと一緒に罰を受けるつもりだった。不法侵入同然のかたちでここへ来たのは事実だし、婚儀の場を荒らしてしまったんだから。花婿さんが亡くなったからには、中止されるんだろうし。
――でも、どんな罰なんだろう。やっぱり、めちゃくちゃ拷問されるのかな……。
おじいさんの厳しい目つきだけで、体中がカチコチに固まってしまいそう。
「お待ちください、先代」
燎司さんが、上半身を起こした。おじいさんに向き直って正座しようとする肩を、わたしは後ろから支えた。
「燎司さん、だいじょうぶですか?」
「ああ、悪いな」
小声で答えてくれたあと、姿勢を正して彼は言葉を継ぐ。
「彼女は、私の命の恩人です。彼女の導きがなければ、私はさらに道を踏み外していたことでしょう。己の罪を死を以て終わらせようとしたこともまた罪であり、己の愚かさに彼女は気づかせてくれたのです」
ですから、と燎司さんも深く一礼した。
「彼女を解放してください」
「何?」
「
「燎司さん……!」
――そんな、わたしだけ許されるなんて、そんなの……!
ずっと、燎司さんのそばにいたいのに。
苦しくなるわたしの胸に、周りの人たちの声が突き刺さる。
「この娘、さっき妙な術を使ってたな」
「明らかに五行属性ではない魔力だったぞ」
「実は鬼の子なのでは……?」
「鳥羽の名を
ぴくり、と畳についた燎司さんの指がこわばる。頭を下げたままだから、表情は見えないけど。もしかしたら、怒っているのかも。
――わたしのせいで、燎司さんにまたご迷惑が……!
彼らに何か言い返したいのに、舌が動かない。
部屋中がざわめき始めた、その時。
「うるさいッ!」
灯璃さんが、立ち上がって思いきり怒鳴った。
ひっ、と何人かが息を呑む。
深く息を吐いた彼女は、彼らの顔を見渡して告げる。
「リョウ兄は、先代当主様とお話ししてるんだよ。人の話は最後まで聴け、って教わらなかった? わたしも成人したばっかりだけどさ、大の大人たちができないなんて、なっさけないね」
「灯璃さん……」
ぽろっとこぼれたわたしの声に、灯璃さんは片目をつぶって応えてくれた。だいじょうぶだよ、って言いたそうに。
――灯璃さん、なんか萌奈に似てる……。
わたしが成績のことでお母さんに怒られるたびに、萌奈が毅然と庇ってくれていた。自分の意思で反抗できる強い妹が頼もしくて、うらやましかった。
「炤一郎さんが亡くなった今、すべては先代がお決めになることだから。それに従うのが、わたしたちの務めでしょ」
ぴしゃりと言い終わると、彼女は正座し直して、おじいさん――先代当主さんに謝罪した。
「お話し中に水を差してしまい、申し訳ございません」
「構わぬ。
ちょっと面白そうに言った彼は、また燎司さんを険しく見据えた。
「燎司よ、お前の言い分はわかった。だが――小娘の
「なッ……!」
「先代、よろしいのですか!?」
「この小娘は、鬼の
当の燎司さんとわたしよりも、先代当主さんに従う人たちのほうが驚いていた。
わたしは、肩越しに振り向いた燎司さんと、思わず顔を見合わせてしまう。灯璃さん親子も、目が点になってしまっているみたい。
ハッハッハ、と先代当主さんは豪快に笑い飛ばした。
「鳥羽の歴史は、貴様らもよく知っておろう。我が先祖が鬼を生け捕りにし、あらゆる手段を以て調べ尽くした果てに、奴らに対抗し得る退魔連隊が創設されたこともな。何を恐れる必要がある」
それにな、と彼の眼差しがまた鋭くなる。
「鳥羽から無法者が出たとあっては、表沙汰にはできぬ。我が倅を殺めた罪、光の届かぬ地下で生涯をかけて悔い改めよ、燎司」
「はッ。仰せの通りに」
「小娘よ」
「はいっ」
声が
灯璃さんに接した時と同じように、先代当主さんは愉快そうに告げる。
「貴様が
ちょっといい人かとも思ったけど、やっぱり怖い人だったー!
この人の息子の炤一郎さんも、きっとよっぽどの暴君だったんだろう。鬼畜親子かな……?
ぷるぷるしてしまいそうになるわたしの手の甲を、燎司さんのてのひらがふわりと包んでくれた。一瞬で緊張が和らぐくらいに、あたたかい。
「逃げてもいいんだぞ」
先代当主さんのほうを見据えたまま、彼は小声で勧めてくれる。
けど、わたしは首を横に振った。
「わたし、もう逃げないって決めたんです」
座敷牢でも何でも、燎司さんと一緒にいられる場所なら、きっとだいじょうぶだから。
手の中で、萌奈の作ってくれたチャームが、じんわりと熱を持った気がした。
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