第弐部

 次に目を開けた時には、ものすごい血の臭いが鼻を衝いた。

 広い畳部屋には、二人の男の人が倒れている。

 仰向けになった一人は、黒い紋付き袴姿の、がっしりした大柄な人。そのそばには、お医者さんみたいな白衣を着たおじいさんが、屈んで治療しているみたい。

 そして、もう一人は――。


燎司りょうじさん!」


 わたしは、思わず叫んでしまう。

 ついさっき『灰ノ殻』を旅立った時とは違って、蘇芳すおう色の長着ながぎがどす黒く染まっている。うつ伏せの彼の指が、血だまりの上でぴくりとかすかに動いた。

 ――生きてる!

 すぐに駆け寄ろうとしたけど、白い法衣を着た男の人たちがわたしを取り囲んだ。手には小刀や札を構えている。

「貴様、どこから潜り込んだ!」

「婚儀の場をけがす不届き者め!」

「えっ、あ、わたしは――」

 ヤバい。無理。しんどい。

 確かに修羅場は修羅場だけど、大ピンチすぎる!

 視線をめぐらせると、燎司さんの正面に、白無垢しろむく姿の小柄な女の子が見えた。女中さんたちに両脇から押さえられているけど、燎司さんのそばへ行こうと抵抗している。

 きっと、あの子が本物の灯璃あかりさんだ。

 このままじゃ、燎司さんが危ない。

 自分が『導鬼ミチビキの巫女』じゃなくなった今でも、あれが使えるかどうかはわからないけど。どうにか突破しなきゃ!


「すみません、どいてくださいッ!」


 バッと両手を体の前へ突き出すと、わたしの前後左右を光の五角盾が囲って、男の人たちを弾き飛ばした。

 ――よし、できた!

 やっぱり、萌奈もながわたしにくれた力なのかも。

「何ッ!」

「何だ、この術は!?」

 驚く彼らの間を走り抜けて、わたしは燎司さんのそばに座った。足やスカートが血で濡れるけど、そんなのかまわない。

「燎司さん!」

「……っ、萌生めい……?」

 吐息に近い小さな声が、紫色の唇から漏れて。うっすらと開いた彼の目が、わたしを見上げようとする。

 ほっとして、わたしはセーラー服の襟から赤いリボンをほどく。

「今、止血しますからッ」

 燎司さんは、胸の辺りを鋭い刃物で刺し貫かれてしまったみたい。背中側の布地も破れて、血まみれだ。

 保健体育の授業で習った、応急処置の仕方を思い出そうとするけど、リボンを握る指が震えてしまう。もしかして、トラックにはねられたあとのわたしも、こんなひどい有様だったのかな。こんなショッキングすぎる光景、十七年の短い人生で一度も見たことがない。

 ――あぁもう、しっかりしろ、わたし!

 心の中で自分を叱りつけた時。


「リョウにい!」


 女中さんたちの腕を振り払って、灯璃さんが駆け寄ってきた。

 わたしの反対側に座った彼女は、こっちを見つめる。涙でお化粧の白粉おしろいが崩れてしまっているけど、きれいな笑顔を向けてくれた。一瞬、見惚れそうになるくらいには。

「きみが、リョウ兄の魂を連れてきてくれたの?」

「え、あ、その……っ」

「ありがとう」

 しどろもどろになってしまうわたしに、優しくお礼を言ってくれて、灯璃さんは燎司さんの傷口に両手をかざす。

 そのてのひらからあふれた白い光が、シャボン玉みたいに傷を照らして。燎司さんの肌に付いた血が、ちょっとずつ引いていくのがわかった。

 ――そっか、これが『早鬼見サキミの巫女』の癒力ユリョクなんだ……!

 燎司さんのストーリーには、和魂騎士ワコンキシとして鬼と戦う彼の怪我を、灯璃さんが癒す描写もあった。和魂騎士や陰陽師オンミョウジは、治癒札チユフダを使うことしかできないけど、早鬼見の巫女の癒力のほうが治療も回復もかなり早い。

「灯璃様、そのような罪人つみびとの治癒など、おやめくださいッ!」

「灯璃様にまで穢れが――」

「黙って、気が散る」

 怒鳴ったわけでもないのに、灯璃さんの一言で周りの人たちは静かになった。

 わたしも、ただただ祈ることしかできない。両手に握り込んだチャームを、あごのそばに寄せて目を閉じた。

 ――お願いします、生きてください、燎司さん……!

 せっかく帰ってこられたのに、灯璃さんとも再会できたのに、また死のふちに逆戻りなんてつらすぎる。

 どのくらい祈り続けただろう。癒力の光が、すぅっと消えていく気配がした。

 畳に染み込んだ血は、ほとんどそのままだけど。破れた長着の布地からのぞく傷口は、跡形もなくふさがっていた。

 燎司さんのまぶたが、またゆっくりと上がっていく。

「リョウ兄っ」

「燎司さんっ」

「……灯璃?」

 腕を動かして体を起こそうとする彼を、灯璃さんが横から支える。

 なんとか仰向けになった燎司さんは、わたしたちの顔を見比べて微笑んだ。顔色はまだ蒼白いし、口許くちもとも血で赤黒く汚れているけど。

「よかった、おまえたちが無事で――」

「全っっっ然よくないよ、バカッ!」

 ちょっとキーンと耳鳴りがするくらいの声量で、灯璃さんは怒った。その表情が、みるみるうちに泣き顔に変わっていく。

 わたしも、早速もらい泣きしてしまった。眼鏡のレンズが曇り始める。

「なんで、ぼくのためにこんなに傷ついちゃうの……すっごく心配したんだからね……っ」

「ああ、ごめんな」

 やわらかい声音で謝って、燎司さんは灯璃さんの頬にそっと片手を添えた。

「謝罪でゆるされる行為ことでもないし、俺は罪人だ。もう、おまえとも一緒に暮らせないかもしれない。それでも、おまえを護りたかった。あの人やこんな家に縛られずに、幸せになって欲しかった」

「リョウ兄が生きててくれなきゃ、意味ないよ、そんなの」

「……そうだよな。だから帰ってきた。生きて、罪を償うために」

「うん……おかえり、リョウ兄」

「ただいま」

 そして、彼はわたしにも優しい眼差しを向けてくれる。

「な、修羅場だっただろう」

「びっくりしすぎて、どうにかなりそうでした……」

「すまん。――灯璃、この子は橋立はしだて萌生。俺の恩人だ」

「そうなの?」

「あ、いえ、そんなたいそうなものでは……っ」

 うれしそうに見つめてくる灯璃さんにも、照れてしまう。

 その時、周りの人たちがざわめいた。

 もう一人、倒れたままの男の人――たぶん、あれが鳥羽とば本家当主の炤一郎しょういちろうさんだろう。

 彼のそばにいるおじいさんが、悲痛な表情で首を横に振った。

「手は尽くしましたが……ご臨終です」

「何たることだ……」

「あの炤一郎様がお隠れに……!」

 声を上げて泣き出す人もいる。一族の当主、しかも歴代最強とまで言われていた和魂騎士が亡くなったなら、鳥羽本家にとってはかなりの痛手なのかも。

 彼らの言葉を聴く燎司さんは、無表情になっていた。炤一郎さんへの強い憎しみを、今も抑えつけているのかな。

「灯璃様、どうか炤一郎様にも癒力を!」

何卒なにとぞ、お力を……!」

「もう何をしたって助からないよ。みんな、わかってるくせに」

 切実に訴えかける親族っぽい人たちに、淡々と灯璃さんは即答した。

 彼女の小さな手が、燎司さんのそれをぎゅっと握る。誓いみたいに。

「リョウ兄は、確かに炤一郎さんをあやめてしまった無法者だよ。でも、これからその罪を償うって本人が言ってる。ぼくは――わたしは、それを見届けたい。だから、リョウ兄の命を奪わないで」

「灯璃様……」

「しかし……!」

「いいでしょ? お父さん、お母さん」

 振り返った灯璃さんの視線の先には、正装姿の中年のご夫婦が佇んでいた。灯璃さんと燎司さんを、彼らは切なげに見つめている。

 目配せをしたお二人は、こっちにしずしずと歩いてきて、灯璃さんの両側に正座した。部屋にいる全員に、深く頭を下げて。

「皆々様。おいである燎司の不始末は、私どもの監督不行き届きによるものでございます」

「燎司の処遇は、どうか私どもにお任せいただけませぬか……」

「わたしからも、お願いします」

 灯璃さんも、ご両親に倣って三つ指をついて、頭を垂れた。

 親族の偉い人たちも、反論しようにも何も言えないみたいだった。お三方の態度が、あまりにも謙虚で真剣だからだろう。

 人だかりの真ん中に進み出た、がっしりとした体つきのおじいさんが、重い口を開いた。

「――ふむ。ただし、そこの小娘も罪人として処すぞ」

「は、はいっ!」

 わたしは、びくっとして背筋を伸ばした。

 最初から、燎司さんと一緒に罰を受けるつもりだった。不法侵入同然のかたちでここへ来たのは事実だし、婚儀の場を荒らしてしまったんだから。花婿さんが亡くなったからには、中止されるんだろうし。

 ――でも、どんな罰なんだろう。やっぱり、めちゃくちゃ拷問されるのかな……。

 おじいさんの厳しい目つきだけで、体中がカチコチに固まってしまいそう。


「お待ちください、先代」


 燎司さんが、上半身を起こした。おじいさんに向き直って正座しようとする肩を、わたしは後ろから支えた。

「燎司さん、だいじょうぶですか?」

「ああ、悪いな」

 小声で答えてくれたあと、姿勢を正して彼は言葉を継ぐ。

「彼女は、私の命の恩人です。彼女の導きがなければ、私はさらに道を踏み外していたことでしょう。己の罪を死を以て終わらせようとしたこともまた罪であり、己の愚かさに彼女は気づかせてくれたのです」

 ですから、と燎司さんも深く一礼した。

「彼女を解放してください」

「何?」

元来がんらい、我ら鳥羽の血族とは一切関わりのない者です。何卒、ご寛大なご決断を」

「燎司さん……!」

 ――そんな、わたしだけ許されるなんて、そんなの……!

 ずっと、燎司さんのそばにいたいのに。

 苦しくなるわたしの胸に、周りの人たちの声が突き刺さる。

「この娘、さっき妙な術を使ってたな」

「明らかに五行属性ではない魔力だったぞ」

「実は鬼の子なのでは……?」

「鳥羽の名をけがす恥知らずに似合いの『馬の骨』よな」

 ぴくり、と畳についた燎司さんの指がこわばる。頭を下げたままだから、表情は見えないけど。もしかしたら、怒っているのかも。

 ――わたしのせいで、燎司さんにまたご迷惑が……!

 彼らに何か言い返したいのに、舌が動かない。

 部屋中がざわめき始めた、その時。


「うるさいッ!」


 灯璃さんが、立ち上がって思いきり怒鳴った。

 ひっ、と何人かが息を呑む。

 深く息を吐いた彼女は、彼らの顔を見渡して告げる。

「リョウ兄は、先代当主様とお話ししてるんだよ。人の話は最後まで聴け、って教わらなかった? わたしも成人したばっかりだけどさ、大の大人たちができないなんて、なっさけないね」

「灯璃さん……」

 ぽろっとこぼれたわたしの声に、灯璃さんは片目をつぶって応えてくれた。だいじょうぶだよ、って言いたそうに。

 ――灯璃さん、なんか萌奈に似てる……。

 わたしが成績のことでお母さんに怒られるたびに、萌奈が毅然と庇ってくれていた。自分の意思で反抗できる強い妹が頼もしくて、うらやましかった。

「炤一郎さんが亡くなった今、すべては先代がお決めになることだから。それに従うのが、わたしたちの務めでしょ」

 ぴしゃりと言い終わると、彼女は正座し直して、おじいさん――先代当主さんに謝罪した。

「お話し中に水を差してしまい、申し訳ございません」

「構わぬ。せがれ許嫁いいなずけに選んだだけのことはあるな。気の強い娘よ」

 ちょっと面白そうに言った彼は、また燎司さんを険しく見据えた。

「燎司よ、お前の言い分はわかった。だが――小娘の異能ちからには利用価値がありそうだ。しばらくは、お前とともに我が本宅の座敷牢で暮らしてもらおう」

「なッ……!」

「先代、よろしいのですか!?」

「この小娘は、鬼の変化へんげ態かもしれぬのですよ!?」

 当の燎司さんとわたしよりも、先代当主さんに従う人たちのほうが驚いていた。

 わたしは、肩越しに振り向いた燎司さんと、思わず顔を見合わせてしまう。灯璃さん親子も、目が点になってしまっているみたい。

 ハッハッハ、と先代当主さんは豪快に笑い飛ばした。

「鳥羽の歴史は、貴様らもよく知っておろう。我が先祖が鬼を生け捕りにし、あらゆる手段を以て調べ尽くした果てに、奴らに対抗し得る退魔連隊が創設されたこともな。何を恐れる必要がある」

 それにな、と彼の眼差しがまた鋭くなる。

「鳥羽から無法者が出たとあっては、表沙汰にはできぬ。我が倅を殺めた罪、光の届かぬ地下で生涯をかけて悔い改めよ、燎司」

「はッ。仰せの通りに」

「小娘よ」

「はいっ」

 声がうわずってしまいそうだけど、なんとか返事ができた。

 灯璃さんに接した時と同じように、先代当主さんは愉快そうに告げる。

「貴様が何奴なにやつかは知らぬが、その異能ちから、いつか暴いてやろう。楽しみにしておれ」

 ちょっといい人かとも思ったけど、やっぱり怖い人だったー!

 この人の息子の炤一郎さんも、きっとよっぽどの暴君だったんだろう。鬼畜親子かな……?

 ぷるぷるしてしまいそうになるわたしの手の甲を、燎司さんのてのひらがふわりと包んでくれた。一瞬で緊張が和らぐくらいに、あたたかい。

「逃げてもいいんだぞ」

 先代当主さんのほうを見据えたまま、彼は小声で勧めてくれる。

 けど、わたしは首を横に振った。

「わたし、もう逃げないって決めたんです」

 座敷牢でも何でも、燎司さんと一緒にいられる場所なら、きっとだいじょうぶだから。


 手の中で、萌奈の作ってくれたチャームが、じんわりと熱を持った気がした。

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