ゲームでは、『導鬼ミチビキの巫女』は探索中に疲れて眠る描写があったし、『灰殻鬼譚ハイカラキタン』公式サイトで連載されていた四コマ漫画にも、そんなふうに描かれていた。亞主十あすとさんに声をかけられるまでは、巫女は回復するために眠っていたんだろうし。

 けど、実際に自分が巫女の立場になって動いてみると、かなり不便だ。

 いくつの階段を上り下りしたのか、どれだけの隠し通路を探し当てたのか、もう数えたくない。『凍れる女帝』が待ち構える城の中は、想像以上に広すぎた。絡繰からくり人形の体と女子高生の体はつくりも違うし、ちょっと歩いたり走ったりするだけでも疲れが出てしまう。重くなるまぶたを、どうにか気力で押し上げていた。

 最終決戦前に休んでばかりいるのも時間の無駄だし、お二人にもご迷惑はかけられない。

 燎司りょうじさんが前を進み、その後ろから亞主十さんがわたしと並んで移動してくれている。次から次に湧いてくる虫型や動物型の『鬼』をあっさり倒してくれて、ほんとに頼もしい。

 立って移動してみると、外国人みたいに長身の燎司さんと、小柄な亞主十さんの体格差もちょっと面白かった。

萌生めいちゃん、ちょっと休むか? けっこー歩きっぱなしだし」

「いえ、だいじょうぶですっ」

「うおっ、一気飲み!?」

 巾着きんちゃく袋から『明神薬ミョウジンヤク』のガラス瓶を引っ張り出して、わたしは中身をごくごくと飲む。半透明の薄紅色の液体は熱くも冷たくもなくて、ほんのりと梅みたいな味もする。瓶は、五〇〇ミリリットルのペットボトルくらいの大きさだ。

 どうして人形の体なのに飲み物が飲めるのか――なんて疑問は、きっと持たないほうがいいんだろう。

 女帝のボスクエストを攻略した時は、確か明神薬も『治癒札チユフダ』も三桁は持っていた。女帝のいる天守閣てんしゅかくの一番奥へたどり着くまでに、アイテムが全部尽きてしまうこともない、はず。

 ダンジョンのゴールまで瞬間移動テレポートできるアイテムもあれば便利なのに。攻略中のクエストを最初からやり直すためのアイテムならあったけど。

 明神薬を飲み干して息をつくと、亞主十さんが面白そうに笑った。

「いい飲みっぷりだなー。人間の体だったら、一緒に酒飲むのも楽しそうだけど」

「すみません。わたし、元の世界の法律だと未成年こどもなので」

「あー、そっか。残念」

 亞主十さんの設定年齢は二十歳、燎司さんは二十六歳。年上の人と、しかも大好きなゲームの男性キャラ二人と交流できるなんて、やっぱり夢みたいだ。

 長くて薄暗い廊下は、燎司さんが左手の上に出した火の玉のおかげで、前のほうもちょっとだけ見通せる。なんとなく、体が奥へ上へと見えない糸に引っ張られている感覚がした。女帝が巫女を呼んでいるのかも。

 背筋もまっすぐな燎司さんの後ろ姿は、迷いがなくて凛々しい。ずっと見ていたい。

「そういやよぉ」

「はいっ?」

 亞主十さんの声で我に返った。

「きみの生きてた世界って、たぶんオレらの世界とは文化とか時代とかも違えんだよな? 『とらっく』とかいう乗り物も、こっちじゃ見たことねえし」

「そうですね」

「『こーこー』とかいう学校もアレか、オレらの世界で言うと『常和トキワ退魔学園』みたいなもんか」

「あそこみたいな『陰陽師オンミョウジ』とか『和魂騎士ワコンキシ』とかを育成するための学校じゃないんですけど、十代の子どもたちが勉強するって意味なら近いかもです」

「ふーん」

 鬼を専門に退治する戦闘職が、和魂騎士。騎士のサポートをしたり世の吉兆を占ったりする事務職が、陰陽師。そういう世界観設定だった。

 わたしも『灰殻鬼譚』の世界で生きていたら、ずっと楽しかったのかな。少なくとも、お母さんに毎日びくびくしながら暮らすよりはマシだし。

「オレはたまたま水の魔力を持って生まれたけど、孤児みなしごでバカだからなぁ。ああいうとこは雲の上って感じだ」

 亞主十さんは、なつかしそうに言う。

「萌生ちゃんとか、学園で教官やってたらしい燎司みたいな奴はすげえって思うぜ。あ、嫌味じゃねえからなっ」

「ありがとうございます。でも、わたしなんて全然大したことないです。燎司さんに比べたら……」

 常和退魔学園で、和魂騎士の戦闘実技担当教官を務めていた燎司さん。彼のストーリーを読んだ時も、あまりのかっこよさにわたしは毎回悶えてしまっていた。

「教官になる前も、退魔連隊でずーっと主力級だったらしいもんな。一緒に戦ってても、あいつは『ツワモノ』の中でも頭一つ抜けてるほうなのはわかるぜ」

「そうなんですか」

「そういや、きみは燎司を尊敬してるっつってたし、オレらのことも知ってたみたいだけど、なんで?」

「あ、そ、それは……っ」

 痛いところを突かれた。

 燎司さんも亞主十さんも、『灰殻鬼譚』の世界観で懸命に生きる人間だ。それなのに、実はここはわたしのいた世界で創られたゲームの一部なんです――なんて彼らに説明するのは、残酷すぎる。とても言えない。

 口ごもってしまうわたしに、亞主十さんはあっけらかんと笑った。

「ま、いいや。こっちに来たばっかで、まだ思い出せねえこともあるだろうしな」

「すみません……」

「気にすんなって。オレなんか、最初は自分の名前ととしくらいしかおぼえてなかったし。きみは、やっぱ『特別』なんだと思うぜ」

 そういえば、亞主十さんのストーリーも、最終話まで実装される前にゲームがサービス終了しちゃったんだ。

 彼の明るい笑顔に、ちょっとだけ胸が締めつけられる。

『兵』キャラのレアカードには、五芒星ごぼうせいのマークで表す『等級』が設定されていた。最高が五ツ星、最低が一ツ星。通常カードと、キャラの記憶解放に必要な『勾玉マガタマ』を指定の数だけ集めて合成することで、一ツ星から順番に育成していくシステムだ。それぞれのストーリーも五話完結で、読みやすかった。

 確か、女帝を攻略した時の亞主十さんの等級は、二ツ星だった。実装されていた最新のストーリーが読みたくて、育てたんだ。

 あんまりしんみりしてしまうのも申し訳ない。話題を変えよう。

「ところで、亞主十さん」

「ん?」

「この城、凍ってますけど、甚平じんべい着てて寒くないですか? 腕とか足とか」

「どうってことねえよ。ガキの頃、血がつながってねえクソ親に、雪の積もった道端に捨てられたのに比べりゃな」

「えっ」

「しかも、人が寝てた真夜中だったんだぜ。ひどくね? 床も壁も屋根も、あるだけだいぶマシっつーか」

 そんなこともあったな、くらいの軽い言い方で、亞主十さんは答えた。

 そうだ、彼のい立ちはそんな感じだった。

 ――暗い話の原因を振ってどうするの、わたしのバカ……!

 自分の頭をポカポカ殴りたくなるけど、亞主十さんは陽気に語ってくれる。

「あの時、頭領おかしらに拾ってもらわなけりゃ、義賊ぎぞくの一人になって生きることもなかったんだろうなぁ。今の名前も、頭領に付けてもらったし。偉そうなお貴族様どもをギャフンと言わせるのは、すげー楽しかった。あいつら、平民から金や食い物を巻き上げて、腹ふくらませてたしよ」

「そういう身分格差みたいなのって、ほんとひどいですよね」

「だよなー」

 日本史とか世界史とか現代社会とかの授業では、差別の話題も出ていたし、亞主十さんの義賊としての生き方にも共感できた。

 私腹を肥やす貴族から盗んだ金銀財宝を、各地の貧しい平民に分け与える義賊の一団。現実世界リアルの現代で同じ行為ことをしたら犯罪になるけど、フィクションの中ならかっこいいと思う。

「ま、死んでいきなりこんな異界に飛ばされたのは、マジでびっくりしたけどよ。『兵』にはかわいい女の子もたくさんいるし、そこそこ快適だぜ。今が楽しけりゃ、それでいいし」

「そういうの、わたしもちょっとわかります」

「マジか」

「人間、いつ死んじゃうかわかんないじゃないですか。あんまり先のことばっかり考えてても意味ないなって、たまに思ってたんです」

「まあなー。てか、オレが言うなって感じだけど、萌生ちゃんも若えのにけっこー悟ってんな?」

 感心したみたいに言う亞主十さんに、わたしは曖昧あいまいな笑顔しか返せない。

 自分の考え方や本音は、こうして死んでからもずっと同じだ。

「そういえば、亞主十さん。女忍者くのいち飴吹いぶきさんに、『アメちゃんって呼んだら殺す』って言われてましたよね」

「なんで知ってんの!? そうだけど!」

 一年前のゲーム内クリスマスイベントストーリーでそういう描写や台詞を読んだからです、とは言えない。

 泣きそうな顔で、亞主十さんはさめざめとぼやく。

「オレが声かけても、女の子たちはすぐどっか行っちまうんだよなー。なんでだろ」

「それが手当たり次第っぽく見えちゃうからじゃないでしょうか……」

「だって、みんなマジでかわいいし、誰かひとりなんて選べねえんだよ……!」

 彼の公式プロフィールに『趣味・軟派ナンパ』って書かれていたことにも吹き出してしまったけど、ご本人と実際にしゃべると、ますます面白い。

 つい小さく笑うわたしに、亞主十さんはほっとしたように言う。

「よかった。緊張が解けてきたみたいだな」

「え、あ、そうですね」

「オレらは戦闘なんか慣れっこだけど、きみはそうじゃねえし。怖かったら、遠慮しねえですぐ言えよな」

「は、はい」

 大本命の燎司さんがいるのに、ちょっときゅんとしてしまった。

 こういうさりげない優しさも、かっこいい……!

 べつに『灰殻鬼譚』は乙女ゲームじゃないけど、この状況や会話はそういう感覚になっても仕方ない気がする。

「オレよか、萌生ちゃんのほうがさみぃんじゃね?」

 亞主十さんは、気遣うようにすっと片手を差し出してきた。


「手、つないだほうがあったかいだろ。また鬼が出るまででよけりゃ、どーぞ」


 こ、こんなの反則だー! ゲームには、こんなシチュエーションはなかった!

 にかっとした笑顔もまぶしすぎて、直視できない。

「ありがとう、ございます……っ」

 どぎまぎしながら、わたしはその手をおずおずと握った。人形の顔は赤くならないから、多少は照れ隠しができて助かるけど。

 燎司さんより登場実装順が早かったら、亞主十さんが本命になる未来もあったかも。

 小さな手を包んでくれる彼の指もてのひらも、ちょっと冷え気味だけど、頼もしいあたたかさがにじんでいる。

 不意に、燎司さんが肩越しに振り向いた。

「萌生。女帝の気配は、まだこの先に続いてるのか?」

「あ、はい! しばらくまっすぐでだいじょうぶ、だと思います」

「そうか、ありがとう。何か気づいたことがあれば、適宜教えてくれ」

「了解ですっ」

 きりっとした表情と姿勢で、彼は進み続ける。

「燎司、また気張りすぎねえといいけどな」

「え?」

 亞主十さんのぼそっとしたつぶやきが、引っかかった。

「や、あいつ、たまーに一人で全部片づけようとすっからよ。強えのはいいけど、しょい込みすぎて危なっかしいっつーか」

「あぁ……」

 それは、ものすごくわかる。燎司さんのストーリーを最終話まで読んだから、なおさら。

 いつも、ご自分よりも他人のことを優先している。『あの人』のことも含めて。

 わたしも、燎司さんの足を引っ張らないように、ちゃんとお助けしなきゃ。

 改めて心に決めた時、亞主十さんの足が止まった。

「おっ。宝箱、はっけーん!」

 廊下の両側にいくつか並ぶ小部屋のひとつ、その奥に、鈍く光る鉄製の宝箱が見えた。

「おまえ、そういうことにはほんと目敏めざといな」

 体ごと振り向いた燎司さんが、苦笑いを浮かべる。

 小部屋へ入っていく亞主十さんに、燎司さんとわたしも続いた。

 亞主十さんと手をつないだ時間は短いけど、彼のぬくもりがじんわりと残っている。触れた部分から、安心感が体中に拡がっていく気がした。

 亞主十さんが宝箱の鍵を開ける間、わたしは燎司さんと一緒に部屋の出入口で待つことにした。いつ鬼が襲ってきてもいいように。今のところ、気配は感じないけど。

「気をつけろよ。また宝箱から鬼が出ないとも限らん」

「わかってるって」

 甚平のふところから金具を引っ張り出して、亞主十さんは慣れた手つきで鍵穴をいじり始める。

 彼の技には、敵の武器攻撃力を一時的に盗んだり、課金とは別にゲーム内通貨として使う『輝石キセキ』の戦闘後獲得数を増やしたりする特性もあった。女帝のボスクエスト攻略用デッキに亞主十さんを入れたのも、それが便利すぎたからだ。

 マップ上に宝箱しか出ない『財宝クエスト』も、ゲームには何種類かあった。きっと、亞主十さんはそういうところに行ったら毎回大喜びするんだろう。

「しっかし、城の中に宝箱置いてくれるなんて、女帝って意外と親切じゃね? 罠もあるけど」

「確かに。さっきまで開けてきた中身も、明神薬とか勾玉とか輝石とかでしたもんね」

「冥土の土産とも取れるがな」

「燎司、無粋ぶすいなこと言うなよなー。気分が萎え――よっし、開いた」

 ガチャリ、と鍵の開く音がして、亞主十さんはわくわくとふたを押し上げる。

「何が出るかなーっと」

 でも――中をのぞこうとした彼の首に、真っ黒い何かがぐるりと巻き付いた。


「うわッ!?」

「亞主十さんッ!」


 また鬼が入ってたのかも……!

 焦ったわたしより先に、燎司さんが素早く駆け出した。炎をまとわせた刀で、黒い何かを斬り落とそうとする。

 けど、箱の中からむわっと濃い煙みたいなものがあふれてきた。部屋中に拡がったそれは、近くの景色さえ覆い隠していく。

 お二人の名前を呼ぼうとしても、どうしてか声が出なかった。吸い込んだ煙が、喉に詰まったみたいに。

 げほごほと咳き込む自分の意識も、だんだんそれに巻き取られていった。


  ▼


 ゆっくりと開けた目には、ぼんやりと誰かの顔が映り込んだ。

萌生めい、気がついたか」

「っ、燎司りょうじさん!」

 近い、近い! さすがに照れる!

 そばに片膝をついてわたしを見下ろす燎司さんは、安心したように微笑んだ。

 ごしごしと目をこすって、わたしは首を動かす。

 真っ暗闇の中で、お互いの姿だけがハッキリ見えていた。陽の光に照らされているみたいに。

 城の中とは違って、ものすごい肌寒さはないけど。物音も臭いもしないのが、不気味だ。

亞主十あすとさんは……?」

「わからん。あの煙に呑まれた時、別の場所へ飛ばされたのかもな」

「そんな……早く合流しないとっ」

「ああ。立てるか?」

「はい」

 指なしの黒い革手袋に包まれた右手を、どきどきしながら握る。長い指に触った瞬間に、心の奥まで一瞬であたたまった。

 ――これが、ずっと憧れてた人の手なんだ……!

 燎司さんと並んで立って、周りを見回す。この暗闇がどこに続いているのか、そもそも出口はあるのかも、全然わからない。

「鬼の『結界ケッカイ』の中だとすれば、厄介だな」

 燎司さんの推測に、わたしは体をこわばらせてしまう。

 中ボス級の『鬼』は、常時発動効果能力パッシブスキルとして、その場に結界を張って敵を閉じ込めることができるって設定だった。その効果や範囲も鬼ごとに差があって、制限ターン数以内に鬼の体力を削り切らないとゲームオーバーになることもあった。

 はぐれてしまった亞主十さんも、わたしたちと同じ状況の中にいるなら、危なすぎる。

 ――けど、こんな結界を張る中ボスなんて、『灰殻鬼譚ハイカラキタン』にはいなかった気が……。

 不安や違和感が、むくむくと湧き上がってきてしまう。

 シュボッ、と音がした。前へ伸ばした左のてのひらに、燎司さんがまた紅い火の玉を浮かばせている。

「とにかく、動かんことには始まらん。亞主十や女帝の気配はわかるか?」

「それが、全然……」

「そうか」

 見えない糸に少しずつ引っ張られるような感覚も、今は消えている。『導鬼ミチビキの巫女』は、一緒に探索している『ツワモノ』キャラの気配も正確に感じ取れる設定のはずだから、亞主十さんの居場所も探れないのはおかしい。

「結界の性質の影響かもな。少し歩いてみようか」

 燎司さんは、またやわらかく笑んで右手を差し出してくれる。


「握ってたほうが安心だろう。離すなよ」

「は、はいっ!」


 うわー! やっぱり役得すぎるー!

 あとでばちが当たりそうだけど、こんなチャンスもきっと多くないだろうから。

 頼もしいてのひらを、ぎゅっと握らせてもらった。

 燎司さんは、刀を使わなくても、手から炎を直接呼び出して敵や物を燃やすこともできる。気を遣ってもらえたのがうれしいけど申し訳ない。刀のほうが威力は強いだろうし。

 亞主十さんと三人でいた時は、彼がムードメーカーっぽく話題を振ってくれて、いい感じに和んでいたけど。いざ燎司さんと二人きりになると、何をしゃべっていいのかわからない。鬼を警戒しているだろうし、あんまり話しかけるのもまずいかな。気を散らせてしまいそう。

 歩きながら、モヤモヤと考えていた時だった。


「何をしてるの、萌生」


 女の人の低い声が、後ろから響いた。

「えっ?」

 聞き覚えがありすぎて、思わず振り向いてしまう。

 そこにいたのは――。

「お母さん……!?」

「何?」

 燎司さんも、立ち止まって腰のさやに手をかける。

 グレーのスーツとタイトスカート、ストッキングと黒いパンプスをはいた足。毎日見ていた、仕事着の姿。

 ソバージュのかかった短い黒髪が、顔の輪郭にぴったりと沿っていて。眼鏡をかけた両目が、わたしをきつくにらんでいる。

 ざぁっ、と。血の気の引く音が聞こえた気がした。

 ――どうして、お母さんがここに……!?

 燎司さんがわたしの前に進み出て、居合いの構えを取った。

「鬼の幻術ゲンジュツかもしれん。このまま斬り伏せ――萌生?」

 彼の声が、やけに遠く聞こえる。

 その場にぺたんとうずくまったわたしは、体を折り曲げて視界を遮る。

 力が入らない。お母さんを、まっすぐに見られない。

「ごめんなさい、お母さん……わたしなんかが生きてて、ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」

「萌生ッ」

 燎司さんの呼びかけにも、答えられない。

 せっかく、現実から解放されたのに。絶対的な『支配者』が、またわたしの前に出てくるなんて。

 お母さんは、わたしにとっては一番怖い存在ひとだ。自分が死んだ事実よりも、これから立ち向かう『凍れる女帝』よりも。

 死んでもまた責め続けられてしまうんだ。役立たずのわたしが、のうのうと生きていたことを。

「――やむを得ん。斬るぞ」

 燎司さんの低い声と、刀のつばが押し上げられる硬い音が、同時に聞こえる。

 だけど。


「だめだよ、リョウにい。また人を殺しちゃ」


 お母さんとは正反対の方向から、別の声がした。若い女の子の。

「……灯璃あかり……?」

 愕然がくぜんとする燎司さんの声が、耳に入る。顔を上げられないまま、わたしはヒュッと息を吸った。

 彼のストーリーに出てきた、彼にとって一番大切な人。

 彼より六歳下の、従妹いとこ鳥羽とば灯璃さん。

 折り曲げた上半身から、首だけを後ろへ向けてみる。

 肩越しに見えたのは――白い法衣と朱色のはかまに身を包んだ、女の子の姿だった。

 黒いおかっぱ頭と、リスみたいにまるい目。にっこりと燎司さんに笑いかけているのに、どこか作り物みたい。

 は、と燎司さんが冷笑をこぼす。

「なるほど。敵は、ご丁寧に俺たちの身内と戦わせる舞台を用意したのか。随分皮肉の利いた演出だな」

 けど、わたしは見てしまった。

 鞘と刀のつかを握る彼の指が、かすかに震えているのを。

 お気持ちは、ちょっとだけわかる。たとえ敵の作り出した幻でも、大切な人を倒さなきゃいけないなんて、つらいことだ。

「ねぇ、リョウ兄」

 笑顔のまま、灯璃さんは燎司さんに一歩近づく。

「ぼく、炤一郎しょういちろうさんを殺して、なんて頼んでないよね」

「そうだな。俺が自分の意志で、勝手にやったことだ」

 冷静に、でも少し切なげに、燎司さんは答える。

「萌生。こんなところで油を売ってないで、早く勉強しなさい」

 お母さんも、わたしに迫ってきた。びくりと肩が跳ねてしまう。

「優秀だった萌奈もなとは違って、あんたはただでさえ出来損ないなんだから。死んだお父さんと萌奈に申し訳ないと思わないの?」

「ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」

 わかりきっている、そんなことは。でも、どんなに努力しても結果は出なかった。学校の試験や模試で、一点でも点数を上げることに必死だった。

 お母さんは、最後まで一度もほめてくれなかった。認めてくれなかった。

 もう謝ることしかできない。生きたくないから、生きる意味も価値も感じなくなったから死んだのに。これ以上、どうしろっていうんだろう。

 灯璃さんの声も聞こえる。

「強くてかっこいいリョウ兄は、ずーっとぼくの憧れだったよ。小さい時から護ってもらえて、鬼の討伐も一緒にできて、すごくうれしかった。でも――優しかったリョウ兄は、もういないんだね」

「……そうかもな」

 自嘲的なつぶやきが、燎司さんの口から漏れる。

「おまえとの婚儀を強引に推し進めた炤一郎さんや鳥羽本家の連中が憎かったし、俺はどうしても阻止したかった。あの人からも家柄からも、おまえを解放したかった。あの人をこの手にかけたのは、人生最大の願望わがままだった。おまえに幸せになって欲しい一心でな」

 燎司さんのストーリーを最終話まで読んだから、わたしも全部知っている。

 鳥羽本家当主で、一族歴代最強の和魂騎士ワコンキシで、燎司さんの遠い親戚でもある炤一郎さん。彼が、分家筋出身の灯璃さんを無理やり許嫁いいなずけにした。天性の強い魔力や戦闘能力を持つ燎司さんのことも、一族全体でずっと迫害していた。

 燎司さんに事前に知らされていなかった婚儀は、鳥羽本家で内密に行われようとしていた。けど、昔から燎司さんを気遣ってくれていたベテランの女中さんが、彼にこっそり電報を送っていた。

 婚儀が始まる前に本家へ乗り込んだ燎司さんは、刀で炤一郎さんと刺し違えてしまった。灯璃さんの目の前で。

 その直後に、彼はこの異世界『灰ノカラ』に来たんだろう。女帝に『ツワモノ』の一人として召喚されて。

 あの一連のストーリーも、『灰殻鬼譚ハイカラキタン』のサービス終了までに何十回も読み返したくらい大好きだ。その画面も全部スクリーンショットを撮って、スマートフォンやUSBメモリ、クラウドサービス、オンラインストレージにもパスワード付きで保存していた。たぶん、お母さんには最後までバレていなかったはず。

 お母さんが、ますますイラついてわたしをなじる。

「しかも何なの、その不審な男は。親の目を盗んで不純異性交遊だなんて、ほんとどうしようもない馬鹿だね、あんたは」

「……違う」

 謝るしかできなかったわたしの口から、否定の言葉が突いて出た。

 わたしだけを責めるならいい。けど――燎司さんのことまでバカにするのは、許せない。


「燎司さんは、そんなひどい人じゃないよ」


 怖いけど、ゆっくりと顔を上げる。お母さんの鋭い視線に、体中が刺し貫かれそうになる。

「萌生……?」

 燎司さんがわたしを気にしたみたいだけど、振り向く余裕はない。

 お母さんとの距離が、だんだん縮まってくる。

「燎司さんはね、灯璃さん――そっちの女の子を守るために生きてきたの。燎司さんにとっては、きっと灯璃さんが一番の『救い』だったんだと思う。理不尽な家柄で育って、それでもご自分なりに強くなろうって努力を続けてた、すごくかっこいい人。だから、わたしもずっと尊敬してる」

 燎司さんみたいになりたかった。彼みたいに強い心を持って生きたかった。武器なんてないから、せめて誰かを守れる『盾』になりたかった。

 けど、わたしは――盾になるには、もろすぎた。

「お母さんの期待に応えられなくて、お父さんと萌奈の代わりに生きられなくて、ごめんなさい。でも、もうどうしたらいいかわかんないよ」

「まだ言い訳する気? その空っぽな脳味噌に、少しでも有益な知識を詰め込んだらどうなの」

「空っぽになっちゃったのは、お母さんのせいだよ」

 笑いそうになる膝を、ゆっくりと伸ばしていく。

 いつまでも怖がっているわけにはいかない。燎司さんの言った通り、鬼が見せている幻なら、倒さなきゃ。亞主十さんと合流して、女帝とも対決しなきゃ。

 心が、だんだん熱を取り戻していく。

「お母さんが、燎司さんのことも傷つけるつもりなら――」

 手の指を限界まで開いて、両腕をぐっと前に突き出して。立ったわたしは、なけなしの勇気を振り絞った。


「燎司さんを、わたしが守る」


 あの光の盾が、また使えるかどうかはわからない。けど、燎司さんが傷つくところなんて、絶対見たくないから。

「ほんと、あんたなんか産むんじゃなかった。すぐ死ねばよかったのに!」

 いつの間にか、お母さんの右手には長いむちが握られていて。

 大きく振りかぶられたそれが、わたしたちに襲いかかった。

 痛みや衝撃に備えて、ぎゅっと目をつぶる。

 でも――わたしの頭に当たる直前、まぶしい光が景色を一瞬白く塗り替える。

 あの五角盾が、鞭をあっさり弾いていた。

「なッ⁉」

 お母さんが驚いて、ちょっと後ずさる。

 やっぱり、この異能ちからは、わたしが危ない目に遭うと自動で発動するみたい。


「ほんと、何もかも知ってるんだな、萌生は」


 ハッと肩越しに後ろを見る。

 燎司さんも立ち上がり、抜き放った刀を構えていた。灯璃さんに刃を向けて。

「巫女にもほかの仲間にも、一度も話したことはなかったのに。不思議な奴だ」

「す、すみません、勝手にベラベラしゃべっちゃって!」

「いや、いいさ。おかげで俺も吹っ切れた」

 自信のにじむ声音で、燎司さんが今不敵に笑んでいるんだろうとわかる。

 ほっとして、わたしもお母さんと向き直った。

「リョウ兄、ぼくのことも殺すの? ひどいね」

 灯璃さんも、何枚もの札を手に持っていた。陰陽師オンミョウジが鬼や怨霊との戦闘で使う、属性の力が宿ったものだ。

 彼女も、燎司さんの生きていた現世アラワヨでは、『導鬼の巫女』と同じように鬼の気配を察知できる貴重な存在――『早鬼見サキミの巫女』の一人だった。

異形いぎょうが灯璃の皮をかぶったところで、俺の目的は変わらん。下手な猿芝居は、いい加減にやめてもらおうか」

 刀身を覆っただろう炎の高熱が、わたしの髪や肌にも伝わってくる。

「行くぞ」

「はいっ!」

 燎司さんが、灯璃さんとの間合いを素早く詰めて。

 また迫ってきたお母さんの鞭を、わたしは受け止める。

 刀が敵を斬り裂いて、盾が鞭を弾き飛ばす。

「萌生、伏せろ!」

 後ろから燎司さんの声が響いて、あわててしゃがむ。


 ゴウッ。


 刀から放射された炎の波が、お母さんだった何かを包み込んだ。

 その輪郭がゆらゆらと歪み始めて、赤橙せきとうの灼熱の中で、相手の頭に二本の角が生えたように見えた。

 肩越しに燎司さんのほうを見ると、灯璃さんだった何かも、炎に焼かれていた。そっちの影も、やっぱり人間じゃないかたちをしている。

 敵は燃え盛る炎を振り払えなくて、もがき苦しんでいるみたいだった。

「馬鹿ナ……我ラノ幻術ガ破ラレルトハ……ッ!」

「女帝陛下ヨ、オ許シクダサレ……!」

 真っ暗な空間の中で、燎司さんの炎は希望の道しるべにも見えた。昔、林間学校で夜にやったキャンプファイヤーも思い出す。

 天まで焦がすような勢いで、それは闇を光に変えていく。

 鬼たちは灰になって、結界も上からボロボロと崩れ去った。


  ▼


 周りの景色は、また凍った城の中に戻っていた。

 けど、あの宝箱があった小部屋じゃなくて――外の景色も見渡せる場所に出ていた。雲も空も遠い地面も、ゲームの設定通りに白黒モノクロで統一されている。

「脱出できた……みたいですね」

「ああ」

 燎司りょうじさんは、欄干らんかんのそばに寄って外の様子を確認する。

「かなり高い階層に出たのか。天守閣てんしゅかくも近そうだな」

「だといいんですけど」

萌生めい

「はい?」

亞主十あすとを捜す前に、小休憩しよう」

「いえ、わたしはだいじょ――」

「体力の問題じゃない。心が疲れただろう。幻術とはいえ、肉親に罵倒されたんだからな」

「あ……」

 欄干から離れた彼の手が、優しく頭を撫でてくれて。

 ほんと、人形の体に涙腺るいせんがなくて助かった。人間のわたしだったら、ここまで何十回も泣いてしまっただろうし。

 促されて、壁沿いに足を崩して座る。燎司さんも、わたしの隣に。

「怖い思いをさせちまって、すまなかった」

「そんな、全然燎司さんのせいじゃないですよ」

 あんな結界や能力を使う鬼は、ゲーム本編にだって出てこなかった。倒したことのある敵なら、まだどうにか対処できたのに。

 ――もしかして。

 ひとつの可能性が、頭の片隅に浮かび上がる。

 わたしが『灰殻鬼譚ハイカラキタン』の世界に来たことで、自分の記憶や心の闇が反映されたのかな。

 ゲームのクエストマップも、『兵』たちと縁が深い地域の様子がなぞられていた。兵と同じ姿や能力を持つ敵も、クエスト戦闘で何度も出てきた。

 さっきの中ボスっぽい鬼たちとの対決も、自分と向き合って闘え、ってことだったのかも。

 ――それに、わたしだけが燎司さんの過去を知ってるのは、対等フェアじゃないよね。

 これから『凍れる女帝』との決戦もあるんだし、今ちゃんと打ち明けておこう。自分自身のことを。

 深呼吸をひとつして、背筋を伸ばした。

「あの……わたしの話を、してもいいですか?」

「ああ」

「わたしには、双子の妹がいたんです。萌奈もなって名前で、親もたまに見分けがつかなくなるくらい、顔も声も体型もそっくりでした。性格は萌奈のほうが明るくて活発で、勉強も運動もわたしなんかよりずっとよくできる子でした」

 外面そとづらのいいお母さんは、わたしたち姉妹と一緒に出かけたときは、他人様ひとさまの前でにこにこしてわたしたちをほめていた。二人とも自慢の娘です――なんて。本心じゃ、そんなこと全然思ってもいなかったくせに。

「お母さんは、わたしの通ってたところとは別の学校で教師をしてます。昔から、よく言えば教育熱心な人で、とにかく成績さえよければ何にだってなれるから頑張りなさい、なんて毎日しつこく言ってました。自分が有名な国立大学を卒業したから、その誇りもあるんだと思います」

 常勤している私立中学校でも、お母さんはきっと保護者たちにとっては『理想の教師』なんだろう。家に苦情の電話がかかってきたことも、一度もなかった。

「お母さんは萌奈だけをほめて優しくして、わたしにはひたすら冷たく当たってました。萌奈もお父さんも、お母さんにそのことをよくないって言ってくれてましたけど。そうするたびに、お母さんのわたしへの態度はひどくなるばっかりで……」

 両親に愛してもらえる萌奈を、うらやましがったことも何度もある。けど、わたしをいつも思いやってくれていたあの子を憎む気持ちは、今も生まれていない。それに、愛されないのは出来損ないの自分が悪いんだ、って思い込んでいたから。

「どれだけ勉強しても成績が上がらなくて、つらくてつらくてたまらなかった時――萌奈がある『遊び』を教えてくれたんです」

 中学二年生の頃、自分の部屋で授業の予習復習をしていた、ある日の夜。

 こっそり入ってきた萌奈が、自分のノートパソコンを開いて見せてくれた。


「萌生。このゲーム、めっちゃ面白いよ。一緒にやろうよ」


 それが、『灰殻鬼譚』だった。

 一般的なカードゲームとはルールもかなり違うし、わたしにも覚えられるのかどうか不安だったけど。萌奈が丁寧に説明してくれたおかげで、チュートリアルもクリアできて。大げさだけど、世界が広がったような気分になれた。

 中学入学祝いに両親が買ってくれた姉妹それぞれのノートパソコンを、まさか勉強以外のことで頻繁ひんぱんに使うようになるなんて、当時は思ってもみなかった。

 基本プレイ無料のブラウザゲームは、パソコンにゲームクライアントをインストールする必要もないし、遊んだあとにブラウザのキャッシュを毎回削除すれば、お母さんにもバレない。

 わたしたちは、それぞれの部屋にいながらオンラインで対戦練習をしたり、イベントクエストを協力してクリアしたりもして、本当に楽しかった。許されるなら、徹夜してでも遊び続けたかったくらいには。

「その遊びのおかげで、わたしはつらい勉強の息抜きもできるようになりました。萌奈と一緒ならだいじょうぶだって、ちょっと前向きにもなれました。……ひどい事故が起きるまでは」

 高校の推薦面接受験の日。

 出勤のついでに車で送っていくからと、お父さんと萌奈は一緒に出かけていった。

「萌奈、ええと、その……気をつけてね」

「だいじょうぶだって。あたし、本番には強いしさ。ありがとね、萌生」

 玄関で見送った時、萌奈は朝陽みたいにからっと笑った。

 わたしも心配しすぎてはいなかった。萌奈ならきっとうまくいくと確信していた。

 それなのに――受験校へ向かう道で、二人の乗った車は激突されてしまった。猛スピードで信号無視したワゴン車に。

 救急隊員さんや警察の人にあとから聞いた話だと、ガードレールが曲がるくらいの強い衝撃で、お父さんも萌奈も打ち所が悪くて即死だったという。

 通報で事故を知ったお母さんは、それまで見たこともないくらいに号泣して取り乱した。そして、わたしをにらみつけた。ありったけの怨みや憎しみを込めた眼差しで。


「どうしてあんたが死ななかったの、役立たず」


 その言葉も視線も、わたしの心を粉々に砕いてしまいそうだった。古典の授業で観た能の般若はんにゃのお面よりも、よっぽど恐ろしい表情だった。

 ワゴン車の運転手は、お父さんと萌奈が搬送された病院や、お通夜の場にも顔を出して、わたしたち親族に土下座で謝っていた。

 けど、わたしはその人を責める気になんてなれなかった。


 お母さんの言う通りだ。

 どうして、わたしなんかが生き残ってしまったんだろう。

 よくできるおりこうさんの妹だけがいてくれたら、わたしなんて生まれなくてもよかったのに。


 お母さんからわたしを庇ってくれていた大切な二人は、もういない。

 そんな事実に絶望して、わたしはますます心を閉じていった。お母さんは、わたしに暴力を振るうようになった。二人がいた頃は、言葉で傷つけるだけだったのに。

 服で隠れる部分だけを殴ったり蹴ったりしたのは、近所の人たちや学校側に知られると困るからだろう。児童相談所にこっそり連絡すればよかったのかもしれないけど、わたしはとにかく死にたい気持ちが強くて、お母さんには逆らわなかった。

「結局、お母さんはわたしを『娘』としては見てなかったんでしょうね。世間に自分が絶賛されるための『道具』だったのかもしれません。さすがご立派な先生のお嬢さんね、なんてお世辞でも言われるのは、わたしも苦痛でした」

 伸ばした足の上で組んだ手に、ぎゅっと力が入る。

 なるべく淡々と話したいけど、指も声も震えそうになる。

「だから――お母さんも燎司さんみたいな人だったらよかったのにって思ってたんです」

 萌奈が死んでしまってからも、わたしは『灰殻鬼譚』をプレイし続けていた。お互いのプレイアカウントのIDやログインパスワードも教え合っていたけど、萌奈のを使う気にはとてもなれなくて、自分のアカウントで。

 地獄みたいな毎日も、『灰殻鬼譚』にのめり込むことでなんとか耐えていた。ゲーム内の戦友フレンドリストで、萌奈の『導鬼ミチビキの巫女』アバターアイコンを見るたびに、泣きそうになりながら。

 そんなある日、ついに燎司さんのストーリーの最終話が実装された。読み終わったあと、涙が止まらなかった。

「燎司さんは、自分の技術を若い子たちに託したいからって、常和トキワ退魔学園の戦闘実技担当教官になられたんですよね。灯璃さんのために戦い続けてたことも、すごくかっこよかったですけど。燎司さんみたいに教え子一人一人と真剣に向き合ってくれる先生が、わたしの近くにもいたらよかったのになって」

 ご本人が言ったように、確かに彼は人殺しだ。けど、最期まで誠実に生きて散っていった彼の姿を、わたしは心から尊敬した。

「だから――わたしはこの世界に来て、あなたと直接会えて、すごくうれしかったんです」

「なるほど」

 黙って聴いてくれていた燎司さんが、口を開いた。

 肩に大きなてのひらが添えられて、横からそっと抱き寄せられる。

 こてん、と頭が燎司さんの脇腹にもたれかかった。男の人の匂いがする。けど、全然嫌じゃない。

「俺や亞主十のことを詳しく知ってたのも、その『遊び』の影響か」

「そうです。それについては、どうしても深くはお話しできなくて、申し訳ないんですけど」

「かまわんさ。言いたくないこともあるだろう。聴かせてくれて、ありがとう」

 彼の静かな声が、穏やかに耳に流れ込んできて、心もほんわかとあたためてくれる。

「萌生は、今でも死にたいと思ってるのか?」

「……はい」

 転生や生まれ変わりなんて、もともと信じていなかった。フィクションの中だけのことだと思っていた。死んだら自分の姿も記憶も全部なくなるものだろうって想像して。第二の人生なんかあったって、それはそれでめんどくさそうだし。

 けど、そうならなかった。この異世界でも二度目の死を経験するんだとしたら、わたしは――。


「わたしは、やっぱり燎司さんの『盾』になって散りたいです。あなたが現世アラワヨに『復活』するための役目を果たしたいんです」


 燎司さんの褐色の目が、一瞬見開かれる。それから、彼の顔に切なげな微笑みが浮かんだ。

「気持ちはありがたいが、俺のために死ぬ必要なんてないぞ。いくさとは無縁の人生を送ってたなら、尚更だ」

「それでも、わたしは――」

「それにな、おまえのおかげで、もう少しだけ生きてみる気になった」

「え……?」

 どういうことだろう。

 ぽんぽんと、あたたかいてのひらが、なだめるように肩を叩いてくれる。

「俺は、灯璃あかりのためならいつでも死ぬ覚悟はできてた。特に、炤一郎しょういちろうさんと刺し違えてでも護り抜く覚悟をな。実の親からもいない者として扱われて、一族の中で孤独だった俺にとっては、叔父おじ叔母おば、その一人娘の灯璃だけが心の支えだった。あいつのことは、実の妹みたいに思って接してた。まわしい『先祖返り』ってさげすまれたこの髪や目の色も、叔父一家にだけは受けれてもらえた」

 燎司さんの家系は、大昔にご先祖様が異国の人と結婚していた影響で、純血主義の鳥羽とば一族の人たちとは違った髪や目、肌の色を持つ子孫もまれに生まれていたらしい。そういう描写も、彼のストーリーには確かに書かれていた。燎司さんの顔立ちや容姿も、ご両親とは似ても似つかないみたいだし、そのせいで差別を受けてしまったのかも。

「自分が死んでも、罪人つみびとになっても、あいつが幸せに生きていけるならそれでいいと思ってた。だがな」

 燎司さんの眼差しが、ふわりとやわらかくなる。


「さっきの萌生を見て、ハッとしたんだ。灯璃も、子どもの頃からああやって俺を護ろうとしてくれてたなって」


 人形の体にも心臓があったら、わたしのそれは今きっと何秒か止まってしまっていただろう。

 ――わたしなんかが、燎司さんに勇気を与えることができてた……?

「死んだところで、自分の罪が消えたことにはならん。あんな形で一方的に終わりにするのは、卑怯だよな」

「燎司さん……」

「現世に帰ったら、けじめをつけて償おうと思う。灯璃には一生怨まれるかもしれんがな」

 わたしを抱く彼の手に、ほんの少し力が加わる。

「だから、萌生も生きて、最後まで俺たちを導いて欲しい。また道を踏み外さないように」

「――はいっ……!」

 返事をする声が、震えそうになった。

 最初はびっくりしたけど、『灰殻鬼譚』の世界に来てほんとによかった。

 尊敬する大好きなキャラのそばにいられるだけでも、舞い上がりそうだったけど。ちょっとでも燎司さんの役に立てたなら、転生した甲斐があった。

 じーんとしていると、陽気な声が割りこんできた。


「おっ、いたいた! 捜したぜ、お二人さんっ」

「亞主十さん!」


 小走りで近づいてきた亞主十さんが、軽く手を挙げてにかっと笑う。

 燎司さんに手を引かれて、わたしは一緒に立って出迎えた。

 藍色の髪をかき上げながら、亞主十さんは苦笑いする。

「いやー、まいったぜ。よりによって、頭領おかしらに化けた鬼の結界に放り込まれちまってよ」

「おまえもか」

「えっ、燎司たちも似たような目に遭っちまったのか?」

手強てごわかったですよね……亞主十さんがご無事でよかったですっ」

「おうっ。女帝をぶっ倒す前に、あっさりくたばりたくねえしな」

「なら、気を取り直して行くか」

「だな」

「はいっ!」

 わたしたちは、笑顔でうなずき合う。


 もう迷いなんてない。

 いざ、女帝のいる最奥さいおうへ!

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