1-3
「――こんにちは。今日は、幾つか君に質問をしようと思う。いいかな?」
少年の目の前に座った白衣の男が、余所行きの人のいい笑顔を浮かべこちらを見る。問われた言葉は回答を必要とするものだったが、少年は何も言わずに手元の小説に目を落とした。
男からの質問に答える気は無かった。
理由の一つは、少年としては自分におかしいところは何一つなく、男が――精神科医がわざわざ、自分の中身を調べようとする理由が、さっぱりわからなかったから。
そしてもう一つに、少年は彼のああいう態度が大嫌いだったから。にこにことして、優しく、親切で。余所行きの、いかにも好青年然とした態度は普段の彼と余りにかけ離れていて、気持ちが悪く、見ていて気分が悪かった。
「 …………。」
「 …………。」
共に無言のまま十分経ち。
「 …………。」
「 …………。」
そのまま二十分経ち。
「 …………。」
「 …………。」
更に三十分経った。
男は未だ目の前でニコニコとした気持ちの悪い笑みを浮かべたまま、少年が質問に答えるのを待ち続けている。ああ、面倒臭い、面倒臭い。鬱陶しい。少年は読みかけだった小説から目を上げて渋々口を開いた。
「 …………好きにすれば」
少年は知っている。あの男の性格じゃ本当にいつまでも待ちかねない。うんざりした気持ちで少年は呟く。
男は変わらずニコニコとしている。少年が答えを返さなかった時の、貼り付けたような笑顔のままで。仮面じみたクサい笑顔のままで。
「そう? じゃあ好きに――質問させてもらおうかな」
「 …………。」
気持ち悪いくらいに笑みを崩さない白衣の男に、若干の不快感を感じながら、少年は手元の本の表紙に目を落とす。緑色の立派な装丁に、金で綴られたタイトル。海外の作家のとても有名な夢物語。
「好きに、すれば」
もう一度呟く。
彼が開いたファイルの重なるページ達に目を向けながら、少年は暗澹たる思いで、同じ様に質問してきた今までの白衣の人間達に想いを馳せた。
家の者が連れてきた心理カウンセラーは一体何人だったか。皆、少年に手を焼いて去っていった。少年が自発的に内に溜め込んだ心を見せることはなかったし、彼らは少年が口を開こうと思える人物ではなかった。
どいつもこいつも、貴重な症例を見る科学者の目をしていて。少年を人間として見ている医者は誰一人としていなかった。少年は辟易していた。連中の向けるモルモットやカエルを見る様な目にも、何人カウンセラーを呼んでも相手にしない少年に対する、父や母のため息にも。
それでも男は笑う。余裕ありげに笑う。確信めいた笑みに、少年は少し困る。
「その本はなに?」
「…………ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』」
「面白い?」
「……まぁ、それなりに」
「例えばどんなところが?」
「まだ……ちょっとしか読んでないから」
「そっか」
「…………そう」
彼は昔と変わらずの態度だ。大学を卒業して、再び家に帰ってきて。六年前と変わらず閉じている少年に、変わらずの態度で笑う。その態度に、少年は救われるような、惨めになるような、微妙な気持ちになる。
「好きなものは何だっけ?」
「甘いもの」
「例えば?」
「ケーキとか」
「ケーキの中では?」
「……ショートケーキ」
「そうかぁ、ショートケーキは俺も好きだなぁ。じゃあ逆に嫌いなものは?」
「ヒツジ」
「どうして?」
「……目が、嫌い」
「どんな感じに?」
「知らない。気味悪い」
暫く、そんなくだらない質問が繰り返される。
そして他愛もなかった質問は、段々、段々と深みに沈んでいく。
「今日は、夢を見た?」
「……………………見たよ」
夢。夢。夢。まぁたそれだ。皆そればかり訊く。毎夜ベッドの中で見る夢。その日によって、黒かったり、白かったり。重かったり、軽かったり。毎度まちまちなそれ。そんなに珍しいか。そんなに妙か。夢を見る自分は。幼い指を指して『変なの』と揶揄された記憶が蘇り、ぎぃ、と少年は奥歯を噛みしめた。あぁ、どいつも、こいつも。
少年に言わせてみれば、夢を見ない周りの人間達の方が〝変〟だった。夜に眠ってから夢を見ることは少年にとって自然で、普通で、何の変哲のない日常の一部だったから。それを〝異常〟だ〝病気〟だと騒ぎ立てられ後ろ指を指されることは、少年にとってこの上ないストレスだった。
〝茨病〟も、〝眠り姫症候群〟も知ったことではない。
「どんなものを?」
「……今、ここで答える必要はある?」
男からの問いに、少年は部屋の入り口の所で座っているメイドの方をチラリと見る。彼女らはこの会話を聞かないことになっている。ただ、そこにいるだけだ。でも、自分の見ている夢を、断片でもその耳にいれるのは少しだけ抵抗があった。
夢の内容が、彼女らから、無責任にカウンセラーだけを送り込んでくるあの人達に伝わるかと思うと心底嫌だった。
「できれば教えてほしいな」
そんな少年の心の内を知ってか知らずか――いや、絶対知っている。そんな彼は、ニコニコとしたまま、そう答える。
「……内緒にしてよ」
「勿論。医者の守秘義務は守りますとも」
戯けた態度で答える男に、溜息が漏れそうになるが、言わなかったところで彼が譲らないのは容易に想像がついたので顔をしかめるくらいに留める。そうして少年は、男に夢の内容を耳打ちした。今日の夢はまぁだいたいいつもと変わらずな展開だったが、彼はふむふむと興味深げに聞いている。
「…………こんな感じ」
男の耳に近付けていた口を離すときに、男の広げているファイルを盗み見るが、その全てが白紙なのを見て、あぁ、この男は変わらないなと、少年は少しだけ安心した。
「ありがとう。――それで、君はその夢をどう思った?」
「どうも何も、いつも通り。」
「『いつも通り』――ね。わかった」
男は、そう言うと開いていたファイルを閉じて改めて向き直る。帰り支度をすることを察したのか、扉の前にいたメイドが外に出た。
パタン、とドアが閉まり。
そして部屋に乱雑な言葉が響く。
「あーー。いやぁ、ダメだ。昔からお前の考えてる事だけは解んなかったけど。今も全然だわ。もう全ッ然わかんないわ。変わらないなぁ、お前は」
「 …………。」
自信なくなっちゃうよ、と。男は、先程までの気持ちの悪い態度とは打って変わって随分とフリーダムに椅子に寄りかかる。男の――兄の態度に、少年も先ほどまでの拒絶的な態度をやめて、嬉しそうににこにこと笑う。質問の間中、目を離さなかった小説は閉じて机の上に置いた。
少年と――弟と二人きりになった兄は、余所行きの猫の皮を脱いで悪戯っぽい悪い笑みを浮かべた。かつてあの人達には黙って二人で遠出した時の様に。
「因みにさぁ、今さっきの夢の内容は真実なわけ? そんな夢を、『いつも通り』見てたわけ?」
少年は、にこりと笑って答えた。
「本当だよ」
――ぜんぶ。いつも通り。
兄は数秒黙った後、「そりゃ敵わねぇ」と、カラカラ笑った。
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