第30夜 真っ白い

「雪だ」

 あともう少しで森を抜けるというところで、その場の誰かが言った。或いは、全員が同時に言ったのか。

 地面はうっすらと白くなりつつあった。綿胞子のようにふわふわとした舞う雪を見て、それがすぐに溶けず積もっていく雪だと知れた。いよいよ冬が到来したのだ。

 その雪に、白む景色に、男の胸が無性にざわついた。

 嗅覚を刺激する冷気の香りには、確かに覚えがある。それは記憶の芯のほうに染みついた匂いだった。そして、強く「帰りたい」と思う。

 男は気付けば、傍らを行く馬車の蹄と車輪の音も、猟師や猟犬のしゃべり声や息づかいさえ耳から遠ざかり、一人でふらりと森を歩いていた。

 明け方のような夕暮れのような濃いオレンジ色の明かりが針葉樹の隙間から差し込み、歩を進めるごとにちかちかと瞬く。

 耳元で「りん」と、鈴の音が鳴った。それが銀の実の音色だと、あのとき男は初めて知ったのだ。

 森は人にあらざる者の領域だ。この森の広がる大地で、人の住める場所はごく限られている。もしも人が木を無闇に切り倒し、森を侵そうものなら、即座に森とそこに住むものたちは人に牙を剥くだろう。それほどに森は恐ろしく、人はそれを痛いほどに理解している。

 森はいずれ、森と鬩ぎ合いながら己の領土を守る人々を丸ごと呑み込んでしまうだろう。四方を森に囲まれて、人はそれに抗することもできず森の一部となっていく。

 男はいつの間にか俯けていた顔を上げた。目前に、巨大な木が一本、果てしなく高く聳え立っている。それがなんの木なのか、判然としない。枝葉は縦に横に長く茂り、男の視界いっぱいに広がっている。捻れながら縦横無尽に空間を貫く枝に根付く葉は、一葉一葉形の違うもののように見えた。

 その木の根元に、四つ足の獣がいた。ぼんやりと銀色の後光を纏うその姿は陰になって判然としないが、頭と思しき場所から二対のまなこが覗いているのを、男は感じた。

 この光景を、男は知っている。思い出した。

 雪に覆われた早朝の森のなかで進むべき道を失い、銀の実を張り巡らせた結界に触れたのだ。そこで男は、「森の神」とこうしてまみえた。

 獣の目はじっと男を見ている。その光と、黒い影に呑み込まれそうになる。

「帰してはくれまいか。待っている人がいるんだ」

 男は取り乱すことなく、静かに語りかけた。あのときは慌てて逃げようとして酷く心を乱し、なにかを叫ぼうとした口は呼吸を断たれたように一切の声を発っせなくなっていた。だが、同じ轍は踏むまい。自分は森と向き合い生きてきた森番なのだから。

 四つ足の獣は微動だにしなかった。しかし、その目が一度、静かに瞬きをした。その瞬間。



 男は気が付けば、それまでと同じように森のなかの道を歩いていた。ガラガラと車輪の鳴る音とそれに重なる蹄の音。そして、猟師たちの語らう声に猟犬の息づかい。耳には一気に音が満ちていった。

「どうしたってんだ、難しい顔して考え込んで」

 猟師の一人が怪訝な顔で男に訊ねた。

「いや、大したことじゃない」

 男は首を振って応えた。改めて前を向くと、遠くに開けた空が見えた。灰色の雪雲が重くのしかかっているが、それでも薄暗い森のなかより一段明るい。森を抜けるのだ。

「丸二日か。冬に間に合ってよかったよ」

 御者台に座って馬を操っていた茶商が明らかにほっとした声で言った。秋と冬の境目。もしも、いまちらちらち舞っている雪が一日早ければ、旅の様相はがらりと変わっていただろう。

「今回も暇な仕事だったな」

 そうやって皮肉を言う猟師たちも、安堵の吐息は隠さない。

 男の足取りも、自然と早くなっていた。

「ここは……知っている気がする……」

 そう言った男を、茶商だけがちらりと見遣って、そのままなにも言わずに馬に鞭を当てた。馬の歩みに合わせて、全員が少しずつ歩を早め出す。

 森を抜けると、小さな木造の祠が道沿いに建っていた。一行はそこに束の間手を合わせて旅の無事を報告し、すぐにまた歩き出す。

 そのとき、男は道の向かい側から歩いてくる人影を見た。

 杖をつきながらゆっくりと雪道を歩く老女と、それを支える少女。最初に一行を見留めたのは少女のほうだった。その顔のなかの、大きな瞳が一層大きく見開かれる。

「おばあちゃん!」

 少女が金切り声でそう言った。それで傍らの老女が、雪から守るように俯けていた顔をゆっくりと上げた。口元目元までをストールと毛糸の帽子で覆った顔。目をこらすために、老女はその手で目元まで下げた帽子を持ち上げた。

 露わになったその顔を見て、男は突然確信した。自分が春からこの秋までしたため続けた差出人の書けない手紙が、誰に宛てられていたものかを。

 老女は立ち止まり、驚いて杖を取り落とした。「ああ」とその口が言葉にならない感嘆を発するのを男は聞く。直後、男は土を蹴って走り出していた。全力で走ろうとして、老齢の身体が緩慢にしか動かないことに気付いて、胸のなかで舌打ちする。それでも、できる限りの早さで老女のほうへ向かった。

 杖の支えを失って身体を傾がせた老女の身体を、少女と一緒に支えた。手を取り、間近に顔を見合わせる。

「おかえりなさい」

 老女が口元のストールを下ろして静かにそう言った。

「ただいま」

 男が返した。

 二人の真っ白な白髪頭を、白い雪を連れた風が巻き上げていく。

 その言葉を告げるときを、告げるべき相手を、男はようやく見つけた。

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霜降の窓 とや @toya

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