第29夜 冬の足音
「冬のあいだだけでも、病院にいるつもりはないの?」
ベッドの上に広げた荷物を鞄に詰め込んでいく老女に、傍らからハンナが不安げに声をかけた。ハンナが家の手伝いを終えて昼時に入院中の老女を訪ねたそのときだった。
「こんなに元気なのに、入院しているほうがおかしいじゃないか」
てきぱきと荷物を詰め込みながら、その合間にハンアを振り返って老女は笑う。確かに、入院してからしばらく顔色が悪かったのが、いまは血色もよく、目にも力が宿って見える。けれど、それだけで安心はできないのだ。
「でも、こんな寒い季節に一人っきりで家で過ごすのはよくないよ。お医者さんだって、病棟を移れば春までは入院できるって、勧めてたんでしょ?」
老女は町外れの森番小屋に一人で暮らしている。彼女の伴侶であった森番の老人は、森で行方不明になって以来もう一年近くも戻ってきていない。
それでも、老女はまだ諦めていなかった。口では「もういい加減に……」と、そう呟きながらずっとずっと夫の帰りを待っている。
曇った顔を晴らさないハンナに、老女は作業の手を完全に止めて身体ごと向き直った。皺だらけの大きな手が、ハンナの手を握る。外からやって来たばかりで冷たい手が、温かな掌に包まれて心地よい。
「ハンナ。あなたや、わたしのことを助けてくれているみんなには本当に感謝しているの。あなたたちに助けて貰わなければ、あたしは今頃、こうして元気にお話できていなかっただろうから。だから、こんなことを言うのは本当に我が儘だって、わかってはいるんだよ」
「だったら、家へ帰るなんて言わないで。わたしたちに悲しい思いをさせないで」
ハンナは懇願した。
冬に森の端の小屋へ帰ることが無謀なことくらい、そこで長く暮らしてきた老女ならわかっているはずだ。雪が降り始めれば、あのあたりは町の中心よりもずっと積もる。冬の真ん中にでもなれば、家のドアを雪が埋めてしまうことだってある。屋根に積もった雪が家の屋根や柱をへし折らないよう、過酷な雪下ろしだって何度かしなければいけない。それが、こんなか弱い老女にできるはずがないのに。
「それでもね」
悲しいかな、老女はハンナを慰めるように優しい声で、ハンナの言葉に反論を重ねてきた。
「あたしは自分の足で歩けるうちに、ここを出て行くよ。病院にいれば確かに、安心して冬を越せるさ。お医者さんだって看護師さんだってよくしてくれる。でも、森番小屋はどうなんだい? 冬のあいだに暖炉に火も入れないで、重い雪をひっかぶったまま捨て置かれて、潰れてしまいやしないかって、春になったらなくなってやしないかって、あたしは冬のあいだずっと不安に苛まれるんだ。それは嫌だよ。あたしは死ぬまで、あの家で暮らしたいんだ」
老女の語りがゆっくりと進むにつれ、その声には切実な悲しさのようなものが増していく。そして最後に、老女は自分自身へ問いかけるように、ぽつりと呟いた。
「そうしなきゃ、あの人は一体、どこへ帰ってくればいいんだい……?」
ハンナは悔しさに自然と唇を噛んだ。ハンナにはわからない。ハンナだったら、自分が危ない目に遭うかもしれない、下手をすれば死んでしまうかもしれないことを選んだりしない。
けれど老女は、儚い希望に縋ってそれをしようとしている。いや、希望など持っていなくて、ただ死に急いでいるだけのようにすら思えた。
言葉を失ったハンナの手をゆっくりと離し、頭を撫でてから老女は彼女に背を向けてしまう。お互いの意見が平行線を辿ることぐらい、老女は端っからわかっているのだろう。それでも、決して最良とは言えない選択肢を選ばずにいられないのだ。
それから長らく沈黙の時間があって、ハンナは老女の背に向かって言った。震えをぐっと堪えて。
「あたし、冬になっても、雪が降ったって会いに行くから。お母さんの美味しい料理を届けるから」
その頃には、老女は荷物を大きな鞄のなかにすっかり詰め終えていた。
すっかり顔見知りになった看護師のお姉さんが、病室の戸口に現れて老女の名前を呼んだ。
「退院の手続きが終わりましたよ」
ハンナと看護師のお姉さんの目が合った。ハンナの焼くクッキーをいつぞや美味しいと褒めてくれたお姉さんだった。目が合い、ハンナの落胆を感じ取ったらしい彼女は、少しだけ口元を歪めて笑顔を見せて、肩を竦めて見せた。
老女は振り返り「ありがとう」と告げた。
「あんたみたいな可愛い子にこんな悲しい顔をさせて、あたしはきっと地獄へ堕ちるね」
「そう思うなら、素直に言うことを聞いてあげればいいんですよ。そういうご老人、よくいます。自分のことばっかり考えて、迷惑をかけた相手のことを最期まで振り回す人」
看護師のお姉さんは辛辣に言った。こういう場面を何度も見てきているのだなと思った。
「ははは。どうせ老い先短い人生だ。好きにさせておくれよ」
「好きにするのは勝手ですけど、そういう言葉を病棟のなかで言うのはダメですよ」
はっとして「すまないね」と真剣に詫びた老女が、荷物を抱え上げようとする。しかし、なにもかも一緒くたに詰め込んだ鞄はかなり重く持ちにくそうだ。ハンナが老女の手を遮って代わりにそれを持ち上げた。
「おや、力持ちだこと」
「農家の娘は体力勝負だからね」
ハンナは、悲しい気持ちが胸に蔓延るなかで、それでもできるだけ明るく振る舞うことにして言った。
「そりゃあ頼もしい」
老女はようやく、困り笑いではない、ハンナの好きな温かな笑顔をにっこりと見せてくれた。ハンナも笑った。
その頃、窓外には灰色の空から雪がちらつき始めていた。冬の足音はいよいよ高らかに、空の下に静かに鳴り響いていた。
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