第27夜 銀の実
森は、人の領分外の地だ。そこには森に住むものたちのルールがあり、守られるべき秩序がある。そこでは人がどう適応しようとしたとて、秩序の埒外にあって、排斥を逃れることはできない。
森に一歩踏み出して、男はそのことを思い出した。
針葉樹の森は冬を目前にしても黒に近い緑が生い茂り、夏場より弱い日差しをいっそう弱々しいものにして地表へ落としている。未明に地を覆った霜が今は融けて、しっとりと濡れた土の香りが、冷気と共に鼻を満たした。この香りを、男は知っている。
記憶を失ってから、森へ入るのはこれが初めてだ。森へ入るのは、町の階層のなかでも身分の低い森番や流れの猟師、職務上その必要性が生じる通信士や教会の聖職者、それ以外のあらゆる理由で町から町へ移ろう必要のある人々、そういった者たちに限られていたからだ。夫人の家にあって、男は森とはまったく無縁に過ごした。
「なんだか空気が張り詰めているみたいだなぁ」
荷物を満載した馬車を御者台から操りながら、茶商が苦々しく言った。五十がらみの小太りの男だ。商売用の笑顔がすっかり身について離れないかのように常に柔和に笑んでいて、困った表情も怒った表情もその笑顔の上に張り付く。
茶商と同じことを、男も考えていた。動物たちが冬支度に浮ついているのは仕方ないとして、それ以上に、なんだか森の気配そのものにどこか緊張感が満ちている。
馬車を護衛するために雇われた幾人かの猟師と彼らの連れる猟犬と共に、男は馬車の端を歩いていた。
森を通り抜けて隣町まで行くのにおよそ二晩、このメンツで進んで行くことになる。
「ひとまずは『駅』までなにごともないといいんだがね……」
茶商が弱気に呟く。
『駅』というのは、森の道の途中にある休息用の小屋のことだ。そこへ無事に辿り着くことが、今日の目標となる。高い木々が日光を遮って、森には素早く夜が来る。森のなかで人が動ける時間はそう長くない。
「でも、近頃は狼や野犬に人が襲われたなんて聞かねえし、動物たちも大人しいもんだ。……それに、『神隠し』だってとんとご無沙汰だぜ」
猟師の一人が言った。猟師は皆、玄人そうな壮年の男たちだ。連れている猟犬も、犬種や大きさはまちまちだが精悍な顔つきをして、主人に従順な態度で従っている。
「神隠し?」
男が訊ねた。疑問の声が飛んできたことに驚いたように、猟師は男を見て目を見開いた。
「あ、ああ……ここいらじゃそういうふうに言わないのかい? 森で突然人がいなくなるんだ」
男が訊ねると、猟師たちは皆頷いた。森を広く歩く彼らには、その『神隠し』は常識的な話らしい。
猟師は、そのほとんどが町や村といったコミュニティには属さず、定住地を持たない。そうした決まりがあるわけではなく、旅を好む者たちが森などの自然を相手取って生きるため、狩猟を生業とするようになる、という因果関係が正しいようだ。
「このへんでも、かなり前にあったんじゃないか? 森へ入っていった森番がそのまま消えたって、別な猟師から聞いたことがある」
「かわいそうに。『
猟師は口々に言って、皆一様にため息をついた。
「森では、そんなに頻繁に人がいなくなるのですか?」
森の道を慎重に進む馬車に歩調を合わせて、男は猟師たちに訊ねる。
「そうそう多くはないが……だが、ときどき話だ。森を渡るのに特別な方法をやってる通信士や、俺たち猟師は心得てるからまずないが、普段は森に入らない奴らが、この『道』を外れてうっかり奥まで迷い込んだりするとな、森神さんのとこへ行っちまうんだ」
「森の神……ですか」
「そう。森で一番偉い神さんがいるんだ。俺たちも姿かたちを見たわけじゃないけどな。でもたまに、気配を感じることはある」
「森のなかで人間に許されているのは、この往来のための『道』と『駅』のある場所だけで、あとはすべて森に住むもののぶんだ。俺たち猟師は森の生き物を狩るが、それも『道』の上でのことだ」
「まあ、たまに深追いしちまうことはあるけどな。それだって、銀の実のあるとこまでは行かない」
猟師たちが時折「銀の実」と口にするとき、その顔に一瞬だけ緊張感のようなものがよぎるのを、男は注意深く見ていた。
「銀の実とはいったいなんなんですか?」
「森の奥ずんずん入っていくと、そういう実の生る木があるんだ。俺たちに伝わっている話では、それを超えた先が森神さんの神域で、人が絶対に立ち入ってはならないと言われている」
「それと、銀の実に触れるのもダメだ。あれは森神さんの食べもんだから、触れればそれだけで罰が下る」
猟師たちは森神やその食物である銀の実に相当な畏怖を覚えるらしい。実際に見たこともなく、その恐ろしい神罰を身をもって体験したことがなくても、彼らは伝承を聞き伝えることで絶対に破ってはいけない森の掟を十分理解しているのだ。
「では、神隠しは、森の神さまや銀の実が関係していると?」
「ああ。もちろん、森は危険な場所だから、獣に襲われたり崖や底なし沼に足を取られて……ってこともあるだろうが。だが、神隠しっていうのは遺体も見つからん。獣に引きずられていったならその引きずれた跡や血の跡が残るだろうし、崖や底なし沼だってそう、人が近寄ればなんらかの痕跡がどうしたって残る。それに……」
そう言ってその猟師は、自分の足下に従順に従う猟犬の鼻を撫でた。
「こいつらに追わせても、途中までは確かに残っていた匂いがふっつり切れちまうらしい。森で、犬の鼻以上に信頼できる感覚なんざないからな、それはやっぱり森神さんの仕業なのさ」
猟犬たちは歩きながら頻繁に鼻をひくつかせ、耳を立てたり倒したりしながら周囲の気配を探っている。
それからしばらく、沈黙しながら全員が進んだ。猟犬は異常のないときには大人しいもので、うなり声の一つも上げず淡々と歩いている。木造の馬車の車輪の回る音と、重い車体の揺れる音、馬の四つ足が水気を帯びた地面を踏む音が絶え間なく続き、それらに重ねて、時折馬が鼻を鳴らす。
聴覚をもっと広げてみると、風の強さに合わせて強弱をつける木々のざわめきと、その合間に住むであろう様々な鳥たちのさえずりが聞こえる。遠くてぱきっと枝の折れる音がするのは、そこになにかしらの生き物がいるということだろうか。
呼吸をするたびに、森の空気が身体に馴染んでいく。それは、自分が本来ある姿へ戻ろうとしているような、男にとってとても懐かしい感覚だった。
「……その、神隠しから戻ってきた人は、いるんでしょうか?」
再び沈黙を破って、男は猟師たちに訊ねた。
男たちはしばし無言のまま顔を見合わせ、やがて一人が口火を切った。
「さあて、どうだかね」
「俺の知ってる話じゃ、森で一晩迷子になってた子どもが、帰ってきたときに『不思議な動物を見た』って証言したってのがあるが……これを神隠しに括っていいのかどうか。町しか知らない子どもにとっちゃあ、森の奥にいる生き物なんてどうれも珍しかろうしなぁ」
猟師たちは困ったような顔を互いに見合わせて、曖昧に口にした。森をよく知る猟師たちが数名集まっても「戻ってきた」という事例を確かめられないなら、神隠しに遭って戻ってきた人はいないと考えるべきだろうか。
「……銀の実を見ることはできますか?」
「あのなぁ」
男がなおも訊ねると、猟師の一人がいよいよ我慢ならんというように大声で質問を遮った。鋭い目で男を睨む。
「あんたはただ好奇心で聞いてるのかもしんないが、俺らにとって森神さんは豊かな森を守って俺らに恵みの分け前をくれる、ありがたい神様なんだ。それを、『神隠し』だなんだと騒いだり、詮索したりする連中は、そうした森の決まり事を知らんから好き勝手なことを言う。銀の実を見ようなんざ、まして触ろうなんざ考えんことだ。ここで聞いたこと全部、忘れちまえ」
ほかの猟師たちもその猟師と同じ意見なのだろう。皆、困ったような、あるいは不機嫌そうな顔をしつつ、男と距離を置いている。彼らの足下で猟犬たちが主人の変化を感じて、上を見上げている。
「それは……失礼しました……」
男はしゅんとして俯いた。その頭上へ、茶商の声が降ってきた。
「ちょっとちょっと……仲違いはよしてくださいよ。無事に森を越えたら、いくらでも喧嘩していいですから」
のんびりと、飄々とした口調で茶商が御者台から一同を見下ろした。
「すみませんねぇ……猟師さんってのは気難し屋で血の気の多い連中が多いんです。雑談も結構ですが、あんまり仲良くなるのにおすすめしませんよ」
「おいオヤジ、随分な言いようだな」
猟師の一人が喧嘩腰で言ったが、茶商は慌てることもなくのんびりと、しかしはっきりした声音で返す。
「オヤジにオヤジなんて言われたかないねぇ、このヒゲオヤジ。あたしが雇い主なんだから、『はい、ご主人様』くらいの返事は聞きたいもんだ」
その返しと、言い返そうにも咄嗟に返事に詰まった猟師を眺めて、ほかの猟師たちが一斉に大口を開けて笑った。近場の枝にとまっていたと思しき鳥たちが一斉にピィピィ鳴いて飛び立っていく。
別な猟師がおどけた裏声で「はい、ご主人様」と言う頃には、先ほどの剣呑な空気はすっかりなくなっていた。
男はほっと胸をなで下ろしながら、それでも頭のなかではまだ銀の実のことを考えていた。自分はもしかしたら、森で神隠しに遭った人間なのではないかと、そんな考えが胸のなかで頭をもたげていたからだ。けれど、いくら考えを巡らせてみても、やはり思い出せる記憶のなかにはそれらしき影はない。
男は相も変わらず、なにも思い出せない。
森のどこかで、銀の実がちりんと鳴る。
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