第26夜 にじむ

 老女が病院へ入院して今日で四日目。四日前は寒さに身体がほんの少し驚いただけで、翌日にはもうまったく不自由のない身体へ回復していたのだが、そう訴えても老女はなかなか家へ帰してもらえなかった。

 理由は、老女が高齢であるためなのと、一人暮らしだからだ。むやみに帰宅させてまたなにかが起こってはだめだからと、彼女の世話をしてくれている町の女の人たちは、検査入院と称して老女を引き続き入院させた。

 家にもよく遊びに来てくれたハンナという少女が、病院へも毎日来て話し相手になってくれている。しかし、彼女には彼女の都合があり、一日中付き添ってくれるわけではない。老女は、ベッドで過ごす多くの暇な時間と、なにを調べられているのかわからない診察や検査の繰り返しに、段々と辟易してきていた。

 お医者さんや看護師さんたちはとても良くしてくれているし、彼ら彼女らに不満はないものの、やはり病院は怪我や病のある人が来る場所であって、老女のように健康な者が長居するべきではない。

 次のお医者様の診察では、是が非でも退院させてくださいと言おうと心に決めながら老女はベッドから起き出し、乱れた髪を櫛で軽く撫で、厚手のストールを二つ重ねて羽織り、ベッドサイドに立てかけてある杖を握って立ち上がった。

 向かった先は病棟にあるサンルームだ。そこは壁一面が大きなガラス窓になった広い部屋で、入院患者たちの憩いの場だった。

 今は午前中、あと小一時間もすれば昼食という時間で、入院着の上に冬物の羽織を着た入院患者たちの姿はまばらだった。朝から午前中いっぱいは、病院内がもっとも活発になる時間帯で、患者も朝一番から検査に出たりとわりと忙しい。それを過ぎて、午後からはこのサンルームに徐々に人が増えていく。

 サンルームの窓は南西向きで今はまだ射し込む光も控えめだ。暖かさよりは清々しさを感じる光が、窓から室内へ注いでいる。老女はこの時間帯が好きで、暇な午前中はここで過ごすと決めていた。

 老女は窓に比較的近いお気に入りの席を目指し、杖を支えに歩いた。

 ほどなく老女は、通り過ぎようとした席で、入院患者と思しき女の人が一人、テーブルに両の肘をついて顔を覆って泣いているのを見つけた。ブラシをかけていないのか髪はやや寝癖がついてぼさぼさと広がっていたが、若々しく艶のある色をしていた。顔を覆う手も、老女のそれと比べれば肌にまだまだ張りがある。若くして入院しているとは気の毒だと思いながら、老女はその女の人に声をかけることにした。

「お姉さん、どうしたの?」

 女の人がはっと顔を上げた。顔立ちからして三十路あたりだろう。もともと白いであろう顔は、泣き濡らしたせいで目頭と鼻の頭が赤く染まっている。

 女の人は、えぐ、えぐ、と嗚咽が勝って返事をできないようで、老女は杖を持っていないほうの手を胸の前で振った。

「無理にお喋りしないでいいの。でも、しばらくここに座っていてもいいかしら」

 女の人はしばらくためらうような間を置いてから、小さく頷いた。そのまままた顔を伏せてしまう。

 老女は「お邪魔するわね」と言って、テーブルを挟んだ向かい側に腰を下ろす。そのとき、彼女の肘と肘の隙間に手紙のようなものが置かれているのが見えた。白い便箋に、一文字一文字が大きくつたない子どもの書き文字のようなものが目に入ったが、老眼の老女には内容までは追えない。

 老女は病院内を歩くときに肩からかけるポーチを開け、ハンカチを取り出して、顔を覆う女の人の手に触れ合わせる。

「使って」

 促されて女の人は素直にハンカチを受け取ると、目元に強く押し当てる。

 老女はそれから特になにを言うでもなく、女の人ではなく窓の外へ目を向けて、彼女が次第に泣きやむ様子を耳で窺った。

「ありがとうございます」

 ようやく嗚咽の収まった女の人が、鼻声で小さく言って、老女はようやく彼女へ向き直った。

「困ったときはお互い様じゃない。見たところかなり若いみたいだけど、入院なんてつらいでしょう」

「ええ……」

 そう言って彼女は、手元の手紙を老女にも見えやすいよう、テーブルの真ん中へと滑らせる。彼女の涙が落ちたのか、数カ所、水滴が当たってインクがにじみ出していた。

「……息子から、手紙が届いたんです。通信士さんがわたしが入院しているのを知っていて、それで、さっきわざわざ病院へ届けてくれたんですが……」

 自分の子どもからの手紙だったのか。老女は遠慮がちに、手紙に書かれた文字へと視線を落とす。それを読んで、彼女の泣いている理由がはっきりとわかった。

 この女の人は、我が子を隣町の保育院へと預けている。しかし、親にどんな事情があるのか、幼い子どもが正確にくみ取るのはなかなか難しい。それは、彼女へと子どもが向けた、不審の手紙だった。「僕は捨てられたのですか」と、つたない文字に訊ねられて、この女の人はどれほど悲しい思いをしているだろうかと、老女は胸を痛めた。

「……一ヶ月前くらいに、病気があることがわかって、できるだけ早い手術が必要だったんです。でも、父親のほうも、畑で働けない冬は出稼ぎへ行くことが決まっていて、一刻の猶予もないなかで、慌てて子どもを預けられる場所を探したんです。わたしたちはきちんと伝えたつもりだったけど、この子の耳には届いていなかったのかもしれない。自分のことばかりを考えて……子どもが大人の早さについてこられないことぐらい、冷静に考えればわかったはずなのに……」

 そう口にして、女の人はまた感極まってハンカチに顔を埋めてしまう。

 手術のために長期間入院する母親と、時期を同じくして出稼ぎのために発ってしまう父親。きっと二人はよほど急いで子どもの預け先を探し、隣町の保育院へと決まるや否や子ども手を引いて飛び出し、別れを惜しむ間もなく子どもを預けたに違いない。言い含める時間も、嫌だと泣き出すはずの子どもをあやして納得させる時間も、二人にはきっとなかった。

「それで、あなたの調子はどうなの?」

 子どもを隣町に預けてでさえ長期の入院が必要だというなら、母親もまたのっぴきならない状態だったのだろう。自分を責める気持ちが、彼女自身に悪影響を及ぼすのは良くないと、老女は思った。

 女の人は涙ながらに言う。

「手術はひとまず成功したと聞きました。もう一度手術が必要かもしれないと言われましたが、経過観察でその心配はなさそうだと……。ただ、日常生活を送れるほど回復するには、まだしばらく時間がかかるみたいです……」

 なるほど、と老女は頷いた。女の人は手術を終え、苦しい状態から抜け出して、こうして一人で考える時間が増えた。そのことで、今までは深く考える余裕すらなかった事柄が、一気に心配事となって吹き出してきたのかもしれない。人は健康でないとき、考え方すらも悪い方へと向かってしまうものだ。そのさなかに子どもから不安の手紙が来たのなら、なおのこと悲嘆に暮れてしまうのも無理ない。

 老女はそんな彼女を労るように、努めて優しく明るい声で言った。

「じゃあ、そのことを今すぐ手紙に書いて、お子さんに出さないとね」

 女の人の肩の震えがやみ、ハンカチに埋めていた顔が再び老女のほうを向いた。

「もうすぐ冬になってしまう。森に雪が積もったら、通信士の配達はとても時間がかかってしまうから、まだ雪の降らないうちに急いで手紙を送りましょう。わたし、病室にレターセットを持っているから」

 そのときちょうど、すっかり馴染みとなった看護師さんがサンルームを見回りに来ているのを、老女は目敏く見つけて声をかけた。

「テレサちゃん、ちょっと頼まれてくれないかしら」

 テレサ看護師は「なんですか」と少し困り顔をしながらも、老女の座る席へとやってきてくれる。

 こういうとき、年を取るのも悪くないなと思う。人にものを頼むことに若い頃ほどの抵抗もないし、相手も自分を弱者だと思って、(迷惑に思いつつも)助けてくれるのだから。

「わたしのベッドサイドの引き出しにね、上から二番目、そこにレターセットを入れた文箱があるから、それを持ってきてほしいの。急ぎの事情があるのよ、お願いできるかしら」

 茶目っ気と切実さの両方を籠めて、顔の前で手を合わせる。テレサ看護師はそんな老女と、その向かいで泣きはらした顔で俯きがちにしている女の人を交互に見て、小さくため息をつきつつも了解してくれた。

「わかりました。でも今度、ハンナちゃんのクッキーお裾分けしてくださいね」

 テレサ看護師はそう言って手を手をひらひらと振りながらサンルームから病室の並ぶ方角へと歩いていった。

 それを見送って女の人のほうへ向き直ると、女の人はテーブルへ突っ伏しそうなほど頭を下げた。

「すみません、いきなりこんなこと……」

「なにを言っているの。お互い様なんだから」

 そう言って、老女はふと考えた。入院してほどなく、ハンナに頼んでレターセットを入れたあの文箱を病院へ持って来てもらったときのこと。もう長らく触れていなかったそれを、不意に必要だと感じたのだ。けれどいざ文箱を手渡されたとき、心がためらってしまった。手紙を書きたいと強く思ったのに、それができない自分がいた。

「本当に、お互い様なの。……わたしもね、手紙を書きたいの」

 老女は静かに話した。女の人から彼女の事情を詳しく聞いた。だから、彼女にも自分のことを知ってもらいたかった。こんな哀れな老女がいると、笑ってほしかった。誰かの思い出になりたいと思った。

「もう長らく戻らない夫がいてね。半年以上……あれこれ手を尽くしてみたけど見つからなくて……。そうしたら今度は、わたしが段々あの人のことを忘れていくのかもしれないって不安になったのね。だから、手紙に書いてみようと思ったんだけど、そうしたら今度は、わたしにあの人のことをなにか書けるんだろうかって、もう随分と忘れてしまっているような気がしてきて……だから、書くのが怖かったの。でも、あなたが書くならわたしも……あなたに手紙を書いてと言えたわたしなら、書ける気がするの」

 些細な不安が、時を経るごとに膨らんで大きく感じる時がある。物事の本質は変わっていないはずなのに、そこから目を逸らし続けるせいで真実がわからなくなる。それに比して、妄想の化け物がどんどん肥え太っていく。

 それから、老女がぽつぽつと自分の境遇をかいつまんで話しているうちに、テレサ看護師が戻ってきて老女の前に文箱を置いた。「ハンナちゃんによろしく」とウィンクして去っていく姿へ、老女は「ちゃんと伝えておくから」と声を投げかける。

 老女が文箱を開けると、閉じこめられていた懐かしい香りを仄かに流れ出した。その淡い香りを感じ取ったのは老女だけだろう。

 無地の白い便箋とペンとインク壷を取り出し、ペン先がまだ書けることを確かめてから女の人の前へ差し出す。そして自分用にもう一本、ペンを取り出した。

 老女の目の前で、はじめはためらうように手紙よりほんの少し上の中空にペンをさまよわせていた女の人が、やがて猛然と文字を書き連ね始めた。

 老女も手元の便箋へ目を落とす。目を閉じて紙とインクと、まだ鼻の奥に残る懐かしい香りを胸に落とし込んで、目を開ける。そして、インクの染みたペン先でゆっくりと長い手紙を綴り始めた。

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