第23夜 温かい飲み物

 男は自室に籠もり、ライティングデスクの上に山積みにした手紙たちを眺めていた。それは誰かに宛てた、しかし出す宛てもないラブレター。相手が誰なのか、どんな名前なのか、どんな姿をしているのか、それを思い出すことがどうしてもできないでいる。

 そして、自分は誰なのか。

 ある日、森のなかで怪我をして倒れていたところを保護されたのだという。病院で目を覚まして、「あなたは誰ですか」と訊かれてなにも答えることのできなかった驚きと絶望の感情は、いまでもよく覚えている。「わたしは……」と言った口が、その先を紡ぐことができなかった。


「マシュー」

 呼ばれて振り返ると、夫人の長女であるセレーネが戸口に立っていた。その後ろに、ティーセット一式を載せたトレイを恭しく持って、メイドが一人佇んでいる。セレーネお気に入りのメイドで、確か名前をメアリといった。

「何度もノックをしたのに返事をしてくれないのだもの。どうかして?」

 セレーネは男の顔を見て、それから机上に山を成す手紙を見て、なにかを察したようだった。

「考えごとの途中でしたら、また出直しますけれど……」

 自己主張の強い三姉妹のなかで、セレーネだけはこうして自分よりも相手を気遣うことをよくわきまえている。家政に専念する彼女を妹たちは物足りなく感じているらしいのだが、傍から見ていれば、二人の妹が奔放に振る舞えるのも、セレーネが家内のことを万事抜かりないよう取り仕切っているからだとよくわかる。

 男は椅子から立ち上がり、セレーネにソファへ座るように促した。

「寒くなってきましたし、温かい飲み物が欲しい頃合いだろうと思って」

 セレーネはソファに腰掛け、男もテーブルを挟んだ向かい側に座って向き合う。メアリがすかさずテーブルにティーセットを広げ始め、淀みない動作でお茶の準備を進めていく。

「あなたがお手紙に書いていた、はちみつ入りの紅茶をね、どうしたら美味しく作れるのかしらって考えていたの」

 セレーネがそう言って、テーブルに用意されていくティーセットを指し示した。見れば、ティーセットのなかに蜂蜜を詰めた瓶が混ざっている。

 自分の書いている手紙の内容について、ほとんどのことは彼女も知っていることだった。手紙に綴られる出来事は、記憶を失う前の男の体験に相違はなく、その内容を紐解くことが記憶喪失の男の由縁を知る手がかりになるはずなのだから。

「メアリが教えてくれたの。ある種の紅茶に合う蜂蜜があるらしくて、それがこのあたりのごく小さな地域で作られているというのよ。その紅茶と蜂蜜が手に入れば、きっとその味が再現できるのですって」

 テーブルの前に膝をついていたメアリが、男に向かってにこりと微笑んだ。

「詳しいんだね、メアリ」

 男が微笑み返すと、セレーネが自慢げに言葉を返した。

「なにを言っているの。この家で飲むお茶は、すべてメアリが選んでいるのよ」

 男は思わず目を見開いた。メアリは、セレーネよりはやや年下に見える、まだ二十歳に届かないような娘だ。その幼さで、この家で日常飲まれるお茶を選ぶ大役を担うのだから、大したものだと思った。

「メアリのお茶に対する知識とこだわりは大したものだわ。日常飲むお茶、特別な日のお茶、朝に飲むには、夜に飲むには、体調が悪いときには……そういうことをすべて考えていてくれる。わたし、メアリが将来、専門店を営みたいと言うのなら、喜んで投資しますわ」

 まるで自分のことのように嬉しそうに語るセレーネに、メアリは赤面し、小声で「恐れ多いことです」と言って首を横に振る。

 返した砂時計の砂が落ちきり、メアリは一瞬前の狼狽などまるでなかったように冷静な手つきでポットからカップへ紅茶を注いでいく。白いカップのなかで深い鼈甲色をした液体が湯気を立てると、ほっとする香りが仄かに鼻をくすぐりだす。

「ここに、蜂蜜をひと掬い」

 そう言って蜂蜜の瓶を開けたのはセレーネ。ティースプーンを蜂蜜のなかに浸し、掬い上げる。スプーンから溢れた黄金色の蜜がまっすぐな筋を描いてスプーンから瓶のなかへと落ちていく。その流れが途切れる頃合いを見計らって、セレーネはスプーンをティーカップのなかへと傾けた。

 蜂蜜は熱い紅茶のなかで、蜃気楼のようにゆるゆると溶けて広がっていった。最後にスプーンが紅茶のなかへ潜り、くるくると鼈甲色の液体を攪拌して一連の作業は終わった。

「どうぞ」

 細く美しい手を理想的な形でソーサーへと添えて、セレーネは紅茶を男の前へと押し出した。

「ありがとう。いただきます」

 と、男はそれを受け取る。ソーサーを掴んで持ち上げる男の手は、セレーネよりも一回り、あるいは二回りは大きいかもしれない無骨なもので、繊細な薄さを持つカップやソーサーとも実に釣り合わない。そんなことを、半年前から考えていたように思う。

 そして、鼻先に寄せた液体からは、間違いなく懐かしい香りがした。

 紅茶は、この家で何度も飲んできた香り高いものとはまた違う、どこか素朴で、嗅いだそばから身体に馴染んで消えていくような儚い香りだった。そこに、蜂蜜の甘い香りが夢もように淡く溶け合っている。紅茶を持つ無骨な手がわずかに震えて、赤茶色の液体に波紋が差す。

 口をつけようと思うものの、喉がつっかえたようになってとても飲み下せそうになく、男は何度か上げ下げした末にカップをソーサーに置き直し、それらをテーブルに戻した。

 セレーネは特に笑うでも悲しそうにするでもなく、凪いだ表情で男の様子を見ていた。

「もう、冬になってしまうのね」

 男がなにも言えずにいるうちに、セレーネがそう口火を切った。

「あなたにとって、ここで過ごす日々は長かったかしら、短かったかしら。それはわからないけれど、わたしたちはいま、なにかを掴みつつある。あなたが望むのなら、いまこそ、その『なにか』を掴みに行くべきときではないのかしら。この町と森が、冬へ閉ざされてしまう前に……」

「森……」

 男の頭のなかで、風景が弾けるように広がった。

 木造の小さな家、雪を被った針葉樹の森、森の前にうずくまるようにある簡素な祠。そして、家から森への道を辿る、獣の毛皮で防寒した足の歩みと、雪を踏むその靴音。

 それから……。

 男は再び紅茶を手に取り、今度こそ口に含んだ。口のなかから鼻へと抜けていく香りに、いよいよ記憶が冴えていく。

 思い出せることはそう多くない。けれど、帰るべき場所だけははっきりと頭のなかに景色が浮かんでいる気がした。とても強い郷愁と共に。

 男はそれが乱暴で非礼な行為と知りつつ、熱い紅茶をひと思いに飲み干した。温かな温度が身体の芯を目覚めさせていくような感覚があった。

「長いあいだ、お世話になりました。……帰ります。帰り道を教えてください」

 セレーネはまだ笑うことも泣くこともなく、頷いた。

「そのお茶と蜂蜜を扱う茶商に事情を話してあります。明日には立つということですから、一緒においきになるといいでしょう。母と妹たちには、すぐに知らせを出します」

 その言葉で、男はこのセレーネの一連の行いが、夫人や家族の同意を得たものではなく、彼女の独断だったことに気がついた。

 そのときセレーネはようやく、ほんのりと淡く、そして包み込むように大らかな微笑みを見せた。

「だって、帰るべき家があるというのは、素晴らしいことではありませんか」

 セレーネ――この屋敷の内なる主は、確信の籠もった声でそう言った。

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