第22夜 冬将軍
まず感じたのは、嗅ぎなれない匂いだった。そして、瞼ごしに入り込んでくる光が、いつもと違うこと。次いで、様々な違和感が頭のなかへどっと押し寄せる。枕の高さが違う、肌に触れている服の感触が違う、いつも寝るときに履いている靴下が今はない……。
そして、老女は目を覚ました。
耳に、どこかざわざわとした、たくさんの人の気配を感じる。静かなのに、どこか騒々しい。
手を持ち上げて目をこすろうとしたら、なにかに引っ張られてうまく動かせなかった。それで首を動かして右手のほうを見ると、腕の真ん中あたりからチューブが伸びて天井のほうへ続いていた。
老女の横たわるベッドの周囲は白いカーテンで覆われて、どうやら自分が病院にいるらしいことにうっすらと理解が及ぶ。でも、なぜ。
ガラガラと車輪と、それに伴ってたくさんの小物が触れ合う音、それからゴム底の靴が床を擦る、きゅっ、という音がして、それらの音が老女のいる部屋へ入ってくるのがわかった。
「オリザさん」
白いカーテンに黒い人影が染みのように浮かんで、そこから女性の声がした。
「はぁい」
老女はそう返事をしたつもりだったが、実際に喉から出たのはがらがらという音だけだった。
カーテンに隙間を作って、女性の若い看護師が入ってくる。
「おはようございます。いきなり病院で驚かれたでしょう」
彼女は少しだけ笑みを浮かべてそう言って、老女の腕へと続く点滴チューブの加減を見たり、老女の手を取り脈を計ったりした。
「具合はいかがですか」
老女は「大丈夫」と言った。これも、がらがらとした音と一緒になって明瞭にならない。「喉が乾きましたね」と言って、看護師は慣れたベッドサイドから手のひらサイズのじょうろのような水差しを取って、口を軽く湿らすほどに水を飲ませてくれた。
「今日これから、ハンナちゃんが来てくれることになっていますから、詳しいことは彼女から説明があると思いますよ。その前に、お医者様が来ますから、お話を聞かせてください」
看護師は言うあいだも手を止めず、老女の布団をかけ直したり細々と状態を見て、それから「またあとで」と言ってカーテンの向こうへ去っていった。
老女は目覚めてから初めて大きなため息をつき、そして今が何日の何時なのかわからないことに思い当たる。さっきの看護師さんに聞いておけばよかった。
それからお医者様が彼女のもとを訪ねるまで、老女はベッドの上でほとんど動くことなくぼんやりと過ごした。意識を失っていたあいだぐっすりと眠ったらしく、ぼんやりしていても眠気で瞼が下がってくることはない。
どうして自分が病院にいるのか、記憶をあれこれと探ってみたが、夜に家のベッドで眠りに就いたのが思い当たる限り最後の記憶だった。そこから目を覚ましてみたら、自宅ではなく病院だった。
それからどれだけの時間が経っただろうか、点滴袋のなかの液体が尽きかける頃に、お医者様と先ほどの看護師さんが揃って現れた。
お医者様は老女の目や口内の様子を見て、それから聴診器で腹と背中に触れて「問題なさそうです」と言った。
「昨日の朝、森のなかで倒れているのを猟師が見つけたらしいです。猟師は「行方不明の旦那さんを追ったんだろう」と気の毒そうにしてましたが、そうなんですか?」
そんなことがあったのか、と老女は目を見開いた。どうしてか、その部分の記憶がすっぽりと抜け落ちているらしい。
「いいえ、あの、なにも覚えていなくて……わたし、前の晩にベッドに入って寝たところまでしか……」
今度はお医者様と看護師さんが目を丸くする番だった。
「その猟師の話だと、森の脇の祠にあなたのいた形跡があったから、祠へお参りしてから森へ入ったのだろう、と。しかしそうですか……覚えていないと……」
お医者様は思案げに握り拳を額に当て、手元のカルテに目を落とす。
「精神的なものかもしれませんね。体力の不安もありますし、もう一日、入院して様子を見てみましょう」
お医者様はそう言って椅子から立ち上がった。
看護師さんが去り際に「カーテンを開けておきますか」と訊いてきたので、老女は開けておくように頼んだ。
そこは四人用の広い相部屋で、老女は入り口から遠い窓際のベッドを宛がわれていた。
室内はかなり暖炉もないのに暖かかったが、窓外を見ると、自分がどうやら二階の部屋にいるらしいことがわかった。空を見ると重苦しい曇天があって、冷たそうな風が強く木々を揺らしているのが見える。下には、もうすっかり冬の装いをした人々がいた。
冬将軍はもうすっかりこの町に到着していて、あとは己の冬の大軍団を動かす時期を虎視眈々と待っているようだ。
「おばあちゃん!」
病院に似合わぬ元気な声が聞こえると思って首を巡らせると、入り口にハンナが立っていた。いつも老女の家へ来て食事とおしゃべりを一緒にしてくれる少女は、心配そうな顔で駆け寄ってきた。
少女はベッドの際に手を突いて身を乗り出し、老女のしわだらけの頬に自分の頬を寄せる。それから身を引いて、矢継ぎ早に質問を投げかけてきた。
「大丈夫? なんともない?」
「ああ、もう大丈夫」
「なんで森になんか入ったの? 死んじゃったかもしれないのに」
「ごめんね。心配をかけてしまった……」
「死んだらやだよ、おばあちゃん」
「死なないよ」
問答をしているあいだにも、少女の顔には不安や悲しみの色が広がっていくのを、老女はどうすることもできずに見ていた。なにがあったのかと訊かれても、なにも答えることができなかったから。
それから少しだけ落ち着きを取り戻した少女が語ったのは、先ほどお医者様が言ってたこととほとんど同じだった。昨日の早朝、森の道の途中で倒れているところを、猟師が見つけた。手には杖を持っているだけで、どこかへ行こうとしていたふうには見えなかったから、心中を図ったのかもしれないとみんなが心配していると。
老女はただ、困ったように曖昧な笑みで「ごめんね」と頷くしかなかった。心中など考えていなかった。けれど、昨日の自分のことを老女はまったく思い出せない。みんなの言うように、夫を恋しいと思うあまりに、無意識に、彼の消えていった森へ入ったのかもしれなかった。
「外は寒いかい」
老女は話題を変えて少女へ訊ねた。
「ええ、日一日と寒くなっていく感じ。おばあちゃん、病院なら一人じゃないし、絶対暖かいから安心だね」
そう言って、少女はその日最初の笑顔を見せてくれた。
それからほどなくして、ハンナの母親や町の女の人たちが連れ立って来てくれた。みんな、半年前に夫が森へ消えて以来、一人暮らしの老婆を支えるために交代で面倒をみていてくれる人たちだ。
彼女たちの話すことも少女の言ったことと大差はなかった。老女が肝心のところを思い出さない限り、誰もなにもわからないらしいことだけがわかった。
老女が祠の世話を心配すると、みんなが「それは心配ない」と頷いてくれて、それから、思い思いに手袋やマフラーといった防寒着、この時期には貴重な果物などをベッドサイドに置いて彼女らは帰っていった。
そうしているうちにすっかり夕刻が近づいて、老女は夜へ向かっていく窓外の景色に目を向けた。
そのとき分厚い雲に、小さな亀裂が走って、隙間からオレンジ色の光が階段のように地表へ降りていった。その思いがけず強い光に、不意に老女の胸がざわつく。
オレンジ色の光の降りていくほうを老女は探す。光は、遠くのほうに暗く広がる森の中心に向かって伸びていた。それにどうしようもなく心をかき乱されて、老女は気がつけば目に涙を溜めていた。切ない気持ちが喉元までせり上がってきて、それを飲み下すために両手をかたく組み合わせて、誰にともなく祈った。どうかお救いくださるように、と。
そして、いつの間にか強く閉じていた瞼を開けると、窓の外は再び曇天に覆われていて、もう夜の色になっていた。
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