第20夜 橋の上
橋の上を、遮るもののない風が疾走していた。温度の下がったその空気からは、ほのかに冬の香りがする。
町で一番大きな河川にかかった橋は、辻馬車がすれ違えるほど広い幅をしていて、向こう岸まではそこそこの距離がある。そのちょうど真ん中あたりに半円に出っ張ったテラスのような場所があって、男はそこに立って、冬の香りのする風をどこか懐かしく感じていた。
空は曇天で、今しも雨になりそうな重たい色をしている。あるいは、そこから降り注ぐのは雨ではなく、雪になるかもしれない。
男のそばで、ロングドレスのスカートを大きくはためかせて夫人が立っていた。急な用件がるといって、男は夫人の職場に近いこの橋まで呼び出されたのだ。
「寒くはありませんか」
夫人は「いいえ」と首を振った。頭には毛皮の帽子、身体には冬物の重たそうな外套をしっかり着込んでいる。一方の男も裾の長い外套は着てきたが、急な呼び出しに慌ててマフラーを忘れてしまった。シャツの襟元を一番上まで閉めても、隙間からは容赦なく冷たい風が肌を撫でる。
「ここでお話しましょう。人に聞かれたくないときにね、ここの風はうるさくていいのよ」
「なにか、聞かれたくない話でも?」
夫人は「さあ」と首を傾げて微笑んだ。
「少なくとも、娘たちのいるお屋敷では少しお話しづらいわね」
どうも持って回った言い方をする。男がそんな夫人へ困った顔をすると、夫人はつまらなさそうに笑みを引っ込めた。
「軽い冗談じゃない、つまらない人ね」
それから、「話というのは、あなたのことよ」と本題を切り出した。
「先日、あなたは教会へ行って神父様にお会いしたでしょう。なにか手がかりを見つけてほしいと。その返事が、先ほどわたしのところへ来ましたの」
「なぜ、わたしではなく夫人のもとへ……」
「あら、神父様にあなたのお話を聞いて差し上げてとお願いしたのは、他ならぬわたくしですもの」
そうだった。教会なら離れた町へも音信を伝える手段があるからと教えてくれたのは夫人で、男はそれに従って教会を訪れたまでだ。
夫人はいつになく真剣な顔をして、こう前置きをした。
「この先のことで、もしもあなたの気分が悪くなったり、少しでも聞きたくないと思うなら、その時点でわたくしは話をやめます。どうか心得ていて。わたくしは、あなたにとってもっとも幸せな結末を用意したいと思っていますの」
男は頷く。夫人もまた頷いて応え、そして肩の力を抜くように小さな深呼吸をして、話を始める。
「東の森を越えた先の町のことは、ご存知かしら」
「ええ、そういう場所があることは」
「そこに、半年前から、森で行方不明になった夫の帰りを待ち続けている老婦人がいるそうですわ。年齢もちょうどあなたの釣り合うくらいのお方よ。神父様からのお手紙によれば、その町の教会を担当されていた神父様は、神父様のおられないよその教会のお仕事も兼務されていて、町から町への道の途中、怪我をされてもう長らく戻られていないそうです。なので、その教会からの情報は近頃、この町の教会には伝わってきていなかったのだと。そういう言い訳でしたわ」
男は口を挟むことなく、ただ、夫人の話を聞くあいだにいつの間にか乾いていた目を、慌ててしばたいた。対する夫人の目は、男がなにか言うことを期待しているように彼を見つめていたが、ついになにも言わないとわかり、彼女のほうから次の言葉を口にした。
「あなた、そのご婦人にお会いするつもりはなくて?」
意を決したような口調だった。
夫人は、記憶喪失で身元もわからない男を、もう半年間も自分の屋敷に置いてなに不自由ない暮らしをさせてくれていた。そんな彼女にとってこの話は、いよいよ来るべき時が来たという合図に他ならない。
いつぞやの夫人は、我が子に男のことを「家族ではない」と言い含めていた。いつかは去る人だと。それを側で聞いていた男は、夫人のことを情の薄い人だと少し思いはしたが、そう言う夫人の心のうちでどんな感情が渦巻いているのかを感じようとしたことは今まで一度もなかった気がする。酷薄なのは自分のほうなのかもしれないと、男は考えを改める。
「そのご婦人に、わたしが森を隔てたこの町にいることは伝わっているのですか? わたしは記憶喪失であることは?」
男の質問に、夫人は首を横に振る。
「いいえ、詳しいことまでは。こちらからあなたの身体的特徴などを書き送って、そのご婦人の話と照合して、というやり方もあるけれど、隣町までは急ぎで二日とかからないのだし、わたくしはすぐにでも行くのがよいと思いますわ」
夫人は力の籠もった眼差しで男を見る。
もしも男が望めば、夫人は持てる権限を総動員して一秒でも早く彼を目的地へ送り届けようとするだろう。夫人にはそれだけの力がある。だが、今の夫人の話を聞いても、男にはなんら沸き上がってくる感情がなかった。まるで他人事のように、耳から入って頭をすり抜けていく。
もうずっと、会えない誰かに向かって手紙を書いてきた。しかし、その愛情がどこから来るのか、男には未だにわからない。失われた記憶の部分が作用しているのなら、それは男の知らない誰かが自分の身体に同居しているようなもので、どこまでが自分でどこまでが自分ではないのか、そうした苦悩が男には絶えず付きまとう。
もしも、自分ではない部分が求めている人物と出会ったとして、今この身体の主権を握っている自分の存在は取って代わられて、消えてなくなってしまうのではないかと思うと、恐怖すら感じる。
男は頭の奥に軽い疼痛を覚えて、頭を押さえた。途端に夫人が色めき立つ。
「ごめんなさい、急かしてしまいましたわね。大丈夫?」
辻馬車が走っているのを捕まえられないかと、夫人は橋の道の真ん中を眺め、左右に顔を振り向ける。辻馬車はおろか、その足音もなければ、周囲には歩く人の姿もなかった。
「大丈夫です。風に当たりすぎたのかもしれない……。お話、少し考えてみていいでしょうか」
「ええ、そうしてちょうだい。少し歩けるかしら。馬車のいるところまで行きましょう」
夫人の申し出に、男は首を横に振った。
「歩いて帰れます。夫人も、そろそろお仕事に戻られないと。部下の方々が心配されているでしょうから」
「そう……」
普段なら強引に馬車まで引っ張っていく気概を見せる夫人だが、今日は動揺しているせいかすんなりと引き下がった。
けれど、夫人のもとから去ろうと歩きかけた男へ、彼女は「マシュー」と呼びかける。半身だけ振り返って夫人を見ると、彼女は不安そうな表情でなにかを言いかけながら口をぱくぱくとさせた上で、「……ゆっくり、休んでちょうだい」とだけ言って、男とは反対方向に早足に歩いて行ってしまった。
男はしばらく、川の向こうへ去っていく夫人の、背筋のしっかり伸びた後ろ姿をその場で見送る。夫人の姿が視界から消え、男は頭の奥に先ほどの疼痛を探したが、そのときにはもう、どこにも見つけることができなくなっていた。
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