第19夜 残光
ふぅ、と吐いた息が白く棚引いて消えていく。その見えなくなった先を追うように老女が顔を上げると、燃えるようなオレンジ色をした光が、生い茂る針葉樹の枝葉の上に多い被さって、それらを黒い影絵のように見せていた。
風が吹いて、葉ずれの音がざわざわ騒いで耳を聾する。どこかでカラスが一斉に鳴いて飛び立っていく。たくさんの羽ばたきが聞こえたのに、一羽の姿も見つけられない。
また、風が吹く。それは、老女を誘うように森の奥へと駆けていく。近くの枝が、おいでと手で招くように大きく前後に揺れた。老女は着込んだ服のその一番上のストールの端と端を胸の前でかき合わせ、ぎゅっと手で握り締める。残りの片手で杖をつき、老女は森の道を歩いていく。
行き交う馬車の刻んだ轍に足を取られないよう、俯きながら慎重に行く。少し濡れた地面と薄く茂った下草に霜が降りていて、歩くたびにさくさくと小気味よい音がした。
どれほどか歩いて、ふと思って老婆は立ち止まり、ゆっくりと身体を反転させる。うっすらと白い地面の上に、杖と足跡が刻まれているのが見える。そして、それと並行するように霜を踏んで延び、さらに老女がこれから進む道の先にも続いているもう一つの足跡。
息も少し上がってきて、着込んだ服の下がうっすらと汗ばんできたのに、振り返ってみれば、先ほど空の光を見上げた位置がまだ目で見て取れるほど近くにあった。どうしてこんなに身体が動かなくなったのだろう、と老婆を重いため息をついた。年を取ったものだ、と。
口から白く漏れる吐息は、生命が身体から抜け出ていくときを思わせる。あの吐息のように空へ上がって、この森を俯瞰できたらどれだけよいだろうか。
森へ入るのは久方ぶりのことだった。もともと老女は、森番である夫と一緒でしか森へは入ったことはなかった。しかし、当の夫は仕掛けた罠を見に行くと森へ行って、それから老女と住む小さな家には帰ってこない。誰が探しても、夫を見つけることはできなかった。
しんと冷えた朝、老女は日課である祠の世話へ向かい、祠の前で違和感を覚えた立ち竦んだ。
祠は森を抜けるための道のすぐ脇にあって、行き交う人を見守っている。その祠から森の道へ向かって、馬の蹄のような足跡が続いていた。森の動物がたまたま人里へやって来ることはあるし、そのたぐいかと考えた。しかし、老女が祠へ着いて周囲を見渡しても、その足跡は祠から森へ延びるもの以外には見当たらない。地面は昨日からの小雨で軽くぬかるんでいて、夜のうちに来て帰ったのだとしたら、往復両方の足跡がないのはおかしかった。
まるで、蹄の足跡の主が祠から出て、森へ歩いて行ったようだ。
祠のご神体は鍵のついた格子戸の奥に厨子に納めて保管してある。その中を老女は見たことがないが、森の奥に住まう神聖な一角獣のたてがみと角の破片だと、代々の森番の家系である夫は言っていた。
ならば、蹄の足跡はなおさら意味深なものに思えてくる。
(祠の守り神様がお導きくださっているのでは……)
森へ消えて幾月も経った夫を、老女は一人でずっと待ち続けていた。「未だ戻らぬ人をお返しくださるように」と祠へ祈り続けた。その願いが届いたのかもしれない。
そう思えば老女はもういても立ってもいられず、まだ明け切らぬ森へ向かった。
森を歩き始めてほどなく、曙光が眩しく空から照らした。黄昏時と見まがうような明るいオレンジ色の光が、未明の森の青い空気を払うと同時に、光と影を際だたせていく。この世のものではないような風景が、その瞬間に広がっていった。
老女は、霜の上に刻まれた足跡の消えないうちにと、再び前を向いて歩き始める。さくさくと足裏で鳴る音が、老女の足取りを促すように共にいてくれた。
おかしい、と思ったのはそれからしばらくして。
老女の感覚でもう随分と時間が経ち、狭い歩幅の遅々とした歩みでもそこそこの距離を歩いたと確かに感じた頃だった。
老女は再び頭上を仰ぐ。
射し込む光の色が、先ほどからまったく変わっていなかった。
夜明け時はめまぐるしく空の色が変化する。山の向こうにうっすらと太陽の気配が立ち昇り、東の空に太陽がその顔を現すと曙光が世界を巡って鮮烈な朝を弾けさせる。だが、その強い光は長くは続かない。払暁から人の起き出す時間までのあっという間に、白く穏やかな昼間の光になってしまう。
それなのに、いま、森へ斜めに射し込んでいる光は先ほどと同じく鮮烈な曙光の色をしていた。あるいは、黄昏時の残光か。
老女は立ち止まり、自分がただならぬ状況に巻き込まれたと思い当たったのは、既に引き返すには遅すぎる頃合いだった。
老女は地面に下げていた視線を前に向ける。ずっと森の道の上を歩いていると思っていたのに、その先に道はなかった。老女の視線の真ん中に、森の木々の主であるかのような、堂々たる一本の大樹があった。その根本に、額に長い角を伸ばした一頭の馬の姿。
それは想像していたような美しい姿ではなかった。ひび割れた木の表皮のような荒い触感を思わせる褐色の身体に、針葉樹の枝葉のような形のたてがみが、もっさりと頭を包んで足下まで垂れ下がっている。
その緑色のたてがみの隙間から、きらりと輝く瞳が見ている気がした。
まるで、大樹の一部から切り離されたような出で立ちで、それはそこに立って、老女と視線を交わしていた。
その姿を照らすのは、曙光か残光か。
老女の視界は不意に霞んで、そして暗転する。
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