第18夜 毛糸
その日、保育院では子どもたちにはセーターが贈られた。柔らかな毛糸を使い一つひとつ手編みで仕立てられた真新しい衣服を、子どもたちは目を輝かせて受け取る。
こうして、保育院の子どもとしての持ち物が増えるたび、そして、ここへ来る前からの、本来の自分の持ち物を手放していくたびに、子どもたちは根雪のように降り積もる孤独の上に、新しいたつきを築き上げていく。
セーターは、大体の子どもにとっては大きすぎるサイズで作られるため、翌日、セーターを着て集まった子どもたちのもこもこと着膨れした様は、さながら、毛刈りを怠られた羊の群れのようだった。
「驚くべきことに、ひと冬のあいだにこの大きすぎるセーターがぴったりと身に合うほど成長を遂げる者もいる。君たち育ち盛りの子らには、これくらいの余裕があってむしろちょうどよいのだよ」
聖堂の座椅子にひしめくもこもこセーターの子らを相手に、神父様はお説教の冒頭でそう話した。
霜月も半ばを過ぎて、空気はまた一段と冷たくなった。それまで朝晩だけ火を入れられていた暖炉は昼間にも焚かれるようになり、どんよりと曇ったり時雨の降ることの多い天気が続き、子どもたちは外で遊べないぶんを、暖かな室内で過ごすようになる。
もともと室内遊びを好む子どもたちは、静かに本を読んだりカード遊びに興じているが、外で走り回れない子どもたちは保育院じゅうの廊下を所狭しと駆け回っている。
雪こそまだ降らないものの、季節はもう冬になっていた。
少年は一人過ごす自室の扉越しに走り去っていく子どもたちの喧噪を聞き、それが通り過ぎるのを充分に待ってから、机の前から立ち上がった。同士のトニーも、先ほどの喧噪の一団に混ざって今頃廊下をがむしゃらに走っているはずだ。
廊下へ続くドアを細く開けて様子を窺う。ひんやりと冷えた空気が少年の足下に絡みつく。廊下の遙か奥からぎゃいぎゃいとはしゃぐ声が木霊してくる以外は静かなもので、人の気配もなかった。
少年はするりとドアをくぐって後ろ手に閉め、声の響くほうとは逆へ、極力音のしないよう慎重に、けれど急いで走って階下へ向かう。そのあいだずっと、セーターのお腹のあたりに手を当てたまま。
一階の西の端は厨房になっていて、昼食と夕食のちょうどあいだの時間は人気がなくひっそりとしている。そこから洗濯場へと抜ける勝手口のそばで、教会のお手伝いのお姉さんが少年を待っていた。少年が保育院へ来たばかりの頃に、付きっきりで面倒を看てくれたお姉さんだ。
少年に友人ができると、お姉さんと過ごす時間はまるっと子ども同士で過ごす時間に変わった。たまにすれ違いざまに声を掛け合うことはあっても、こうやって面と向かって話すのは久しぶりだった。
「来たね。例のものは?」
少年はお腹に当てた手をさすって頷く。
「オッケー、行こうか」
お姉さんは首にマフラーを巻いて、勝手口から外へ出た。少年もそのすぐ後に続く。厨房もかなり冷えていたが、屋外の洗濯場はいっそう寒かった。冷たい風が金気に似た匂いを連れて鼻先を掠めていく。
「雪になるかもね」
同じ匂いを嗅いだのか、お姉さんがそう呟いた。
二人は教会のほうへ歩いていく。
教会の建物には二つあって、大きい方が普段皆が集まって礼拝をする聖堂。その横に小さく付随するようにあるのが、神父様の住居兼事務所だ。正式な名前はないが、大体は『小館』と呼ばれている。
その小館の前に、深緑色のロングコートを着て大きな革鞄を斜めがけにした見慣れない人が立っている。
「通信士さん!」
お姉さんがその人を呼んで手を挙げた。
あれが通信士なのかと少年は思う。
その人が目深に被ったつば付き帽子を取って小脇に挟んだ。帽子の下からは、さらに毛糸編みの帽子がさらに顔を出して、柔和そうな男の人の顔が見えた。
「やあ、いつもどうも」
通信士の男の人の前まで来て、お姉さんはその人の毛糸の帽子を指さして笑った。
「帽子の下に帽子?」
「いやはや、なんせ外回りは寒くて寒くて」
通信士の男の人は少し困ったような笑い顔になって言った。
少年は二人の顔を交互に見る。お姉さんは彼に対して気兼ねした様子もなく、通信士の男の人もよく見知った人を相手にするみたいにお姉さんと接している。
「いつも、うちのご用聞きをしてくれている通信士さんよ」
少年に向かってお姉さんがごく簡単に説明した。少年は、通信士の男の人に対して、ぺこりとお辞儀をする。通信士の男の人も「こんにちは」と会釈した。
「お手紙、出してもいい?」
少年と通信士の男の人とを見比べながら、お姉さんが言った。通信士の男の人はそれで手紙の差出人を察したようで、少年に向かって一歩近づいた。間近に近寄ると、普通の大人の人よりさらに高く見上げなければならない大きな人だった。
「お手紙、拝見できますか」
通信士の男の人は少年との身長差を縮めるため、その場に片膝を着いて両手の手のひらを指し出した。
少年はいそいそとセーターの裾に手を入れて、なかに隠し持っていた封筒をその大きな手の上に乗せる。白無地の紙には少年のつたない文字で両親の名前が書かれ、その上に少年のものではない綺麗な字で、少年がかつて住んでいた町の住所が併記されている。両親の名前は少年が知っていたけれど、住所は正確には覚えていなくて、お姉さんが記録を調べて書き込んでくれた。
「森の向こうの隣町だね。お預かりします」
手紙を受け取ると、通信士の男の人は封筒を裏返して差出人の名前が書かれているかを確認し、受領して革鞄のなかにしまった。
「あの、切手代は……」
少年はズボンのポケットに手を入れて、中身を掴んだ拳を通信士の男の人へ向けた。拳を開く。通信士の男の人は少年の掌のなかの数枚の硬貨を見下ろした。少年が保育院へ預けられるときに持たされたほんのわずかなお金で、保育院では八歳を迎えるまで自分で買い物やお金を使った取り引きなどはしてはいけないことになっているから、ずっと巾着に入れて引き出しにしまい込んでいた。
手紙を出すには切手がいることは、少年だって知っていた。なのに、通信士の男の人は首を横に振って、少年の掌を指先から押し返して、再び硬貨を握らせた。
「坊やから受け取る必要はないんだ。ここの子たちのお手紙代は、すべて神父様からいただくことになっているから」
「そうなの?」
少年はきょとんと、目の前の男の人の笑顔を見て、それからお姉さんの顔を見上げた。お姉さんが頷く。
「そうよ。君が望むなら、いつでも、何回でも、お手紙を出したいだけ出していいの」
「明日の朝の馬車便に乗るように、わたしから内勤の通信士へ言付けておこう。まだ雪も降っていないし、今の時期なら三日で隣町まで届くだろう」
「本当?」
「ああ、手紙が無事に届くよう、坊やがしっかりお祈りをしてくれればね」
通信士の男の人が言って、少年はそれに対して大きく頷いた。
手紙が届くように神様へお願いしよう。
両親がこの手紙を読んでなにを思うのかはわからない。捨てた子どものことなどもう思い出したくもないと、手紙を破り捨ててしまうかもしれない。それを思うと胸のあたりが苦しくなる。
三ヶ月。それだけ待ってもしも返信や音沙汰がないのなら、少年は両親のことや、元の家へ帰ることは諦めようと思っていた。
だから、この手紙は少年の最後の希望なのだ。
「毎日、しっかりお祈りするから」
少年の言葉に、通信士の男の人が頷き返す。
「その気持ちも、お預かりしました」
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