第16夜 編み込み

 今日もオレンジ色の鮮やかなドレスで着飾って、ディアナは鏡の前で眉根を寄せた顔をしていた。専属の理髪師がその後ろに立って困り顔をしているのを、男は鏡越しに眺める。

「こうじゃないの」

 自分の髪を鏡に見ながら、ディアナは言った。

 ディアナは髪の毛を金色に染めている。母親は明るい茶髪だし、ディアナも元々は父親似の赤髪に近いのだという。金髪にした理由を問うと、「明るい色が好きだから」と、実に彼女らしい理由だった。

「やり直して」

 彼女は無情に言う。理髪師は「わかりました」と返事して、一度結い上げた髪をほどきにかかる。どうやらこれで三度目だ。

 ディアナにとってこの長いヘアセットがほぼ毎日のことだというのだから、男は驚く。かれこれ、もう三時間くらいはかかっている気がするのだが。

 三時間立ちっぱなしの理髪師の女性は、やや疲弊した顔をしながらも淡々としていて、なにも言わずに再びディアナの金髪にブラシをかけていく。

 手のかかる髪型を何度もやり直す理髪師はもちろん、座りっぱなしで髪をいじられるディアナも疲れそうなものだが、彼女はさして疲れている素振りは見せず、無言のまま鏡に向かいながら、時折、手元に置いたノートに目線を落としている。

「それはなに?」

 ディアナと理髪師のさらに斜め後ろの椅子に腰掛けて様子を伺っていた男は、ディアナがノートに目を落とすタイミングで声をかけた。鏡越しに男を見るディアナと目が合う。

 ディアナはノートを閉じ、肩越しに男へ向かって差し出した。

「大したものではないのだけれど」

 と、男がそれを受け取る瞬間に言う。閉じている状態では男の大きな掌にすっぽりと収まってしまう小さなノートだった。

 男は自分の手に渡ったノートを開く。そこには、丁寧な筆跡でびっしりと文字が書き込まれていた。冒頭に日付、それから「○○の会」といった、恐らくその日に参加した会合の名称、それから参加者の一覧。そしてその下には、誰とどんな話をしたか、その相手がどんな身分でどんな外見をしていたかが、時には単純な線のイラストと共に書き込まれている。

「これは備忘録?」

「そうですわ」

 受け答えするディアナは普段よりも素っ気ない声音をしている。

「いつもこんなにメモを取る?」

「痛いわ、強く引っ張りすぎ」

 理髪師が髪を何束かの房に分けて結っていく際に抗議の声を上げ、それからディアナはまた肩越しに男へ何も言わず手を差し出してきた。どうやら、ノートを返せということらしい。

 ノートを閉じてディアナの手に渡すと、彼女は受け取ったノートを再びは開かず、膝に置いてその上に両手を重ねた。大事なものを守るように。

「お笑いかしら? 常に話題に遅れることのないよう、こうして覚え書きしておくの。わたくし、そうしていないと不安でしょうがないから」

「笑うなんてしない。立派な心掛けだと思う」

 ディアナは端正な字で、一行一行きっちりと行間まで守って書いていた。普段は明るすぎて大雑把な印象すら持つ人物なのに、その内面はどこまでも几帳面で潔癖なのだろう。

 ディアナの金髪から均等な量の房を幾つも作り上げた理髪師は、その一つを手に取り、さらに房を分けてそれらを絡め、編み込んでいく。男がその作業を見るのは今日二度目だが、するすると髪を編み込んでいく鮮やかな手つきに、何度見ても感嘆する。

「ふふ。本当は、こんなに書かなくてもいいはずなのだけれどね。わたし、会った人のことや、どんなお話をしたか、小さい頃から覚えるのは得意ですもの。……でも、そうやって過剰な自信の上に座して、漫然としていたとして。きっと将来、もっと広い場へ出たときにダメになると、あるときそう思ったら、書かずにはいられなくなってしまって……」

 ディアナはふと顔に翳りのある笑みを浮かべ、視線を斜め下へ泳がせた。オレンジ色のドレスがピタリとその線を浮かばせる小さな肩が、しゅんと落ち込んだようで、先ほどより少しだけ小柄に見える。

 その肩の上から重りを取り払うように、理髪師が編み込んだ髪の束を持ち上げた。

「夫人……君のお母上が、君に跡目を継がせたがっているという話のことで?」

「ええ、そう」

 男が夫人と呼ぶのは、この町では名の知れた実業家である女性のことだ。亡き夫が立ち上げた事業を引き継ぎ、今や押しも押されぬ名士として堂々と振る舞う、たおやかなでありしたたかな女性。その夫人が、自身の次女であるディアナを後継者として教育中であることは、既に社交界では知らぬ者はないほどの噂となっているらしい。

 とはいえ、ディアナ自身はまだ十代の娘。元々が社交的で交友関係も広い少女であっても、そこに責任が付随するとなれば不安や恐怖がなかろうはずもない。

「それが嫌?」

 男が問いかけると、彼女は伏せていた目を上げて、鏡越しに男をきつく睨んだ。

「とんでもないことよ。お母様のお仕事を引き継げるのは、姉妹のなかでわたくしだけ。内気で家政のことにばかり長けている姉様ではなく、自分のやりたいことにばかり熱中してわがままな妹でもない。わたくしはきちんと、お母様の期待に応えて見せますわ」

 とんでもない自信だと思った。男を睨む目が爛々と輝くのは野心の表れだろうか。その負けん気の強さは、母親である夫人に共通するものを感じる。

 この屋敷のなかで男や姉妹と接するときの多くは、明るく飄々とした態度を守るディアナ。しかし母である夫人は、彼女の芯の部分に宿る生真面目さや気の強さ、自信の深さをよく理解していたのだろう。

 理髪師が編み込んだ髪を器用に結い上げ、手で支えながらディアナに「いかがでしょうか」と訊ねた。ディアナはちらりと自分の髪を見ただけですぐに「いいわ」と返す。

「緑色のリボンにして。青っぽいほうじゃなくて、新緑色の、明るい色のほうを」

「かしこまりました」

 理髪師は頷くと、髪を紐やピンを使って器用に固定していき、最後、左右に編み上げた髪が交差する後頭部の一点にディアナ所望のリボンを飾って完成させた。

「いいわね、素敵。ご苦労様」

 ディアナは立ち上がりざまに理髪師に笑顔で言った。今日初めて見せた、純粋な笑顔だった。

 座りっぱなしで固くなった身体を軽く伸ばし、ドレスを整え、左右の手に外出用の手袋をはめてもらい、最後に小さなバッグを手に持って彼女の支度は完成した。

「さて。では、今日はエスコートをよろしくお願い致しますわ」

 そう言って不適に笑ってみせる。もう先ほどの陰のある感情は彼女の表面から綺麗さっぱり拭い去られていた。ふと、視線をはずして彼女の座っていた鏡台の前を見ると、椅子の上に小さなノートが置き去りにされている。

「あのノートは持って行かないの?」

「必要ないわ。万が一、誰かに見られでもしたら恥ずかしくて死にそうですし、それに、さっきも言ったけれど、わたくし、会った人のことを子細に記憶するのは得意ですもの」

「では、あの事細かな内容は、全部自分で記憶したことをあとで書き記しているのかい?」

 彼女は軽やかに笑った。

「当然」

 そして、エスコートを頼んでおきながら、一人でずんずんと歩き出して廊下へ出て行く。男も慌てて後へ続いた。

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