第13夜 あの病院

 病院へは、半年前から定期的に通っている。外傷を負った状態で森に倒れているのを発見されて、目が覚めれば記憶がないと言うのだがら、病院通いも無理からぬ。

 とはいえ、病院というのはどうも苦手な場所だった。半年通っても慣れるどころか、段々と嫌気が差してくる。

「ほら、あの病院は出ると噂だから……」

 病院が苦手だと言った男に対して、夫人の三女であるアルテミスが興味深げにそう言った。

 屋敷のなかの男の居室で、男とアルテミスは午後のお茶の時間を共に過ごしていた。

 アルテミスも大概に噂好きだ。ただし、町のなかの誰と誰が、といったゴシップやスキャンダルを好む次女ディアナと異なり、彼女の興味はもっぱら違う方へ向いている。

 例えばそう、病院に出る幽霊、などといった非現実なものたちへと。

「でも、病院に『出る』というのは思えば当たり前のことよね。たくさんの人がそこで生まれ、死んで行くんですもの。神父様が定期的に除霊をされているという話もあるし」

 まるで今日の昼餉の話でもするように平然とした顔で、アルテミスはティーカップに口をつける。次いでから、卓上に山と盛られたクッキーへ手を伸ばした。アルテミスは紅茶があまり好きでなくて、無理をしなければよいものを、こうして必ず茶菓子と一緒に飲み下す。そうやって毎度、茶会が終わる頃には山盛りのクッキーが跡形もないのだから、それを思うだけで男は腹に満腹感を覚えた。若い子どもはよく食べる。

「いや、幽霊を心配しているから行かないのではないのだが……」

 どちらかというと、生身の人間、つまり、医者や看護師に会うほうがつらい。怪我を負っていた半年前ならいざ知らず、今の男は記憶喪失であることを除けば至極健康体だ。ただ、決まった日に病院へ行って「まだ何も思い出せません」と告白するのは、相手を失望させるようで気分が重くなる。医療費だって無料ではなく、夫人の家から拠出されているに違いないのだから。

 そう打ち明けると、アルテミスは鼻で笑った。

「医者にとっては都合の良い患者だと思うけど。記憶が戻るか戻らないかはあなたの努力次第、とか、時間が経てばいずれ、とでも言っておけばよくて、ただ問診をしておけばお金が貰えるのでしょう。面倒な治療も、死んでしまうかもしれないリスクもないなんて、医者にとったら好都合でしかないじゃない」

 若く、怖いものを知らないアルテミスは、こういう物言いをよくする。どこから仕入れてきた知恵かは知らないが、訳知り顔で、直接顔を合わせたわけでもない医者を嘲って貶す。正直感心しないが、とはいえ、彼女の言うこともまた一理はあった。

 男の主治医はあからさまに男と顔を合わせることに飽いていて、「なにか変わったことは?」と男へ訊ね、男が「いいえ」と答え、「だったらまたしばらく様子を見ましょう。無理はなさらず」と医者が言って、それで終わり。問診は紋切り型に終始する。

「医者は難しい仕事を幾つも抱えて多忙なものだから、そこへわたしみたいに労力のかからない患者がいるというのは、いい息抜きになるのではないかな。医者のためになっているというなら、わたしもよい患者として多少は胸を張れる」

「医者に対して善人である必要がある? 医者なんて、患者を上から睥睨して偉そうにしているだけじゃない」

 アルテミシアは男の言葉に即座に切り返して、衝動にまかせるようにクッキーを二枚まとめて口に含んだ。怒りを咀嚼するようにクッキーを荒々しく噛みしめる音がして、甘い香りが仄かに漂う。

 彼女の口が辛辣なのは今に始まったことではないが、どうも病院の話となるとことさら冷静になれないらしい。

 男は訊ねた。

「病院や医者が嫌いな理由でもあるのかな」

 クッキーを頬張った口に紅茶を流し込むという、姉たちが見たら口を酸っぱくして注意しそうなお行儀で口内をすすいでから、アルテミシアはややばつが悪そうに切り出した。

「あの病院で……」

 なにか悲しい出来事でもあったのだろうかと、男は知らず姿勢をただす。彼女の母である夫人は未亡人で、夫君は三女のアルテミシアが生まれて間もなく亡くなったというから、父を亡くした話ではなかろうが、身近な人を病院で亡くしているのかもしれない。と、そこまで想像を働かせたところで、少女の口が動いた。

「あの病院で昔された注射がとても痛くて刺した跡も遺ったのよ!」

 そう一息に言い切ってから、アルテミシアはふいと不機嫌な顔で横を向いた。注射が痛いなんて子ども言い分だと恥じたのだろう。

 男は、その可愛らしい理由に思わずにやつきそうになる口元を、ティーカップをあてがってさり気なく隠した。

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