第12夜 並行

 雨は森のほうからやって来た。少女は厚い雲がすっかり覆い尽くした空を見上げた。

「本当だ、雨になった」

 町の小さな教会の窓辺で、少女は目を見開いて言った。その側に、聖堂の長椅子に腰掛けて俯きがちになにかを思案する老女がいる。

「そりゃあ降るものさ。あなたも畑の子なら、天気の読み方だっていずれ覚えなきゃね」

 老女が顔を上げ、少女を見た。家中の服をまとめて着込んだのではと思うほど着ぶくれして、顔以外は頭もスカーフを幾重にも被って晒さない。その顔に刻まれた皺は、彼女の年輪だ。

「ふーん」

 気のない相づちを打ちながら、少女は密かに、自分もいずれはこんな顔になるのだろうかと思いながら老女を見返す。老女の半分ほどの年代の母親が、少女の顔を慈しんで撫でては「わたしも若い頃は……」とため息をついていた。けれど、老いるということが少女には未だわからない。少女は、大人は子どもに命令をする権利と引き換えに、その若さを差し出しているのだと考えている。

「あたし、畑の子なんて嫌だな」

 雨は次第に強まり、教会の窓にぱたぱたと雨粒を打ち付け始める。その音を窓のすぐ裏側で目を閉じて聴いてみると、地面に耳をくっつけて遠く近くのたくさんの足音を感じたときを思い出す。空からやって来る雨には、足が付いてこうやって走ったり、ステップを踏んだりする。だから雨脚という。

「お父さんやお母さんは朝から晩まで畑のことで頭がいっぱい。畑のお世話は一日たりとも休めないからって、旅行にだって行けやしない」

「森番もそうね。そこに森がある限り、森番は森の側から離れられないの」

 少女は目を開き、その視線の先を穏やかに語る老女に向けた。

「おばあちゃん、どうして森番のおじいさんと結婚したの?」

「あら、わたしはおじいさんと結婚したんじゃないのに。わたしが結婚したときは、まだ『森番の青年』だったわ」

 老女の軽口に、少女はふふ、と小さく笑った。聖堂のなかは声がとてもよく響くから、歌うとき意外に声を張り上げたり、大声で笑ったりしてはいけないのだ。

「わたしは怖がりで、森は怖いから近付いてはいけないと考えていて、森のすぐ側に住んでいる森番さん一家も、森の怖いおばけかなにかと思っていたの。だから同じ町に住んでいるのに、森番さんの家族とは数えるほどしか会ったことがなかった。見かけたらそっと逃げていたし」

 確かに、森は不気味な場所だ。森にも道があって、たまに行き来をする者がいるけれど、危険がたくさんあると聞く。『森には不思議な力があって、道筋を違えると二度と森から帰って来られない』なんて吹聴して回る人もいる。だから、この町の人で、森へ入ったことがある人はごく少ない。森番さんや猟師さん、それから、教会の神父様も森を歩いて町から町を通い歩いている。

「そう、あのときも雨だったわ。教会の礼拝から帰ろうと思って玄関口に立っていたら、あの人が来て『時雨れそうだ』と言ったの」

「しぐれそう?」

「ええ、『雨が降りそうだ』と言ったのよ。びっくりしたの。だって、森番さん一家は森の神を崇敬しているから、教会へは来ないと聞いていたから。……なのにどうして、あの人ったら教会にいたのかしらね」

「きっと、若き頃のおばあちゃんに会いに来たんだよ」

 少女は窓辺を離れて、老女のすぐ側に腰掛けた。「それでどうなったの?」と話の続きをねだる。

「そうねぇ」

 老女のしわしわの頬にくっきりと笑みが浮かぶ。

「……次に思い出せるのは、一緒に町外れの散歩道を歩いているところ。だめだわ、告白の言葉も思い出せないなんて……。でも、ただ並んで歩いているだけのことなのに、その時間が、あのときのわたしはただただ嬉しかったの」

 普段、自分の家のなかでぼそぼそと喋るばかりの老女は、段々と声の張りを取り戻しているようだった。もう大きな声を出すには喉が衰えすぎてはいても、段々と声のトーンが若返っていくように、少女には聞こえた。

「でも、そんな森が怖いと言っていたおばあちゃんが、よく森番さんのお嫁さんになって、森の側で暮らせるようになったね」

 森番には独特のしきたりも多いと聞くし、さっきの老女の話のように、森の側から離れることはできなくなる。そんな束縛だらけの未来、少女ならきっと選ばない。

「森番さんと結婚するというのは、随分と勇気が要ったわ。無理なんじゃないかって、弱音も何度も吐いた。でもね、彼がとにかく優しかったのよ」

 そう言って老女は照れ笑いする。少女は不思議なものを見た気分になった。優しいということは、困難ばかりの結婚を老女に決意させるほど重要なものなのだろうか。

「彼は、わたしに森を好きになって貰いたいとあの手この手。可愛いリスを連れてきて『森にはこんな可愛い動物もいる』と言ったけど」、わたしはあの頃は家畜のニワトリやウサギだって苦手で触れないくらいだったんだからすっかり逆効果で。一緒に森へ行って、森の美しい景色をたくさん見せてもらって、そのときばかりは森は素晴らしいと思ったけど、帰りに足を挫いたり、大きな熊から身を隠してやり過ごさなきゃいけなかったり、あれも散々だった」

「それ、優しいって言うの?」

「うふふ、感じ方は人それぞれかもしれないわね。でも、少なくとも、結果はどうあれ彼の善意であったことに違いはなかったから」

 つまらない話だったかしら、と老女は言って、席を立とうとした。少女はすかさず手を貸して老女の身体を支える。

「まだ、雨だけど」

「秋の時雨は夏の夕立と違って、ぐずぐずと長いのよ。傘を借りて行きましょう」

 聖堂の奥に向かって老女は軽く頭を下げ、そして外へ向かって歩き出した。その隣を並んで行きながら、少女は改めてまじまじと老女を見る。もともとがきっと小柄な上に、腰は曲がってしまって、子どもの少女と身長は大差がない。片手を杖に委ね、もう片手を少女に取られて不自由に歩く。

 少女は考える。なぜ人は、若い姿のままではいられないのだろうか、と。神様が真に効率的なお考えなら、そんな人間の欠点を指摘して、人を常に働き盛りの若さに保っておくほうが良いと進言したい。段々と年を取って自分の身体に不満を抱えて、そうやって生きている大人は、なんだか格好が悪い。

「おばあちゃんは、なんでおばあちゃんになってしまったの?」

 気が付けば、少女の口からそんな不躾な疑問が転がり出ていた。

 対する老女はさもおかしそうに満面の笑みを浮かべて言った。

「決まってる。恋をしたからだよ」

 秋の時雨が、どの町にも降っていた。

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