第11夜 時雨

「時雨れそうだね」

 少年が教会の玄関の庇の下から空を覗いていると、傍らに立った老人もまた空を見上げながら言った。

「しぐれそう?」

「ああ。雨になりそうだという意味だ」

 教会へ来る信者さんやお手伝いさんの顔はもうかなり見て覚えたと思っていたが、この老人のことを少年は初めて見た。背丈はあまり高くないが腰は曲がっていなくて、年を取ってはいるけれど体つきはがっちりと大きく見える。コートの袖から見える手は大きく、指一本いっぽんも太く、全体が節くれ立っていた。畑仕事をする人の手にも見えるが、それよりもさらに荒々しいような雰囲気がなにかある。

 少年は老人の顔を見た。短く刈った白髪と、それとは反対にふさふさと伸びた眉毛。髭は綺麗に剃ってある。空を見上げる横顔には皺が幾つも刻まれているが、その目に宿る鋭い光に、少年は思わず竦んだ。教会の信者さんによくいる優しいおじいさんたちとは違う厳しさが、その老人からは感じられた。例えば、獲物を狙うオオカミのような、そんな恐ろしい雰囲気。

「……おじいさん、誰?」

 知らない人に気を許してはいけないと、保育院で繰り返し教えられた言葉が耳に蘇る。教会を訪れる人が必ずしも誠実で敬虔な心を持っているとは限らない。

 しかし老人は、少年に向かって目線を落とすと、眼光鋭い表情から一変、皺のある顔に笑みを浮かべた。そうすると目元が皺と長く伸びた眉毛の奥に隠れたようになって、恐ろしさは微塵もなくなってしまう。

「すまないね。こちらの教会の勝手がわらかなくて。マシューという、ハーライト夫人のもとで働いている者だ。神父様にお約束があるのだが、どちらにおらえるかな?」

 少年をむやみに怖がらせないようにだろうか、潜め気味に語る老人の声は、それでも少年の耳にはっきりと聞こえる、不思議な声をしていた。

「神父様のお客様?」

 少年が訊ねたところで、教会のなかからゆったりした足音と衣擦れの音が玄関のほうへやってくるのが聞こえた。その足音が誰のものなのか、少年にはすぐにわかる。

 玄関口へ現れた神父様はにこやかな笑みを浮かべて、客人を出迎えた。

「こんにちは、あなたがマシューさんですか?」

 マシューさんと呼ばれた老人は、少年に見せた満面の笑みからごく自然な微笑みに切り替えて神父様へ向き直った。

「ええ、初めまして。夫人より、教会ならばわたしに関する手がかりが掴めるかもしれないと聞いてお伺いしました」

「もちろんですとも、迷える子羊よ。教会は教区ごとに管轄されていて、この地域の町や村すべての教会はネットワークがあります。必ずや、あなたの帰るべき場所へ神がお導きくださるでしょう」

 立て板に水と語りながら、神父様は右手を老人へ差し出した。一方の老人は、神父様の口上に気圧された様子で「はあ、よろしくお願いします」と曖昧な口調で言って、自分の大きな手を伸ばして、握手に応じた。

「奥のお部屋でお話しましょう。どうぞこちらへ」

「ああ、ちょっと待ってもらえませんか」

 握手を終え、くるりと屋内へ身体を向けた神父様に老人が慌てて言う。そうやって神父様を引き留めてから、今度は少年のほうへ向き直った。そして言う。

「もうすぐ雨が降るだろうから、もし仲の良い子が外で遊んでいるなら、部屋のなかで遊ぼうと声をかけておいで。時雨は大雨にはならないが、この時期の雨に濡れるとすぐ風邪を引いてしまうから」

 それだけを言うと、老人は少年の返事を待たずに、神父様に「お待たせしました」と告げて一緒に歩いて行ってしまった。

 後に残された少年は、もう一度、空を見上げる。空は一面雲に覆われていたけれど、教会の真上の空は雲を透かして光が届いている。次いで、少年は前方の遠くの空を見た。教会の上空から灰色のグラデーションを描いて、その遠くの空は光も少なく黒ずんで見えた。少年の鼻先を、水気を多く含んだ空気の匂いがよぎる。

 少年は、友人の多くが午後の時間を遊ぶ教会の裏庭へ向かって、駆け出した。

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