第10夜 私は信号
夫人の三人の娘たちは、これが同じ女の胎から生まれたのかと驚くほどに、三者三様に容姿も性格も違う。夫人に様々な浮き名が付きまとうのは、そうした娘たちによるところもあるのだろう。
夫人は三人に、それぞれ月に由来する名前をつけて愛した。
長女のセレーネは大柄な身体のわりに引っ込み思案で大人しい気性をしており、大体は家にいて、実業家として多忙な夫人の代わりに、家令と共に家政全般を取り仕切っている。それ以外では恋愛小説を読むことを好み、メイドたちと恋愛談義に花を咲かせている姿もよく見かける。落ち着いた青色の衣装を普段から意識して選んで着ているようだ。
次女のディアナは小柄で社交的な性格をしており、町の良家の子女たちの集まりにはことごとく名を連ね、夫人の事業の後継ぎと目されている。活発な気性を反映するように黄色やオレンジといった明るい色を好み、様々な場に合わせたドレスをそれらの色で誂えている。
三女のアルテミスは若干十二歳の少女であり、肉体も性格も変化に富む年頃であるせいで特徴は判然としない。長姉のように部屋に籠もって姿を見せないときもあれば、次姉のように人と交わり闊達な議論をすることもある。研究者肌なのだと夫人が語る彼女は、赤やピンクといった少女らしい色を好んだ。
性格も嗜好も違う彼女らは生活のスタイルも異なり、朝晩の食卓以外で顔を合わせることはあまりない。
それがどうしてか、今日に限っては、居候する男の居室に三人が押しかけ、居座っていた。とある昼下がりのことだ。
最初に訪れたのは三女のアルテミスだった。彼女は普段からよく男の部屋を訪ねてくる。気難しい思考回路を持つ十二歳の少女は同年代の友人が少ないようで、年上の大人と過ごすと安心するという。もう老年である男ができるのは、彼女の難しい学問の話を聞きながら相づちを打つことぐらいなのだが、アルテミス曰く「友達は黙って聞いていてくれないし、すぐ感情的になるから話し相手には相応しくない」ということらしい。
そうやって男が三女による講義を聞いていると、今度は長女のセレーネが訪ねてきた。
「お邪魔かしら。出直しましょうか」
そう言って自分で開けたドアを閉めようとするセレーネを、男は「とんでもない」と言って招き入れた。ちらりとアルテミスの表情を窺ったが、特段不満はなさそうだ。
「このお部屋の冬支度のことで相談をしたくて」
アルテミスの座る長椅子の、彼女とは反対側に腰掛けてセレーネはおっとりした口調で言った。
「構いませんよ。ただ、アルテミスの話がいま面白いところまで来ていて、そちらが先でも構いませんか」
男が訊くと、セレーネは「もちろん」と頷き、そしてアルテミスに笑顔を向けた。逆にアルテミスはセレーネから目を逸らす。勉強家であり若く今時の感性を持つアルテミスは、家政や殿方との恋の話題に一辺倒な長姉のことを「後進的な女性」と陰で口にしている。男は以前、アルテミスがこの家で何不自由なく暮らせるのは、セレーネが家政一切の手配を怠らないからだと説得したことがあるが、そういう家庭事情に疎い少女にはまだそのあたりはピンと来ないようだ。
「続けて、アルテミス」
男が促し、アルテミスが再び先頃学んだ学問の話をしようとしたところ、再びドアがノックされた。男が応えるまでもなく、ドアは外側から開く。
「マシュー、いらして?」
最後に現れたのは次女のディアナ。外出から帰ってきたばかりのようで、外出用のドレスに手袋を身に着けたままの出で立ちだった。彼女は入るなり、自分の二人の姉妹が揃って自分を見たことに驚きの声を上げた。
「まあ、お姉様もアルティもいらしたのね」
そう言いながら、彼女はセレーネのように男へ伺いを立てることもなく素早く室内へ入り、あっという間に長椅子の真ん中、二人の姉妹の中間を当然のように陣取ってしまった。社交的な彼女は、人の集まる場所となれば自分もまざらないではいられないのだ。その様子に、姉のセレーネは呆れ気味に苦笑し、アルテミシアはうんざりというようにため息をついた。
黄色のドレスを来た次姉が現れたら注意せよ、というのは両側に座る青と赤の姉妹の共通認識なのだと、男は以前二人から別々に聞いたことがあった。警戒信号色のディアナ、と。
「聞いてくださる、マシュー。今日の青年会の会合と言ったらないのよ!」
手袋を外しながらディアナは早口にそう切り出した。
姉妹二人がディアナを警戒信号色と評するのは、彼女が来た瞬間にそれまでの話の流れや場の雰囲気がリセットされて、すべてが彼女を中心とした場に変わってしまうからだ。平たく言えば、彼女がしゃべり出したら止まらない。
メイドが三人のために新しく茶を出し、それが冷めて、さらに熱い茶を供されても、ディアナの口は止まることがなかった。
やがて赤いスカートを翻してアルテミスが無言で去り、「話はまた改めて」と、もうずっと苦笑したままのセレーネが青い袖を振って席を立った。男も疲れていたが、ディアナの話し相手、もとい聞き役に徹している以上、口を挟むことは許されない。
「ディアナ、いい加減になさい」
男を救ったのは夫人の一声だった。仕事から帰宅し、姉妹たちから様子を聞いたのだろう。ディアナの話を遮ることができるのは、この家では母である夫人のみだ。
窓の外は気がつけば日没さえ通り過ぎて、すっかり暗くなっていた。
「お母様お帰りなさいませ。あらあら、わたくしったらまたやってしまったかしら」
「『やってしまったからしら』、ではなくてよ、ディアナ。話をするときは一方的ではなく、常に相手のことを気遣いなさいと教えているじゃないの」
近頃の夫人は、社交的な次女を自分の名代として会合やパーティーに積極的に送り出している。自分の娘がそこでどんなふうに振る舞っているのか、夫人の耳にも当然入っているだろう。
「お母様、ごめんなさい。ええ、『私は信号』……わかっていますわ」
男はディアナのその言葉に目を見張る。夫人はどうやら、ディアナが二人の姉妹からどう言われているのかと、彼女に釘を刺したようだ。そして、つくづく落ち込んでいるディアナの様子を見かねて、男は「まあまあ」と取りなした。
「わたし相手でしたら構いませんよ」
「あなた相手だからいけないのですよ、マシュー」
それでも、夫人の厳しさは揺るがない。
「いくら一緒に住んでいるからといって、分別を忘れてあれもこれも話してよいわけではないの。あなたはあくまで居候であって、我々の一族ではないのだから」
夫人の突き放すような言葉に、男は俯く。常日頃から自分で意識して律していることとはいえ、夫人に面と向かって言われるのはとてもつらかった。
「マシューは家族よ、お母様!」
ディアナが悲鳴のように言う。家中に響きそうな声だった。
「そんな了見では困るわ。マシューはあなたの友人でも家族でもない。客人として遇してはいるけれど、立場上は使用人よ。もっと分別を持ちなさい」
「……ひどい!」
身を翻して室外へ逃げていくディアナの顔に、光る涙が一瞬だけ見えた。戸口に控えていたメイドが一人、彼女を追っていく。
「……夫人、あなたの家では、使用人を主らと同じ食卓に上げるのですか?」
夫人は疲れた顔をして、長椅子に深く座り込んだ。男は静かに訊ねる。
「そうね。わたくしも頭を冷やして考えるべきかしら」
「わたしを厚遇するから、ご息女方も勘違いをされる。わたしはやはり、使用人部屋で働くべきでは……」
「知っていらして?」
夫人が男の言葉を遮って、瞳を向けた。
「あの子たち、あなたが自分たちの新たな父親になるのではないかと思っているのよ。信じられるかしら? あなたみたいなお爺さんを……笑ってしまうわ」
夫人が自嘲する。だからそれも、夫人が男を手厚くするから問題なのだと、そう言おうとして、しかし男は押し黙った。そんなことは、彼女だって百も承知のはずだ。
男がなにを言うべきか考えあぐねているあいだに、夫人はまた話し始めた。
「わたくし、夫を亡くして未亡人になって、本当に悲しくて悲しくて、途方に暮れましたの。夫の始めた事業も手放すわけにはいかなかったし……本当に、大変でしたわ。だから、わたしはあなたが森で見つかって記憶もないと聞いたとき、あなたが故郷に残してきたであろうご夫人のことを思いましたわ。夫に残されて、生死も行方もわからなくて、どれほど胸の潰れる思いをなさっていることか、これまで夫と二人で取り組んできたことを、一人でやっていかなければならないとしたら……。だから、絶対にあなたを死なせない、必ず記憶を取り戻させて、そしてあなたを待っている方の元へあなたを送り届けると、わたくしはそう決めましたの」
夫人の目に再び力が戻ってきた。
「わたくしには、それができるだけの力があるのだもの」
「それは……」
自分がのうのうとこの屋敷で暮らし、記憶にない誰かに向かって手紙を書き溜めているあいだにも、夫人は持てる力を駆使して男の身元を探してくれていたのだろうと、そのとき男はようやく気付いた。まったくの他人が、自分のためにこれほど力を尽くしてくれているのに、自分は病院のベッドで目を覚ましてからこの半年間、一体なにをしてきただろうか。
男がなにか言わなければと口を開くより先に、「ご主人様」と年配の家令が戸口から声をかけた。
「夕餉の用意が整っております。ディアナ様も、好物のポワレがあると聞いてご機嫌を取り戻されたご様子。皆様、ご主人様が来られるのを待ち侘びておいでです」
夫人は「ふっ」と笑って口元に笑みを浮かべた。
「行きましょうか。せっかくの夕餉が冷めてしまいますわ」
そう男を促した夫人は、長椅子から立ち上がるともう男を振り返ることはなく部屋を出て行った。家令やメイドもそれに従う。
三人姉妹、そして夫人と、嵐の去った室内に残された男は束の間、ぼんやりとした頭で佇んでいた。
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