第9夜 ポツンと

 老女は、いつになく霧深い朝に外へ出た。お供え物を包んだ風呂敷を片手に、もう片手に杖をついて、森へ行く道の入り口へ向かう。

 針葉樹の森は秋が深まっても青いままで、やがて雪が降れば枝という枝に被った雪で森は真っ白になる。

 その入り口にポツンと小さな祠があった。形の良い石を積み上げた土台の上に木で造られた祠だ。祠を成す木材はまだ新しい色をしている。秋の初めに祠を新しくしたばかりだった。

 鍵のかかった格子戸の奥を覗き込むと、奥のほうに観音開きの扉が見える。祠のご神体を収めた厨子だ。あのなかには、森に住む一角獣の角とたてがみが収められているらしいが、厨子を開けることは禁じられていて、実物を見た者は誰もいない。否、代々森番をする家の跡継ぎであった夫なら、或いは見たことがあるのかもしれない。そう思い、老女は悲しみに耐えるように眉根を寄せた。

 春の雪の降った朝に森へ入っていった夫は、待てど暮らせど老女の元へ帰って来ない。森を捜索しても、遺体も遺品も見つからず、生死もわからず、ただ無為に過ぎていく日々が老女の希望と生きる気力を無情にも削り取っていく。

 森番の妻に課せられる役目は、毎朝一番に祠へ赴き、祠やその周囲を清め、供え物を捧げて祈ること。今日も森が平穏であるよう、森へ入る人が、無事に戻るか、或いは森を越えた先の目的地へ大過なく辿り着けるように。

 思えば、夫が出て行った朝、老女は雪を理由に祠へ行く時間を遅らせた。老女が祠へ祈りを捧げる前に、夫は森へ行ってしまったのだ。

 今となっては、それが老女の重大な過失であるように思える。夫を失ったのは、自らの怠慢が招いた神の怒りなのではないか。そう思うにつけ、胸が痛む。

 老女は祠に落ちた葉や小枝を払いのけ、周囲の地面を手箒で掃き清めると、風呂敷を開けてお供えものを祠へ差し上げた。秋の実りの果物と竹筒に入れた酒。それらは老女ではなく、彼女の暮らしを助けてくれる町の女たちが用立てて老女の元へ届けてくれる。そうやって他者の手を借りなければ、老女はもはや務めの一つも果たせない。

 膝をさすって宥めながら祠の前に膝を折り、地面にぺたりと座り込む。地面は冷たく、うっすらと濡れているが老女は意に介さない。祠を見つめ、やがて上半身を折り曲げて地面にぬかずく。

 ――この森へ寄り添う町の人が安寧でありますように。

 ――森へ行く人が安全でありますように。無事に帰り、行きますように。

 ――未だ戻らぬ人を、どうぞお返しくださいますように……。

 老女は、早朝の霧深い静寂のなかにポツンと座り込んで、人知れず願いを捧げ続ける。己の罪を懺悔するように、深く、深く、祈り続ける。

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