第8夜 天狼星

「本当はこういう話をすることは、教会のもっと偉い人から怒られるからだめなんだけど」

 神父様はそう言って語り始めた。そこには神様や英雄が出てくるけれど、あくまでも物語で、この世にいる神様は教会の神様ただお一人だと、丁寧に前置きして。

 夜の闇にいくつものカンテラが集まっていた。球形をしたオレンジ色の明かりが密集してできた光の空間は、地面にいびつな円形を描き、そこにたくさんの人影を落としている。光に浮かぶ人影は、二十人ばかりの子どもたちだ。そこからわずかに離れた暗闇から、神父様の声がした。礼拝のお説教よりも声を少し潜めている。その手が、頭上に広がる星空を指し示した。

「夜空にはたくさんの人や生き物がいる。鳥や獣、蛇や魚、そして遙か昔の英雄まで、彼らは星に姿を変えて夜空を巡り、古き世の物語をわたしたちに教えてくれる」

 釣られるように子どもたちは一斉に星空を振り仰ぐ。秋の深まりと共に夜は着実に寒くなり、澄み渡った空で星は冴え冴えと瞬いていた。

 星空観測会の日、いつもならとっくに眠っていなければいけない夜の時間に起きて外へ出られるという高揚感で、子どもたちは一様に目を輝かせている。

 保育院を併設した教会の裏手は小高い丘になっていて、町の人々から『巡礼の小径』と名付けられ格好の散歩道となっている。

 『巡礼』と名がつくのは、道のところどころに、かつて初めて教会の教えを広めて歩いた教祖様が立ち寄り、今では聖地と呼ばれている数々の地を模した小さな祠が造られているからだ。一つひとつへ祈りを捧げて歩けば、小一時間ほどで聖地巡礼ができてしまう。

 その丘のてっぺんにある広場に集まった子どもたちは、神父様のお話に耳を傾けながら、頭上いっぱいに広がる星空に魅入っていた。

 神父様は空のあちらこちらを指さしながら、そこに広がる光の物語をひもといていく。牡牛に大熊に一角獣、蠍を恐れる英雄に、月の女神に仕える七人姉妹、固い絆で結ばれた双子……輝く星々を見上げながら先人たちが語り継いできた物語に、子どもたちは夢中になって聞き入った。

 そして神父様は最後に、南の空に一等強い光を放つ青白い星を子どもたちへ示す。

「さて、冬の星空でもっとも明るく美しい星の名前がわかる者はいるかな?」

 神父様の問いかけに、子どもたちはお互いの顔を見合わせて首を横に振る。

 そのなかで一人だけ、まっすぐ腕を真上に挙げた男の子がいた。はっきりと大きい声が夜の空気を振るわせる。

「おおきぼし!」

 その答えをすぐ横で聞いていた少年は、思わず「ぷっ」と吹き出してしまった。しまったと思ったときには既に遅くて、答えた男の子がじろりと少年を睨んできた。

「俺の生まれ故郷では、みんなそう呼ぶんだ。『冬のおおきぼし』って」

 拗ねた声でそう言われて、少年は返答に窮してしまう。図らずも彼の心の傷に触れてしまったと察した。

 少年が保育院へ来てから明日で十日目。教会のお手伝いのお姉さんが側にいてくれる時間は日に日に短くなり、代わりに今までまともに目も合わせてこなかったほかの子たちと過ごさなければならなかった。

 既に出来上がっている彼らの関係に自分が入っていけるのかと不安と心細さで胸がいっぱいだったが、いざそのときが来てみれば、少年の不安はすべて杞憂に終わった。

 ここでの子どものあいだでのルールは一つだけ、『保育院へ来るまでの経緯を訊ねてはいけない』だ。少年自身がそうであるように、保育院へ預けられる子どもにはなにかしらの事情があるものだ。しかし、こちらから聞くことはできなくても、ある程度親しくなればお互いがお互いの過去を、友情の証のように交換しあうことも少なくはない。そしてそれがいつの間にか他の子どもたちの耳にも入って、少年は既に大体の子どもたちの事情がうっすらとだがわかるようになっていた。

 少年が一番仲良くなったのは、彼よりも三ヶ月早い、晩夏の頃に保育院へ入った男の子だった。少年よりも二つ年下の小柄な子どもだが、保育院での序列では二つや三つの年の差よりも、一日でも早く保育院へ来ていることのほうが尊重されている。だから、その男の子は自分よりも年上で身体も大きい少年に対して、兄貴分のように振る舞った。

 男の子は自分より格下の弟分を得られて相当嬉しかったらしく、なにかにつけて少年の世話をしたがった。他者に対して警戒心の強い少年も、押しつけるようにがむしゃらな態度で表される彼の親切が、気がつけば心地よくなっていた。

 そんな彼が、怒っている。

「トニー、怒らないで。君の言ったことも正しいんだから」

 むくれる男の子に、神父様は陽気に語りかける。

「星というのは、この地上にいればどこからでも見ることができる。我々が星を見上げるように、星々もまた世界を巡って地上のあらゆるものを見守っているんだ。ここから遠く離れた場所、そう、たとえばトニーの故郷でも、わたしがかつていた海の向こうの遠い国からでも、同じ星を見ることができる。しかし、見える星は同じでも、地上に住む人々はその土地の文化に従い、その土地の言葉を話し、そしてそれらに準じて星を名付ける。それらはとても当たり前のことなんだ」

 神父様の言葉に、トニーは無言で大きく頷いた。

「わたしがかつて住んでいた外国の町では、あの眩しく輝く星を、天の狼、天狼星と呼んでいた。あの星を核にする星座は勇猛なオオカミの末裔で、さっきも話したサソリ嫌いの英雄に忠実に仕えた。ごらん、二つの星座は近いだろう。あんなに輝く星を心臓に持つ狼だ。見た目にも勇ましく佇まいも美しく、英雄と狩りをするとなれば果敢に飛び出して必ず獲物を仕留めたに違いない」

 少年は友人と改めて空を見上げた。星に向かって昇っていく細く長い遠吠えが耳に聞こえるようだ。

 少年は神父様の話をもとに、星空に向かって頭のなかにある空想を描いていったが、傍らの友人は別なことを思っていたらしい。その口から呟きがぽろりと転がり出た。

「ばあちゃんも、今頃、空を見てんのかなぁ。とおちゃんとかあちゃんは、おおきぼしの近くにいるんだろうかぁ、なんて思ってさ」

 「おおきぼしの近くにいる」という言葉に、少年ははっとした。友人が初めて少年にこぼした過去だった。

 彼の故郷はかなり遠い場所にあって、晩夏の頃に襲ってきた嵐によって水没したと別な子どもから聞いたことがある。両親も失って、支援物資を積んでやって来た車の帰路に乗り込んでこの保育院までやって来たらしい。

「俺にあの星はおおきぼしだって教えてくれたのはばあちゃんなんだ。今は、壊れた町をもう一度造り直すために頑張ってるはず……。あの星を、ばあちゃんも見てるんだな」

 彼が鼻をすすり上げたのは、夜風で身体が冷えたせいだろうか。それとも――。

「トニーは、いつか故郷に帰るのか?」

「当然!」

 間髪入れずに彼は言って、少年の顔を見た。カンテラの光を受けて眩しく輝く顔には満面の笑みがあった。

「俺がもっと大きくなったら、がんがん働いて、前よりもっといい町を造ってやるんだ」

「そっか……」

 少年は両親も健在で、隣町くらいならあいだを隔てる森を渡っていけばいつかは帰り着くことができる。それでも、両親を失い故郷を壊されてなお、生まれ育ったその場所を目指し続けるこの友人のことが、羨ましくてならなかった。

 眩しい笑顔から目を逸らすように、少年は再び星空を見上げる。それはとても大きく不思議な力で見る人を魅了するが、見ようによっては、暗い夜空に青白い星々というのはとても冷たいと感じる。どこまでも温度のない無数の瞳が、少年の不幸を淡々と観察しているような不気味さ。そう考えてしまったらもう、少年は一刻も早く星の見えない部屋へ戻って、ベットに潜り込んで隠れてしまいたくて仕方なかった。

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