第7夜 朗読

「覚えているでしょうか? 結婚の誓いを立てるとき、あなたは私の贈ったイヤリングをつけてくれていたこと。『似合うかしら』とはにかんだこと。あの一日はすべてが舞い上がるほど嬉しくて、それで泣いてしまったら、あなたはわたしのことを『泣き虫』だと言って笑ったんです」

 男は、今し方書き終えたばかりの手紙を両手に持って、朗読した。喜びに溢れた文面を声でなぞっても、それでもやはり心は動かない。頭はとても冷静に他人事としてその手紙の内容を片づける。決して、他人事などではないはずなのに。

「素敵なお話ね」

 男がライティングデスクに向かって座るその後ろで、ソファでくつろいでいた夫人が言った。

 男が振り返ると、夫人はにっこりと笑って「もっと読んでくださらない」とねだる。対する男は首を横に振った。

「自分のことと思えないとはいえ……いや、だからこそ、こういうのを読むのは気恥ずかしくて……ご勘弁ください」

「手紙では饒舌な詩人なのに、本当に口下手ね、あなた」

 男の断りに夫人は気分を害するどころか、おかしそうに笑い声を立てる。

 男は手紙に目を落として呟いた。

「本当のわたしは、この手紙の主のように饒舌で情熱的なのでしょうか……」

 夫人はそんな男のことを面白そうに観察している。

 この屋敷といい、夫人を飾る服飾の美しさといい、夫人は実に裕福な人である。数年前に実業家の夫を亡くし、今は夫の会社を引き継いで辣腕を奮っているらしい。年の頃は四十から五十といったところだが、年を重ねてなお魅惑的な美しさを深化させている、ある種恐ろしいお人だ。

 この屋敷には、夫人と三人の年頃の娘たちがいて、そして男がいる。記憶を喪失して行き場のないまま病院のベッドに寝ていた男のもとを突然訪れて、「うちでよろしければ、部屋が余っているから」と面倒を看ることを申し出てくれた。

 未亡人が男を引き取るなど醜聞が立つと男が言うと、彼女は鼻で笑って傲然と言い返した。

「男だなんて、あなた、わたしより随分とお年を召しているじゃありませんか。それに、醜聞でしたら今更事欠きませんわ」

 以来、男は夫人のもとで雑用夫として働きながら暮らしている。雑用といっても、下働きはほかに若い男女が数名雇われていて、男がすべき仕事はほとんどなかった。あてがわれた部屋で一日を過ごし、夫人や娘たちの話し相手になり、たまに外へ散歩に出る、その程度だ。

 なぜ身元の知れない自分をこれほど厚遇するのかと夫人へ問えば、

「面白いものが見られそうな気がして」

 と、謎めいた笑みを浮かべた。

「わたしが思うに……」

 夫人は口元に人差し指を当て、斜め上へ目を向けて思案する姿を取った。

「きっと記憶を失う前のあなたも、普段はとんでもなくぶっきらぼうな人よ。でも、胸のなかでは、おおらかに、いつも様々なことを考えている。記憶を失って、今はぶっきらぼうの鉄仮面がはずれてしまっているのね。だから、そんな甘いお手紙が書けてしまうんだわ」

 どうかしら、というように夫人は男に向かって微笑む。

「……夫人が仰るなら、そうなのかもしれません」

「あなたが手紙に書いている愛情は本物よ。わたくしという女が側にありながら、少しも靡かないのがその証拠」

「あなたのような恐ろしい女性、わたしでは心臓が幾つあっても敵いそうにありません」

 男が苦い顔をして、夫人は口を開けて「あはは」と笑う。

 外の光の翳り具合をちらりと脇目に見た夫人は、「お茶にしましょうか」と卓上の呼び鈴に触れた。

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