第6夜 当日券
その日のお姉さんは怖かった。
この町の保育院へ預けられてから、もう両手の指いっぱいの日が過ぎた。神父様の講義も受けるようになって、徐々にだが、保育院のほかの子たちとも話をするようになってきた。
保育院では、入ってからしばらくのあいだ、隣接する教会からお手伝いさんが一人来て付きっきりで面倒をみてくれる。少年のために来てくれたのは、少年の両親よりもかなり若い女の人だった。並べば、少し年の離れた姉と弟に見えるかもしれない。
少年が朝起きてから夜眠るまで、保育院での一日の過ごし方や、保育院周辺の町の様子を教えてくれる。少年が離ればなれになった両親を思って泣くときは、昼も夜も関係なく側にいて背中を撫でてくれた。
少年にとって、そんなお姉さんはこの世の誰よりも優しく、安らげる居場所だった。
しかしその日、少年はお姉さんの知られざる一面を見てしまった。
それが始まったのは教会の朝の礼拝が始まる前のこと。子どもたちは一様に眠気まなこで聖堂へと集まる。その日、お姉さんは礼拝前の準備の係りに当たっていて、少年はお姉さんの手を借りずに一人で起きて服を着替え、直らない寝癖をそのままに、ほかの子どもたちと聖堂へ入った。
朝の白い光がステンドグラスを通して七色に彩られて注ぎ、聖堂内の至るところに灯された大小たくさんの蝋燭と相まって、祈りの場所を不思議な陰影で飾っている。
白いローブを普段着の上から被り、腰を組み紐で結んだ出で立ちのお姉さんは、祭壇脇の控えの部屋へ続く扉の近くで、同じくお手伝いをしている別なお姉さんとこそこそと話していた。口元を押さえながらも、時折「えー」とか「きゃー」という高い声を漏らしている。
そして聖堂に保育院の子どもたちがあらかた集まりきり礼拝が始まるというとき、不意にお姉さんが子どもたちの座る席を向き、そして迷うことなく少年を見つけた。少年は、いつもお姉さんと来るときに座る最前列の場所を今日も選んでいて、だからお姉さんはすぐに少年を見つけられたのだ。
お姉さんが、少年へ小さく手を振る。しかし少年は手を振り返すことができなかった。お姉さんはすぐに控え室へ入っていってしまったからはっきりとは見えなかったが、お姉さんの見せた笑顔が、少年を咄嗟に凍り付かせたのだと思う。
そのときのお姉さんは、顔全体でにこにこと笑っているのに、目だけは笑っていないように見えたのだ。
礼拝が終わると、朝食を挟んで神父様の講義が始まる。教会に神父様は一人きりで、いつも忙しく過ごしていらっしゃる。その日も、普段なら午前中いっぱいあるはずの講義は朝の一時間だけで、あとは自習という名の自由時間になった。
勿論、神父様のそんな都合を、お手伝いであるお姉さんが知らないはずがない。
講義の時間でも、お姉さんは少年に付き添ってくれる。まだ講義を受け始めたばかりの少年にとって、神父様のお話は難しいところもあり、少年がまごつくと横から小声でヒントをくれた。
ずっと横に座ってくれるお姉さんは、しかし今日は明らかに落ち着きがなかった。見かけにはじっと座っているのだが、声のトーンや話す早さが違う。
そして、講義の一時間が終わるや否や、お姉さんはがばっと勢いよく立ち上がった。
「行こう!」
どこへ? とは訊けなかった。
次の瞬間、お姉さんの手が少年の腕を鷲掴みにして、広げたままの教科書やノートも机上にそのままにして、少年を半ば引きずりながら外へ向かって歩き出したからだ。
教会の門のところで、掃き掃除していたもう一人のお手伝いのお姉さんに会う。朝、聖堂でお姉さんと話していた人だ。二人のお姉さんは真剣な表情で目配せしあい、さらに箒を持ったお姉さんがエプロンのポケットから小さな紙を一枚取り出して差し出す。素早い動作でお姉さんがそれを受け取った。そこに書かれた文字を見たお姉さんの口から「はわわわわぁ」と変な声が出ていた。
「お子さまは無料よ。健闘を祈るわ」
「合点承知!」
互いに真剣な眼差しを交わして、お姉さん二人は別れた。僕は門の外へと相も変わらず引きずられていく。
「それ、なんなの?」
少年は、お姉さんが片手に握りしめる紙を指さして訊ねた。すると、お姉さんがよくぞ訊いてくれたとばかりに顔を輝かせる。
「当日券が手に入ったの! ヘレンが劇場の人と知り合いで、今朝の礼拝前にパン屋さんで会って、そしたらくれたんですって!」
興奮気味に語るお姉さん。肝心の主語が抜けているけれど、勢いに圧された少年はそれ以上は訊ねることができなかった。
そうして歩いているうちに、お姉さんが「着いた!」と声を上げる。
その場所は、お姉さんに町を案内してもらったときに一度だけ教えてもらった。町の中央の円形広場のなかにある、町で唯一の劇場だった。あまり高い建物のないこの町ではひときわ高く立派な建物で、中へ入ってみたいと憧れたことを思い出す。
少年はお姉さんの顔を見上げた。
「お芝居を観るの?」
「お芝居……いいえ、もっと激アツイやつよ!」
「激アツイ……」
お姉さんが乱れた言葉遣いをするのを初めて聞いた気がする。
そのとき、本日の演目とその演目を象徴するような絵が大きく描かれた看板が劇場の入り口に飾られているのが目に入った。
その文字を少年が目で辿るのと同時に、お姉さんの口からまったく同じ言葉が出てくる。
「なないろ戦隊ヒーローショー! 歴代戦士たちも超スペシャル出演!!」
「超スペシャル……」
「当日券もだけど、君が一緒に来てくれて良かったぁ。子ども同伴じゃないと入りづらいし、大人一人だけだと入場断られることもあるんだよねぇ」
そう言って、お姉さんはそそくさと受付でチケットをもぎってもらい、半券と、おまけだというなにかおもちゃを受け取って中へと入っていく。勿論、僕を引きずったまま。
「いざ!!」
お姉さんは威勢のよい掛け声と同時に、僕の知らないなにかの扉を開けた。
以来、僕にとってのお姉さんは面倒を観てくれる優しいお姉さんから、背中を預け合う戦友、もとい、好きなものを共有できる頼れる仲間になったのだった。
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