第5夜 トパーズ

「ハンナ! いるかい? こっちへ来ておくれ!」

 母のよく通る声が厨のほうから聞こえてきて、ハンナは牛に飼い葉をやる手をを止めて、厨へと走った。

 母は昼餉を前に忙しく立ち働いている。今は畑の収穫期で、近所からも手伝いの人が来てくれているから、その人たちに昼餉と、午前と午後二回の間食を振る舞うのがこの時期の母のもっぱらの仕事だ。

「いるよ、お母さん」

「ああ、ちょっとお使いを頼まれて欲しいんだ」

 そう言って厨の真ん中の広い作業台を視線で指し示す。そこに、大きなバスケットが鎮座していた。上から風呂敷をかけてあって中身は見えないが、ハンナはそれがなんなのかすぐにわかった。

「森番のおばあちゃんの所だよね?」

「そう。蒸した野菜と母ちゃん特製シチューだよ。重いけど、気をつけて頼むね」

「はーい」

 ハンナはいったん風呂場へ行き手を洗い、家畜小屋の掃除で汚れた衣服を外出着に着替えてから「いってきます」と告げて外へ出た。


 「森番のおばあちゃん」と言うのは、町と接している森のすぐ際に住んでいる一人暮らしの老女のことだ。彼女の夫が森で木こりをしていて、森番も勤めていたことから、彼女のことも「森番のおばあちゃん」と呼ぶ。しかし、今年の春の初め頃、いつになく遅い季節に大雪が降った日、老女の夫は森から帰って来なくなったという。以来、町の家々が持ち回りでなにかと彼女の面倒を見ている。ハンナの家の番は、母の作った料理や食材をもっぱらハンナが届けていた。

 森番の家はこじんまりとしていて、厨と居間を兼ねた広い一間と寝室があって、少し離れたところに水回りがまとめられているという古い造りをしている。玄関には呼び鈴もなくて、ハンナは玄関口で大きく声を上げた。

「こんにちはー! 森番のおばあちゃん、ハンナが来たよ!」

 扉の内側で、錠前が外れるカチンという音が聞こえた。ハンナは自分から扉を開ける。杖を手に立った老女が迎えてくれた。

「いらっしゃい。いつもありがとう、ハンナ」

 老女は衣服の上から半纏を着て、さらに温かそうな大判の肩掛けを羽織っている。室内はひんやりとしていて、暖炉に火が付いていないのに気がつく。傍らにいつも積み上げておく薪も、もう残りがなかった。

「炭と薪がなくなっちゃった? 離れの物置だっけ? 取ってくるよ」

「すまないね。本当は朝のうちにやっておこうと思ったんだけど……」

「気にしないで。すぐ戻ってくる」

 杖をついて歩く老女に力仕事ができないのは無理もない。二人掛けの食卓の上に荷物のバスケットを置いたハンナは踵を返し、離れの屋根の下に積んである薪と炭を一抱え持って戻った。老女は暖炉のなかの灰を均等にならして待っていてくれた。

 暖炉の天板は金属でできていて、火をくべればお湯が沸かせるくらいに熱くなる。そこへ水の入ったやかんと持参したシチューの鍋を置き、老女が沸いたお湯でお茶を淹れ、ハンナはシチューをかき混ぜながら温まった頃合いを見て天板からおろして食卓へ載せた。蒸し野菜のなかからジャガイモを選んで半分に割り、小皿に移してバターを添える。

「今日も美味しそうね。あなたのお母さんは料理の天才だわ」

 老女とハンナは小さな食卓に向かい合って座り、ハンナの母が作ってくれた料理に舌鼓を打つ。ミルクの味がふんだんにするシチューは、母の得意料理の一つで、ハンナの好きな料理でもある。ハンナがよく所望するので、家では冬のあいだは頻繁に食卓にのぼって、ハンナと母以外の家族を辟易させることもあった。

 そんな話をすると、老女は笑って言う。

「美味しいものに飽きるなんて、そんな贅沢で幸せなことってないわ」

 そうして他愛もない会話をしながらの食事を終えると、老女はお茶を淹れ直し、先ほどは入れなかった蜂蜜を小匙にひと掬い、加えてくれた。このお茶は、ハンナの好物のひとつだ。

「ねえハンナ。あなたにあげたいものがあるの。いつものお礼に」

 お茶を口に含んでお互いに一息ついたところで、老女がそう切り出した。その手元がすっとハンナの前まで伸びてきて、群青のビロード張りの小箱が差し出される。小箱の様子からして、いい加減なものが入っているようにはとても見えない。ハンナはどきどきしながら小箱を開けた。

 白く艶やかなサテン生地の上に一対のイヤリングが、まるで上等の布団で眠るようにそこにあった。蜂蜜の色よりもっと赤み濃い、褐色がかった涙型の小さな石には精巧なカットが施されて、夢のような輝きを放っている。尋常ではない高級なものだということだけは、子どものハンナにもわかった。

「ハンナは可愛くて器量も良い、こんな婆にも優しくしてくれる。いずれこの町でも一等美しい娘になるはずだ。きっとこれは、ハンナに似合うようになるよ」

 ハンナはしばし言葉も忘れてイヤリングに魅入った。これが自分の耳を飾るところを想像してうっとりする。しかし、ふとよぎった考えが、宝石に飲まれそうな思考を遮った。

「おばあちゃん、だめだよ。こんな大切なもの、受け取れない」

 それはきっと、今は行方不明の老女の夫が、愛する人へと心を籠めて贈ったものだろう。それを他人の手へ託してしまうということは、老女の希望を奪うことになる。

「いやいや、こんなしわくちゃの婆がつけたってもう似合いはしないからいいのさ。持っていて欲しいんだよ」

 ハンナが拒んでもなお、彼女の手へ小箱を押しつけようとする老女の手を、ハンナはがっちりと包んで押しとどめた。年輪のように皺を刻んだ手は、見るよりも触れて初めて大きく感じて、そしてじんわりと温かかった。

「おばあちゃん、森番さんのこと、諦めないで。まだ木こりのおうちの人はずっと探してくれてる。冬が本格的になる前に、もう一度くまなく探して、森の先の隣町にも訊ねてみるって。このイヤリングは、おばあちゃんと森番さんの絆だもの。お願い、まだ、もう少しだけ諦めないで、待ってて」

 町の大人たちは、老女の夫が死んだとは誰も思っていなかった。思っていたとしても、それを口にする者なんていない。森のなかからは人の死体は出てきておらず、遺品も出てきていない。森に詳しい木こりや、森のなかで暮らし町の者以上に森を熟知した猟師たちを頼ってさえそうなのだから、これで死んでしまったと判断するのは逆に不自然なのだと考えている。ハンナもそう思っていた。

 ハンナが真摯に見つめる先で、両手を幼い子どもの手に絡め取られた老女は顔を塞ぐこともできず、しわくちゃの目元からぽろぽろと涙をこぼした。

「わたしは怖い……怖いし、寂しいんだ。寝るときはいつも一人で、あの人の夢を見て起きた日には悲しくてしょうがない。こんな胸の張り裂けそうな毎日を、まだ続けろっていうのかい。もう冬が来る……そしたら次は春だ。あの人のいなくなった季節だ。そう考えたら……わたしはもう耐えられないよ……」

 そう咽び泣く老女の手を、ハンナはしばらく離さなかった。

 つらいことがあれば泣けばいいと、ハンナは母から教えられたことがある。泣くとき、人の心にはたくさんの感情が渦巻いている。涙はそんな心のなかを細かく分解して、泣いた理由の一つひとつを気づかせてくれる。泣く前に抱えていたもやもやした気持ちがすっきりするのは、涙にそういう力があるからだと。だから、心から泣きたいときに泣くことは正しいのだと。

 老女の抱えている悲しみや恐怖は、ハンナのものよりずっと大きいに違いない。もしかしたら乗り越えることなんてできないのかもしれない。それでも、彼女の心に少しでも希望が戻ることを願った。

 二人の女の真ん中で、褐色の鮮やかな宝石が美しく輝き続けていた。

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