第4夜 恋しい
「それって、恋文ですか?」
丸椅子に座る男から一通りの話を聞いた医者は、そう問うてきた。壮年の男でややぽっちゃりしていて、清潔に整えた白いものの混じる髪と品の良い眼鏡が、彼が生来育ちの良いことを感じさせる。そんな医者だった。
「そう……なんでしょうか?」
「奥さんか、恋人か……。あなたの年齢なら長く連れ添った奥さんでしょうか。本当に大切にしていらしたんでしょう」
僕なら、妻のことをそんな仔細に書き留めるなんてまずできないですけど、と医者は苦笑する。
男は眉をハの字にしてそれに応えた。
半年間、誰へ宛てるでもなく書きためてきた手紙のことを、男はようやく他者に相談することにした。男の住む地区を回診する医者は、半年前に男が原因不明の記憶喪失を起こしてからこの方、頻繁に訪ねてきてくれる。本当ならもっと早く、素直にすべてを話すべきだったのだが、自分の身体がまるで自分のものではないように振る舞って手紙をしたためる行為を、男が冷静に受け止められるようになるまでに半年もの時間がかかったのだ。
男は、半年間我慢し続けた鬱屈を吐き出すように、前のめりになって訊ねた。
「でも、そこまで恋しいと思っているなら、どうしてこれ以上のことを思い出せないんですか? もう半年も経つのに・・・ずっと考え続けているのに、顔も名前も思い出せないなんて」
医者は慌てた様子で、身体の前で両手を振った。
「思い詰めるのは逆効果です。なにか、思い出せない別のことが蓋をして、それで部分的にしか記憶が戻らないのかもしれません。なにせ、あなたは身体中をひどく痛めて森に倒れていたんですから。半年経ったといってもまだまだ万全じゃありません。今は焦らず、ゆっくりと休息することです」
町には出ていますか、と医者は話題を変えた。
「ええ、近場へ買い物に行くくらいですが……」
「だったら、一度教会を訪ねていらっしゃると良い。教会の方々は広く伝てがあるから、あなたの手紙に関する人物について、心当たりを教えてくれるかもしれない」
「はあ……」
教会というものについては記憶に残っている。習慣として身についたこと、例えば話すだとか歩くだとかは忘れないように、教会も生活のなかの「当たり前」として男のなかにあった。ただ、そこで会った人や起こった出来事はやはり朧気にしか輪郭を得ない。
「あとは、もっと様々な場所を訪れて、記憶に刺激を与えることです。ですが、くれぐれも急いたり無理は禁物です。頭が痛くなったり、体調が著しく悪くなるようなときは、すぐにここへ来てください」
医者は人の良い笑みを浮かべて男に言った。
「あなたは懸命に自分と向き合おうとしている。誰にだってできることじゃない。あとはなにかきっかけがあればいいんです。その恋しい気持ちがあるなら、あとはゆっくり待ちましょう」
そう押し切られ、医者と別れた男はまた自室に籠もった。書いては引き出しに溜め込んできた手紙を机上に取り出すと、小山ができた。封筒には封をせずに、日付を書き入れてある。それを頼りに時系列で手紙を開いて読んでいく。けれどやはり、その内容が我がことのようにはさっぱり思えず、十日分ほど読んだところで、背もたれに寄りかかって天井を見上げた。
そのとき不意に、目の奥で暗い光景が一瞬浮かんで消えた。なんだったのか考えて、それが木々の乱立した森のなかだったように思う。しかし、それ以上突き詰めようとすると、なにか嫌なものが頭のなかをじんわりと染めていくような不快感があって、目眩を覚えてぎゅっと目を閉じた。
医者の曰く、記憶の「蓋」とはなんなのだろう。
男が手紙を書き続けているのは、その内容が記憶喪失以前の男にとってもっとも豊かで幸福な記憶だったからではないか。となると、蓋となっているなにかは、その真逆に、思い出したくないと心が無意識に願っている部分なのかもしれない。それを思い出すことには痛みを伴うと、医者は言いたかったのか。
男は、机上にばらまかれた手紙の山を改めて俯瞰する。
半年間、思い出すことだけを考えていた胸のうちに、初めて、それでいいのかという陰りが差していた。
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