第2夜 手紙

『お元気でお過ごしでしょうか。こちらでは今朝方、今年初めて霜が降りました。こんなに冷え込む朝、あなたと窓辺の小さなテーブルを囲んでお茶の香りを楽しめたらと考えると、胸が締め付けられるような気持ちになります。

 あなたはいつも、お茶に小匙一杯の蜂蜜を加えますね。あれをこちらで試したのですが、お茶が悪いのか、蜂蜜が悪いのか、あなたが作ってくれたときのようなまろやかさはなくて、ただ苦い味がするばかりのお茶と化してしまうのです。

 あなたと過ごすそんなひとときのことを、いま、とても懐かしく思います。

 きっとまたいつか、お会いしましょう。』


 男は万年筆をそっと机に横たえた。

 その手紙には、宛名も、最後に記す自分の署名もなかった。

 男は書き終えたばかりの手紙を時間をかけて読み返し、丁寧に三つ折りにして封筒のなかへ収める。そして、机の引き出しの最上段をそっと開けた。そこには、同じデザインの封筒ばかりが溢れんばかりに詰め込まれている。かれこれ半年は書きためて、そして投函せずに留めた、行き場のない手紙たちだった。

 半年前。それより以前のことを、男はほとんど覚えていない。気が付けば、この場所で手紙を書いていた。手紙を書く前になにをしていたのか、どうして手紙を書こうと思ったのかは、記憶からすっぽりと抜け落ちていて、いくら記憶を手繰っても、ある程度遡ったところで記憶の糸はふつりと途切れている。

 ただ、一枚の便箋に向かって筆を執ったあの瞬間の、強く「書かなければならない」と命じる胸のうちの声は、半年を経た今もはっきりと覚えている。

 伝えなければ、伝えなければ、伝えなければ。しかし、なにを、誰に。

 押し寄せる焦りが一向に言葉にならないのとは反対に、万年筆を握る手は自然と動き始めていた。

 そうやって書いた一番最初の手紙をしげしげと眺めて、男は思った。

 それはまるで言葉を書き慣れていない者の無精な字で、書いた本人でも時間が経てば読めなくなってしまうのではと危惧するほどに荒々しいものだった。そして、そんな字で書かれた内容は、さながら夫が愛妻へ送る言葉。家庭の団欒風景が浮かび上がるような具体的な描写を交えて、手紙は読み手への愛情を綴っていた。

 しかし、そこに書かれたなにもかもが、男の記憶にはないものだ。妻の口癖も、お気に入りのイヤリングのことも、淹れるお茶の味も、男にはまるで思い当たることがない。さながら、男の身体を借りた誰か別な人格が、男を介して妻に手紙をしたためているようだ。

 こんな手紙を、男はもう半年間絶え間なく書き続けている。たった一人の人物について、男のなかにはない思い出が、万年筆を通して書かれ続けている。

 男は手紙を収めた封筒を手に取り、無言のままに問いかける。

 この手紙の先にいるべき人、そして、手紙のなかで会えぬ人への愛情を切々と訴える人。あなたは誰なのか、どこにいるのか。いつになったら会えるのか。そして、虚ろなままに手紙を書き続ける、自分はいったい誰なのか。

 宛名も、己の署名すら書けない亡霊のような男は、今日もまた手紙を引き出しへとしまい込む。

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