霜降の窓
とや
第1夜 窓辺
今年初めて、暖炉に火を入れた。常ならば霜月も迫れば寒さを感じたものなのに、今年はいつまでも暖かかった。老いた身には堪えずに済むが、やはり季節が暦通りに進まないというのは不安がある。今年は春の中頃まで冬のような日があって、短い夏のあいだは平穏だったものの、秋になってからは生ぬるい大雨が幾度かあって、遠い山間の村や町では川の堤が切れて甚大な被害が出たと伝え聞く。
老女は一人暮らす狭い家のなかで一日の大半を過ごす場所、出窓の側に据えたその椅子に腰掛けて、外の景色を覗き込んだ。室内を暖めて行く暖炉の熱と窓辺から忍び込む空気が触れ合って、窓ガラスをじんわり白く染めていく。外の景色は夢幻のように淡く霞んでいった。
もう見飽きるほど見つめたその窓の先に、老女は目を凝らす。窓の先は、家の端まで迫る森の入り口になっていて、木々の向こうの暗闇までを見透かすことはできない。老女は、その深緑色の闇の奥から来る者へ、ひたすらに心を向ける。
そうして、どれほどの時を窓辺で過ごしたか。老女は不意に、森の木々の陰に何ものか動く影を見る。それは確かに老女の住む家の、老女の待つ窓辺へ向かって近づいてきている。
そして木々のあいだに、ついにその影が全身を晒す。白い靄と深緑の闇がない交ぜになったその場所からやって来る姿に、老女は知らず知らず、涙をこぼしていた。
「あなた……」
老女が長く連れ添った伴侶を失ったのは、今年の春のこと。卯の花月になったばかりのその日、森に大雪が降った。木こりであった老女の夫は、春先になって森から村へ降りてきては悪さを繰り返す一匹狼を狩るべく仕掛けた罠を見に行くと、朝から森へ入っていた。
雪はあっという間に森を白い静寂のなかへと包み込み、その静寂の向こうから夫はついぞ戻って来なかった。雪解けを待って木こり仲間や猟師たちが懸命に探してくれたのに、亡骸も、持ち物の一つも老女の元には戻っては来なかった。
森のなかには険しい地形や断崖のような場所もある。そうした場所から足を踏み外して、川に投げ出されたのではないかと、かつて夫と親しかった猟師の誰かが言った。半年、もう生きてはいないのだろうか。
お互いに、もう後は穏やかに余生を過ごすだけのはずだった。そのわずかな手前で、すとんと半身を奪われた老女には、今や気力の一つも残っていない。朝起きては、日がな一日、森の見える窓辺に座り、日が暮れれば蝋燭を灯すこともなく床へ就く。それなのに、これほど無気力に生きていてさえ、あの世からの死者は老女を訪わない。夫の命は、その鎌であっさり刈り取っていったというのに。
ところが、老女はいま、窓辺に夫の姿を見ている。夫が、霞む窓辺の向こうから老女を見ていた。
老女は居ても立ってもいられずに椅子から立ち上がり、急な動きに驚いて痛みの悲鳴を上げる足に苛立ちながら、杖を片手に台所横の勝手口へ向かう。いつもは狭く感じる家のなかが、とても広く、目指す扉はとても遠くに感じる。幾度か転びそうになりながらも、勝手口を開け、まろぶように外へ飛び出すと、窓辺に写る森の端のほうへ向かった。
しかし、そこには誰もいない。それどころか、雑草の生えた地面には足跡の一つもなく、人がそこにいたという痕跡すらなにもなかった。森の木々の向こうを眺め回してみても、深緑色の暗闇が見返すだけで、動くものの気配はなにもない。
老女は久しぶりに全力で動かした足が震え竦むのを堪えながら、森へ向かってよたよたと歩き出す。口のなかで探し人の名前を呼びながら、きっとその人はそこへいるはずだと信じて、ぽっかりと口を開けた闇へ向かって踏み込んで行く。
そこで、ばちん、と薪が爆ぜて、老女は目を覚ました。
一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなる。そろりそろりと目を動かして周囲を確かめれば、老女はいつもの場所で椅子に腰掛けて、出窓の窓辺に肘を置いて頬杖をついていた。目の前のガラスは真っ白に結露していて、向こう側を見透かすことはまったくできない。
心臓がばくばくと高鳴っていて、それを抑えるために、何度も何度も大きく呼吸を繰り返した。今の鼓動の早くなった分だけ、寿命はあとどれだけ縮んだろう、などと考えてしまう。
あの人がもしも天の国へ行ったのならば、あとどれほどで、この魂はそこへ向かうことができるのだろう。
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