第169話 日溜まりの彼女



 隣で眠る彼女を、英雄は上半身を起こして見つめていた。

 夜半すやすやと眠る、彼女の横顔を眺める。

 カーテンの隙間から差し込む星明かりは、うっすらと顔の輪郭を映し出す淡いものだったのに。

 不思議と、太陽の下で見るように眩しく見えて。


(まただ……またこの感覚)


 フィリアが再び目覚めてからというもの、英雄はどこかボヤけた日常を送っている気がしてならなかった。

 こうやって隣に居る時はまだマシだ、少し離れただけでどうして生きてきたか分からなくなって。


(守らなきゃ…………僕はフィリアを守らなきゃいけないんだ……)


 どうしたら守れる、どうしたら守れた事になるのだろう。

 でも行動する度に、彼女は己の手からすり抜け行く感覚。

 今でも不安だ。


(また目を覚ましたら、僕のコト忘れちゃってるんじゃないかって)


 彼女に触れぬように、そっと唇に指を当てる。

 呼吸を確かめる。

 豊かな胸がゆっくりと上下して、少し、ほんの少しだけ安心できた。


(フィリアは……良い子なんだ。とっても、僕にもったいないぐらい良い子)


 彼女が抱いた不安を思う。

 彼女が遭遇した痛みを思う。

 それは彼女自身が招いた事かもしれない。

 けれど。


(考えちゃうんだ、もし僕と出会わなければ。フィリアはもっと普通の女の子として成長して、もっと幸せになってたんじゃないかって)


 幸せにする、一緒に幸せになろう。

 散々口にして信じてた、しかし今はこの上なく薄っぺらな言葉にしか思えなくて。


(僕は本当に……フィリアを幸せに出来てるの?)


 怖くなる、自分の存在意義が壊れていく様な感覚。

 何のために生きているのだ、己の人生に価値はあるのか。

 分からない、分からないのに。


(もう、今更離れるコトなんて出来ない――――)


 それは慟哭にも似た叫び。

 今まで、幸せになる為に楽しむ事を重視してきた。


(正しいコトを諦めてしまった僕は、それしか出来ないから)


 無力で、他人の力をアテにしないと何も出来ない自分。

 腕力も、頭脳も、顔も、自信のない己に出来るのは身を犠牲に進むこと。


(僕はもう……限界なのかもしれない)


 ローズに結婚を反対された時、地位も財力も無い自分は愛という形の無いモノだけを頼りにするしかなかった。

 幼い頃から家族の様に思っていた美蘭の想いに、気づく事が出来なかった。

 フィリアが病院に運ばれても、この部屋に戻ってきても、また病院に運ばれて、そして今この時も。


(僕は……側に居るコトしか出来ない)


 英雄は衝動的にフィリアに触れようとして、恐る恐る手を延ばす。

 だが、何かに弾かれたように手を引っ込めて。


(なんて、なんて綺麗なんだフィリア)


 何人たりとも触れてはならない、神聖な神のようで。

 ぎゅっ、と手を握りしめ天井を仰ぐ。


(どうしてそんなに、僕を愛せるんだい? まっすぐにさ、情熱的に、僕はそれに相応しい存在なのか)


 揺らぐ、英雄の中で己が揺らぐ。

 まるで自分が世界で一番醜く汚い存在に思えてくる、そんな彼女は世界で一番尊く綺麗な存在で。


(なんで、なんでどうして……どうしてそんな綺麗なんだい…………)


 その時、星明かりをかき消すように雲が光を遮り。

 ゆっくりと、今度は月明かりが彼女を照らす。

 月の光は、フィリアをもっと輝かせて。

 白い首筋が、官能的に浮かび上がり。


(嗚呼、嗚呼、嗚呼、嗚呼、嗚呼、嗚呼、嗚呼、嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼――――!!)


 嫌な考えが頭を過ぎる、フィリアがまた消えてしまう前に永遠にする方法。


(駄目だ、そんなの駄目だよっ!! 何を考えてるんだ僕はっ!!)


 彼女なら、絶対にそんな事はしない。

 考えて実行するかもしれない、だが直前に止まる事が出来るのが彼女だ。

 だが英雄は。


(なんで……、なんでこんなに素晴らしい考えだって、僕は、僕は――――)


 震える両手が延びる、何度も躊躇って、でも止まらずに。

 延びる、……彼女の首筋に。

 指先か首の後ろに回って、親指と親指が交差して。


(暖かい、こんなにも暖かいのにっ)


 寒い、英雄の心はこんなにも冷え切っている。

 言葉を交わせば交わす程、愛されれば愛される程、愛すれば愛する程に、――触れ合えば、触れ合う程に。

 その時だった、フィリアは瞼を震わせて。


「…………ひでお?」


 寝ぼけた声、その声色は優しく、彼女は両手を延ばし彼の頬を優しく撫でて。

 ――英雄の中で、何かが壊れた。


「嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼っ!! フィリア、フィリアフィリアフィリアフィリアフィリアフィリアっ!!」


「かはッ!? ~~~ッ!? ――ァ!? ………………ッ!?」


 指に力が籠もる、フィリアが苦しそうに喘ぐ。

 でも抵抗は無くて、その眼差しは少し悲しそうに優しく。

 涙が一筋、嬉しそうに彼女は笑って何かを伝えるように口を動かす。

 一回、二回、三回、四回、五回。

 

「なんで……なんで、なんでだよっ!!」


「――ぷはっ!! はぁ、はぁ、はぁ…………」


「何で抵抗しないんだっ! なんで、なんでだよぉ……」


 英雄は手を離して項垂れる、フィリアはぽろぽろと涙を流し英雄の顔の輪郭をなぞる。


「…………嬉しかったからな」


「どうして喜べるんだっ!! 今君は僕に殺されかけたんだぞっ!!」


「死んだら、英雄も後を追ってくれるだろう? 第一、君に殺されるなら本望だ。それに…………泣いてるから」


「泣いてる? 君が?」


「ばか、英雄がだ。そんなに泣いて、殺したい程に私を愛していたか? いや、答えはいらない――ふふっ、こんなに嬉しい事は無い。私は願いを叶えたんだからな」


「分からない……僕はフィリアの言ってるコトが分からないよっ!!」


「簡単な願いだったんだ、――私が愛すように、君も私を愛してほしい。そんな世間知らずの子供みたいな願い。……ああ、英雄は私を私と同じように愛してくれたんだな。――――パンツ食べるか?」


「何でっ!? いや待って何で? ホンットなんでさっ!? 今どうしてそんな変態行為に話飛んだのっ!? 超シリアスな空気だったじゃんっ!? ともすれば感動的なシーンだったじゃんっ!?」


 今までの絶望にも似たダウナーにも程があるテンションが、月の彼方に行方不明。

 いったい彼女は何を突然言い出すのか。

 困惑する英雄の前でフィリアは起きあがると、そのまま立ち上がってパジャマのズボンを脱ぐ


「待って、僕のテンション付いていけない……」


「ああ、まだ愛の重さに慣れないんだな。安心すると良い、私という先達が居るからな。――ほら、脱ぎたてのホカホカだ。これを食べて気分を落ち着けると良い」


「しないよそんなコトっ!? 僕を何だをおふぉってふぃふんふぁふぉっ!!」


「しかし英雄? 君は実に素直に口の中に入れたが?」


「っ!? ――ぺっぺっ!! 何でっ!? どうしちゃったのさ僕っ!? そうだ病院っ!! ちょっと心のお医者さんに行かなきゃっ!!」


 フィリアを脱ぎたてパンツを口から出し、しかし返さずに頭に被って英雄は慌てふためく。


「病院に行く前に、パンツは頭から外しておけよ?」


「ノオオオオオオオオオオオオオオオ!! 僕は自分が分からないっ!!」


 頭を抱えて膝をつく英雄、彼女はしゃがみ込むとその肩を優しく叩いて。


「分かる、分かるぞ英雄ッ!! 不安を感じるんだな? 相手に相応しいかと、相手を神聖視して自分を醜く感じたな?」


「どうして分かるのっ!?」


「簡単な事だ、――その感情は一度通過済みだからだッ!!」


「何時っ!?」


「付き合う直前、君を助けに皆がやって来て、私が地下の監禁部屋から逃げ出した時」


「そんなに前っ!?」


「ちなみにこの感情はな…………絶望と言うのだ」


「これが……これが絶望っ!!」


「そうだ、絶望するとな? 愛するものを心中したくなるんだ、相手が自分を愛さなくなる前に永遠にしたくなるんだ」


「その通りだよフィリアっ! 今の君は何て頼もしいんだっ!!」


 自然と、英雄の心に光が射し込んだ気分だった。

 力になってくれる妻が、心強い先達が居る。

 その事実に安堵する英雄に、フィリアは告げた。


「それはそれとして、私を短慮に殺そうとしたのは反省しような? もし妊娠してたら君の咎は二倍だぞ?」


「そ、そうだったっ!? ごめんフィリアっ!! ぼ、僕……どうやって償ったら……」


「気にするな、私は君に何回も絶望から救われてるんだ。――むしろ嬉しいんだ、力になれる事があって」


「フィリア……フィリアっ!!」


「おお、よしよし英雄。それからな、今の君の絶望は君らしくない、というか絶対に一時の気の迷いだぞ?」


「えっ、そんな事まで分かるのっ!?」


「ああ、真に絶望していたら今頃一緒に死んでるからな」


「なるほど……説得力が違うねぇ……」


 しみじみと頷く英雄を、フィリアは抱きしめて。


「すまないな英雄……、私の記憶喪失で君は極度の不安状態にあるんだ。一緒に何とかしよう、夫婦として、一緒に乗り越えよう」


「くっ、僕はなんて幸せ者なんだっ!! こんな出来た妻が居るなんてっ!!」


「話が纏まったところで、寝直そう。朝までまだ遠いんだ」


「でも、告白すると最近寝るのが怖くて……」


「成程、寝不足も絶望の原因の一つだな。私が子守歌を歌ってやる、英雄が寝付くまで起きててやるぞ」


「お腹をぽんぽんってしてくれる?」


「ふふっ、私の夫は甘えんぼさんだな。喜んでぽんぽんしよう」


 そして、二人はぐっすりと寝て。

 せっかくなので二度寝して、午後から登校して仲良く怒られたのだった。


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