第161話 たぶん愛おしい人



 昼休みの一件以来、フィリアは視線で英雄を追う事が多くなっている事に気づいた。

 あんなに元気で明るく、気丈で、正面から立ち向かう勇気を持つ人だけど。


(不安になるんですねぇ)


 ピンクのクッションを抱きしめて、フィリアは英雄を眺めた。

 台所で動く彼は、夕日に背を照らされて。


(……彼女は、この光景を幸せだと思ったのでしょうね)


 そう思うと、何故か心臓がチクリと痛んで。

 無性に何処か遠くに消えたくなる。

 クッションに顔を埋め、そっと嘆息。


(このままで良いんでしょうか……)


 フィリアは彼の背中を見つめる。

 その事を、英雄は気づいていた。


(どーしたものかなぁ、これは求められてるって解釈して……いや、考えるべきだねコレは)


 前のフィリアと今の彼女は違うのだ、そもそもボディタッチも英雄にしては極力控えている。

 故に、先日の昼休みのようにママ騒ぎに繋がったのだが。


(…………接触には注意して、僕らしくいくか)


 ここはゲームをしながら、聞き出すといこう。


「フィリアー? もう少ししたら煮込みの時間で体空くけど、ちょっと脱衣大富豪しない?」


「いきなり欲望丸出しっ!?」


「そう? 簡単なレクリエーションでしょ。よく教室でもやってるし」


「それは男同士じゃないですかっ!? 女の子とタイマンでやる事じゃないですっ!」


「大丈夫、ちゃんと配慮して君を男友達と同じに扱うよ、トランプで体を隠すのはルール内とする」


「配慮の欠片もないっ!? それ英雄さんがエッチな目でみたいだけですよね? こないだ言った事は何処言ったんですか!」


 エプロンで手を拭きながら近づく英雄に、フィリアも立ち上がってクッションでバスバスと殴る。


「そうそう言い忘れれたけど、Tシャツと短パンとパーカーの格好が凄くイイネ!」


「その心は」


「年頃の男の前ではエッチ過ぎる有罪だね」


「スケベ心満載じゃないですか……しませんよ脱衣大富豪なんて。配慮を思い出してください」


「君も良く思い出してよ、前の君をなるべく刺激しないように、今の君と前の君は別人ってコトを念頭に入れて」


「脱衣大富豪は違うと?」


「勿論さ、前の君とはしなかった。――これはね、綺麗で可愛い女の子と同棲してる一人の男として、直接的に性欲をぶつけたいだけなんだ」


「女の子として配慮してくださいっ!?」


 すると英雄は至極まじめな顔をして。


「――なんなら、君のオナニーを手伝っても良い。僕は男としてその覚悟が出来てる」


「捨ててしまえそんな覚悟っ!! というかですねっ! その口振りだと前の私にはそんな対応じゃなかった風に見えるんですけど!?」


「え、そりゃそうだよ。前のフィリアは僕の最愛のお姫様、エッチな事するのに特別な理由とか必要無いじゃん? それに対して今のフィリアは恋人ですら無いよね? こう、さ? 万が一誰かに取られる前に、押し倒しておこうかなって?」


「うぐぐっ、理由は分かりますが。分かりますけれどっ!! 私もお姫様扱いしてくださいっ!! ズルいっ!!」


「じゃあマイ・プリンセス? 軽いボディタッチぐらいは許してくれる?」


「………………ううっ、そ、それは…………、い、良いでしょう! 女は度胸!」


「ほっぺで良いから君もキスしてよ、家に居るときだけで良いからさ」


「足下を見てきますね……恥ずかしいですが、良いでしょう」


「それから――」


「まだあるんですかっ!?」


 これ以上は本気で身の危険を感じる、と後ろに下がるフィリア。

 英雄は苦笑して、一歩、また一歩前へ。


「なななっ、な、なんで近づくんですか!?」


「いや、反応が新鮮でさ。可愛いなーって」


「答えになってませんよっ!?」


「不思議だ、記憶を失うと髪の香りまで変わるの? 甘い匂いもよかったけど、今の爽やかなのが素敵だね」


「うう……、そんな匂い、嗅がないでください……」


 恥ずかしそうに小さく抵抗の声、それがもっと可愛らしく感じて。


「そうやって髪を下ろしてるの、清楚って感じで好きだよ」


「なんで褒めるんですかぁ」


「そんな気分だったから」


 唇をわなわなと、首まで真っ赤にしたフィリアに満足して英雄は体を離す。


「うん、堪能したから後は煮えるまでゲームでもして待つよ」


「――ぇ?」


「フィリアも一緒にしたくなったら言ってね」


 そう言うとテレビの前に座り、フィリアはポカーンと見送るばかり。


(ううっ、完全に手玉に取られてますっ! これです、これに違いありませんっ! この感じに前の私もやられたんですねっ!?)


 確信する、前の己がぞっこんラブだったのは、彼のそういう所があったからだろう。

 英雄の背中を見つめ、彼女の胸の中にむず痒い何かを感じ。


(…………背丈は普通なのに、意外とおっきいんですよね背中)


 何故だか、少しその背中に触れたい気分だった。

 きゅっ、と胸が締め付けられそろりと近づく。

 でも手で触れるには躊躇いがあって、抱きつくには更に勇気が足りない。

 だから反対を向いて座って、背中と背中を合わせる。

 ――彼の体温が、彼女の体温が、混ざり始めて。


「……」


「……」


 お互いに無言、ゲームの音、コントローラーのボタンを押す音、鍋がぐつぐつと。

 心臓がばくんと高鳴ったのは、どちらであったか。


(暖かい、これが英雄さんの体温)


 今、彼はどんな顔をしているだろうか。

 どんな気持ちで居るのだろうか。

 ――前のフィリアと、同じ事をしたのだろうか。


(私、嫉妬しているんですね……)


 ジロジロと弱火の炎が心を焦がす、何故、何故、何故。

 前の己に対しての疑問は尽きず。

 そして何より。


(本当に、彼は私を褒めてくれたんでしょうか)


 理性では確信している、心も半分。

 だがどうしても、前の己がチラついて。


(こんなに近くに居るのに……、少し、遠いです英雄さん)


 体温を感じて、息づかいを感じて、好意を向けられてなお少し遠い。

 少しが、途方もなく遠く感じる。

 フィリアは衝動のままに口を開き、そして躊躇いを何度か繰り返した後で一番聞きたかった事を聞いた。

 ――それは果たして、誰が一番聞きたかったのか。


「ねぇ英雄さん……、前の私と結婚した事。後悔してますか?」


「んー? フィリアと結婚したコト?」


 一瞬の緊張、肯定するのか否定するのか。

 答えは分かり切っている、肯定だ。

 だが心の何処かで、否定するのではないかという恐怖が疼き。

 

「…………」


 英雄の沈黙が怖い。


「――ぁ」


 次の瞬間、フィリアの背中から英雄の体温が消えて。

 心の隅に、陰が落ちる瞬間。


「ふわっ!? ――――んんっ!?」


「ん――…………」


(え、ええっ、何が起こってっ!? キス? キスされてるんですか私っ!?)


 肩に力が、視界に天井が写った刹那の次に暗闇。

 唇に、永遠とも一瞬ともつかない長い間、温もりを感じて。

 フィリアはやがて、瞳を閉じる。

 とくん、とくんと心臓が心地よさを伝えるように。

 気持ちが落ち着いて、体から力が抜けて。

 ただ、触れ合うだけの簡単で軽いキスなのに。


「――――んっ。……後悔なんてさ、一ミリだってしてないよ。次ヘンなコト言ったら、今度は本気で抱くからね?」


「わ、わかった…………――――あれっ?」


 台所の戻る英雄を横目に、フィリアはその体勢のまま目を白黒と。

 キス、キスをされた。

 そして何故、今、彼の言葉を素直に受け入れたのか。

 抱かれてしまうのか、次は、それとも何かの拍子で抱かれてしまうのか。


(ど、どどどど、どどどどどど、どおおおおおおおおおおおおおおっ!?)


 心の中でさえ、どうしましょうと言う単語すら結べず。

 ただひたすらに、顔を赤くするばかり。

 そんな彼女の様子を知らず、鍋をかき混ぜ始めた英雄は思案した。


(吃驚したぁ……、いきなりあんなコト言うんだもん)


 いったいフィリアに、どの様な心境の変化があったのか。

 どんな言葉を返しても薄っぺらく感じて、苦肉の策でキスしてみたが伝わっただろうか。

 ドキドキと早くなる心拍数、耳が赤くなってるのを感じて。


(あー、もう。なんで記憶が消えちゃったのさフィリア……)


 もしかしたら、本格的にそれを考える時が来ているのかもしれない。

 英雄はそう予感しながら、鍋にカレールーを投入した。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る