第158話 貴男の好きな人は『私』ですか?



 果たしてペイントナイフで人が刺せるのか、という疑問はさておき。

 今のフィリアは刺すより、馬乗りになって眼球を抉る、そのまま脳まで抉る。

 という覚悟と迫力が見て取れた。


「……みんな、ここは僕に任せ――って、もう避難してるっ!? ああっ!? 扉閉めないで逃げ道は残しておいてよっ!?」


「安心するでゴザル英雄、葬式の香典は奮発するでおじゃ」


「すみません英雄センパイ、お任せしますね」


「マジで任せたぞ英雄? こっちは念のための準備しておくからな」


「うーん、信頼が嬉しいねぇ……」


「――この期に及んでっ、まだ愛衣さんのコトをっ!!」


「君も君で落ち着いてね?」


 美術室には英雄とフィリアの二人だけ、外で慌ただしく動いているが彼らの応援を待つ余裕は無い。


(しまったなぁ、想像よりフィリアには記憶喪失が負担になってる)


 久々に一緒の部屋で同じ布団で寝て、良い雰囲気だと感じたのだが。


(引き金になったか、それともその時だけ落ち着いていたのか、――いや、今はそうじゃない)


 フィリアをどうすべきか、それが問題だ。


「ちなみに聞くけど、マジで殺す気?」


「……答える必要ってありますか? 私は今、英雄さんが愛おしくて憎くて仕方ないのです」


「僕が君のものじゃないから?」


「それ以外に何が?」


「僕には分からないんだけど……なんで、そんな結論に至ったワケ?」


 首を傾げる英雄に、彼女はギリッと歯ぎしりして睨みつける。


「その手には乗りません、貴男は口が回ります。――全部、全部嘘なんでしょう? 私を口説くと言った事も、記憶を取り戻す事も、全部、全部っ!!」


「昨日はあんなに良い雰囲気だったじゃないか」


「よくものうのうとっ!! 英雄さんが仕組んだんでしょうっ!! 私の心を翻弄して疲れさせてっ!! その隙を突いたっ!! 貴男の事を信じようって思い始めてたのに!!」


 我慢ならないと、一歩、また一歩と近づくフィリア。

 いつの間にかペイントナイフは両手で堅く握りしめられ、その切っ先は英雄の腹部へ。

 正直、いつ刺されても不思議ではない状態だ。


(冷静になれ僕……、たぶん説得も誤解を解くのも今は無理、ならさ)


 アプローチを変えるのみ。

 ――否、アプローチではない。

 ただ全身全霊をもって、彼女を相対するだけだ。


「ごめん、フィリア」


「今更謝罪をしても遅いですよ、それとも時間稼ぎのつもりですか?」


「僕は間違っていた」


「嘘を認める? そんな事で私はもう止まりません」


「刺すなら刺すといい、でもその前に聞いて貰う」


「何を――「僕の愛が、君の負担になっていたコト。言葉だけ分かって、今の君と前の君が違う事を理解していなかったコト」


 その言葉に、フィリアが止まる。

 だが取り押さえる隙などなく、彼女は油断無く構えて。


「…………聞きましょう」


「君を口説く前に、僕は君の心を考えるべきだった。今の君は、体に残った前の君の感情に振り回されてる。――そんな状態で口説いても、君の負担になるだけだ。君の心が安定した後ですべきだったよ」


「後悔してると? それで私に何を伝えると?」


「僕の命にかけて宣言する、――前の君を今も愛してる、そして正真正銘、僕の意志で彼女と結婚した」


「…………嘘じゃ、ない?」


「信じて欲しい、……でも信じられないならさ、僕を殺してみてよ。ああ、勿論抵抗はさせて貰うけどね」


「矛盾してますっ、命をかけると言うのに抵抗するって! 私には英雄さんが理解できませんっ!!」


「君にとって、僕は出会って半月も経ってない存在だ。無理に理解してくれなくて良い、もっと、もっと時間をかけるべきなんだと思う」


 静かに、淡々と告げる英雄。

 彼の言葉がすっと心に染み込んで、それがまたフィリアを苛立たせた。


「――~~~~っ!! 何なんですかっ!! 本当に何なんですか私の体はっ!!」


「今だってそうっ! 貴男の言葉で私の体は喜んでるっ!! 貴男が隣にいて、触れて安心出来るのだって本当ですっ!! でもっ! でもそれは今の私の気持ちじゃないっ!! 私の意志じゃないんですっ!!」


「――そうか、それが君の不安なんだね」


 地団駄を踏む彼女の台詞に、英雄は悲しげな微笑みを浮かべて。

 道理でチグハグな訳だ、口では英雄を拒絶して、でも簡単に受け入れて。


(たぶん、今のフィリアはこのコトでずっと悩んでたんだね)


 であるならば、やる事は一つだ。


「話をしようフィリア、僕らはそうやって問題を解決してきた。……今の君とも、そうやって乗り越えていきたい」


「私の心と体はバラバラですっ!! どうやって解決すると言うんですか!! 体は貴男を求めているのにっ! 私は貴男が夫だとまだ信じられない! だから殺したいっ! 殺してっ! 永遠に私のモノにしたいっ!!」


 フィリアの叫びに、その涙に、英雄は一歩前に踏み出して。


「こ、来ないでくださいっ!! 刺しますよっ!!」


「聞いてフィリア。今はそれで良いんだ、今の君は僕を愛していない……それで、良いんだ」


「もし本当に夫婦だったのならっ! それは英雄さんが辛いだけでしょう!?」


「それでも……良いんだよ。だって今の君はもっと辛いんだから。――僕は痩せ我慢する」


「そんな……、そんな事ってっ!!」


 ペイントナイフを握りしめ、ゆるゆると力なく頭を振るフィリア。

 英雄は彼女の手を取ると、ゆっくりとペイントナイフを取り上げて。

 そしてもう一つ。


「――これは、僕が預かっておくよ。今の君が自分の意志で着ける為に」


 彼女の左手の薬指に輝く指輪を、優しく抜き取る。

 今のフィリアには、この指輪は重荷でしかないから。


「ゆ、ゆびっ、指輪……、嗚呼、嗚呼、嗚呼――私、私っ! 私のっ、そうじゃなくてっ、でもっ!!」


「無理しないで良いんだフィリア、その感情は君のじゃない」


「でもっ、でも私っ!!」


 指輪が一つ無くなっただけで、彼女の心に猛烈な喪失感が襲った。

 もう何を拠り所にして良いか分からなくて、でもどこかホッとした自分が居て。

 フィリアはぽろぽろと涙をこぼす。


「やり直そうフィリア、君が僕を知らないなら、恋人とか夫婦って関係はフェアじゃない」


「ううっ、ううう~~~っ、そ、それは英雄さんに対してふぇ、フェアじゃ……」


「好きな女の子の前なんだ、格好つけさせてよ」


「………………ズルい、ズルいですよぅ」


「そう、僕はズルいんだ。――――初めまして、フィリア。僕は脇部英雄、君に片思いしてる高校三年生だ」


「………………フィリア、名字は分かりません。脇部の性も、這寄の性も、私には遠いもん」


「それで良いさ、時間はあるんだゆっくり選べばいい。――勿論、最終的に脇部を選んでくれると嬉しいけどね」


 英雄は今、無性にフィリアを抱きしめたかった。

 けれど、それは彼女にとってフェアじゃない。

 抱きしめてしまえば、彼女はまた体の感情に振り回されてしまうから。


「…………ありがとう、抱きしめてくれなくて」


「どうもこちらこそ、お礼ならキスして欲しいけど今はいいや」


「ばか、…………お礼に、同棲から始めましょう。英雄さんと一緒に居るのは不安だけど、たぶん、一人は耐えられないし」


 それ以上に安心出来るから、とは口に出さなかった。

 今のフィリアには、その感情が今の己か体の記憶から来たのか分からなかったからだ。


「うん、……うん、嬉しいよフィリア」


「英雄さんの事を、一つ一つ、教えてくださいね?」


「じゃあ僕は前の君との思い出を話す」


「寝るときは一緒です、でも着替えは覗かないでください」


「ご飯は一緒に食べる、勉強する時間もちゃんと作る、……一緒に遊ぶ時間もあると嬉しいな」


「考えましょう、二人で新しく」


「考えよう、一緒に新しく」


 ようやく、フィリアの顔に笑顔が戻った。

 それを見て、英雄も微笑む。

 彼の不自然な笑顔に、フィリアも抱きしめたくなったがぐっと堪えて。


「ほっぺにキスは許します、でも私からはしません、絶対にしません。だから――だからどうか、私を惚れされてください英雄さん」


「覚悟してね、前以上に僕抜きで生きられない様にしちゃうからっ!」


 記憶を失ったフィリアと、英雄は今リスタートを始めた。

 なお、覗いていたクラスメイト達は心を揺さぶられて涙の嵐で。


「ううっ――皆の者、分かってるでおじゃね?」


「勿論だ、――前のフィリアさんの事は口にしない。無理にくっつけようとはしない」


「けど、陰ながら不自然にならないようにお膳立てはしましょう。英雄センパイとフィリア先輩は二人揃ってこそですから」


「「「二人に幸せをっ!」」」


 彼らもまた、二人の新しい関係を受け入れ新たなる一歩を踏み出したのだった。


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