第155話 エッチなのは禁止です



 今日も一日何とか乗り切った、フィリアは心の中で嘆息しながら足を進める。

 夕暮れ時の通学路、――見知らぬ、けれど安心する道。


(安心するのは、道の所為だけかしら)


 そっと隣を見る、夕日に照らされた横顔。

 たぶん、彼にしては珍しく口数が少なくて。

 でも逆に、その心遣いが今はありがたい。


(よく喋るみたいだけど、ええ、こう言うのも新鮮味があって良いわね)


 記憶が無いのに新鮮味とは、これいかに。

 けれど、そう表現するのがピッタリくるのだ。


(一緒に居て、安心出来るヒト。……こういう所に前の私は惹かれたのかしら?)


 疑問は尽きない。

 いくら周囲が語ろうと。フィリアには少しも実感が沸かなかった。

 それどころか、説明される度に地面が無くなっていくような不思議な感覚。


(…………ごめんなさい、英雄さん)


 彼が己に、最大限の思いやりを与えてくれるのは理解できる。

 言葉の端々から、その一挙手一投足から愛情というモノを感じる。


(でもそれは……前の私)


 今のフィリアでは無いのだ。

 そう思ってしまえば。急に人肌寂しくなって。

 こんなに近くに居るのに、少し、寒く感じて。


(手、繋いでも良いかしら)


 彼の横顔を伺う、人並みの清潔感はあれど、特段カッコイイとは言えない顔。

 でも、見ているだけで心の底で暖かな何かが沸き上がってきて。


(それも。……私の気持ちじゃないわ)


 気持ち悪い、そう称するには程遠く。

 愛おしいと、そう感じるには違和感があって。


(悪い気分じゃないのだけれど)


 さし当たって最大の問題は。


(……私は、英雄さんに何も返せないわ)


 この体は彼が愛した前のフィリアそのもの、しかし中身は違う。

 理由は分からないが、前と今ではハッキリ違うと確信が持てる。

 それだけに、心苦しい。


「――え?」


「あ、駄目だった? 君ってばそんな気分なんじゃないかって思ったんだけど」


 ふいに右手を握られた、恋人繋ぎのような愛のこもったモノでは無く。

 ただ温もりを感じるだけの、簡単で軽い握られ方。


「呆れた、英雄さんってば私の事を好きすぎじゃない?」


「前の君が惚れさせたんだよ」


「その言い方、好きじゃないけど。……ええ、今はいいわ。私と手を繋ぐ事を許して上げます」


「ありがとう、フィリア」


「ふ、ふん! 勘違いしないでくださいねっ!! 私は少し、そんな気分だっただけですっ」


 彼の屈託のない笑みに、それはドチラに向けられた顔か。

 そんな事を考えながら、フィリアは手を握り返す。


(…………悔しいけれど、少し、ほんの少しだけ安心します)


 すっと不安が抜けて行くような、これこそが彼女の居場所だと体が訴える。

 とても心地よくて、同時に心が少し波打つ。

 ずっと、ずっと続けば良いのにと。


「ところでフィリア? そろそろ離してくれないと、二人とも着替えられないんだけど?」


「…………うん? はい? え、あれっ!? 何時野の間に着いてたんですかっ!?」


「うーん、三十分前ぐらいだね」


「そんな前からっ!? どうして言ってくれなかったんですかっ!?」


「実はこれで十五回目なんだ。フィリアってば、着いても離してくれないどころか…………僕の手の臭いを嗅いだり、頬ずりしたり。もしかして無意識だった?」


「そんな事してたんですかっ!?」


「ちなみに録画してあるけど」


「わーっ!? わーー!! 消してくださいっ!! 絶対に消してくださいっ!!」


「ごめんね? もうローズ義姉さんや義母さん達に送ちゃった」


「それだけっ!? 本当にそれだけですかっ!?」


「実はクラス全員にも!!」


「何で誇らしげなんですかっ!!」


 顔を真っ赤にして慌てるフィリアに、英雄はニンマリ笑って。

 まだ手を繋いでいるのに、彼女は気づいているのだろうか。

 ――その事に、英雄は心に安堵の灯りが灯るのを感じて。


「僕の奥さんは、記憶を失っても変わらないってね!! いやー、愛されちゃって嬉しいなぁ」


「バカ言わないでくださいっ!! それは前の私ですっ!」


「でもさ、そう言いつつ手は離さないよね?」


「ふぇ? ……っ!? はいっ! 離しました! ノーカンですノーカン!!」


「うーん、証拠が残っちゃったからカウント・ワンって感じじゃない?」


「んもうっ! ズルいですよ英雄さんっ!!」


 バシバシと彼の胸を左手で叩いて、こんなやり取りが楽しい。


(ズルいです、本当にズルい)


 英雄のやり方が、では無い。

 こんな日常を送っていた前の己が、どうして頭を打ったぐらいで記憶を失ったのか。


「そうやって拗ねる君も綺麗で可愛いよ、……キスして良い?」


「駄目ですよっ! そんな事イチイチ聞かないでくださいっ!!」


「なるほど、次から聞かずにキスして良いと」


「そんな事は一言も言ってませんっ!!」


「そう? フィリアの唇はそう言ってない気がするけど」


「――――ぁ」


 英雄の指がフィリアの唇をなぞる、優しく、気障ったらしく。

 でも不快では決してなくて。

 たったそれだけで、体から力が抜けていく。


(私が、私でなくなる……)


 狡い、本当に本当の狡い。

 フィリアは彼の事を何も知らないのに、英雄は彼女の事を熟知していて。


(何で、この人はこんなに私の事が好きなの?)


 時が来たら、自然と記憶が戻ると確信しているのだろうか。

 ――近づく彼の顔、唇。


(でも……それはイヤ。イヤよ……)


 己に向けられる感情は、己へのモノではなくて。


「…………止めて」


 唇が触れあう一瞬、フィリアは顔を背ける。

 間に合わなくて微かに当たった場所が、かっと熱い。

 彼女は耳まで真っ赤にして俯いて。


「あらら、イケると思ったんだけどなぁ」


「駄目、駄目です。金輪際キスしないでください」


「えー、でも僕の奥さんじゃん? キスしちゃ駄目?」


「英雄さんの気持ちは分かりますが、今の私は貴男と過ごした記憶は一つもありません。……初対面の女の子の唇を勝手に奪うのは犯罪では?」


「法律上は問題無くない?」


「夫婦間でDVは成立しますよ?」


「…………妥協点ってある?」


 軽い口調、でも真剣に問いかける英雄にフィリアはその目を正面から見れなくて。

 数秒押し黙った後、上目遣いで呟く。


「…………貴男を、教えてください」


「え?」


「ズルいです、私は英雄さんの事を何も知らないのに。貴男は私の事を何でも知って」


「んー、でもさ。今の君の事は何も知らないよ?」


「体に染み着いた癖は知り尽くしているでしょう? それって不公平だと思いませんか?」


「…………なるほど?」


「だから――教えてください英雄さん、貴男の事を。……キスはそれからです」


「なるほど。なるほどなぁ……――」


「英雄さん? どうしたんです? そんな怖い顔して」


 彼としては神妙に頷いているだけだが、フィリアにはその視線が鋭く。

 何かを責めている様に感じて。

 ――今、英雄は愕然としていた。


(まいったなぁ、頭では理解できてたつもりだったけど)


 文字通り、理解できていたつもり、だったのだろう。

 正直な話、フィリアの言葉は嬉しさより心の痛みが勝って。


(本当に、本当にフィリアは覚えて無いんだ)


 あれから三日以上経つのに、今更ながらに手が震えてくる。

 もっと幸せになる筈だったのだ、これまで以上に楽しく二人で暮らせる筈だったのだ。


(子供だってさ、僕だって今すぐ欲しかったんだよ……)


 抵抗していたのは口だけだ、常識的に考えて少し早いと思っただけ。

 それを、彼女だって理解していてくれた筈だ。


(筈、筈、筈、ははっ、なーんにも確かな事は無いや。笑えてきちゃう)


 確かなのは受理された結婚、そして彼女の薬指に輝く指輪。

 でも、一番肝心な彼女が居るのに居なくて。


(僕、これからどうしたら良いんだろう)


 漠然とした不安が英雄を襲う。

 もし、記憶が戻らなかったら?

 もし、今の彼女が離れていってしまったら?

 築き上げてきた関係は、今は無く。


「…………英雄さん?」


「ああ、ごめんね。すこし考えちゃって」


「私が英雄さんを知りたいって事?」


「そうじゃないんだけど……」


 口を濁そうとして、英雄は思いとどまる。

 何故ならば、フィリアが心配そうに悲しい瞳で見ていたからだ。

 その事に、頭でハンマーで殴られたような気がした。


(――僕はバカだ。こんな事で悩んでいる場合じゃなかった)


 すっと英雄の目が細まる、同時に口元がニヤリと不敵に笑って。


「ごめん、心配かけたね。……心細いのはフィリアの方だっていうのに」


「英雄さん?」


「謝らせてよ、――ごめん。僕は君を前の君と同じに考えてた」


「…………」


「でもさ、さっきの言葉を聞いて思い知った。……今のフィリアと前のフィリアは違う」


「それで、どうするんですか?」


「簡単な事さ、少し目を閉じて欲しい」


「はい? 変な事はしないでくださいね?」


 きょとんと目を丸くし、素直に瞳を閉じるフィリア。

 英雄は小さくゴメンと呟き、その唇を奪って。


「――ん」


「~~~~~~っ!? な、ななななななぁっ!?」


「これはね、宣言だよフィリア」


「なんで宣言するのにキスするんですかっ!! 訴えますよっ!!」


「訴えても良いけど、その前にさ。……今の君の事が知りたい。何を考えて、何を思ってるか。好きな食べ物とか、好きなファッションとか色々」


「何の為にですかっ!! というかキスする理由じゃないですっ!!」


「いいや、キスするのに十分な理由だ。――僕はね、前のフィリアの記憶を取り戻すのを諦めない」


「キスして記憶が戻るとでも?」


「ワンチャンあると思った……のは置いておいて」


「置かないで今話し合うべきでは?」


「置いておこう、――だって、今から今のフィリアを口説こうと思うから」


「………………はい?」


 さらりと出された言葉に、フィリアは思わず固まって。

 その隙を逃さず、英雄は彼女の腰に手を回す。


「覚悟してね、今の君が僕に惚れてないなら……僕に惚れてもらう。コッチはフィリアの弱点を熟知してるんだ。――――最高にドキドキさせてあげるよ!!」


「………………はうあっ!? な、なにバカな事を言ってるんですかっ!?」


「そう? 燃えてこない? 記憶を失った最愛の彼女の愛を取り戻せってね。前の君が読んでたハーレークイン系のラノベにもそんなシチュあるから、予習しておいてよ」


「恨みますよ前の私ぃっ!? 夫を名乗るフツメンがラブ攻撃をしかけてきてますよっ!?」


「さしあたっては……うん、そうだね。僕の好みを知ってもらう為に、君を僕好みの服に着替えさせる」


「………………つかぬ事を聞きますが、拒否権は?」


「あると思う? 今の僕は強引に迫るスパダリだ」


「スパダリはもっと高身長で細マッチョでイケメンの実業家だと思いますっ」


「いやー、傷つく言葉だねぇ。ペナルティとして、僕好みの下着に履き替えさせるし。――今夜は寝かさないZE!!」


「格好付けてるところ悪いですが……、エッチなのは禁止です」


「え? 逃げるの? 僕の与える快楽からフィリアさんともあろうお方が逃げると?」


「ふっ、――逃げるが勝ちですよ英雄さん! 良いでしょう! 私を口説いてメロメロにしてみなさいっ!! けどエッチなのは禁止です!!」


「そんな馬鹿なっ!? これから一週間、有無をいわさずネッチョリする計画がっ!?」


「そんな計画捨ててくださいエロ猿さん? 押し倒したら実家に帰りますよ」


「くっ、じゃあせめて、……せめてエッチな下着を履いてスカートをローアングルから覗かせて欲しいっ!! その為なら僕は全裸で土下座も辞さないっ!!」


「本性を表しましたねエロ猿っ!! 良いでしょう! そのまま町内を三週したら許可しま――って何、本当に行こうとしてるんですかっ! というか脱がないでっ! 分かりましたっ、分かりましたからっ!!」


 ぎゃーぎゃー、わーわー、英雄とフィリアの部屋は記憶を失う前を同じく騒がしかったのであった。


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