第一章 シチリアン・ゴースト

シチリアン・ゴースト1

 いつからだろうか、世界の歯車が狂ってしまったのは。

 戦争が蔓延する世界。この世界は戦争という歯車によって成り立っている。戦争がなければこの世界は回らない。規模の大小こそあれ、人間は戦争なしには生きられない。

 平和などくそくらえ、戦争はビジネスだ――そういう思考を持つ少数派が平和を渇望してやまない善人を巻き込み、憎悪を生み出す。憎悪は人間を復讐へと駆り立て、加速度的に戦争を肥大化させる。

 戦争は日常となった。平和など妄想上の産物だ。

 だが、今この世界は一時の平和を手に入れた。仮初めの平和に過ぎないが、冷戦という形で戦争の波はひとまず落ち着いた。


 ――アメリカ、ロサンゼルス。


 イアン・グウィンは、妻のオリガ・ガヴリーロシュナ・アスラノヴァと幸せな時間を過ごしていた。

 一年前、イアンとオリガは結婚した。イタリアのシチリア島で一悶着あり、紆余曲折の末に愛し合うこととなった。というよりも、愛ゆえに離れることができなかった。

 アメリカ人のイアンとロシア人のオリガの間には色の白い妖精のような娘が生まれた。まだ幼いながらも彼女には母譲りの美しさがあった。

 退役軍人のイアンは恋愛とは無縁だった。戦いのジャンキーだった彼には戦争以外に何もなく、左目と右脚を失ってから戦いという恋人さえも失ってしまった。

 絶望の深淵を彷徨っていたイアンを救ったのがオリガだった。

 アルビノの無機質さ、アメジストのごとき薄紫色の瞳。一目惚れだった。イアンはオリガのことを石膏像に例えた。その美貌は彼の凍てついた心をも融解させた。

 結婚後、二人はバーを経営して生計を立てることにした。贅沢のできる生活ではないが、一時の平和と幸福を享受できるほどには稼げている。

 そんなある日、グウィン家に来客があった。

 男は開口一番にこう言った。


「イアン・グウィンさんですね? 僕はフェリーチェ・アリギエーレといいます」


 言葉の独特な訛りと名前からイタリア人であることはわかった。

 爽やかな印象を持たせる茶髪、目元を覆い隠す黒い鉢巻。腰には日本刀を佩いている。なんとも時代錯誤した代物だ。

 イアンは思わず身構えた。一瞬、銃を持たずにドアを開けたことを後悔した。

 しかし、フェリーチェと名乗った男はイアンの思考を遮るように手を振った。


「ご安心ください。僕はただあなたと話をしに来たのです、ジャン・バリスティーノについて」


 ジャン・バリスティーノ――一年前の記憶がふっと蘇った。


「……ジャンは死んだ、一年前に」


「知っています」


「ふむ……ということは、君はコーサ・ノストラのメンバーか」


「元ですがね」


「……いいだろう。立ち話もなんだ、中に入りたまえ」


 イアンは踵を返してフェリーチェを中へと招き入れようとした。が、すぐに足を止めて振り返った。


「そうだ、日本刀は玄関に置いていきなさい。妻が怖がる」


「これは失敬」


 フェリーチェは表情一つ変えず壁に日本刀を立てかけた。ひとまずこれで危害を加えられる心配はなくなった。

 リビングに入ると、オリガが娘を抱いて立ち上がった。娘は静かに眠っていた。

 産声を上げて以来、娘はほとんど泣かない。親孝行な娘だ、とイアンもオリガも思っている。

 愛する娘を抱きしめるオリガの瞳には一抹の不安が浮かんでいた。イアンは彼女の肩を抱き、白い頬にキスをした。


「平気だ。ただの客だよ。コーヒーを淹れてくれ」


「……はい」


 キッチンへと入っていくオリガの背中を見つめながら、イアンはゆっくりとソファーに腰を下ろした。フェリーチェにも座るように勧めると、彼は手探りでソファーの位置を確認してから浅く腰かけた。

 変わった男だ。鉢巻で視界が奪われているはずなのに他の感覚は冴えている。いや、目は見えているはずだ。わざと目隠しをしているといったところか。


「それで? 話とはなんだね? 簡潔に頼むよ。もうすぐ仕事の時間だ」


「わかりました。では、単刀直入に言いましょう。ボスが――ジャン・バリスティーノが蘇りました」


 イアンは耳を疑った。


「ジャンが蘇った? 馬鹿な、一体どうして――」


死霊魔術ネクロマンシーをご存知ですか?」


「……聞いたことはある。なんでも死体を蘇生させる魔術だとか。そんなものが本当にあるのか、にわかには信じ難いがね」


「それはそうでしょうね。ですが、ボスは死霊魔術を施された可能性が高い。その証拠に、ボスの墓に荒らされた形跡がありました。墓の中に死体はなく、ボスが歩いていたのを目撃したという仲間もいます」


 フェリーチェの言葉に偽りはなかった。そもそもシチリア島からこんなところまでやって来てわざわざ噓をつくということはないだろう。

 イアンは溜め息を吐いた。

 親友のジャンが蘇ったのは喜ばしいこととは言い難い。死者がもう一度動き出すというのは心地のいいものではないし、何より一年前のことがある。それに、死霊魔術についてはいい噂を聞かない。


「つまり、ジャンはゾンビになったということか」


「ゾンビではありません。ゾンビと違って生屍アンデッドには意志があります」


「生屍、か」


「ボスにも意志があります。ボスはある目的を果たした後、あなたと奥さんを探すでしょう。そして、殺すでしょう。グウィン家皆殺しは免れない」


「…………」


 そう、免れない。直接的ではないとはいえ、私も同じことをした。

 しばし黙り込んでいると、オリガがコーヒーを運んできた。


「お待たせしました。砂糖かミルクはいかがですか?」


「いえ、このままで構いませんよ。お気遣いどうも」


 コーヒーをブラックのまますするフェリーチェ。イアンも彼に倣って一口含んだ。

 話が聞こえていたのか、オリガは沈痛な面持ちで俯いていた。

 一年前のことは思い出したくなかった。一年前の記憶はイアンとオリガにとって後ろめたいものだった。

 オリガはイアンの隣に座り、華奢な肩を寄せた。


「ところで、何故ジャンのことをボスと呼ぶ? 一年前、ジャンはコーサ・ノストラの最高幹部だったはずだ。ボスは別にいただろう」


「はい。ですが、『コーサ・ノストラ狩り』で先代のボスが死に、バリスティーノも非業の死を遂げました。死してバリスティーノはレジェンドとなった。そして、コーサ・ノストラのメンバー全員がバリスティーノこそ次のボスに相応しいと判断しました。バリスティーノがコーサ・ノストラ最後のボスです」


 コーサ・ノストラは一年前の『コーサ・ノストラ狩り』で解体された。イタリア軍とKGBの策略によって多くのメンバーが殺された。ジャンもそのうちの一人だ。

 イアンはコーヒーを飲み干した。


「それで? 君がここに来た目的はなんだね? ボディーガードでもしてくれるのかな?」


 首を左右に振り、フェリーチェはコーヒーカップを大きく傾けた。

 喉が大きくうねる。芳醇な香りが吐き出される。


「――ボスを殺してほしいのです」


 イアンは思わず息を飲んだ。


「……何故? 君のためか?」


「半分はそうです。もう半分はあなたのためです」


「私のため? それはわからないだろう。もしジャンが私を殺しに来たとしても……私にジャンを殺すつもりはない」


「奥さんと娘さんが殺されることになっても?」


 口を閉ざすイアン。フェリーチェは前屈みになって話を続ける。


「ことの重大さをわかっていらっしゃらないようですね。ボスの立場になってもみてください。あなただって同じことをするはずです」


「そうかもしれないが、君には関係のないことだ。私たちが殺されようと君は損をしない」


「確かに、僕に損はありません。ですが、ボスを殺せるのはあなたしかいない。ボスを救ってほしいのです」


「死が救済だというのか?」


「ボスは既に死んでいます。もう一度殺すことが救済となります。禁忌はもう一度生きられない」


「それなら君が殺せばいい。私はもう戦わない」


「僕では力不足なのです。どんな傭兵を雇ったとしてもボスは殺せない。ボスの憧れだったあなたにしか殺せない」


 イアンは額に手のひらを押し当てた。頭痛がしてきた。

 どんなに頼まれようと私はもう戦わない。私には妻がいる。娘がいる。私が戦えばオリガが悲しむ。

 しかし、同時に守るべき者という言葉がイアンの脳裏にちらついた。

 私には守るべき者がいる。守るべき者が傷付けられそうになれば命を賭してでも……戦うだろう。戦わなければならない。

 イアンは横目でオリガを見た。

 伏せられた白いまつ毛。雪の降り積もった細い枝を連想させるそれを美しいと思った。不安に震えた枝から雪が落ちるのではないかと思った。


「すまないがもう帰ってくれないか。そろそろ仕事の時間だ」


 そう言うと、フェリーチェは意外にも素直にソファーから立ち上がった。


「失礼しました。コーヒー、ごちそうさまでした」


 廊下へと歩いていくフェリーチェ。が、途中で足を止めた。


「最後に一つ。死霊魔術師ネクロマンサーと生屍を殺すための機関があるのをご存知ですか?」


「知らないな」


「〈Rellik〉という機関です。通称殺し屋。元はギャングやマフィアなどの組織をかき集めたものですが、世界中で発足されている正式な機関です。国家との関係は傭兵と似ています」


「君もそのメンバーなのか?」


「はい。死霊魔術師とは少々因縁がありましてね。ボスを救いたいというのもそれが関係しています」


 フェリーチェは歩みを再開した。その歩調に迷いはなかった。彼は既にグウィン家の構造を把握していた。


「一人で帰れるかね?」


「お構いなく。外にイエローキャブを待たせてあります」


「そうか」


「それでは、イアン・グウィンさん。シチリア島でまたお会いできるのを楽しみにしていますよ」


 玄関のドアが閉まる。静謐がリビングを支配する。

 ただ娘の寝息だけが鼓膜を振動させた。

 娘は眠っていてもしっかりと生きている。寄せ合った肩から体温が伝わってくる。オリガも生きている。

 イアンは立ち上がり、次から次へと浮かび上がってくる思考をかき消した。


「さあ、仕事だ。今夜も忙しくなりそうだ」

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