プロローグ 殺し屋の宮殿

殺し屋の宮殿

 先の見えない廊下。

 手元の蝋燭が朧気に周囲を照らす。

 歩く。左足、右足をゆっくりと順に前へと進める。

 足音が廊下に甲高く反響する。足音が向かう先はどこまでも続き、やがて暗闇の奥へ奥へと消えていく。

 歩みを進めると、視界の左右をドアが過ぎる。

 一体いくつのドアを過ぎただろうか。それがわからなくとも、不思議とドアを隔てた部屋の中に何があるのかはわかる。

 部屋の中から泣き声が聞こえる。呻き声が聞こえる。叫び声が聞こえる。怒声が聞こえる。罵声が聞こえる。ドアをたたく音が聞こえる。

 ここは記憶の宮殿。ヨハネス・グレイの記憶の宮殿。

 記憶の宮殿とは、記憶術のことだ。

 記憶の宮殿は誰の脳内でも形成することができる。方法は至極簡単だ。記憶を脳内の空間に置き、それを積み重ねて建築していく。やがては宮殿のようになり、その中を歩くことでどんな記憶でもすぐに取り出せるようになる。

 ヨハネスの記憶の宮殿は死によって構成されていた。

 もう何人の死を見てきたかわからない。もう何人殺してきたかわからない。

 部屋を一つ一つ数えていったらわかるだろうが、わかったところで得られるものなど何もない。記憶は過去だ。どう足掻いても過去を変えることはできない。

 ヨハネスは瞼を開いた。

 視界に映るは青色。車窓から海と空の境界線が遥か遠くに見える。

 ここはシチリア島。ヨハネスはパレルモ行きの鉄道に乗っていた。


「殺し屋、か」


 呟きは誰の耳にも入らない。これは意味のないただの独り言だ。

 だが、今日からヨハネスは殺し屋となる。ただの殺し屋ではない。死を殺すための殺し屋となるのだ。これまでしてきたこととは違う。いや、厳密にはこれまでしてきたことと同じだ。死を殺したところで記憶の宮殿に蔓延る死は消えない。むしろ、死の記憶は増えていく。

 誰のためでもない。己のために、贖罪のために死を殺す。

 死を殺すことに意味などない。死は過去だ。どう足掻いても過去を変えることはできない。

 それでも――

 ふっと溜め息を吐き、ヨハネスはもう一度瞼を閉じた。

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