エピローグ キャロルの春

キャロルの春

 イタリア軍基地が壊滅して『コーサ・ノストラ狩り』が終わった後、イアンはロサンゼルスに帰った。

 それから間もなくして、アメリカとロシアは再び休戦協定を結んだ。冬の戦争が嘘だったかのように春が訪れた。降り積もった雪は解けて、焼けた土からは草木が芽生えた。いつかまた焼き尽くされる運命でも真っ直ぐに。

 さて、戦いを捨てたイアンだったが、冬から春にかけて彼は何度か銃を手にした。自殺を試みたのだ。

 だが、引き金を引くことはできなかった。やはり死は怖ろしかった。

 銃を置くたびにオリガの笑顔が脳裏を過ぎった。銃を向けられて輝く笑顔。美しくもあり悲しい笑顔でもあった。ロサンゼルスに帰っても春になっても忘れられない笑顔だった。

 ロサンゼルスに帰って、イアンは虚無感を取り戻した。ただし、悪夢となっていた戦争の記憶はすっかり消え失せた。オリガが戦争の呪縛から解き放ってくれたからだ。

 しかし、オリガを失ってからイアンの生活は荒んでしまった。

 朝は二日酔いと頭痛に割れそうな頭部に銃をあてがい、結局死ぬことができずに酒で頭痛を癒やす。昼になって酔いが回ってくると白い女神が脳内を浮遊し出すので、煙草でニコチンを肺いっぱいに取り込んで思考をさらにとろけさせる。意識が飛ぶともう夜になっている。その頃には酒がなくなっているため、バーに行って飲み直す。気がついたら一日が終わっている。

 あの日を境に私の人生は終わった。私は全てを失った。だが、それが私の選択だった。オリガを許すことができていれば……いや、選択の余地はなかった。何をしても運命は変わらなかっただろう。私に選択権はなかった。私はただオリガを殺せなかっただけだ。

 私が犯してきた罪の代償として、これから死ぬまで悶々と暮らすことになるだろう。これは贖罪ではない。私はイタリアで死に、煉獄に堕ちたのだ。

 そんなある春の夜、来客があった。

 チャイムが鳴らされて、しばらく放っておくとドアがノックされた。どうも帰りそうにないので、イアンは壁に身体を預けながら玄関まで歩いた。

 ドアを開けると、そこには誰にもいなかった。どうやらたちの悪い悪戯だったようだ。

 よくよく考えてみれば、私に来客なんてあるはずがないではないか。私と親交のあった人間は皆死んだ。愛する者とも決別した。私は何を期待していた? オリガとロサンゼルスで再会できることか? あり得ない。そんな奇跡はもう起こらない。ここはアメリカ。シチリア島の狭い範囲ならまだしも、この広いアメリカでは再会できるはずがない。

 イアンは何気なく通りの先を見やった。そこにはつばの広い白い帽子をかぶった女の後ろ姿があった。

 揺れる白髪。イアンは目を見開いた。

 意志の前に身体は既に躍動していた。義脚にもかかわらずイアンは常人と同じように、いや、それよりも遥かに速く駆けることができていた。


「オリガ!」


 イアンは叫んだ。

 振り返った女はやはりオリガ・ガヴリーロシュナ・アスラノヴァだった。彼女はイアンの姿を認めるとわずかにはにかんだ。


「イアン、あの――」


 オリガには違和感があった。あんなに痩せていた腹が綿でも詰めたかのように膨らんでいた。


「オリガ……」


「ごめんなさい。ロサンゼルスまで来るつもりはなかったのですが……どうしてもあなたに会いたくなってしまって……」


「帰ろうとしていたのではないのか?」


「……はい。いざドアの前に立つとあなたに会うのが怖くなって……」


「会いたかったのか会いたくなかったのか、どちらかはっきりしてくれ」


「どちらもです。本当にごめんなさい」


 二人は笑い合った。

 オリガに対する怒りはすっかりなくなっていた。冬のイタリアであったことを咎めるつもりもなかった。イアンはあっさりと彼女を許すことにした。


「一杯飲まないか? 私が好きなキャロルはアメリカのものだ。本物を君に飲んでもらいたい」


「ええ、是非いただきますわ」


 二人は手を繋ぎ、並んで歩き出した。月が明るい温かい夜だった。

 淡い蒼白な月光の下、二人は始終無言だった。どちらも再会の喜びを噛みしめ、その余韻に浸っていた。

 二人の間に言葉はいらなかった。彼らを繋いでいるのは手でも言葉でもなかった。

 バーに到着すると、イアンはようやく口を開いた。「マスター、キャロルを二つ」、と。

 二人はテーブル席に座り、面と向かい合った。


「長かった。こうしてまた君と過ごせる日をどれほど待ち望んできたことか。いつの間にか冬が過ぎてしまった」


「本当ですわね。私たちが出会ったのは去年の冬でした。もう一年が経ったのですね」


「ああ。起伏の激しい一年だった。君のせいでくたくただ」


「ふふふっ、ごめんなさい。ですが、あなたも私の一年を滅茶苦茶にしてくれましたわ。何度死にそうになったことか」


「お互い様だな。だが、何も悪いことばかりではなかった。むしろ――」


「ええ。言わなくてもわかりますわ」


 オリガが微笑み、イアンは白い手の甲に手のひらを重ね合わせた。

 二人の間には確かに愛があった。長年連れ添ってきた夫婦のような愛が。

 夫婦になれば言葉はいらなくなる――そういうものなのだと思う。きっとジャンとエステルも愛し合う時は言葉を使わなかったことだろう。私もそうだ。だから、「結婚しよう」なんて野暮な言葉だ。

 キャロルを運んできたウェイトレスがオリガに奇異の視線を突き刺すことはなかった。逆に、その石膏像のごとき白い肌には羨望の眼差しが注がれていた。

 イアンはグラスを掲げた。


「乾杯しよう。何に乾杯するかね? 私と君の再会ではありきたりかな?」


「ええ、ありきたりですわ」


「では、私と君の人生に乾杯するとしよう。これからのね」


「はい。私とあなたのこれからの人生に」


 グラスが共鳴し、鼓膜を小気味よく振動させる。

 懐かしい音だった。この音はイアンの心に深く響き、思わず感涙がこぼれ落ちそうになった。

 胸の奥の熱さを紛らわせるようにマラスキーノ・チェリーを口にすると、オリガもそれに倣った。

 マラスキーノ・チェリーを舌で転がし、奥歯で引き締まった果肉をゆっくりと噛み潰す。シロップの甘さが口内に染み渡り、キャロルを口に含むとアルコールの風味が引き立つ。

 いつもの儀式。いつもの美味しさ。それが今日は特別なことのように思えた。


「君とキャロルを飲むことがこんなにも幸せなことだったとは知らなかった。幸せはこんなところに転がっていたのだな」


「ええ、私もそれを実感しています。あなたさえいてくだされば私は幸せです」


 オリガの笑顔には無機質さの欠片もなかった。もうオリガを石膏像に例えることはあるまい、とイアンは思った。

 雪像は解けてしまったが、その残滓はなお美しさを保ったままでいる。いや、冬よりも一層美しくなっている。

 イアンはもう一度それを愛することにした。

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