デッドマンズ・アー・デッド6
肋骨が折れてその欠片が肺に刺さっているため、呼吸するたびに空気が抜けるような音がした。きっと虫の息とはこういうことを言うのだろう。
ジャンは力なく左手にナイフを持ち、錘のような身体を引きずって歩いた。五指の骨が折れているため、銃のトリガーは引けそうになかった。
意識が朦朧とする。視界がぼんやりと白く霞む。両脚に力が入らなくなる。エステルの支えがなければ立っていられないだろう。
「ジャン、しっかりして。もう少しでルノーと合流できるわ」
「ルノー? フランス人か?」
「ええ。ルノー・シャントルイユ。オリガの叔父さんなんですって。カメレオンっていうフランスの秘密警察のコマンダーをしているそうよ」
「小耳に挟んだ名だな……」
意識が薄らいでいるせいか、どうしても思い出せない。嫌な予感がする。ここを出たら何かが起きる――そんな気がする。
しかし、基地から脱出しないわけにもいかない。イアンの足止めが効くのも時間の問題だ。さっさと逃げるに越したことはない。
まだ数十歩も歩いていなかったが、もう何日も歩き続けているような気分だった。一歩ごとに身体が重くなっていき、大の字になって眠りたくなった。
眠ったら二度と目覚めることはない。眠っていいのはパレルモの我が家に帰ってからだ。ここを抜け出すまではエステルを守らなければならない。
廊下の角を曲がると、一枚のドアが見えてきた。ドアの隙間からは外の光が漏れていた。
「ほら、もうすぐよ。急ぎましょう」
エステルは急かしたが、ジャンの足取りは重くなるばかりだった。ナイフをしっかり握ろうとしたが、それはできなかった。自由に動けず何もできないことがじれったかった。
ジャンは立ち止まり、エステルの耳元で囁いた。
「エステル、もし敵が現れたらお前は一人で逃げろ」
「馬鹿言わないで。あなた、身代わりになって死ぬつもりでしょう。あなたが死ぬなら私も死ぬわ」
「馬鹿を言っているのはお前の方だ。二人で心中することはない。最後くらいお前を守らせてくれ」
「嫌。あなたが死んで私一人が生きるなんて絶対に嫌。私を守りたいなら一緒に生きて」
「くそっ、わからず屋め。どうしても俺についてくる気なんだな」
「ええ、もちろんよ。これまでだってそうしてきたわ。私たちは夫婦なんだから、生きるのも死ぬのも一緒よ」
「俺と結婚した時点で覚悟はできているというわけか。いいだろう。後悔するなよ」
「後悔なんてするものですか。あなたと一緒に死ねるのなら本望だわ」
「縁起の悪いことを言うな。生きて帰るぞ」
もっと生きようと思った。もっと生きたいと思った。心からそう願った。おかげで意識が冴えた。身体中に激痛が走り出した。
俺は生きている。生を望むからこそ生きている。痛みがあるからこそ生きている。俺はこの瞬間のために生きてきたのだ。デトロイトで死に、蘇ったのは紛れもなくエステルのためだ。俺はエステルのために生きている。
至高の愛を確かめ合い、二人はドアを開けた。生を望んだ彼らに敵はいなかった。何人たりとも邪魔できなかった。そのはずだった。
銃声が二人を引き裂いた。
飛び散る鮮血と脳漿。宙にたなびく黒髪。支えを失い、体勢を崩して倒れる。
「エステル……!」
死だ。散々戦場で目の当たりにしてきた死がジャンを狂わせた。
ジャンは咆哮した。愛する者を殺された衝撃に精神が崩壊した。
絶望という安っぽい言葉では表わせない。悲しみ、怒り。それらをミキサーにかけて飲んだ気持ちがまさにそれだ。それは激情と呼ぶに相応しい。激しい悲哀、激しい憤怒、激しい憎悪、激しい殺意。死とは激情の末に尽きるものだ。
ジャンは目を血走らせて眼前のフランス人を睨んだ。
ちくしょう、はめられた。俺としたことが、もっと警戒するべきだった。人間など信じるべきではなかった。
「思い出したぜ……ルノー・シャントルイユ! イタリア軍に取引の情報を流したフランス人ってのは貴様のことだろう!」
「そうだ。コーサ・ノストラを解体するのが私の仕事でね」
「いつかぶっ殺してやろうと思っていたが、自らのこのこ現れてくれるとはな。死ぬ覚悟はできているか?」
「その問いはそっくりそのまま君に返せる。時既に遅しだ。この現状がまさにそれを物語っている。君がイタリア軍に捕まってくれたのはちょうどいい機会だったよ。ジャン・バリスティーノ、コーサ・ノストラの最高幹部にしてデトロイトで戦死した亡霊――デッドマン・ルチアーノ。私たちは君を暗殺する機会を窺っていたのだよ」
「私たち……?」
「これから死ぬ者が知る必要はない。君の心臓はずっとオリガに握られていたのだよ。その心臓は今私の手に委ねられている」
「オリガ……くっ、くくくっ、はははははっ。なるほど、そういうことか。俺もイアンもオリガの手中で踊らされていたというわけだ」
「そういうことだ。君はマリオネットより憐れだ。マダムが死んだのは君のせいだとは思わないか。マダムの死は君の不用心が招いた結果だ。いやはや、オリガとイアン・グウィンは実に役立ってくれたよ。君の親友の恋人になりすませば君に怪しまれずに近付ける。イアン・グウィンも本当に憐れな男だ。まんまと愛するオリガに騙されて利用されたのだから」
ジャンは歯を食い縛った。歯茎から出血し、切れた口内に鉄の味が染みた。
「あの二人は愛し合っている。あの二人の愛は本物だ」
「それはどうかな。オリガの心の中は君には覗けまい。ましてやイアン・グウィンにもな。もしオリガがイアン・グウィンを愛していたとしたら、彼の親友である君を売ったりはしなかっただろう。恨むなら私ではなくオリガを恨むといい」
地面を這いつくばり、ジャンは膝で立ち上がった。
脚が動けば。腕が動けば。手が動けば。指が動けば。銃のトリガーが引ければ。ここにいる者を皆殺しにしてやるのに。残念ながら俺にはもう動かない身体と一本のナイフしか残されていない。
ジャンは喉が枯れるまで天に向かって吼えた。いや、喉が枯れても吼え続けた。そして、銃声と共にぷつりと糸が切れたように静寂が訪れた。
耳鳴りがするほどの無音。音のない戦場ほど不気味なものはない。
胸部の中心に穿たれた穴から血液が溢れ出す。体内から生の奔流が溢れ出す。
弾丸は心臓を貫いた。地面に倒れ込むと、エステルの美しい死に顔が視界に映った。
人間とはなんと脆く儚いのだろう。死とはなんと無慈悲で容赦がないのだろう。生きたいと願っても結局は殺される運命なのか。まあ、仕方あるまい。俺は数え切れないほどの人間を殺してきた。むしろ、よくここまで生き長らえられたものだ。
「エステル……俺たちは生きるのも死ぬのも一緒だ……お前が妻でよかった……」
視界が暗くなる。意識が遠のいていく。
エステルの手に歪な手を重ね、ジャンは永遠の眠りについた。
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