第五章 デッドマンズ・アー・デッド
デッドマンズ・アー・デッド1
冬になり、雪の季節になった。
イアンとオリガは閑静なアグリジェントで仲睦まじく暮らしていた。ジャンとエステルは殷賑極まるパレルモで豪勢に暮らしていた。
幸せは長く続かないものだ。それがこの世界の理である。というよりも、幸せは短いからこそ幸せであり、長く続くとそれは幸せではなくなる。
平穏な時も束の間、アメリカとロシアの休戦協定が解除されて冷戦は終わった。そして、戦争が再開された。
シチリア島もこの戦争の影響を受けていた。大国の開戦に乗じてイタリア軍がシチリア島に雪崩込んできたのだ。
イタリア政府の目的はもちろんコーサ・ノストラの殲滅。治安を悪化させる武器の拡散を阻止するために組織を解体しようとしていたが、その力の前に手をこまねいていた。
コーサ・ノストラとイタリアが対立しているのは治安の問題に限らない。
コーサ・ノストラはアメリカに武器を流している。すなわち、アメリカに戦力を提供している。一方、イタリアはロシアと提携している。コーサ・ノストラはどちらにもついていないが、イタリアについているとも言い難い。そのため、コーサ・ノストラは相対的に敵と見なされている。
シチリア島、特にコーサ・ノストラが跳梁跋扈するパレルモは混沌としていた。イタリア軍による『コーサ・ノストラ狩り』が行われて、至るところで血の惨劇が繰り広げられた。メンバーは拷問にかけられて他のメンバーの居場所を吐かされた。拷問と死は連鎖し、大量虐殺は戦争さながらだった。
イアンはジャンの連絡を受けてパレルモに急行した。エステルをパレルモから逃がしてほしい、とのことだった。ジャンには世話になっているため、彼は快く引き受けた。
パレルモではイタリア軍の兵士たちが巡回していた。イタリア人には身分証明を要求し、コーサ・ノストラと関係があれば連行して拷問にかけた。
イアンはジャンとエステルが潜伏しているアパートを訪ねた。事前に伝えられた通りドアを五回ノックすると、開かれたドアの隙間からマテバ・オートリボルバーが覗いた。
「よく来てくれた、イアン。入ってくれ」
中に入るなり、ソファーの縁に肘をついていたエステルが縋りついてきた。
「イアン、ジャンを止めて! ジャンに危険なことをさせないで!」
「落ち着け、エステル。どういうことだ?」
「ジャンったら、イタリアに行こうとしているのよ。部下を助けるって言って聞かないの。イアンからも説得してよ」
「ふむ」
この状況でイタリアに行くのは危険だ。最高幹部ともなれば顔が簡単に割れてしまう。自ら捕まりに行くのと同じだ。
イアンは咥えた煙草に火をつけようとしたが、エステルが膨れた腹をさすって目を細めたので途中でやめた。
「エステル、妊娠おめでとう。しかし、もっと早く知らせてくれてもよかっただろう」
「生まれてから報告しようと思っていたのよ。そんなことより、ジャンをどうにかして。子供が生まれるのに、ジャンが死んだらそれどころじゃないわ。危険を冒してまで部下を助けなくてもいいじゃない。私より部下の方が大切なの?」
ジャンは嘆息した。どうやらこのやり取りは何度も繰り返されたようだ。
「君の方が大切だ。だが、最高幹部として部下を見殺しにすることはできない。プライドだとか倫理だとか、そんなくだらないものは関係ない。部下は俺のファミリーだ。君は私の妻だ。つまり、部下は君のファミリーでもある。君がファミリーを見殺しにしろと言えばそうしよう。もちろん君が私を大切に思ってくれているのもわかる。もう一度よく考え直してくれ。本当にファミリーを見殺しにしてもいいのか?」
「…………」
エステルは何も答えなかった。いや、何も答えられなかった。
ジャンには死んでほしくない。かといって、部下を見殺しにもしてほしくない。
この板挟みでパニックになり、エステルは泣きじゃくった。
「私はどうすればいいの! 何もできないなんて嫌! ジャンの力になりたい!」
ジャンの両腕がエステルの背中に回される。暗殺稼業を打ち明けて涙したオリガの姿がフラッシュバックする。
「君は待っていてくれ。安全なところでな。しばらくはイアンのバーにいてくれ。君が無事でいることが俺のためになる」
「男って、馬鹿ね……女よりも自分のことを優先するなんて」
「そうさ、男は馬鹿さ。自己中心的で、見栄っ張りで、言いわけがましくて、言葉でも女を捻じ伏せようとする。俺は君のために強い男でいたい。だから、行かせてくれ」
「はぁ……わかったわ。行ってらっしゃい。無事に帰ってくるって信じているわ」
「ああ、帰ってくるとも。俺を誰だと思っている。俺は一度死んだ男だ。死体はもう死ねない。這いつくばってでも君の元に帰ってくる」
「約束よ」
私の出番はなかったようだな。あっという間に仲直りしてしまった。
イアンは肩を竦めた。
「エステル、ジャンをどうしてほしいって? また殴ればいいのか?」
「あははっ、もういいのよ。私、ジャンを信じるわ。イアンが同行してくれたら安心なんだけど……」
「私は君を無事アグリジェントに連れていかなければならない。それに、私にはオリガがいる。私がイタリアに行くと言ったら、きっとオリガも君と同じように涙を流すだろう。私はもうオリガに涙を流させないと心に誓ったのだ」
「そう、よね。うん、それがいいわ。ジャンから聞いたわよ。暗殺で稼いでいることを打ち明けたらオリガに泣きつかれた、って。なんだか人間らしくなったわね、イアン」
「そうかね? それは嬉しいね」
エステルから荷物が入った重いトランクを預かり、イアンはスキットルのウイスキーを一口飲んだ。
吸えなかった煙草をジャンの前に差し出すと、彼はそれを受け取りかけてやめた。
「禁煙中だ。ニコチンは健康に悪いからな」
「健康に気を遣う時代か。一本持っておけ。いざという時の一服は安心感を与えてくれる。吸う機会がないことを願う」
小声でそう囁き、イアンはスーツのポケットに煙草を捻じ込んだ。
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