泥沼のカルマ3

 ジャンとエステルが新婚旅行でハワイに滞在している間、イアンは酒を受け取ると偽ってエンナへと旅立った。

 オリガも同行したがったが、イアンは頑なにそれを拒んだ。

 夫となる者が暗殺ビジネスに手を染めていると知れば、間違いなく幻滅されてしまうことだろう。特にオリガは殺戮を嫌悪する人間だ。もしこのことがばれたら一緒にはいられなくなるだろう。

 オリガは渋りながらもアグリジェントに残った。土産を買ってくることを約束したら留守番を了承してくれた。

 ターゲットはエンナに潜伏しているコーサ・ノストラの裏切り者。コーサ・ノストラと戦うための武器を探しているということで、ジャンからは武器商人を装えと言われた。主な特徴としては、栗色の髪、濃褐色の瞳、ピアス。とあるカフェに通って必ずアフォガートを注文する。

 武器はウィルディ・ピストルとジャックナイフで事足りた。本来の暗殺ならスナイパーライフルを用いるのであろうが、イアンはそんなものを手にしたことがなかった。

 兵士時代は塹壕戦がほとんどだった。白兵戦になることもしばしばあったが、スナイパーライフルの出番は皆無だった。

 ホテルの部屋を借り、イアンは早速ターゲットが通っているというカフェに赴いた。

 カフェは通りの中心にあり、やたらと客足がよかった。ここでの暗殺はできそうもなかった。ターゲットもそれを狙ってここに居座っているのだろう。

 カウンターの席には栗色の髪をした男がいた。瞳は濃褐色で耳にはピアスをつけており、バニラアイスクリームにエスプレッソを注いでいる最中だった。彼がターゲットで間違いなさそうだった。

 イアンはターゲットと思しき男の隣に座り、エスプレッソをドッピオで注文した。シチリア島だというのに何故かニューヨークチーズケーキがあったため、ついでにそれも注文した。

 早く仕事を終わらせて帰りたい。寂しがりなオリガのことだ、孤独に押し潰されそうになって何も手につかないのではなかろうか。私もエンナに来てから不眠症に陥っている。鉄道の車内でも一睡もできなかった。

 欠伸を一つ。マキネッタから立ち上る湯気で煙草を吸いたくなる。懐を漁ると、煙草の箱ではなくウィルディ・ピストルが手に当たる。隣の男から視線の気配が伸びる。

 イアンは潰れた煙草の箱を掴み、中身がないことを確認して灰皿に捨てた。


「吸うか?」


 隣から突き出されたのは一本の煙草。イアンはそれを受け取り、ガスライターのフリントを親指で弾いた。

 金属の硬い音色が奏でられる。煙を吸い込むと、質のいいニコチンが肺を犯す。


「どうも。いい煙草だ」


「そうだろう。煙草にはこだわりがあってな。自ら葉を選んで巻いている。アメリカ人か?」


「そうだ。エンナには旅行に来ている。ロサンゼルスに家があるが、夏からアグリジェントに滞在している」


「シチリア島はいいところだろう? コーサ・ノストラさえいなければ平和そのものだ」


「全くだ。アメリカから来たらそれを痛感できる」


 煙草が灰になったところで、ウェイトレスがカウンター越しにエスプレッソとニューヨークチーズケーキを出した。アグリジェントのバーでオリガは何をしているだろうか、とふと気になった。

 苦味の凝縮されたエスプレッソ、生クリームとベリージャムが載せられたニューヨークチーズケーキ。この二つは非常によく合った。アルコールとニコチンの組み合わせと比べても圧倒的に勝っていた。


「退役軍人か?」


「ああ。アメリカ陸軍に所属していたが、この通り左目と右脚を失って退役させられた。はぁ、この話も何人にしたことか。辟易するよ」


「そうだろうな。同じ話をするのはうんざりするものだ。俺は以前コーサ・ノストラのメンバーだった。この話をしたのも何度目か」


「もうそうではないのか?」


「そうだ。裏切り者扱いされていつ殺されるかわからない状況だ。掟というものは厄介でな。俺は幸せになるため掟を破ることを選んだ」


「何故? 裏切り者になってまで幸せになろうとするとは愚かしい。まさに二兎追う者は一兎も得ずだ」


「ああ、そうさ。俺は愚か者だ。掟を破ったことを後悔している。まさかこうなるとは思わなかった」


 話は見えてこなかったが、何か裏がありそうだった。仮に裏があったとして、イアンに暗殺を中止する気はなかったのだが。

 続きを促したのは、単なるイアンの興味だった。あくまでこの暗殺は仕事だ。仕事はただ機械的にこなせばいい。


「掟の一つに無断で外国に渡ってはならないというものがある。一見くだらないが、過去の裏切り者は皆高飛びしている。無断で外国に渡った場合、裏切り者と見なされる。俺は無断で外国に渡った。もうこの血生臭い稼業には飽き飽きしていた。足を洗って恋人と外国で暮らすことが俺の夢だった」


「それは叶わなかった?」


「ああ。俺は荷造りを済ませて恋人を迎えに行った。だが、その時には既に恋人は連れ去られていた。俺が高飛びするという情報を誰かが漏らしやがったんだ。コーサ・ノストラのメンバーには誰にも言っていなかったが、勘の鋭い野郎が嗅ぎつけたんだろう。恋人は拷問の末に死んだ。俺が足を洗って外国で暮らすことを吐いてな」


 恋人という言葉にイアンは何かを感じた。その何かは彼にもわからなかったが、脳裏にふっとオリガが連想された。

 この世界はわからないことだらけだ。幸せも愛も霧のように変幻自在で、時にははっきりと現れて時にはすっとかき消える。いずれにせよ、そんなものはこの手では掴めない。存在しているのかどうかさえ怪しい。

 オリガは……きっと私の恋人なのだろう。同棲して肉体関係まで持っているのだ、もう友人ではない。


「俺はコーサ・ノストラを許さない。このままでは恋人が浮かばれない。情報を漏らした野郎と恋人をなぶり殺した野郎に復讐するまでは死ねない。コーサ・ノストラは俺を殺すために刺客を放ったはずだ。いつ暗殺されてもおかしくはないが、くそったれ共に復讐するまでは……」


 イアンはこの男に同情を感じていた。

 もしオリガが殺されたら、私はオリガを殺した者を同じ方法でじっくりと殺すだろう。ターゲットは恋人を殺されて殺した者たちに復讐しようとしている。彼と同じように恋人がいる私はどちらにつくべきか一度考え直してみるべきだ。普通なら。生憎、私は普通に当てはまらない。私にはオリガとの生活がある。見ず知らずの人間に同情している暇はない。自分が生きるのに精一杯だ。これはビジネスと割り切って暗殺を実行するまでだ。


「そんなに復讐したいか?」


 イアンがニューヨークチーズケーキの端をフォークですくいながらそう言うと、ターゲットは吃った。


「できるものならしたいが……したいと答えたところでどうなる?」


「私なら復讐の手伝いができる」


「……というと?」


「私は武器商人をしている。コーサ・ノストラほどの組織を敵に回して一人で戦うには強力な武器がいる。そうだろう?」


「ふむ、ちょうどいい。俺も武器を探していたのだ。アサルトライフルと爆薬を用意できるか?」


「できる。取引は私が泊まっているホテルで行おう。今日中にはエンナを発ちたい」


「わかった。あんたの名は?」


「イアン・グウィン」


「俺は――」


「取引相手の情報は耳に入れない主義だ。名乗らなくていい。それがお前のためにもなる」


「なるほど。あんたはプライドのある武器商人らしい。よし、金が用意できたらすぐに向かう」


 部屋の番号を告げて、イアンはさっさとエスプレッソとニューヨークチーズケーキを片付けた。腹は膨れたが、帰りにウイスキーを購入してホテルに戻った。

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