第四章 泥沼のカルマ

泥沼のカルマ1

 ジャンとエステルから結婚式の招待状が届き、イアンとオリガはすぐにアグリジェントを発った。

 パレルモの教会に到着すると、異様な雰囲気が見て取れた。結婚式に参加するのはスーツが普通ではあるのだが、教会に集まった人間は先入観がなくとも一目でイタリアン・マフィアだとわかった。

 だが、その中でもイアンとオリガは目立った。何人かに揶揄されたが、めでたい席ということで挑発には乗らなかった。彼自身はいくらかたわと馬鹿にされようが構わなかったが、白い女神にその矛先が向けられるのは許し難かった。


「肌を隠してきた方がよかったかしら?」


「いや、そのままでいい。君はありのままでいればいい。何も隠さなくていい。胸を張って堂々としているんだ」


 教会の控え室に行くと、ジャンとエステルは既に着替えを済ませていた。結婚式らしく着飾った二人は見違えるほど美しかった。


「ジャン、エステル、結婚おめでとう」


「ミスター・バリスティーノ――いいえ、ジャン、エステル、ご結婚おめでとうございます」


 祝福の言葉を述べると、ジャンはパナマハットを脱いで微笑した。エステルはイアンとオリガにハグしてベールを下ろした。


「イアン、オリガ、俺たちは結婚することになったが、お前たちとの関係は変わらない。これからも友人だ」


「二人共、ありがとう。私たちも幸せになるから、あなたたちも幸せになってね」


 イアンとオリガは顔を見合わせた。互いに言わんとしていることはわかった。それをわざわざ口にすることはなかった。


「それにしても、結婚式にもパナマハットとはな」


「これがないとどうにも落ち着かなくてな。先代のルチアーノからのもらいものだが、ものはいい。気に入っているんだ」


「ほう」


「ジャン、そろそろ行きましょう。主役が遅れたらみっともないわ」


「そうだな。また後でな」


「楽しんでね、二人共。ああ、イアン、今日は煙草は控えてね。お酒はいくら飲んでもいいけど」


「仰せのままに。今日は主役の君に従おう」


 結婚式は厳粛に執り行われた。イアンは結婚式をもっと盛大なものだと思っていたのだが、実際はそうでもないようだった。

 イアンもオリガも結婚式に参加するのは初めてだった。結婚式というものにこんなにも愛が溢れているとは思いもしなかった。結婚とは無縁な人生を歩んできた二人には知る由もないことだった。

 イアンは神父のつまらない話を聞き流しつつ思案に暮れていた。

 オリガと結婚することでさらに愛の証明を得られるものなのだろうか。そうでなければ結婚する意味がない。結婚によって私たちは結ばれる。私たちはまだ結ばれていない。

 オリガは私との結婚を望んでいるだろうか。こういうことに関して私は察しが悪い。オリガには直接気持ちを伝えてほしいが、それができれば苦労はしないだろう。気持ちを全てさらけ出せないのが人間でもある。私もその一人だ。

 途端に人間が無力に思えた。人間を殺す人間も愛の前では無力だった。

 私は己を超人とまでは思っていなかったが、強者と弱者なら間違いなく前者だと思っていた。強者であるからこそ凄惨な戦場を生き長らえることができたのだと思っていた。だが、そうではなかった。何故なら、本物の強者ならば戦場で死んでいるはずだからだ。戦場で死んでいればオリガと出会うことはなかったし、愛を感じることもなかった。戦場にいた私は最高に幸せだったのだと思う。愛を知らずに死んだ方がよかったのだ。愛という人間性が入ってしまったことで私という機械は狂ってしまった。少なくとも、愛に悩んでいるこの状況は幸せとは言えない。一概に不幸とも言えないが。

 まあ、愛を知ってしまったからには愛を背負って生きなければならない。一度知ったら逃れられない。私はもうオリガの虜になってしまった。オリガがいなければ幸せになれない。もしオリガが私の元を去ったら……そうだな、また自殺を試みることにしよう。生きる意味を失って生きる意味はない。生に縋りつく者ほど愚かしい者はいない。愛に縋りつく者ほど賢い者はいない。

 ジャンとエステルが誓いのキスをし、結婚式の参加者たちは席を立ってぞろぞろと外に出ていった。イアンが気付く頃には教会は空になっていた。


「居眠りしていたのですか?」


「あ、ああ、そのようだ。そのつもりはなかったのだがな」


「仕方ありませんわ。昨夜は眠っていないのでしょう?」


「どうしてそう思う?」


「私も眠れなかったからです。何か悩みごとですか?」


「まあね。愛について悩んでいる」


「愛、ですか」


「君は何で悩んでいる?」


「私も愛について悩んでいるのです」


「愛が足りないか?」


「いいえ、そんなことはありませんわ。あなたの愛はちゃんと伝わっています」


「だが、全てではない。私は限界まで君を愛したい。限界まで君に愛されたい。私はその方法を模索しているのだよ。とはいえ、結婚では物足りないような気がする。結婚で結ばれるのは心だ。それが愛だというならそうなのだろう。しかし、私はそうとは思わない。それ以上の愛が存在するように思えてならないのだ」


「私と結婚したくないのですか?」


「いや、そういうわけではないが……」


 悲哀を孕んだ表情にイアンはたじろいだ。

 結婚を前提とした愛を愛と呼べるだろうか。愛の答えを見出してから結婚するべきではなかろうか。そうしなければ、これまで積み上げてきた愛が瓦解してしまうのではなかろうか。


「物事には順序がある。このまま結婚しても君を幸せにできそうにない。わかってくれ」


 我ながら言いわけがましいと思った。同棲までして今さら「君を幸せにできそうにない」はあまりにも無責任だった。

 無論、オリガは首を縦にも横にも振らなかった。わずかに頬をむくれさせて視線を伏せたのみであった。


「私には言いわけにしか聞こえません。私はもう十分幸せです。あなたも私と一緒にいられたら幸せだと言ってくださいました。これ以上の愛があるというのですか?」


「わからない。わからないからこそ保留にしておきたい」


「私も語れるほど愛のことを知りませんが、愛に限界なんてあるのでしょうか?」


「ないかもしれない。それが答えかもしれない。それがわかるまで待ってほしい」


 それでもオリガは納得してくれなかった。彼女を説得するには本心からの言葉でなければならなかった。

 愛への興味は本心だったが、これが第一ではなかった。これは本心を隠すためのダミーだった。イアンにはこの本心をさらけ出すことが屈辱であった。が、オリガの心を繋ぎ止めておくには言わなければならなかった。


「率直に尋ねよう。私と結婚できるか? もう承知しているとは思うが、かたわと一緒になってもろくなことはない」


「私も昼はかたわですわ。かたわとかたわが支え合えば走ることができます。結婚しても生活は変わりませんわ。貧乏でもいい、私はあなたと一緒にいたいのです。結婚はあなたがどこにも行かないという安心感を与えてくれます」


「私がどこかに行くと思っているのか?」


「そんな気がするのです。いつか私を置いてアメリカに帰ってしまうような気がしてならないのです」


「もうアメリカには帰りたくない。それに、君を置いていきはしない。アメリカに帰る時は君も連れていくさ」


 しかし、オリガはイアンのスーツの袖を掴んで俯いた。


「アメリカには行けません」


「何故?」


「シチリア島にいなければならないのです。私立探偵の仕事がありますし、バーだってありますわ」


「そんなもの、やめてしまえばいい。ロサンゼルスでまたバーを開店すればいい。競争は激しいが、少なくともアグリジェントで続けるよりは儲かるはずだ」


 依然としてオリガは釈然としていなかった。まだ心にわだかまりを抱えていた。

 イアンはようやく観念して本心を吐露することにした。


「わかった、本心を言おう。私も君と結婚したい。だが、いかんせん金がない。金で愛は買えないが、愛の証明なら買える。そのためにはどうしても金がいる」


「幸せはお金で買えると思いますか?」


「ものによるさ。ただ一つ言えるのは、愛の証明も幸せの一部ということだ」


 立ち上がって手を差し出すと、オリガはやっと表情を柔和なものにした。冷たい手を取り、彼女はゆっくりと腰を上げた。


「お金なんていりませんわ。結婚もしなくていいですわ。あなたがいてくれたらそれでいいのです」


「私もだ、オリガ」


 誰もいない教会で二人は誓いのキスをした。これが結婚式の代わりだった。

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