マリッジ・ブルーに愛の告白を7

 パレルモのビーチが橙色に染まり、ジャンは林檎を齧った。

 スラックスの裾を上げて海に足を浸していると心地よかった。こうしていると暗殺のことを忘れることができた。

 暗殺稼業は楽なものではない。一方的に殺せる分戦争よりはましだが、生きるために人間を殺すのは精神的にも肉体的にも負担がかかる。この胸に残るしこりは罪悪感なのかもしれない。戦争で人間を殺すのは己の信念のためであり、罪悪感はなかった。だが、暗殺は意味もなく人間を殺す。信念というよりは、生活のため――愛するエステルのためだ。戦争の殺戮に意味があるとはさらさら思っていない。戦場ではあちらこちらで死がはびこっているため、言うなれば感覚が麻痺するのだ。

 暗殺は一人の人間の死をはっきりと感じなければならない。生と死のコインが裏返される瞬間を見届けるのが暗殺だ。

 ジャンとて一人の人間。心が痛まないわけがなかった。いや、心が痛み出したのはつい最近だ。オリガにこう言われてからだ――人間を殺すのが仕事だなんて……心が痛みませんか?

 あの時はむきになって言い返したが、オリガは正しかった。人間を殺す「仕事」は心が痛む。全くの正論だ。全く人間的で偽善的すぎる。

 では、人間を殺す「仕事」でなければ心は痛まないのか? そう、その通りだ。「仕事」でなければ心は痛まない。だから、戦争で人間を殺しても心は痛まない。少なくとも、俺は。恐らくイアンもそうだっただろう。

 思案に耽っていると、冷たい水がジャンにかけられた。視線を上げた先には小さく舌を出したエステルがいた。


「小悪魔め、スーツを濡らすなとあれほど――」


「あははっ、ジャンが水着に着替えないから悪いのよ。でも、涼しくなったでしょう?」


「……まあな」


 林檎を齧る。塩の味が舌を撫でる。

 せっかくの林檎が台無しになり、ジャンはエステルにそれを放り投げた。彼女は赤くはりのある表面を一口齧り、可愛らしく唇をすぼめた。


「げっ、まずい……海は好きだけど、塩の味は嫌いだわ。溺れたらきっと最悪ね」


「溺れて死ぬ方がましさ」


「えっ?」


 戦場で心の痛まない人間――すなわち、心のない人間に殺されるよりは海で溺死した方が遥かにましだ。心のない人間に殺されるということは、ものとして壊されることと同義だ。ものを壊すのに心は痛まない。俺はそうやって人間を殺してきたが、やはりそんな死に方は嫌だ。

 パナマハットのつばを押し上げ、ジャンは葉巻を咥えた。が、エステルの指がそれを弾き飛ばした。


「おい、エステル――」


「ねぇ、キスして。ニコチンの味は嫌い」


 しおらしくキスをねだられて怒る気はなくなった。

 ジャンは黒髪を撫でた。灰色の瞳に見上げられると情欲をそそられた。

 裸体を抱き寄せて柔らかな唇にキスする。女らしい細い手を取り、指を絡め合う。

 唇が離れて、エステルは左手の薬指に違和感を感じた。


「ジャン、これ……」


 左手の薬指にはまっていたのは銀色の指輪だった。婚約指輪だ。


「ぴったりだな。恥ずかしながら君の指のサイズを確認し忘れていたのだが、ちゃんとはまってよかった」


「もう、ジャンったら……何よ、いつプロポーズしてくれるのかと思ったらこんないきなりだなんて……」


 ジャンは涙ぐむエステルの頬に優しく手を触れた。


「エステル、俺と結婚してくれ」


 エステルは何度も頷いた。嗚咽をこらえて、喜びと涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら。


「泣くなよ。可愛い顔が台無しだ」


「うるさいわね……ジャンのせいなんだから……これからは泣かせないようにしてよ……」


「それはもちろんだ。君を泣かせる者は誰であろうと許さない。たとえコーサ・ノストラのボスでもぶっ殺してやる」


「それなら心強いわね。あと、もう一つ条件があるわ」


「なんだ?」


「結婚したら禁煙すること。ニコチンは健康によくないわ。私を愛しているなら葉巻はやめて。いい?」


「ああ、君と結婚できるならいいとも」


「神に誓える?」


「誓える」


「いつか生まれてくるかもしれない子供にも誓える?」


「誓える。俺が約束を破ったことがあったか?」


「あるわ。ナポリでスイーツ専門のレストランに行き損ねたわ」


「随分と根に持っているようだな。あれは――」


「もういいのよ。気にしていないから。これから行こうと思えばいつでも行けるわ。いつかまた行きましょうね」


「ああ、そうしよう。今度は仕事なしでな」


 二人はもう一度唇を重ね合わせた。言葉を交わさずとも唇を合わせれば愛を確かめ合うことができた。

 二人が愛し合うのに言葉はいらなかった。必要なのは、ちょっとしたきっかけだった。

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