マリッジ・ブルーに愛の告白を5

 キャンドルが灯された暗いバーで、オリガとエステルは二人きりになった。

 オリガは残ったシャンパンをぐいと飲み干して顔が熱くなるのを感じた。


「ねぇ、オリガ」


「なんでしょう、ミス・ジェンクス」


「えーっと……ねぇ、そろそろ私のことをエステルと呼んでくれてもいいのではないかしら? あなたが礼儀正しいのはよくわかっているけれど、エステルと呼んでくれた方が嬉しいわ。私たち、もう友人でしょう?」


「……はい。エステル」


「ふふふっ、やっと呼んでくれたわね。一体いつ呼んでくれるのか待っていたのよ。ジャンのこともミスター・バリスティーノではなくジャンと呼んであげてね」


「はい。エステル、何か話があったのではないですか?」


「ああ、そうだったわね。イアンとはうまくいっているの? 余計なことかもしれないけれど、あなたは気が弱いから心配でね」


 オリガは閉口した。

 うまくいっているかどうかというと、うまくいっているとも言えるしうまくいっていないとも言える。イアンとの関係は有耶無耶だ。友人以上恋人未満、といったところだろうか。少なくとも、友人ではない。少なくとも、恋人ではない。二人はちょうどその中間の関係にある。


「どうでしょうか。イアンは優しいし、私を支えてくれます。その代わりに私は家事をこなします。どうなんでしょう、うまくいっているのかな」


「なんだか夫婦みたいね」


「夫婦みたい、ですか?」


「ええ。うまくいっている証拠よ」


 エステルの言葉には救われた。夫婦という言葉はオリガに自信をつけた。が、愛の証明にはならなかった。

 いかに愛していると言葉で伝えられようと、愛の証明にはならない。言葉には限界がある。言葉は限りない可能性を秘めているが、愛を言葉で伝え切ることはできない。

 愛というものは曖昧で、実体がない。心の中に存在するはっきりとした概念だ。愛を忘れたイアンの中にも愛が存在している。

 生きることとはすなわち愛すること。愛とは生の原動力。人間は家族や友人や恋人や伴侶を愛して生きている。愛する者がいなければよりよく生きられない。食欲、睡眠欲、性欲と同様に、人間の生には欠かせない代物だ。

 エステルは伸びをしながら唇を歪めた。


「ねぇ、興味本位で品のないことを聞いてもいい?」


「はい?」


「イアンって、夜はどうなの? ほら、いつもクールでしょう? 案外むっつりなんじゃないかしらと思って」


 エステルの言う通り、イアンはいつもクールだ。まさにその通りだ。

 オリガは答えあぐねた。

 無言のままでいると、エステルはそれを答えと見なした。


「夜は激しいの?」


「え、えっと、その……逆です。イアンは……」


「もしかして、夜もクールなの?」


「はい」


「でも、キスくらいはしたことがあるでしょう?」


「ありません。イアンはきっと……そういうことに興味がないのです」


 エステルはうなだれて深い溜め息を吐いた。


「呆れた……こんな美人をほったらかすなんて男らしくないわ。どうせ同じベッドでも寝ていないのでしょう? イアンのことだからソファーね」


「ええ」


「あなたはどうしたいの? イアンとしたい?」


「え、えっと……」


「正直に答えなさいよ。答え次第でアドバイスしてあげるから」


「は、はぁ」


 オリガは困惑したが、イアンの友人であるエステルになら相談する気になれた。

 イアンとの関係に不満はある。とはいえ、満足していないわけではない。オリガが不満なのは夜の彼だ。

 イアンが無関心なのは性だと思う。私に興味がなければ私にこだわることはないもの。欲を言えば、イアンにはもっと積極的になってほしい。愛の証明がほしい。優しさでは愛の証明にはならない。ソファーではなく私の隣で一緒に眠ってほしい。私の身体に触れてほしい。私を渇望してほしい。

 これがオリガの本心であった。彼女は正真正銘イアンを愛していた。

 だが、心のどこかではイアンを遠ざけようとしていた。彼と一緒にいてはならないと脳が警鐘を鳴らしていたが、それをオリガには制御しようがなかった。脳とは裏腹に、心は彼を求めていた。彼の接近を待ち望んでいた。


「どう、オリガ? イアンとしたい?」


「し、したいです。アドバイスをお願いします」


「いいわ。イアンの方から積極的に迫ってこないとなると、あなたから迫ってみるしかないわ。イアンを誘惑するのよ」


「誘惑ですか。どうすればいいのですか?」


「そうねぇ……あなた、挙動不審にならずに演技できる? 名アクトレスにならないときっとイアンは落とせないわ。どう?」


「自信はありません」


「うーん、それなら直接的に誘惑した方がいいわね。もうやりたいって言っちゃえばいいのよ」


「そ、そんな、無理ですよ」


「じゃあ、少しほのめかすくらいならできる? とにかく、ベッドに引きずり込んでみることね。そこで身体を密着させたらイアンもその気になるかもしれないわ」


 クールなイアンがそのくらいのことで情欲的になるとも思えなかったが、努力しないことには何も始まらない。

 オリガは火照った頬を両手で押さえて鼻から息を吐いた。


「今夜やってみます」

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