マリッジ・ブルーに愛の告白を4
葉巻を一服しながらアグリジェントの窮屈な通りを吟味する。
オリガに言われて煙草は控えていたが、久しく吸う葉巻はやけに美味しく感じた。
アグリジェントは神殿が広漠な分、街の規模は小さい。しかも、年を経るごとにどんどん縮小しつつある。住民は都市に移住し、加速度的にこの街は寂れている。
「なあ、イアン、何故この街でバーの経営をしようと思ったんだ? 神殿に活気があればまだしも、わざわざこんな辺鄙な街で商売をすることはないだろう。どうせならパレルモでバーを経営するといい。まだやり直せる。俺も協力するぜ?」
「気持ちだけ受け取っておこう。この街を選んだのは人間が少ないからだ。商売をするには向かないが、私もオリガもシャイなのでね。それに、幸いにもこの街にはバーが少ない。たまに何も知らない客が入ってきては酒を飲んでいく。まともな儲けはそれくらいさ」
「まあ、人間の幸せはそれぞれだ。俺は口を挟むつもりはないが……お前たちを気にかけている親友がいることを忘れるなよ」
「……ありがとう、ジャン」
ジャンは照れ隠しに葉巻を吹かした。白煙が彼の周囲に纏わりつき、表情に靄をかけた。
「ところで、イアン、お前を外に連れ出したのは他でもない。本題に入ろう」
「本題?」
「ああ。お前に報告しておきたいことがある。一世一代の告白を実行する前にな」
一世一代の告白、で察しがついた。
「前にエステルとの結婚を考えていると話したことがあっただろう? いよいよプロポーズしようと思う」
「それはいい。エステルは間違いなくイエスと答える。結婚式はいつ挙げるつもりだ?」
「夏が終わるまでには挙げたい。パレルモの教会でぱーっと盛大によ。プロポーズはまだだが、先にお前を結婚式に招待しておきたくてな。来てくれるか?」
「もちろんだ。だが、最高幹部の結婚式だ、教会はコーサ・ノストラのメンバーでいっぱいになるのではないか? 入れるといいのだが」
「お前とオリガを優先して入れるさ。そのためにここで報告したんだ。お前が来るまで結婚式は挙げない。親友に祝ってもらわなければ結婚した気になれないからな」
イアンは親友の結婚を素直に喜ばしく思っていた。同時に、オリガとの関係が未だ進展していないことに一抹の不安を覚えた。
私はオリガを愛している。オリガも私を愛してくれている。だからといって、別にオリガとの結婚を望んでいるわけではない。この生活が続くのなら結婚なんてしなくてもいい。だが、私は愛の証明がほしいのだ。それを手っ取り早く手に入れられるのはやはり結婚だ。
しかし、イアンには金がなかった。結婚式を挙げるどころか生活さえ苦しいのだ、まとまった金がなければ結婚はできない。
金を得る方法はないものかと思ったが、ジャンに相談するのは憚られた。彼に世話をかけすぎるのはイアンのプライドが嫌がった。
絡みつく白蛇を振り解き、二人は適当なレストランを見つけてミネストローネを注文した。
味は悪くなかった。ミネストローネで他の料理を判断するのはあまりにも非合理的だったが、近くに他のレストランも見当たらなかったため、ひとまずここで食事をすることにした。
ウェイトレスにコース料理の準備をしておくように言い、二人はレストランを出た。
「ところで、オリガとはうまくいっているのか?」
どきりとした。うまくいっている、と断言はできそうもなかった。
イアンは明後日の方向に視線をやった。
「どうだろう。同棲はしているが、恋人ではないな。関係は……そう、至って健全な友人といったところか」
「セックスは?」
「ない」
「キスは?」
「ない」
「はぁ……」
ジャンの呆れた溜め息に、イアンは男としての情けなさを感じた。
相談する相手はジャンしかいない。こういう相談ならなおさら彼に頼るしかない。
「私はどうすればいい? オリガをどうにかしたいとは思わないのだ。確かに、愛してはいるが……抱きたいとは思わない」
「何故? あんな美人を抱かないなんて損しているぜ?」
「ふむ……だが、私は……オリガを穢したくないのだ。オリガには純潔でいてほしい」
「もしオリガが抱かれることを望んでいても、か?」
イアンは黙り込んだ。
私は私が何をしたいのかわからない。なんのためにオリガと同棲している? そもそも愛とはなんだ? 私は何で愛を表現している? 表現しない愛というものは存在するのか?
イアンはどこまでも愛を知らない人間であった。戦争という弊害は彼から愛をも奪っていた。
人間がよりよく生きる上で最も欠かせないもの――それは愛だ。食欲、睡眠欲、性欲ではない。愛なくして幸せに生きることは叶わない。
オリガが私に愛の証明を求めているのだとしたら。肉体的な愛を表現することを望んでいるのだとしたら。私はどう応えればいい?
懊悩煩悶するイアンの肩に手が添えられた。
「オリガに貞淑を望むのも悪くないだろう。お前の気持ちもわからないでもない。確かに、オリガの美貌には触れ難い。美しすぎるのも大変だな。なんにせよ、幸せにも個性がある。お前は幸せか?」
「幸せだ。一度は拒絶されて絶望もしたが、貧乏でも今の生活には満足している」
「それならいいのではないか? まあ、オリガの気持ちを汲んでやることだ。愛がなければ生きる意味などない」
「いつからそんなロマンチストになった?」
「はははっ、デトロイトで死んでからさ。俺は戦うことを忘れた。暗殺は一方的な殺しだ。戦いではない。ぬるいプールに浮かんでいればロマンチストにもなるさ」
「私もロマンチストになるべきかな」
「一度くらいなってみるといい。ものは試しだ」
雲一つない空に輝く月を見上げて、イアンはオリガの白い裸体を想像した。
プールサイドで月光浴する白の女神。私はプールサイドの反対側でその素肌を眺めているが、何もしないでいる。何もできないでいる、ではなく、言葉通り何もしないでいる。何かするという選択肢があるにもかかわらず、私は何もしないでいる。泳いで反対側に渡れば柔肌に触れられるのに、私はそうしない。何故と問われたら、オリガを愛しているからとしか答えられない。もし柔肌に触れたらどうなるのだろう? エデンの園から追放される? それとも――
肉体的な愛に興味が湧いてきた。イアンはオリガを改めて愛そうと決意した。
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