マリッジ・ブルーに愛の告白を3
イアンとオリガはトラーパニの南東に位置するアグリジェントに移動し、そこで狭いアパートを借りて同棲していた。
いくらオリガが私立探偵をしていても家賃を払いながらでは生活費が釣り合わないもので、二人はアパートを出てバーを経営することにした。
バーの経営を提案したのはオリガだった。戦争以外の労働をしたことがないイアンは毛頭働く気がなく、生活費の浪費を危惧した彼女は一種の賭けに出たのだ。
イアンはオリガの提案に首を縦に振った。働いてまで生きたいとは思わなかったが、バーの経営なら多少は気が楽だった。それに、人生を彼女に捧げた以上、この提案に従わざるを得なかった。
バーを開店するのは難しいことではなかった。が、いかんせん客足が悪かった。アグリジェントの比較的人気のある通りにバーはあるのだが、イアンとオリガの珍妙な容姿が噂になり、どういうわけか二人の正体が怪物であるという噂に歪曲されて誰も近付こうとしなくなったのだ。
それも仕方のないことかもしれない。遮光カーテンで閉め切った店内は薄暗く、昼でも気味が悪い。噂ではモンスター・バーだとかゴースト・バーといった不名誉な仇名をつけられているらしい。
たまに客が入ってくるが、どれも冷やかしばかりで二人をまじまじ見てから帰ってしまう。そんなことが続いていると儲けがないのは当然で、生活費のほとんどを賭けて立ち上げたバーは早くも閉店の危機に瀕している。
それでも二人は幸せを享受していた。裕福な生活とは言い難いが、イアンはオリガがいればそれでよく、オリガはイアンがいればそれでよかった。互いに満足しているからこそ幸せが成立していた。
ただ、不思議と二人の関係は恋愛には発展しなかった。バーの狭い物置部屋で寝食を共にしているが、男女の過ちが起こることはなかった。イアンはベッドをオリガに譲ってソファーで眠り、彼女はふてくされながらベッドで快適に眠った。
イアンは恋愛に関しては鈍感であった。というより、恋愛をしたことがなかった。キスをしたこともなければセックスをしたこともなかった。彼にはその概念がなかった。いや、正確にはそれらの知識はあった。が、オリガと肉体的な関係を持とうとはさらさら思わなかった。
無論、オリガに魅力がないわけではない。イアンも彼女ほど魅力的な人間を見たことがなかったし、何より愛している。ただそこに留まっているがゆえに行為に及ばないのである。
オリガもイアンの愛を感じ取ってはいたが、やはり肉体的な愛を欲していた。彼をベッドで誘惑しようにもソファーで眠られるのではなかなか踏み切れなかった。
つかず離れず――二人にはこの言葉がぴったりだった。
そんなある日、がらんどうとしたバーに来客があった。ジャンとエステルだ。
「よう、儲かっているか、マスター?」
「ジャン。儲けなんてないさ。いつの間にか不景気な時代になってしまった」
「全くだ。まあ、俺の稼業には不景気もくそもないがな。酒は残っているか?」
「たんまり残っている」
「今日はぱーっとやろうぜ。なあ、エステル?」
エステルはジャンの脇腹を肘で小突いた。
「調子に乗って飲みすぎないのよ。あなたはお酒に弱いんだから」
「わかっている。イアンに殴られそうになったら君が庇ってくれよ」
「嫌よ。それならイアンに加勢するわ」
ジャンとエステルのおかげで賑やかになったバー。オリガは微笑みを浮かべて未開封の酒が陳列された棚に手を伸ばした。
「イアン、シャンパンにしましょうか」
「ああ、そうしよう」
ちなみに、酒はジャンに手配してもらった。禁酒法時代のシカゴで蓄えていた酒をシチリア島に輸送してもらったのだ。
世界は着実に不景気になりつつあった。物価が高騰し、食料が手に入れにくくなった。シチリア島とて例外ではなかった。
アメリカとロシアが輸出と輸入を抑制し合い、中国の生産力が大幅に低下した。この災禍は世界中に蔓延し、辛うじて釣り合っていた需要と供給の天秤を破壊した。
オリガはシャンパンを開けて四つのグラスに注いだ。
「さて、乾杯しよう。何に乾杯するかね?」
「再会か?」
「ありきたりねぇ。せっかくだからこのバーの繁盛に乾杯しましょうよ」
「では、友人の再会とモンスター・バーの繁盛に」
モンスター・バーと言ったのはオリガも含めた自虐だった。が、彼女はアルビノの怪物ではなく吸血鬼になぞらえたつもりだった。イアン自身はフランケンシュタインの怪物のつもりだった。ゴシック小説の登場人物になったと思えば、怪物呼ばわりもどうということはなかった。
「ところで、夕食の予定はあるのか?」
ジャンの質問に、エステルは腹をさすった。
「お腹が空いたわ。四人で食べに行きましょうよ。この近くにいいレストランはない?」
「どうかな。最近、外食は控えているんだ。オリガの手料理の方が美味しいし、何より金を使わないでいいからな」
「あら、夫婦みたいね。オリガはいい奥さんになりそうだわ」
「み、ミス・ジェンクスも料理はしますでしょう?」
「あははっ、私は料理なんてしないわ。一度アパートを火事にしかけたことがあるから、ジャンにも止められているの。せっかく作ってあげてもまずいって言われるし」
「あれが料理だと言うなら世も末だ。ほとんど炭化しているんだぜ?」
「恋人が作った料理なんだからちゃんと食べなさいよ。まずかったのは認めるけれど」
談笑しているうちに夕方になった。電気の代わりに灯していたキャンドルの火が揺らめき、四人の影をぼんやりと浮かび上がらせた。
間もなく夜になる。夜になればフランケンシュタインの怪物と吸血鬼の時間だ。石畳に残された熱を堂々と踏みしめることができる。紫外線を怖れずに外を歩けるようになる。
「イアン、レストランを探しに行こうぜ。レディー二人はここで少し待っていてくれ。いいレストランが見つかったら戻ってくる」
「行ってらっしゃい。あまり遠くには行かないでよね」
カウンターの下に放り投げていた義脚をつけ、イアンは違和感を覚えながら一歩進んだ。
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