第三章 マリッジ・ブルーに愛の告白を
マリッジ・ブルーに愛の告白を1
夏になり、イアンはトラーパニにいた。
夏のトラーパニは快適だった。ビーチにさえいなければ、の話だが。
清澄たる碧海は見る分には美しいのだが、近付いて砂浜を踏むと身体中から汗が噴き出す。パナマハットをかぶらなければ歩けたものではない。アルビノでなくとも降り注ぐ日光と砂浜の照り返しにはやっていられない。
炎天下のビーチを散歩しながら、イアンはパレルモのビーチでオリガと話した夜に思いを馳せていた。
オリガと別れてどれくらい経つだろうか。そう経っていないはずだが、私には随分と長い時が経ったように思える。老人になったかのような気分だ。肉体はまだ若くとも、精神は年老いてしまった。オリガを失って、と言うと語弊が生じるな。私はオリガを得ていないのだから。オリガと別れて――このくらいが妥当かもしれない。
オリガと別れて、イアンは夢遊病患者のごとくまた外をふらつくようになった。シラクサで出会いパレルモで再会したように、トラーパニでも彼女と再会できるような気がしていたのかもしれない。
パナマハットを脱ぎ、イアンはハンカチで額の汗を拭った。
オリガはどうしているだろうか。こんな暑い日は風通しのいい室内で過ごしているだろうか。きっとそうだろう。夏は彼女にとって地獄だ。
パラソルの下が空いていたので、イアンはビーチチェアに熱い身体を横たえた。
オリガ、君の白い肌を見ればたちまち私の体温は下がるだろう。君と別れてから気付いたが、君ほどの白を私は見たことがなかった。君は白そのものだ。
「ああ、オリガ、君に会いたい」
叶うことのない願い。この世界はそんなもので溢れ返っているが、ごく稀に女神は微笑んでくれる。たとえ信心深くなくとも起こり得るもの。人間はそれを奇跡と呼ぶ。
「イアン?」
「オリガ……やあ、また会ったね」
「ふふふっ、こんなところでまたお会いするなんて。あなた、もしかして、ストーカー?」
「君の方こそストーカーではないかね?」
隣のビーチチェアに座った女――彼女がオリガだった。相変わらずつばの広い帽子にサングラスをかけてスカーフを巻いていたため、すぐに彼女だとわかった。パレルモで再会した時同様、彼女の方から声をかけたのだが。
なんだか複雑な気持ちだった。
パレルモのビーチで愛の告白紛いのことをして、拒絶されて、憐憫されて、悲しみに枯れたはずの涙を流して。トラーパニのビーチで再会して、素直に喜んでいて。餓死寸前の野良犬のような気分だった。
私は美しく優しいマダムに拾われるのを待ちわびていた。マダムに見つかり、だらしなく舌を出して尻尾を振っている。マダムは一度私を捨てている。それでも私にはマダムしかいない。マダムに救いを求めることしかできない。マダムは困惑して苦笑混じりに私を見下ろす。
「何故トラーパニに? 引っ越したのかね?」
「いえ、パレルモのホテル暮らしは変わりませんわ。トラーパニには私立探偵の仕事がありまして。しばらくアパートに住んでいます」
「へぇ。夏のビーチにいても平気なのか? 毒の中にいるようなものだろうに」
「心配なさらないで。長居しなければ平気ですわ。あなたのことを思い出しましてね。ビーチを散歩していたらしんどくなってきて、パラソルの下で休憩しようと思ったらあなたがいたのです。面白い偶然もあるものですね」
「ああ、全くだ。私も君のことを思い出していた。君が夏をどう過ごしているか気になってね」
イアンはパナマハットを脱いだ。拭えども拭えども湧いてくる汗は諦めることにした。
「暑いな」
「ええ。夏は特に嫌いですわ。ところで、あなたもパナマハットをかぶるのですね。一瞬、ミスター・バリスティーノかと思いましたわ」
「パナマハットはジャンのトレードマークだからな。あれからジャンとは会ったかね?」
「ええ、何度か。ミス・ジェンクスと一緒にいられるのをよく見かけました。食事にもご招待いただいて、あなたの話をたくさん聞かせてもらいました。もうアメリカに帰られたのかと思っておりましたけれど、トラーパニにいらしたのね」
「帰る気にはなれなくてね。どうしても君のことが忘れられなかった」
汗で湿った金髪をかき上げると、オリガは視線を伏せた。
「私もあなたのことが忘れられませんでした。もしかしたら、私たちは運命の糸で繋がれているのかもしれませんね」
オリガは冗談めかしたが、イアンはそう信じてやまなかった。小さな島の奇跡ではあるが、奇跡であることに変わりはない。
イアンは奇跡や運命を信じない人間であった。家族が死んでから神の悪戯を信じなくなった。元から信じないたちではあったが、戦争によって大切なものを失うにつれてまるっきり信じられなくなっていった。
「オリガ、今夜食事をしないか?」
何が背中を押したのか、イアンはオリガを食事に誘った。断られるとは思わなかった。彼女はもう拒絶しないと確信めいたものがあった。
「どこか海に面したレストランを予約しよう。君と話がしたい」
「ええ、いいですよ。キャロルのあるレストランにしてくださる?」
「ああ、いいとも。では、また今夜」
「ええ、また今夜」
パナマハットをかぶり、イアンはビーチチェアから腰を上げた。以前ならオリガをアパートまで送ろうとしていただろうが、今日は引き際をわきまえた。
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