スイート・トーチャー3

 ビーチに面したレストラン。

 縹渺たるビーチだが、レストランのオーナーのプライベートビーチというのだから大したものだ。さすがにパレルモ一高級なレストランというだけはある。

 レストランに入ると、紳士的なウェイターがジャンの身分を確認した。その後、オーナーと少し話して四人は中に通された。やはりコーサ・ノストラの最高幹部はVIPだったようだ。

 エステルの希望で昨日と同じくテラスのテーブル席に腰を落ち着ける。途端に酒が飲みたくなる。眠りから覚めて煙草ばかり吸っていたせいか、喉がからからに渇いている。

 イアンはウェイターを呼び止めた。


「キャロルはあるかな?」


「ええ、ございます。食前にお持ちしてもよろしいですか?」


「ああ、二つ頼む。あと、リトル・プリンセスとスプモーニを」


「かしこまりました」


「ああ、マラスキーノ・チェリーは種なしにしてくれ」


「かしこまりました」


 ウェイターはメニューを持ってこなかった。コース料理なのだろうが、その全貌は謎に包まれていた。

 秘密のレストランはパレルモで最も異色な場所だった。例えるなら、エデンの園だ。アダムとエヴァがビーチを散歩していてもおかしくなかった。


「しかし、まずいことになった」


 ジャンは革靴の踵を細かく鳴らしながらパナマハットを目深にかぶった。


「今回の一件でコーサ・ノストラはゲシュタポを敵に回した。でかい取引相手を失ってボスはかんかんだ」


「これからどうするつもりだ、ジャン?」


「恐らくボスは俺が裏切った可能性もあると思っている。俺の潔白を晴らさないことにはこのシチリア島でも命を狙われかねない」


「ふむ。それで?」


「情報を漏洩させた人間を探す。そいつの首を差し出さなければボスも納得しない。なんにせよ、そいつに関する情報を得なければならない。そいつの居場所を特定するのはそれからだ」


「そう簡単にいくと思うか?」


「簡単にはいかないだろうな。だが、手っ取り早い方法がある。情報を売られたイタリア軍に直接尋ねればいい」


「ほう」


「イタリアでフェイクの取引を行う。イタリア軍にわざと情報を流し、兵士を捕らえる。拷問にかけて情報を漏洩させた人間を吐かせる」


 パナマハットから覗いた碧眼は鈍い光を帯びていた。

 情報を漏洩させた人間がいるのかどうかは定かではない。が、ジャンがミスをしたという可能性は低い。イタリア軍が自力で廃工場での取引を嗅ぎつけたとはとても思えない。

 ドイツ人たちにはめられたという可能性は皆無だ。何故なら、ドイツ人たちはイタリア軍に殺されているからだ。もしイタリア軍と手を組んでいたのなら殺されることはなかったはずだ。


「手伝おうか?」


「いや、気持ちはありがたいが今回は信用できる部下のみを連れていく。コーサ・ノストラに裏切り者がいる可能性もゼロではないからな」


「私は信用できない、と?」


「悪く思わないでくれ。今回は予期せぬ事態を起こせない。またミスを犯せば今度こそ命はない。こういう時、心から信用できるのは自分だけだ」


「それはその通りだが……」


「イアンにも同行してもらった方がいいわ。ジャン、イアンは親友でしょう? イアンが裏切るはずないわ」


「エステル、これはそういう問題ではないんだ。確かに、イアンがいれば心強い。だが、予期せぬ事態が起こったとはいえ、私はコーサ・ノストラの信用を失わせてボスの信用を失った。信用を取り戻すのはコーサ・ノストラのメンバーでなければならない。イアンは部外者だ。オリガもな。コーサ・ノストラの取引に部外者を連れてくるべきではなかった。二人にはすまないがな」


 それから酒と料理が届けられて、エステルが乾杯の音頭を取った。内容は耳に入ってこなかったが、彼女は無理に明るく振る舞っているようだった。

 食事は静やかなムードの中で進められた。沈黙に耐えかねたイアンはキャロルが入ったグラスの縁を五指で支えて、足早に無人のビーチへと出向いていった。

 背後から控えめな足音がついてくる。オリガだろう。

 イアンは歩調を遅めてオリガが追いついてくるのを待った。


「大変なことになりましたわね」


「そうだな。親友から部外者呼ばわりされるとさすがに気分が悪い」


「イアン、ごめんなさい」


「何故謝る?」


「私が同行したいと我儘を言わなければこんなことにならなかったかもしれません」


「なんの根拠もないだろう。君がいようがいまいがきっとこうなっていた。君は何かあると自分を責める癖があるようだ」


「ごめんなさい」


「すぐに謝るのも悪い癖だ」


「ふふふっ、ごめんなさい」


 月明かりがビーチを照らす。砂浜が銀色を眩しく照り返す。

 一歩踏み出すごとに乾いた砂がブーツの中に入ったが、イアンは気にしなかった。


「それにしても、君の嫌な予感は当たっていたな。君には超能力があるのか?」


「とんでもありません。単なる偶然ですわ。ただ……あなたを守りたいと思ったのです。どうしてそう思ったのはわかりませんが、あなたに忠告しておかなければならないような気がしたのです」


「私を救ってくれたというわけだ。有言実行だな」


 ホテルのバーで一緒にキャロルを飲んだ夜、イアンは救いを求めてオリガは救いの手を差し伸べた。彼はまさか救われることになるとは予想だにしていなかった。救われずとも彼女さえいればいいと思っていた。

 イアンは立ち止まり、目を細めて遥か彼方の水平線を見つめた。

 どこまでいっても海が続く限り水平線は水平線だ。水平線が途切れることはない。この世界に永遠はないものと思っていたが、水平線は永遠だった。


「泳いでも泳いでも水平線には辿り着けない」


「えっ?」


「溺れてもがき苦しんでいても水平線は私を見放した。だが、君は私を救ってくれた。君の手を掴み、私は空を飛んだ。ほんの一瞬だがね。君は私に脆い翼を授けてくれた。一度羽ばたけば壊れてしまう翼をくれた」


 そう言うと、オリガは世界の終焉を見届けるかのごとく悲しそうな表情をした。


「満足していただけましたか?」


「ああ、満足したとも」


「では、私はもういりませんね」


 思わずグラスを取り落としそうになった。切れ味のいい刃で首を切り落とされるかのような衝撃だった。

 イアンはキャロルを一滴ほど口に含み、残りを砂の上に撒いた。


「何を言っている。オリガ、君は私を救うと言った」


「私にはあなたを救えません」


「いや、君なら私を救える。現に君は私を救ってくれたではないか」


「いいえ、私はあなたを救っていません。私の忠告がなくともあなたは生きていた。それどころか、イタリア軍を全滅させることもできていた」


「おいおい、そんな映画の主人公のような芸当は私にはできない」


「ですが、あなたの脳内ではその光景が思い描かれていた。そうでしょう?」


「…………」


 確かに、戦争をほとんど経験していないイタリア軍に包囲されたところで、数多の戦場を生き抜いてきたイアンにとっては少数のイタリア軍を壊滅させることなど造作もないことだった。もはやあの数では軍とも呼べなかった。


「あなたは戦場を楽しんでいました。あなたは瞳の奥で笑っていました。生き生きとしているあなたに狂気を感じたのです。そして、私にはあなたを救えないと確信しました。イアン、ごめんなさい。私にはあなたを救えません」


「そんな……」


 最後の頼みの綱に突き放されて、イアンは絶望の淵から滑落した。

 結局、オリガも私を見放すというのか。水平線に見放されるのは構わない。だが、彼女に見放されるのは嫌だ。彼女こそが私の最後の希望だ。彼女こそが……私を戦争依存症から救い出してくれる最後の希望だ。


「オリガ、それが君の真意か」


「はい」


 イアンは混乱した。思考がこんがらがり、わけがわからなくなった。

 意志に反して左手が眼帯を外す。右脚の代わりとなっていた義脚を外す。

 イアンはバランスを崩してそのまま砂の上に倒れた。


「イアン!」


 オリガが駆け寄ってくるが、イアンはその手に支えられることを拒んだ。彼女が救いの手を差し伸べることを拒んだように。

 仰向けになり、月を見上げる。


「オリガ、私を見ろ。私は生きているか? それとも、死んでいるか?」


 オリガは何も答えなかった。無言は後者を指していた。それゆえに、彼女は何も答えられなかった。


「君は亡霊を愛せるか?」


「えっ?」


 我ながらおかしなことを口走ってしまったな、と思った。それでも言ってしまったからにはもう引き返せなかった。


「亡霊は君は愛している。君は亡霊を愛せるか?」


「……わかりません。私には亡霊の本心がわからないのです。存在しているのかさえ怪しい存在を愛せるかどうかなんて、私にはわかりません」


 涙を浮かべるオリガを、イアンは力強く片腕で抱き寄せた。彼女は胸板の上に倒れ込み、鼻先が触れ合うほどに急接近した。


「オリガ、君を愛している。人間を憎むことがあっても、愛することは初めてだ。だから、君の愛し方がわからない。どうやって君を愛すればいい?」


 唇を奪おうとすると、オリガは顔を背けた。


「私を愛さないでください。私はあなたを愛していません、きっと。私があなたに感じているのは……きっと憐憫です」


 憐憫――屈辱的な言葉だった。イアンはオリガを解放して瞼を閉じた。

 そうか、憐憫か。それはそうだ。憐憫がなければオリガは私を救おうとはしなかっただろう。憐憫ゆえに彼女は救いの手を差し伸べていたのだ。彼女もまた綺麗事を並べ立てる偽善者の一人だったのだ。


「オリガ、君には幻滅したよ。君なら私を救えると思っていたのに。君に人生を捧げたつもりでいたのに」


「ごめんなさい、イアン。私では力不足でした。あなたがここまで死んでいるとは思いませんでした。本当にごめんなさい。期待させるだけさせておいて何もできませんでした。絶望させてしまったことでしょうね」


「いいんだ。君のせいではない。元に戻ったと思えばいい。私は絶望の中に舞い戻った。ここが私の居場所なのさ」


「イアン……」


「憐憫はしないでくれ。憐憫されるのは嫌いだ」


「……わかりました。あの、一人で立てますか?」


「立てるとも。これまでもそうして生きてきた。一人で生きてきた。さあ、先に行ってくれ。一人にしてくれ」


 オリガが視界からいなくなり、イアンは胸の奥から酸っぱさが込み上げてくるのを感じた。それは喉までせり上がり、やがて嗚咽となった。

 イアンは一人涙を流した。氷の心が融解して液体となった涙。彼は涙を拭おうとしなかった。

 涙を流したのはいつぶりだろう。兵士になりたての頃は戦友が一人死ぬたびにその分涙を流していた。だが、戦友が死に敵を殺していくうちに涙は流れなくなっていった。フィラデルフィアが爆撃されて家族が死んだ時も涙は流れなかった。てっきり涙の泉は枯れたものだと思っていた。


「地獄だ……孤独は地獄だ……」


 涙腺のしがらみが決壊し、蓄積されていた死が重くのしかかった。

 死とは本来こういうものだ。涙が流れる悲しみ――これが本来の死だ。私は戦争で死の特別さを見失っていた。オリガは私を救えなかったが、私に本来の死を思い出させてくれた。それで十分だ。

 透明な右脚に義脚を取りつける。闇を見つめ続けている左目に眼帯をつける。

 砂に足を取られながらも、イアンは一人で立ち上がった。

 涙とは悲しみの結晶。涙を流すから生きている。生きているから涙を流す。涙とは生の証。美しき命の宝石。

 私の気持ちは言葉にしても君には伝え切れない。どうせ伝えられないのなら言葉にしても意味がない。だから、言葉にはしない。ただ愛しているとしか言わない。君はこの唯一純粋な気持ちを受け取ってくれなかったね。いや、当然だ。君でなくとも私が愛する者は皆私を拒絶するだろう。名残惜しいが、君のことは諦めよう。


「私もまだまだ若いな」


 イアンは独りごちた。

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