スイート・トーチャー2

 一行は電車に乗り、その電車もフェリーに乗ってナポリを発った。

 エステルはあからさまにむくれていた。ジャンの謝罪にも不機嫌さを隠し切れていなかった。


「スイーツ専門のレストラン、楽しみにしていたのに……予約までしたのにキャンセルだなんて……」


「悪かったって。だが、仕方ないだろう? イタリア軍に襲撃されたんだ、イタリアに残っていたらまた狙われるかもしれない」


「それはそうだけど……はぁ、残念。ジャン、あなたを責めているわけではないのよ。ただ、それくらい楽しみにしていたから」


 イアンは煙草を咥え、ガスライターの蓋を親指で押し上げた。火をつけようとすると、咥えていた煙草が取られた。


「イアン、煙たいからやめて。あなたは昔からヘビースモーカーよね。いい加減に禁煙したらどう? 健康に悪いわよ」


「健康か。時代錯誤した言葉だな」


「それは国や地域にもよるわ。私は健康にも美容にも気を遣っているもの」


「へぇ。だから美しいわけだ」


「もう、イアンったら。褒めても何も出ないわよ」


 エステルはにやにやしながら煙草をイアンの口へと戻した。今度こそガスライターに火をつけて、彼は禁煙なんかするものかと心に誓った。


「オリガ、イアンの手綱はきちんと握っておいた方がいいわよ。あなたは気が弱そうだから」


「えっ! あ、あの、私は……」


 エステルはイアンとオリガの関係を勘違いしていた。困惑するオリガを横目に、彼は白煙をふっと吐き出した。


「エステル、私とオリガは恋人同士ではない。ただの友人だ」


「照れないでよ。友人とかなんとか言いながら本当は付き合っているんでしょう? 私だってあなたの友人よ? 何も隠すことはないわ」


「いや、本当にただの友人だ。オリガも私のようなかたわが恋人では嫌だろう」


 しかし、オリガはにこりともせずに表情を強ばらせた。それはエステルも同様であった。


「イアン、自分を卑下しないでください。あなたには私たちにないものがあります。そのおかげで私とミスター・バリスティーノは生きてイタリア軍から逃れることができました」


「そうよ。イアンがいなかったらきっと大変なことになっていたわ。あなたがいてくれてよかった」


「私がいてくれてよかった?」


「ええ。ねぇ、オリガ?」


「はい」


 いてくれてよかった――生まれて初めて言われた言葉だった。家族にすら言われたことのない言葉だった。無論、愛する家族はイアンがいてくれてよかったと思っていたかもしれないが、それを言葉にはしなかった。直接鼓膜を震わせたこの言葉は、彼の凍結した心をも揺さぶった。

 イアンは沈思黙考した。

 私にあって普通の人間にないもの――それはなんだろうか? 兵士となり、退役軍人となり、私が得たものはなんだろうか? 人間を殺すための技術? 半分になった視力を補う聴覚と嗅覚? 鉄のごとき冷徹さ? 悲しいまでの諦観?

 どれも違う。これらを得たとは言い難い。あくまで穿たれた穴が埋められたのだ。では、私が得たものとは一体なんなのだろう?

 イアンにはわからなかった。当然だった。一朝一夕で答えが出るほど簡単な疑問ではなかった。思考することをやめた彼にはなおさら難しい疑問だった。

 イアンはまた思考することをやめた。彼は放心した。

 ただ、白煙が魂のようにイアンの口から漂っていた。


「さて、これからどうするの、ジャン? ちゃんと埋め合わせはしてよね」


「わかっている。今夜、パレルモ一高級なレストランを予約しよう。それで勘弁してくれ」


「まあ、パレルモ一高級なレストラン?」


「ああ。俺も行ったことがないレストランだ。なんでもVIP以外は客に取らないらしくてな。先代のルチアーノによく自慢されたよ。そこでいいか?」


「もちろんよ。でも、あなたはVIPなの?」


「当たり前だ」


 ジャンとエステルの会話がイアンの脳内に侵入する頃には、彼は浮遊感にほだされて眠りに落ちていた。

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