第二章 スイート・トーチャー
スイート・トーチャー1
二日後、イアン、オリガ、ジャン、エステルの四人は鉄道に乗ってナポリへと渡った。
鉄道に乗って、といっても鉄道で海を渡ったわけではない。フェリーに乗った鉄道に乗って四人は海を渡った。
昼はナポリの適当なレストランでパスタとピザを食べた。その後、カフェでコーヒーを一服し、イアンとジャンは郊外の廃工場でドイツ人と取引を行うべくタクシーを寄こした。
「エステルとオリガはここで待っていてくれ。二時間もかからずに取引は終わる」
「わかったわ。くれぐれも気をつけて、ジャン」
二人が別れのキスをし、イアンがカフェから足を踏み出そうとするとスーツの裾を掴まれた。白い手の主はオリガ。何やら思い詰めた表情だった。
「どうした、オリガ? 私なら心配いらない。これでも一端の兵士だったのだ、ドイツ人にやられはしない」
「心配はしていませんわ。ただ……私も同行してもよろしいでしょうか?」
「何?」
「どうしても武器が取引される瞬間を――戦争が拡散される瞬間を見届けたいのです。一人の戦争の被害者として」
オリガの気持ちは痛いほど伝わってきた。が、彼女を連れていくわけにはいかなかった。
イアンはたおやかな肩に手を添えて首を振った。
「駄目だ。武器の取引というものを甘く見ない方がいい。これから私たちが行くのはとても危険な場所だ。レディーがいていい場所ではない」
「それは承知の上です。足手まといにはなりません。モスクワに住んでいた頃、もしもの時に備えて元軍人の父から射撃を教わりました。銃があれば護身できます。お願いです、私も同行させてください」
オリガの父が元軍人であるというのは初耳だ。この細腕に銃が扱えるというのも怪しかった。元軍人の娘――オリガ・ガヴリーロシュナ・アスラノヴァという人間がどうも倒錯的に思えてきた。同時に、イアンはこの倒錯美に陶酔している己に気付いた。
それならば見てやろう、と思った。倒錯美を発揮したオリガがどんなものか、ひどく興味をそそられた。彼女の中に潜みしものを拝めるのなら同行させてもいいという気になった。
「どうするんだ、イアン? 安全の保障はできない。同行させるならお前がオリガを守れ。判断はお前に任せる」
「はてさて、どうしたものか」
イアンは悩むふりをしたが、既に答えは出ていた。もう少しオリガの反応を楽しみたかった。もう少し彼女の思惑を覗きたかった。
「イアン、お願いします。迷惑はかけません」
「では、一つ条件がある」
「なんでしょう?」
「取引が終わったら話をしよう。君は私に何か隠している。そんな気がしてならないのだ。秘密は時に信用を失わせることになる。わかるだろう?」
「……はい、わかりました。あなたの質問には全て答えましょう」
「よし、それならついてくるがいい。ジャン、装備の余りはあるか?」
「幸い軽量化したグロックがある。これならオリガでも扱いやすいだろう」
「ありがとうございます、ミスター・バリスティーノ」
オリガは人間を殺すための武器を受け取り、わずかに表情を歪めて懐にしまった。
「エステルは一人で留守番な。寂しくないか?」
「もう、平気ですぅ。でも、さっさと帰ってきてよね。スイーツ専門のレストランを予約している時間までには絶対よ」
「オーケー」
三人はタクシーに乗り込み、エステルは一人カフェに残った。
哀愁漂うエステルが遠ざかり、イアンは煙草を吸った。車内が煙たくなり、運転手は窓を全開にした。
イアンとジャンは軽い変装をしていた。といっても、イアンは眼帯を外してサングラスをつけ、ジャンはトレードマークとも言えるパナマハットを脱いでいるくらいだった。これで退役軍人とマフィアの雰囲気が多少は薄らいだ。
オリガは白い帽子にサングラスをつけ、衣服はできる限り露出のないものを着ていた。首にはスカーフを巻き、手元はレザーの手袋で覆い、紫外線に肌をさらさないようにしていた。
「アルビノも大変だな。昼は地獄だろう?」
「ええ、まあ。どんなに紫外線を遮断しても完全に肌を守ることはできません。きっと私は長生きできませんわ」
「この時代に生まれた人間はどいつもこいつも長生きできないさ。この冷戦が長続きすればいいのだがな」
「ええ、私もそう願っています。ですが、ミスター・バリスティーノは戦争が終わったら困るのではありませんこと?」
「馬鹿言え。俺だってただの人間だ。戦争を生業にしているとはいえ、戦争より平和の方がいいに決まっている。イアンだってそうだろう?」
「どうだろうな。私にはわからない。戦争がなくなった世界で生きる意味があるかどうかなんて、その時になってみなければわからない」
「ふん、オリガと一緒になってみれば考え方も変わるだろうさ」
「何か言ったか?」
「いや、なんでもない」
およそ三十分ほどでタクシーは目的地の廃工場に着いた。
タクシーから降りて、イアンはサングラスを外した。オリガは日傘を差した。ジャンはトランクからパナマハットを取り出して形を整えてからかぶった。
ここは元はイタリア軍の武器工場だった。軍縮によってイタリアでの武器の生産は禁止となり、こうして多くの廃工場が残っているのだ。
イアンはウィルディ・ピストルのマガジンを確認し、弾丸を装填し直した。
ウィルディ・ピストルには戦場で何度も命を救われた。メインの武器が弾詰まりや弾切れを起こした時、敵が撃ってくるよりも素早くこの銃を抜いて応戦することができた。
死を予感すると思考が停止するもので、無意識のうちに身体が動いた。メインの武器を捨ててウィルディ・ピストルに持ち替える動作は、兵士の本能的なものだったのかもしれない。
ウィルディ・ピストルをサブの武器と呼ぶにはあまりにも不名誉だ。だから、イアンは常にこの銃を身につけてお守り代わりにしている。
「オリガ、グレネードを投擲できるか?」
「いえ、遠くに投げられる自信はありません」
「では、オリガ分のグレネードは私が持っておこう。ジャン、あらかじめ廃工場の周囲にクレイモアを設置しておくか?」
「好きにしろ。お前は過剰なくらい用意周到だからな。だが、そのお前に何度も命を救われた。お前に任せるさ」
ひとまずイアンとジャンは廃工場に続く周囲の道にクレイモアを仕掛け、緊急時の逃走ルートを確保した。
この辺りに家はなく人気がないため、ここに近付く者は敵である可能性が高い。念には念を入れておいて損することはない。
三人は警戒しながら廃工場へと入っていった。中からは人間の気配がした。というよりは、煙草の臭いがした。
中にいたのは、二人のドイツ人だった。錆びたコンテナの上に腰かけて呑気に煙草を吸っていた。
「ボンジョルノ。あんたがコーサ・ノストラの最高幹部か?」
ドイツ人たちの視線はイアンに向けられていた。彼は鼻で笑った。
「いや、残念ながらはずれだ。私はただのアメリカ人だ」
「おっと、これはすまなかった。じゃあ、パナマハットの坊ちゃんか? それとも――」
「俺だよ。コーサ・ノストラの最高幹部をガキ扱いするとは何事だ。喧嘩を売りに来たのなら容赦はせんぞ? 俺たちは武器を売りに来た」
ジャンが睨みを利かせると、ドイツ人たちはにやけながらコンテナから飛び下りた。
「無礼を謝ろう。だが、隣のアメリカ人の方が風格があったのでな。退役軍人か?」
「ああ、かつてはアメリカ陸軍の兵士だった。ご覧の通り左目と右脚がいかれてしまってな」
「戦争ってのは残酷だねぇ。身体の一部を吹き飛ばされても生かされるなんてな。死んだ方がましだったと思うことがあるだろう?」
「何度も」
「だが、死は怖い。だから生きている。図星だろう? ところで、アルビノのレディーはおまけかな?」
「……気にするな、私の連れだ」
イアンはオリガをおまけ呼ばわりされたことに憤りを覚えた。それよりも、相手を軽視するドイツ人たちの態度が気に食わなかった。
ジャンもドイツ人たちの態度にいら立っていた。革靴の踵を小刻みに鳴らしているのがその証拠だ。
「どうでもいいが、これから取引する相手には敬意を表するべきではないか? いくらお前たちが年上だろうと、それで身分が高いということにはならない。チンピラ風情が、戦場の地獄を知りもしないくせに」
青色の瞳が鋭い眼光を放つと、ドイツ人たちは少し身を引いた。
「悪かった。そう怒るなよ。俺たちはくだらないおしゃべりが好きなんだよ。少なくとも、育ちはよくないからな。勘弁してくれ」
「コーサ・ノストラの最高幹部はドイツでも有名だ。俺たちはあんたを馬鹿にするどころか尊敬しているんだぜ、デッドマン・ルチアーノ?」
「……俺をその名で呼ぶな」
「おっと、そうぴりぴりするなよ。噛みつかないでくれよ?」
ジャンが嫌った異名――デッドマン・ルチアーノ。「デッドマン」は言わずもがなだが、「ルチアーノ」は先代のラストネームだ。
ジャンは先代のルチアーノを嫌っていた。マフィア界のレジェンドとなった彼を羨んでいた節もあったが、やがてそれは嫉妬へと変わった。
見えない左目に眼帯をつけ、イアンは短くなった煙草を吐き捨ててブーツの底で踏み潰した。
「さて、さっさと取引を済ませようぜ。待たせている連れがいる。お前たちも早くイタリアから出たいだろう?」
「そうだな。イタリアは武器の所持者に厳しい。そのトランクは爆弾ゲームでいう爆弾だ。俺たちはこれから爆弾を持ってドイツに帰らなければならない。一応確認しておくが、情報の漏洩はないだろうな?」
「コーサ・ノストラを信用しろ。へまをやらかすちんけな組織ではないことは断言できる。俺たちは公正な取引を望んでいる」
「おたくは信用しているさ。だが、予期せぬ事態も起こり得る。この世界に完全がないようにな」
「安心しろ。いつも通り薄氷を踏むように取引の準備を進めたつもりだ。ゲシュタポを敵に回すと面倒だからな」
ジャンがトランクを置くと、亡者の眠りを妨げかねない重々しい音が廃工場に反響した。
ドイツ人たちはトランクを開けて中の武器を確認した。宝石を扱う丁寧さに、イアンは戦争の偉大さを改めて思い知らされた。白い手袋をはめていたらより一層それらしくなっていただろうな、と思った。
ドイツ人たちが武器を細部までこねくり回している間、イアンはオリガと並んで廃工場を徘徊していた。
「まるでコンテナとベルトコンベアの迷路だ。この先はどこに続いているのだろうか」
「わかりませんわ。ですが、少なくともいいところではなさそうですね」
「それはどうかな。オリガ、君は戦わずして平和を掴み取ることはできないと言った。君にとって兵士は
オリガは悩む素振りを見せなかった。悩むほどの質問でもなかった。
「どれも当てはまりません。救世主でもなく、破壊者でもなく、ただの駒でもありません。戦う兵士も戦わない兵士もただの人間です。イアン、あなたもただの人間です」
「ああ、私はただの人間だ。一度たりとも己を超人だと思ったことはない。戦場にいない私はただの人間だ。だが、戦う兵士がただの人間だというのは擁護できない。超人とは思わないが、ただの人間とも思わない」
「戦う兵士もただの人間です。兵士が戦わなくなって初めて平和が訪れるのです」
「戦って平和を掴み取るというなら、何が救世主となる?」
平和をもたらす救世主――これはイアンが人生をかけて模索し続けてきた問題だった。思考することをやめた彼は未だにこの答えを見つけられずにいた。
オリガはその答えを見つけていた。
「言葉です。言葉こそが世界の救世主となり得ます。言葉の戦争なら人間を傷付けることはできません。精神的には傷付けられても肉体的には傷付けられません」
「言葉……君が言っていることは綺麗事だな」
「ええ、綺麗事ですわ。平和という言葉も綺麗事ですもの。悲しいことですけれど、平和という言葉が綺麗事でなくなるまでに多大な犠牲を払うことになるでしょうね。時既に遅しですが」
イアンは笑った。その通りだと思った。同時に、対極にあったオリガの持論に共感することができた。
綺麗事を実現することほど難しいことはない。平和を実現することはなおさら難しく、不可能に等しい。平和という言葉はそれほどまでに崇高で低俗なのだ。
広大な廃工場を一周して戻ると、ジャンとドイツ人たちは取引を終えて武器の入ったトランクと金の入ったアタッシュケースを交換していた。
先ほどから気になってはいたのだが、オリガはどこかそわそわしていた。よほどスイーツ専門のレストランが楽しみなのだろうか。
しかし、オリガの表情は沈んでいた。
「イアン、早く行きましょう。胸騒ぎがします」
「胸が躍っているのではなくて?」
「嫌な予感がするのです。さあ、行きましょう」
オリガがイアンの腕を引いた瞬間だった。廃工場の外で破裂音がした。仕掛けておいたクレイモアが爆発したのだ。
「招かれざる客か。罠に獲物がかかったようだ」
ドイツ人たちにはめられたのかと思ったが、当の彼らは慌てふためいてジャンに銃を向けていた。
「はめやがったな! 何が公正な取引だ! ゲシュタポを敵に回すつもりか!」
「誤解だ。この破裂音は俺たちが仕掛けておいたクレイモアのものだ。俺たちの味方ではない。罠にかかったのは恐らく……イタリア軍だ」
「そんなことはどうでもいい! いずれにせよ、お前はへまをやらかした! 情報の漏洩がなければイタリア軍がここを嗅ぎつけられるはずがない!」
「ちっ……言い争っている場合ではない。生きたければ逃げろ。逃走ルートは確保してある」
「くそっ! ここを切り抜けられても無事でいられると思うなよ? お前はゲシュタポを――」
耳をつんざくようなけたたましい銃声が鳴り響いた。トランクを持っていたドイツ人の頭部が破裂し、床に血液と脳漿がぶちまけられた。
スナイパーライフルによる狙撃。イアンたちは既に包囲されていた。
「ちくしょう! 取引なんかくそくらえだ! 青二才が、お前の詰めが甘いから――」
トランクを拾い上げようとしたドイツ人の文句を遮ったのは一発の弾丸。見事なヘッドショットだった。
イアンはオリガの肩を抱いてウィルディ・ピストルを手にした。
「包囲されていては逃走ルートはあてにならない。ドイツ人たちが乗ってきた自動車で逃げるとしよう。どこを通るにしてもイタリア軍を蹴散らすしかない」
「そのようだな。イアン、先行してくれ。俺はスナイパーを見つける」
「いや、スナイパーならもう見つけたさ。二発も撃ってくれたら居場所はわかる」
廃工場の外で破裂音が連なる。クレイモアにかかってくれるのはありがたいが、これくらいではイタリア軍の包囲網を突破できない。
ウィルディ・ピストルでスナイパーを仕留め、イアンはステップを踏むようにコンテナとコンテナの間を移動した。先ほど廃工場を歩き回ったのは地形を把握するためでもあった。彼も何かが起こる前兆を感じ取っていた。
「幸いコンテナが遮蔽物になってくれる。ドイツ人たちは裏口からここに入ったはずだ。そこに向かえば自動車があるかもしれない」
「もしなかったら?」
「イタリア軍から奪えばいい」
弾丸飛び交う廃工場。ここはまさに戦場だった。戦う理由なき戦争。戦争なき戦場。意味なき戦場。それでもイアンは構わなかった。彼はやはり戦場に身を置ければそれでよかった。戦争依存症、とでも名付けようか。
漏洩した情報を信用しなかったのか、イタリア軍の数はそう多くはなかった。イタリア軍からしてみれば、半信半疑で来てみたら本当に武器の取引があった、といったところだろうか。
イアンにとってこの戦場は容易かった。オリガを庇いながらウィルディ・ピストルのみで切り抜けられるほどには余裕があった。
オリガはグロックを発砲していたが、敵に当たることはなかった。射撃が下手というよりは、意図的に外して牽制しているようだった。
銃とグレネードでイタリア軍の包囲網をいとも簡単に突破し、三人はドイツ人たちが乗ってきた自動車で廃工場から逃げおおせた。
運転するイアンはドライブでもしているような気分だった。
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